爵位
ザミーン帝国南方軍を統べる第四皇子マクレガーの外見は、筋骨逞しい巨漢と言うところだろう。
妹にして第三皇女テレーゼと同様に「猛将」の評価を得ているが、その内実は全くに異なる。
マクレガーはその豪放な外見とは裏腹に、臆病なまでの緻密な謀略を得意としていた。
彼の特徴は、その謀略によって勝利の条件を満たした戦場を形成することにある。
つまり、突撃以外の命令を不要とするまでが彼の仕事であって、その結果としての戦場にある彼だけを見れば、確かに猛将と見えるだろう。
この、実際の彼の為人を知る者はザミーン帝国でもわずか数人……ザミーン皇帝その人と、マクレガーの副官、そして、南方軍直属の諜報機関の長である魔導士のみである。
そのマクレガーに与えられた任務が、東大陸の南方に展開する連合軍第二軍が築く防衛線の撃破であった。
しかし、相手は妹姫であるテレーゼ皇女の奇襲を打ち破り、《空魔》を撃墜したローセンダール王国が所属する強敵である。
「あの《城塞》なる魔装機甲兵集団も一筋縄ではきかん相手だったが、これに例の『銀狐』なる魔装機甲兵が加わるわけか。厄介な話だな」
南方軍が駐屯する西大陸南部のアムラ軍港に置かれた司令部。
その執務室で、諜報機関から上がってきた報告書を見ながら、これは外見に相応しい野太い声で、マクレガーが嘆息混じりに言う。
帝国の間諜や偵察部、魔導士が収集した各情報は、情報統括庁の管轄で軍に流れてくる。
マクレガーは、これとは別に独自の諜報機関を持っているわけだが、実際にはかなりの部分が重複し、文官からは予算の無駄を一再ならず指摘された事がある。
だが、この逞しい謀略家は、無駄とか冗長と言う捉え方では無く、二方面から検証され、精度を高めていると言う考え方をしていた。
軍を率いる他の兄弟が兵器の向上に予算をつぎ込んでいる中にあって、情報収集、及び、その精度向上に意を用いる、この辺りの思考体系は、ザミーン帝国だけではなく、この異世界でも異質なものだっただろう。
そして、南方軍直属の諜報機関は、情報統括庁の情報網すら掴むことの無かった情報を得る事も少なくなかった。
「しかし、末の妹殿が息災とはな」
戦死したと見なされたテレーゼ皇女の生存を掴んでいるのも、現在はマクレガーだけである。
だが、その声に喜びの響きは無い。
「テレーゼ皇女がご無事だったのは何よりではありませんか?」
副官のカミラが、揶揄するような表情を端正な顔に浮かべて言った。
「むろん、兄としては嬉しいとも。だが、帝国軍人としては困る。あやつの管轄にあった第二遊撃軍は既に解体され、東方、北方の他の軍に再編済みだ。ここへ『氷姫』生還となれば、兄者……いや、第一皇子殿の手を煩わせる事になろう。それに、ローセンダールはあやつの身柄を交渉の道具として活用する事は間違い。体面上、まさか無視するわけにもいかんから、帝国の戦略は修正を余儀なくされることになる。ふむ。良いことはひとつもないな」
愛人を兼務する彼女への第四皇子の返答は、まるでテレーゼが死んでいれば良かったと言わんばかりの台詞であった。
安否不明であった妹に向ける兄の言葉としては、不人情を通り越して非情と言うべきであっただろう。
だが、この世界における支配者階級の兄弟姉妹は、一つしか無い玉座を巡っての競争相手としての側面が強かったから、ザミーン帝国の第四皇子たるマクレガーが取り立てて酷薄な性格であるとは言えないところだった。
「では、いかがなされます?」
「私の口から言えるのは、帝国に害をなす可能性は早めに摘み取るべしと言う事だな。それも、公になる前に」
「殿下の意向、確かに承りました」
一礼して退室しかけるカミラの背に、マクレガーの声が投げかけられた。
「そうだ。確か、白薔薇姫を拉致する任に失敗したやつがいたな。魔装機甲兵に生身で対峙した敵に敗れたなどと、正気とも思えぬ報告をしていたようだが……」
足を止めたカミラは、主である巨漢に向き直ると、無言のままに再び一礼し、そして、今度こそ執務室から去っていった。
執務室の席に一人残ったマクレガーは、新たな書類を手に取りながら、独白した。
「まぁ、贔屓と言われてもしかたあるまいな。だが、カミラの弟が優れた操者であるのも事実。このくらいの裁量は許されてもよかろう。それはそれとして。こちらの方も困ったものではあるな」
マクレガーはその書類……《海魔》を動員しての攻撃命令書に目を通し、そこに記された指揮官の名前にしばらく視線を止めていたが、結局は物憂げな様子で決裁済の判を押したのだった。
◇
ローセンダール軍の駐屯所にほど近い邸宅。
ザミーン帝国との戦争が本格的になった頃に、ケメルから避難していった貴族の所有するこの物件が、ザミーン皇女に割り当てられた宿舎である。
むろん、ザミーン皇女だけでは無く、ラルフ書記官、ヴァルマー将軍と言ったローセンダール首脳に近い立場の人々も、しばらくはこの広大な屋敷に仮の住まいを置くことになっている。
シンゴも、浴室、寝室、書斎、居間が揃っている、元々の持ち主が来客用にと設えた区画を割り当てられた。
当初は、それこそ、アメニティが向上した《ガリア》の第二コクピットで寝泊まりするつもりだったシンゴにしてみれば、落ち着かない事甚だしいものがあったのだが、部屋割りを決めたバウフマンが譲らなかったのだ。
自らシンゴを案内した、その場できっぱりと言った。
「いやしくも、ティアンスン伯爵たる身分の方には、相応の待遇を受けて頂くのは、むしろ義務です。いえ、本来ならこれでも不足なのですが、なにしろ、ここは戦線に近いと言う事情もありますので」
「ティアン……なんだって? えーと、今、伯爵だとか聞こえたけど」
「あなた方が出発した後で公布された話ですし、そちらは結界魔法を宮廷魔導士殿が敷いていたから、連絡が取れず、ご存じないのも無理はありませんね。本来なら直ぐにでも申し上げるべきでしたが、シャブラの方々が騒いだものだから、時期を逸してしまいました」
ここで、ローセンダール軍の将軍にして、ステーレン男爵夫人でもあるアマリア・バウフマンは、厳かな口調になった。
「九日前に首都から連絡がありました。あなたはローセンダール王国ティアンスン領の領主、即ち、ティアンスン伯に叙せられたのです。正式な叙勲は首都に戻った後となりますけれども」
「うげ!」
知らないうちにローセンダール貴族に叙せられたシンゴは、心底嫌そうに呻いた。
「あの件は断ったつもりだったのに」
「ちなみに、あなたがティアンスン伯の爵位を継承したのは、一ヶ月前に遡及しての措置だそうです」
一ヶ月前と言えば、シンゴが、この異世界にトリップした時期だ。
シンゴは頭をガシガシと掻きながら、過日に「サロン」なる施設に呼び出された時の事を思い出した。
ローセンダール首脳は、その場で、いくつかの危機を救ってくれたこの青年に対する報償、それも、この世界の価値観に従えば破格と言えるものを支払おうとしたのだ。
当初、ボーデン宰相はシンゴの所有するBMRの運用維持費込みで考え、予算の捻出に悩んでいた。
ラハト団長の提案に従い、フランチェスカ王女に一任し、王女付きの親衛騎士と言う事にしたが、さすがにそれだけで済ませるわけにも行かないと言う思慮はあったようだ。
万が一にも、王女の身に何かがあれば、ローセンダールとシンゴの縁は絶えてしまう事になるし、いくら何でも、シンゴの成果に対して報いる事が少なすぎる。
現状では、BMRに関する費用に関しては考慮の必要が無い……正確には考慮のしようが無いと分かっている。
そこで、宰相は、シンゴ個人への報償として、予算の許す限りの範囲で報いようと考えたようだ。
最初に示されたのは、山と積まれた莫大な貨幣だった。
国家予算レベルではともかく、個人レベルでは百年は遊んで暮らせるほどの金額である。
おそらくは、一部を除いて、比較的慎ましい生活をしている王家の人々よりも豪奢な生活を営むことさえ可能であろう。
しかし、これを示された時のシンゴの反応は
「重いし、かさばるし、置き場所に困るなぁ」
の一言だけだったので、ローセンダール首脳を落胆させること夥しいものがあった。
日本円との交換レートでも示されれば、少しは異なる反応だったかもしれないが、この異世界の人々にそんな概念があるわけも無い。
この世界における金銭感覚皆無のシンゴには、文字通り、猫に小判を与えたようなものだった。
その次に、財宝の数々が示された。
ローセンダール王家に代々伝わってきた貴重な宝石や貴金属、そして好事家が喉から手が出るほど欲しがっているほどの美術的な品々だったが、シンゴにはピンとこなかったようだ。
国宝とも言うべき、一際大きな宝石を手にとって、チルにその組成を分析させていたシンゴは
「ダイヤとかじゃないのか」
と、つまらなそうに呟いて、ぽい、と投げ出して見せたのだ。
ある意味、豚に真珠を与えたよりもひどい反応である。
さすがに頭を抱えそうになるのをこらえ、宰相が最後に提示したのが、地位と領土だった。
ローセンダール南方にある国境に近いティアンスン領。
領主であったティアンスン伯爵家が、数百年前に東大陸で勃発した戦乱で断絶して以来の王家直轄領だ。
穏やかな気候に恵まれ、宰相が領主を務めるボーデン地方よりも、遙かに豊かで広大な領地であった。
しかし、これにもシンゴの反応は芳しいものではなかった。
「ん~、『信長の○望』は良いゲームだと思うけど、性に合わないんだよね」
などと、元の世界のゲーマーが聞いても若干ずれていると評するであろう、この異世界の人々には全くもって理解不可能な一言を呟いただけであった。
そして、
「ま、NAISEIは柄じゃないから遠慮しときます」
と言って、シンゴは、さっさと「サロン」を出て行ったので、その後、どのような話になったのかが不明なのだが、宰相以下は諦めなかったようだ。
王家の承認の元に手続きを進め、爵位の授与に伴う一番面倒な話、つまり、他の貴族への根回しがようやくに完了したのが、シンゴ達が出発した後だったと言うわけらしい。
「伯爵? 一ヶ月前?」
そう言って目を見張ったのは、その場に居合わせた茶髪の女戦士である。
「そうですよ。ローセンダールの貴族法は知らぬわけがありませんよね。どうも、あなたと言い、宮廷魔導士殿と言い、この方を軽んじているように見受けられますが、今後は振る舞いや接し方に気をつける事です」
そう言うバウフマン将軍の表情はにこやかだったが、その眼は笑っていなかった。
「貴族法?」
聞き慣れない言葉に、シンゴは首を傾げる。
「貴族階級でも、特に伯爵以上の爵位、もしくは、それと同等と見なされる人物の権利や義務を定めたものです」
ローセンダールに現存する伯爵以上の爵位を持った人物は、宰相であるボーデン侯爵、将軍職にあるサイラスを含めて十人もいない。
もっとも、爵位は伯爵以下でも、例えば、ラハトやヴァルマー、そして、バウフマンのように職分によって、同等と見なされる人物を含めれば、人数はもう少し増えるだろう。
彼らに関しては、国家運営の場である「サロン」への立ち入りを含めて、様々な特権が与えられている。
貴族法は、バウフマン将軍が言うように、ローセンダールにおける貴族階級の権利や義務を、その爵位や職分に応じて定めた法律の総称である。
「例えば、伯爵以上の爵位、もしくは、同等と見なされた人物に対する暴行は、理由の如何を問わず重罪です。同じ伯爵級以上の身分であれば話は別ですが」
「ん~、重罪って?」
なおもピンと来ていないふうのシンゴに、バウフマン将軍は丁寧に説明した。
「昔なら、有無を言わさず一族ともども極刑でしたわね。さすがに、今は、そこまではいきませんが……」
その時、おそるおそると言った感じで、ドアをノックする音がした。
軍服姿の貴婦人が「入りなさい」と言うと、衛士の制服を着た何人かの男達が入ってきた。
「ティアンスン伯の叙勲が公布されると同時に、首都を立ち、つい先ほど、このケメルに辿り着いたそうです。さすがにそのままではお目通りするには問題がある格好でしたので、旅の汚れを落とさせ、多少は身なりを整えさせました」
シンゴは、彼らの顔に見覚えがあった。
「あ、お前達……」
彼らは、魔道具で強化され「変身」していたテレーゼと戦った時に、地下牢でシンゴをボコった衛士達だった。
その衛士達は、一斉にその場に平伏した。
「し、知らぬ事とは言え、伯爵様に手を上げました事。詫びて済むものでもありませぬが、何とぞ、家族にだけはお慈悲を賜りたく」
衛士達の中でもっとも階級が上らしい男が満面に汗を浮かべ、震える声で言う。
それを見て、シンゴは口をへの字に曲げた。
「なんつーか、ひどい法律だなあ。まぁ、恨みがあるわけじゃないし、謝ってくれたから許す。わざわざ、首都からここまでご苦労だったよな。後は、ゆっくり休んで、家族の元に帰って良いよ」
経緯を聞いているバウフマンが呆れるほどの寛容さで、シンゴはあっさり言ってのけた。
他者から見ると、理不尽な暴力を受けてもヘラヘラとしている彼は異様とも言えた。
だが、九之池慎吾だった頃に比べて、シンゴとしてこの世界にトリップした過程で、強靱な体力と回復力、及び、苦痛への耐性を得ている。
特に苦痛に関して言えば、全く感じないわけではないのだが、時折に疼く首の傷痕以外は全く気にならない。
衛士達にボコられた時も、見てくれはひどい有り様だったが、本人としてはそれほどのダメージでもなかったのである。
だからこそのシンゴの言葉だったが、しかし、バウフマン将軍としては異を唱えざるを得ない。
「伯爵以上の爵位は、単なる世襲で得るものではありません。爵位に相応しいと認められた者、つまり、ローセンダールに取って、かけがえのない人材と言う証明でもあります。貴族法はそうした人材を護る為のものでもあるのですよ。軽々しく扱ってもらっては困ります」
なかば叱られる形となったシンゴは、戸惑ったように年上の女性を見た。
「ええと、じゃあ、どうすれば? まさか、死刑にしろと?」
「一族郎党の罪を問わぬ。ここまでは良いでしょう。ですが、当人達にはそれなりの罰なり処遇なりが必要です」
「そう言われても……」
「では、私に任せていただけますか? 悪いようには致しませんから」
かくかくとシンゴが首を縦に振ると、バウフマン将軍は、平伏したままの衛士達に向き直った。
「伯爵閣下の慈悲によって、まずは、お前達を助命する。ただし、それは、伯爵閣下がお前達の命を預かっただけの事。今後は閣下の手足となり、また、盾となって終生まで尽くせ」
「あ、ありがたき……」
平伏していた彼らは、床にすりつけんばかりに、いっそうに頭を下げたのだった。
「まずは、宿舎に戻り、鋭気を養うが良い。しかる後、ご下命があるまで待機せよ」
「ははっ」
そのやり取りと、衛士達が頭を低くしたまま退室するまでを、シンゴは呆気に取られて見ていた。
「そんなわけですので、彼らはあなたの部下です。よろしくお願いね」
バウフマン将軍は、にっこりと笑ってそれだけを言うと、最後にヘレーネを一瞥して、部屋を出て行った。
「うわ。NAISEIだけかと思ったら、部下までついてきたよ。面倒な話になってきたなぁ」
げんなりして呟くシンゴだった。
そして、ふと、ヘレーネを見ると、ひどく顔色を悪くしてうつむいていた。
(ああ、そういえば、そんな事もあったかな)
最近ではそういうことも無くなったが、出会った当初は理不尽な暴力を受けたことが一再ならずあった事を思い出した。
シンゴの命を奪いかけた件に限って言えば、神が認めた「対価」を支払い、「サロン」の議論の中でも許されたと解釈された事項であるが、それ以降に関しては別の話になる。
その意味では、先の衛士達も絡む、地下牢でのテレーゼ皇女の行動も同罪とも言えるが、あちらはローセンダール国籍では無いし、何より皇女と言う身分がある。
クラウスについては、仕合と言う事でもあり、これは対象外の話になるだろう。
ヘレーネはラハト近衛騎士団長……爵位は子爵ながら、その職分から伯爵と同等と見なされる人物の娘だが、彼女自身は貴族階級であるだけの立場となるので処罰の対象となる。
どちらにせよ、シンゴとしては、いつもの調子で「気にするな」と声をかけようとした。
一瞬、「許してほしけりゃ、揉ませろ」と言うセリフも脳裏をかすめる。
だが、その前にヘレーネが口を開いた。
「これは罰かもしれないな」
「はい?」
いきなりの言葉にシンゴはきょとんとした。
「あたしは、お前を殺しかけただけじゃない。理不尽な暴力を振るった事もあった。うん、あの後、ロクデナシの精霊と話した時にわかった。あの時、あたしを「雌犬」呼ばわりしたのはお前じゃなくて、あいつだったって。でも、お前の態度が態度だったから、意地でも謝るもんかと思っていた」
「ええと、ヘレーネ?」
「《空魔》の襲撃を受けた時、あたしはお前にあいつらと戦ってくれと言った。そして、その「対価」を払うと言った。でも、お前は戦ってくれたけど、何も要求しなかった。何も求めてはくれなかった」
「……」
「ずっと謝ろうと思っていた。でも、きっかけがなかった。ずるずると後伸ばしにしてしまった後は照れくさかった。だから、何事もなかったかのように誤魔化してしまった」
「いや、おれ、本当に気にしてない……」
「あたしは気にしてたんだ」
ヘレーネは俯いていた顔を上げた。
その勝ち気そうな美しい瞳から、一筋、こぼれるものがあった。
「お前は、伯爵と言う立場になった。だから、あたしは、謝らなきゃならない。償わなきゃならなくなった。でも、それじゃあ、利己的過ぎる。本当に謝るべき機会を、あたしは自分の愚かさから失ったんだ」
「えっと、ヘレーネ……」
どう声をかけてよいか、困惑と恐慌が入り交じった状態になっている青年を見て、ヘレーネは、不意に笑いの衝動を覚えた。
最初に出会った時は、怖かった。
なにしろ、あの巨大な魔装機甲兵に生身で挑み、そして撃退したのだ。
だから、つい、剣を抜いたが、この青年は恐れるふうでも無く詰め寄ってきた。
気がついたら、自分の剣が、この青年の首筋を貫いていた。
その前後の事は、よく覚えていない。
そして、白薔薇姫の神託で、屈辱的な『対価』を支払う羽目になった。
罪悪感で過ごした時間だったが、覚醒したこの青年が自分を見る目に、当然に浮かぶべき怒りの色はなかった。
その後の奇妙な言動もあって、屈辱感だけが大きくなった。
だから、考え無しに手を上げてしまったが、この青年は一向に怒る気配が無い。
異世界からやってきたとは後から知ったが、唐突な状況下で理不尽な目にあった中で、彼には怒りの感情を持ってしかるべき局面がいくつもあったのに、いつもヘラヘラしており、それがいっそうに腹立たしかった。
唯一、彼が怒りの感情を見せたのは、非戦闘員が虐殺されたと知った時だけだったようだ。
それも、生半可な怒りでは無い。
それを悟ったとき、自分の中に芽生えた感情が何だったのか、自分でもわからない。
そして、これから、どうすれば良いかも……
「あ……」
ヘレーネは、いつしか自分が涙を流している事に気がついた。
(ああ、そうか。こういう時は泣けば良いんだ)
自分でも理解できない、膨大な感情のはけ口を見いだした彼女は、素直に、それに全てを委ねた。
「ごめんなさい……」
自然に贖罪の言葉が口を出る。
それは、シンゴに対するものか、自分の愚かさに向けられたものか。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
まるで幼子のように、それを繰り返し、泣き続ける彼女を、そっとやさしく抱く、しかし力強い腕を感じた。
ヘレーネは躊躇う事無く、その胸元に顔を埋め、泣きじゃくった。
その力強い腕は、しっかりと彼女を抱きしめた。
そして、頼りがいのある声が、彼女の耳に優しくささやきかける。
「大丈夫。もう、大丈夫だ」
近衛騎士として多忙だった父親のラハトは家にいない事が多く、こんなふうに抱かれた事は無かった筈だ。
だが、ひどく懐かしい感じがして、それで、いっそうにヘレーネは泣き続けた。
「お前は、もう、俺のものだ。だから、俺もお前を護る」
耳にささやく声が、何を言っているのかは良く理解できなかったが、ヘレーネは泣きながら、ひたすらうなずいていた。
「だが、俺は、もう少し封印されてなきゃならない。今しばらくは『あいつ』の事は、お前たちに頼む。いつもヘラヘラして、頼りないように見えるが、『あいつ』も俺の一部には違い無い。それと、今は俺の痕跡を残すわけにもいかない。お前の記憶を少し消させてもらうぞ……」
彼女の意識は、そこで空白になった。
◇
翌朝、黒髪の宮廷魔導士は首を傾げながら、この屋敷の食堂を兼ねる大広間に向かっていた。
ソニアの困惑の原因は、同僚のヘレーネが、体調不良を訴えてシーツにくるまったまま顔も見せなかった事にあった。
かなり長い付き合いになるが、こんな彼女は初めてである。
ただ、体調不良と言うよりは、精神的な何かがあったようにも感じられた。
昨日は遅くまでヴァルマーの専用機である《ルーヴ》の機体調整の立ち会いで不在だった為、彼女に何があったのかがわからない。
「う~ん」
大広間では、エマを含む幾人かの侍女が朝食の準備をする中、既に起き出していた騎士服姿のシンゴが、タブレット端末を睨みながら何事かを唸っていた。
そして、時折、思い出したように襟カラーで覆われた首筋をさすっている。
「おはようございます。何をお悩みですの?」
「あ、ソニアか。おはよう。ん~、これなんだけどさ」
シンゴはタブレット端末の液晶画面を示して見せた。
そこには、深紅の機体が映し出されている。
この異世界の魔装機甲兵に近い、つまりは西洋の甲冑に近いデザインで、シンゴが保有する他の機体とは趣が異なる意匠のBMRだ。
もっとも、魔装機甲兵にしてはメカニックな印象で、更に複雑なフォルムの外装がやたらと多い。
画面の下部には「型式番号XA‐0100」の表示があるが、これはソニアには読めない。
つまり、これが、先日に顕在化した筈の実験用試作機であるBMRの画像データであった。
「初めて見る機体ですわね」
そう言いながら、ソニアは《ガリア》の人型形態の方が可愛いと考えていた。
「俺も実物を見た事は無い。っつーか、誰にも知られていない、世界で唯一の機体だ」
「ふうん? で、これがどうしました?」
「顕在化しているのは間違い無いんだが、四十八時間経っても、召喚に反応が無い」
シンゴは唸るように言った。
「このままだと、一度、《ガリア・キャリアー》や他の機体ともども、引き返さなきゃならない」




