25. 凍結時空域①
「っがは」
あらかたの空気を肺から吐き出し、武彦は甲板に両手をついた。
眩暈に耐えて膝立ちになると、その瞬間に酸味が湧き、口内の鉄臭さに追突した。
えずきかけ、しかし、ぐっとこらえる。
鳴り物入りで出撃した戦艦が、総英雄長が口から吐き出したもので汚れることはなかった。
「あらら? ちっと控えめでしたかね。ごめーんね」
謝ったかと思えば、ゆきは拳をさすりつつ、ぺっと足元に唾を吐いた。戦艦、汚染。こんなことなら我慢せずに吐いておけばよかった。
「うえ……、お前を見てると、男女差別の無意義さを思い知らされる」
「アンビス・フェミニストくんに改名しますか?」
「鼻を折られることを女権拡張と言いたいなら、好きにしろ」
ゆきはきょとんとしている。要するに、顔面にも遠慮なく〝ぶち込む〟ということだ。
「僕を捕まえるんだったな」
「はいな」即答するゆき。
「状況を理解しているのか?」
「いえ全然。わたし、部外者ですし。学園の内情まではねぇ、知りゃしませんよ」
「かい摘んで教えてやる。僕は、学園で、非常に重要な立場についている。そして今は、昼飯時のファーストフード店くらいに忙しい。わかったか?」
「モクドナルドの店長さん的な?」
「ああ。それでいいよもう。お前が次にとるべき行動は二つ。戦艦の隅でじっとしているか、自主的に縁から飛び降りるかのどちらかだ。簡単だろ」
「ふへぇー」ゆきは身をよじり、「理解はしました。けども、どっちも選べませんし、差し当たり行動を変更しようとも思えませんよ。お仕事ですから」
「お、おい! お前、便利屋だろ!? 不便すぎるぞ!」
「わがままをこかれましてもねぇ……。誰にでも便利なわけじゃないですからね、便利屋って。あ、そっか。ちっとも似てないと思ってたら、そういうとこは似てんですね」
「なんのことだ」
睨みつけても、彼女は目を瞬かせるだけ。どこか嬉しそうに。
「いい加減にしろよ。自分勝手に滅茶苦茶やるなんて、便利屋のすることじゃない!」
そう怒鳴りつけてやりたかった。
武彦は、やめた。眉根を寄せたゆきに言ったところで、どうにもなりそうにない。
価値観の違い。重きを置く点が違うだけ。わかってはいた。
が、武彦は腹の虫を納めるべき場で、嫌に要領が悪い男である。譲れない想いをプロの便利屋に否定されてしまえば、穏やかではいられない。
心持ちに、ごく個人的な怒りの種火がついたのは否めなかった。
「あのな、今は喋ってる時間も惜しいんだ」
「わかってますって。で、わたしもさっきから言ってるつもりなんですけど」
言ってもわからないのなら。と、呆れを含んだ声が聞こえた気がした。
同時。華奢な身体が躍りかかる。ひとっ跳びで間合いを詰めたゆきが、頭上からぞんざいな蹴りを放ってくる。受けたガントレットごしに、鈍い痛みが骨身に響く。幻界種らしい脚力。
「いっつ!」
「男ってばぁー、どぉーしてか、物わかりが悪いんですよね。理屈っぽくて。今だって『こっちは平和的に解決しようとしたぞ、喧嘩になっても俺は悪くない』みたいなアピールしちゃう」
「お前が曲解しているだけだ!」
「あのねー? ここにはわたしだけしかいないんですよ? あんたを見てるのは、わたしだけ。教えてあげますけど、いい子ぶったってわたしは褒めてあげません」
「勝手なことを……!」
「しましたよ、うん。これで戦う理由ができましたねっ? うふふ、適度にもっともらしい理由をつけてあげられるのが、イイ女の条件なんです!」
「だからお前な! 別に戦わなくたって」
「捕まってくれるんですか? え? わ、ラッキー」
「そうじゃないだろ!」
「はいはい、もういいよ。お口閉じて? やるときはね、やる」
「――――っ」
激情で思考が吹き飛びかけ……が、踏み止まる。
心を制御できたのは、空中戦をつづけるアンドロイドの発砲音と、カド・ボルティレックスの律動が耳に届いた結果でしかなかった。
喧嘩をしている場合ではない。
曲がりなりにもリーダーなのだ。障害は、可及的速やかに排除するのみ。
怒りで開きかけた口を閉じる。それで怒りを消すことはできないが、怒りを受け入れた上で対処できるのは、彼女の言う〝理屈っぽさ〟の賜物だ。
(僕の弱さのせいで、これ以上仲間を迷わせたまるか)
「そうかよ」
吐き捨てた一言が、戦闘再開の合図となった。




