30. 飛んで跳ねて叫んで、落ちる
「おいおい」
メイの声が意識に割って入っても、目の前が真っ暗なのは変わらなかった。甲板上に突っ伏しているらしい。そのせいか全身が表も裏も内も、冷え冷えとしている。
「びっくりだな! ちょっと引いちゃうよ、最近の英雄長はここまで弱いの?」
「……黙れ」
冷えているというのなら、おまけに心も。
左腕の感覚が戻らない。骨の芯で、ほのかな熱が疼いている。
折れた、と理解すると、武彦の気力は急速に萎んでいった。
「待っててやるからさ。キミ、立ちなよ。これで終わっちゃボクもつまらない」
(お断りだ)
負けるのは向かい合った瞬間にわかっていた。
「あァ? んだよ、キミ、ここで何を学んだの? 諦めない心じゃあないのかい? おぅい。おいってば……熱い気持ちはどうしたの? 本当にやんねーの?」
情熱よりも、まずは実力が必要だったのだろう。ゆきが言っていた通りに。ずきずき、ずきずきと傷が痛む。
(もう十分やった。このまま瞼を閉じよう)
「リーダーだからって。キミの言葉を信じたやつもいたかもしんないのに」
『――後は僕に任せろよ。なんとかして見せるさ』
『――僕はもう迷わないし、君のことも迷わせない』
『――困っている人に笑って欲しいから』
安堵するシエシエと、涙する相原、少し寂しそうなゆきの顔が、ふと思い浮かんだ。
キザな台詞を吐くのは誰だったか。いや、考えなくていい。武彦には巻ける尻尾もある。
「っけ、つまんねー! これだから幻界種ってのは嫌いなんだよ! 生まれたときから力を持ってるもんで、その分だけ根性が足りない。あーあー、わかるかい? け、だ、も、の、君! あー……マジでくだんねえ学園だったんだね、ここは」
負ける尻尾があったとしても。それでも。
「っへん。オイお前ら、卒業記念のパーティーの準備を……」
負けてはいけない。
「勘違いするなよ」
右手が使えるのを確かめると、手をついて立ち上がった。震える足で生れたてなのか、死にかけなのかわからない小鹿を演じると、血走った眼でメイを睨む。
「ちょっと涼んでいただけだろうが」
「……地べたにほっぺをくっつけたまま、かい?」と口元をほころばせたのは、睨まれた当人だけ。「いいね」
ロブスタンを始めとした周囲の戦闘員たちは、黙って俯いていた。
「言われなくとも、お前は僕が、必ず倒す」
「おお。そうそうそうっ! それでこそ〝らしい〟じゃないか! 良かった、楽しもうっ!」
生憎、楽しんでいる余裕は微塵もないのだ。
右腕のガントレットを外し、武彦はおざなりに転がした。左腕の方は砕けていて、外すのも難しい。腕の痛みが怒りに変わり、怒りは気力を振い起すための燃料となる。
敵が格上でも、月の大総督のひ孫でも、どんなやつでも。
負けてはならなかった。総英雄長は、悪党にだけは絶対に。瞼の裏に多くの顔を思い浮かべ、強く拳を握り込む。
「僕だけじゃない。全員に守るべき思いがあるんだ。相原の、シエシエの、ルカルカの、ピードゥの、サイファーの、ロブスタンにシャルル、誰にだって……」
正義も悪も、強者も雑魚も関係ない。
「ここにはみんなの思いが詰まっているんだ。その思いを、独りよがりで踏みつぶそうとするお前こそ、一体何を学んできたと言うんだ!?」
腹の内から絞り出した叫びは、半ば咽ぶようなものだった。
脚はがたがた、左腕は使い物にならない。尻尾は垂れているし、相手は化け物だ。
(だったらどうした!)
迷わないと決めたのだから。限界などに構ってはいられない。
「そんなやつにっ、僕は負けない。負けてたまるかよッ!!」
全身の毛穴という毛穴を伝い、雷電が噴出する。
「あぁああああああああああっ!!」
後先考えた加減はしない。駆け値なしの最大出力。
バリッ、と雷鳴を轟かせると、武彦は雷をまとって驀進した。
向かう先に、しかし、メイの姿は既にない。彼女は片脚の靴底で流星に乗り、滑るように空へと退避していた。逃げられた。駄目だ駄目だ。もっと速く。速く速く速く速く――!
「雑魚のくせに理想だけ高っけえね! あー、雑魚だからこそ、なのかな?」
流星弾を放とうとしたメイの指の先にも、僕は武彦にいない。
「理想こそ人の根元だ」
「ほお?」
ギリギリでメイの足首をつかみ、思いきりデッキ上に引きずり下ろす。
戦闘員たちの列を割ってバウンドしたメイに肉薄するも、彼女は甲板に五指をめり込ませて急停止、逆様の体勢からの蹴りで武彦を押し返す。
こちらも急ブレーキをかけ、慣性を殺し切る。足がちくりと痛んだ。
「で。キミはこの世で一度でも、キミの求める理想を見かけたことがあるの?」
「ないね。理想は、自分の中でしか存在できない!」
遅い。遅すぎる。
自分の動きがではなく、メイの攻撃――疑似・超質量星光――が発生するまでが、だ。
「自分だけにしか叶えられないのさッ!」
理想を押し付けてはいけないというのは、つまりそういうこと。
再び急制動をかけ、全身をバネにして腕を引き絞る。
とっくに追い抜いた、メイの背後で。
初めて緊張を滲ませた顔が振り向き、遅れて、武彦の動きに追随する雷撃が背後から彼女を呑み込んだ。また、何らかの痛みのとばしりが足で広がる。
「ボルティック――」
「ッ!」
「――バースト!!」
全力の雷電が弾ける。十八番の雷拳がメイの頬を圧して、絶世の美貌を崩すのを、武彦は確かに認めた。
そのはずだった。目に認めた刹那に、世界がひっくり返った。
「あが!」
肩に衝撃を受け、甲板で擦った腕と脇腹とが熱を帯びる。
結果だけを見れば、メイとの相討ちだった。ただし転がったのは武彦だけ。自分もしっかり殴られながらの、変態的なカウンターパンチ。
ですらなく、完膚なきまでに人を見下したカウンターの、デコピン。
攻撃力の差が出ることになった相打ちで、メイはわずかに後退し、尻もちをついただけ。限界をこえて得た成果が、たったこれだけとは。
「く、そ……」
「ふふん。自分だけにしか叶えられない理想論ね……にゃるほどー。そういう考え方もあっていいのかもしんないね。ふふ、うふふふ……あーはっはっは―――でも残念」
あぐらをかいたまま、メイはどこか悄然と笑い、
「言うほど簡単に叶えられるものでもないよね。だからこそ理想は、想像上の理でありつづける。つまるところキミの理想論はね、キャンディねぶってるガキが『私お空を飛びたいの!』って言ってんのとぉ……変わんねえんだよっ、ぶぁああああああああああかッ!!」
「クソ、黙れ、よ……」
「まっ? 見ての通りだよね!」にっぱり笑うメイ。「甘美な理想でも、逆に暴論でも、声を大にして言うことは誰にもできる。だけども実行できるのは、実力があるやつだけだ。キミはまだ、その部分が欠けてるね。あるいは永遠に?」
そうだろうか。
くしくも艦首の突端で、武彦は今日何度目かのゾンビごっこをしている。
「いいや、ま、まだだ! まだ負けてなんか……、お前なんぞに負けて……!!」
負けたのだ。
えてして理想は実を結ばない。空を飛ぶためには道具や能力が必要なように、メイに勝つためには少なくとも、肉離れを起こしていないふくらはぎが必要だった。
「負けだよ、キミの。文字通りの完全敗北。はーい、はーいっ、よく頑張ったねー!」
言いつつ、素っ気ない顔で星を降らせてくるのだから、女というのは侮れない。
艦首ごとへし折らなくてもいいのに。
(なんだか負けてばっかりだな)
奈落を思わせる学園の底に落ちながら、密かに嘆息するのだった。




