第四十六話:孤島「妹」
太陽が西に傾く頃、カザルが乗った船は目的地の港に到着した。船を降りるとカザルは、足早に病院へ向かった。
「あら、キャメルのお兄さん?」
妹の入院費用の支払いを済ませて帰ろうとすると、背後から声をかけられた。用事を済ませたらすぐにそこを去るつもりだったカザルは、仕方なく立ち止まる。
「キャメルがあなたにすごく会いたがってましたよ」
声をかけてきたのは顔見知りのナースだった。
「急用があるのでまた……」
と一礼してその場から去ろうとすると
「お兄様!?」
そこへ別の声がした。
「キャメル……」
振り向くと妹のキャメルだった。華奢な体に纏った裾が足首まである寝巻が、病人の彼女をより一層ひ弱に見せている。視線は間違いなくカザル(自分)を捉らえていた。カザルは落胆を声には出さずに、薄く開けた口から、密かに溜め息にして床に棄てた。寝巻の裾を揺らして、キャメルが歩み寄って来る。
「何故いつも、顔を見せてくださらないの?」
寂しがる表情で、長身の兄を仰ぐキャメル。
「……」
カザルは口を閉ざした。自分と同じアーモンド型――しかし澱んでいない澄んだ瞳が、すがるように下から彼を見詰めている。カザルは瞼を伏せた視線で、その瞳と対峙した。キャメルがアーモンド型の瞳を細めて、ゆっくりと微笑する。
「お兄様、私もうすっかり良くなったのよ」
と少し得意げに言った彼女は、元気そうに見えた。しかしよく見れば頬にも唇にも赤みがなく、肌は全体的に青白くて、やはりそれは気のせいだったことに気付かされる。
「だから退院しても大丈夫よ」
明るく振る舞うその姿がかえって痛々しく、カザルの胸を締め付けた。
「また来る」
カザルはそう言うと、妹に背を向けて出口に向かった。
「お兄様!?」
「……っっ」
妹が追って来ないことを願って、彼は足を早めた。
彼は自分がしてきたことを恥ていた。理由はどうであれ、“あの王”と関係を持ってしまい、妹に会わせる顔がなかったのだ。オレはもう、お前が慕っていた兄ではない。今のオレは……
許してくれ、キャメル。
胸の中でそう叫んで、カザルは固く目を瞑った。そして振り返らずにそこを後にした。
カザルがチャコフィールドに帰港したのは翌日の午後だった。灼熱の太陽がサファイアブルーの海や白亜の建造物に降り注ぎ、島全体に青色の宝石を散りばめたような風景を描き出す。そこは楽園と呼ぶにふさわしい島に見えた。外観状は……
「カザルさん〜!」
停泊した船から降りてきたカザルのもとへ、一人の少年が駆け寄って来た。
「ゲアン先生が呼んでるので、ちょっと来てもらってもいいですか?」
「ああ」
その少年を見てすぐには誰か思い出せなかったが、“ゲアン”と聞いて、あの時の――と記憶が蘇ったカザルは、少年の後に付いて行くことにした。
「オレに何か用があるみたいだが」
近くの茶屋でゲアンが待っていた。バドとレミアも一緒である。アークがカザルを連れていくと
「ここでは話せない。付いてきてくれ」
と言ってゲアンは席を立ち、カザルを伴って店を出た。後から他の三人も付いて行く。
屋外に出た途端、強い日差しが襲って来る。普段、村では畑仕事をよく手伝っているアークは、もともと肌が焼けていたが、屋内での作業が多いレミアは、島に来てからだいぶ日焼けしていた。白かった肌がほてったように赤らんでいる。
「随分日に焼けたな、レミア。ヒリヒリするだろ?」
彼女の隣を歩いていたバドが心配して尋ねると、レミアは「う〜ん」と遠慮勝ちに苦笑した。それが我慢しているんだとわかったバドは、眉を八の字にして同じく苦笑した。
「後でオレが瞑想で癒してやる」
「ありがとう」
「帽子もあったほうがいいな。それも後で見に行こう」
「ええ」
その会話を聞いていたアークは、「むふッ」と密かににやけた。そんな彼は今、思春期真っ只中である。
「お前だけ日に焼けていないみたいだが、ずっと屋内にいたのか?」
ゲアンと並んで前を歩いていたカザルが、不思議そうに日焼けしていないゲアンの顔を眺める。この常夏の島の日差しを浴びても、肌が白いことが信じられなかった。
「オレは日に当たっても黒くならない体質なんだ」
“雪肌”と異名を持つゲアンの肌は、透き通るような白さだった。とは言え青白いというわけではなく、血色はよく、さらに染みや黒子さえも見当たらないので、女性にはよく羨ましがられる。
「ほー、そんな体質があるのか」
「オレが生まれた村では皆、そうだった。男も女も、子供も年寄りも」
「それは珍しいな。なんという村なんだ?」
「“セイルーガ”だ」
「そうか、それにしても美し……あっ、変な意味ではないぞ!」
「わかってる」
カザルは少し気まずくなったのを誤魔化すように、ポリポリと頭をかいた。
「ところで妹さんの具合はどうだった?」
「まぁ、“変わらず”と言ったところだ……」
変わらず――良くも悪くもなってはいないということか。ゲアンはそう解釈した。
「ライザの所へはもう行ったのか?」
「ああ」
「それで何かわかったのか?」
「詳しいことは“向こう”で話す」
ゲアンはそれ以上の質問を遮断するように言ったが
ライザの所か……。カザルはそこで何か重要なことを聞かされると予感していた。
やがて蔓草に覆われた小屋の前にやって来ると、ゲアンがその蔓草を掻き分けて扉を叩いた。それから秒針が一周するほどの沈黙が流れ、不在か? と諦めかけたその時、ゆっくりと扉が開いた。中から目玉をギョロギョロさせた老婆が顔を出す。それは何度見てもギョッさせられる姿だったが――
「カザル!?」
驚愕の声を発したのは老婆のほうだった。
「何で来たんだい? 来てはだめなのに……ああ、なんてことだ!」
カザルの姿を見て狼狽える。顔を歪めて頭を振り、狂ったように頭を掻きむしる。その異常とも思える反応に、カザルのほうも狼狽えた。
「いったいどうしたというんだ、ライザ? 何故そんな顔をする」
「その青年から聞いてないのかい?」
「ああ、何も……」
「それならすぐに帰りな! わざわざ危ない目に遭うことなんかないんだ!」
バタンと乱暴に扉を閉めて、ライザは家の中に引っ込んでしまった。
「ライザ!」
カザルが叫ぶが、ライザは出て来ない。
「仕方がない、ここで話す」
ゲアンは周りに自分達以外いないことを確認すると、カザルに向かって低声で語り始めた。
「ライザ(彼女)に現国王のことを占ってもらった。その結果、現国王を動かす“第三者”が存在していることが判明した」
「第三者!? 誰なんだそれは?」
カザルは驚愕に目を瞠った。ゲアンが冷然とした口調で言葉を継ぐ。
「それを調べるために、お前をここに連れてきた」
「どういうことだ?」
「これ以上深く調べようとすれぱ、彼女の“一番大切なもの”を奪い取ると、その第三者が彼女の頭の中で言ったらしい」
「頭の中で?」
それは嘘のような話だったが、ゲアンの目を見ても嘘を言っているようには見えなかった。
「普通の人間にできるようなことではない。彼女はそれを恐れていた」
「しかし何故ライザはあんなに、オレが来たことに憤慨していたんだ?」
「彼女にとって一番大切なもの、それがカザル――“お前”だからだ」
「オレが……?」
何故自分なのかと困惑するカザルに、ゲアンはさらに続けた。
「第三者のことを調べれば、お前は第三者に命を狙われるかもしれない。だから彼女は調べることを頑なに拒んでいる。
彼女が調べてくれないのであればオレ達は別の方法を考えるが、お前が協力してくれるならまた彼女に頼もうと思う。それには危険を伴うかもしれないが、オレ達を信じてくれるなら協力してほしい。どうするかはお前が決めてくれ」
ゲアンがそう伝え終えると
「オレは何をすればいい?」
言下にカザルは言った。答えはすぐに出たようだ。ゲアンは淡々とした口調で説明する。
「第三者が誰かわかるまで、オレ達の側にいてくれるだけでいい。その間、お前の身の安全はオレ達が護る」
「いいだろう。お前がいるなら安心だ」と納得したようにカザルは頷いた。
「では協力してくれるのか?」
「ああ」
カザルは快諾した。
さっそくカザルは、先程のようにまたライザの家の扉を叩いた。
「ライザ、話は聞いた。オレは彼らに協力することにした。だから戸を開けてくれ!」
返事は返ってこない。彼はさらに強く呼びかけた。
「ライザ、返事をしてくれ!」
すると軋むような音を立てて扉が少し開かれた。
「あんた正気なのかい、カザル?」
その隙間からライザが顔を覗かせて、ギロリとした眼で訝るようにカザルを見据えた。
「勿論、正気だ」
カザルは何も躊躇わぬはっきりとした口調でそう答えた。迷いの感じられないその態度にライザのほうが狼狽える。
「あんた、この子をどうやって言いくるめた?」と憤りを向けて、ゲアンを睨み付ける。
「言いくるめられてなどいない。オレが自分の意思で決めた」
カザルに反論されて、ライザが目を剥く。
「殺されるかもしれないんだよ!?」
「彼らが護ってくれる」とカザルはゲアン達に向かって顎をしゃくった。
「どんな奴だかわかってるのかい!?」
「大丈夫だ、ライザ。この男は王の御前で、魔物研究所の魔物を全て倒したほどの実力の持ち主だ。その実力は武勇伝祭の決勝で戦ったオレが身を持って知っている」
「わかってないねぇ。そりゃ普通の人間が相手なら構わないよ。だけど今回は、“何者”だかわからない奴が相手なんだよ?
あんたにもしものことがあったら、キャメルをいったい誰が守るんだい!?」
ライザは興奮しすぎて、わなわなと震えながらよろめく。軽い酸欠状態に陥ったようだ。扉にしがみつきながらカザルを睨む。
「ライザ、オレは変えたいんだ、この状況を。変えるためには何か行動を起こすしかない!」
いつもクールで感情を面に出さないカザルが、悲哀の色に染まった双眸で心底訴えかける。ライザには堪らなかった。
「何故あんたまでそんなことを……」
「分かってくれ、ライザ」
互いに譲れない主張がぶつかり合い、破片を散らした。カザルの硬い決意に、ライザの意志は勝てなかった。彼女が何よりも大切なものは、それ以上に強い気持ちで妹の幸福を願っている。自分の身の安全など顧みないほど。
「どんな結果になっても後悔しないと誓えるかい?」
「ああ、誓う」
カザルは真っすぐにライザを見据えて、しっかりと頷いた。
「“本当だね”? 本当に後悔しないんだね?」とライザが念を押す。
「ああ」
「後になって“やっぱりやらなければよかった”、なんて言うのはやめとくれよ?」
「ああ、決して言わない」
三度のチャンスを与えたが、彼の意志は変わらなかった。ライザは、嘆息を内に秘めたまま背中を向け、カザル達を部屋に促した。
「じゃあ始めるよ」
ライザは円を描くように置かれた蝋燭全てに火を付けると、その辺にあった道具を手に取った。
「一つ頼みがある」
カザルが言った。儀式に取り掛かろうとしていたライザが手を止める。彼女は振り向くと
「なんだい?」と怪訝そうな眼でカザルを見詰めた。ゲアン達の視線も彼に集まる。カザルは、ライザを見詰めて言葉を紡いだ。
「オレがもし死んでしまった時は、オレの臓器をキャメルにやってくれ」
皆が目を瞠った。
「馬鹿なことを言うんじゃないよ! そんなことできるわけないじゃないか!?」
「闇経路でやってくれる医者がいる」
平然とカザルが言い、一同唖然とした。
「なんてことを……!?」
ライザは呆れて頭を振った。
「キャメルには、もっとさまざまな世界を見せてあげたい。あいつが今いる世界は狭すぎる。もっと視野を広げて、オレ以外の人間にも目を向けられるようにしてやりたい。それにはまず健康を取り戻さなければならない。あいつに健康な臓器を提供して――オレに出来ることはそれくらいしかない。それであいつを救ってやれるなら本望だ。ライザ、オレはあいつを、もっと自由に羽ばたかせてやりたいんだ!」
妹の幸福を願う兄の切実な思いが伝わってきたが、ライザは聞き入れなかった。
「そんなことをして“あの子”が喜ぶとでも思ってるのかい!?」
「今のオレには、これ以上あいつにしてやれることはない。だが死んだ時ぐらいは、あいつの役に立ちたいんだ」
カザルは、許しを請うようにライザを見詰めた。彼の嘘偽りのない真っすぐな思いが、ライザの胸を締め付ける。彼女はそれに抗うように、涙で潤んだ瞳でカザルを見据えた。
「無理だよ、カザル。あの子は、あんたがいなくなったら生きていけない……」
彼女の歳老いて下瞼が垂れ下がった眼から涙が溢れ出す。彼が憐れで仕方がなかった。
「ライザ」
カザルは慰めるように、老婆の名を呼んだ。思いが通じたのか……カザルは続けた。
「あいつは何も寂しい思いなどする必要はない。オレがあいつの体の一部となって、片時も離れずに、ともに生き続けるんだ」
ライザは愕然として目を瞠った。
「あの子はそんなに強くないんだよ、カザル!? あの子には、“生きてる”あんたが必要なんだ……!」
そう強く言い聞かせようとする。あんたは何もわかってないと悪態を吐いた。
カザルは“それには従えない”――と口を閉ざしてライザを見据えた。
「決め付けるのはまだ早いですよ」
ふとゲアンが、ライザの肩に手を乗せて言った。彼に困惑の眼差しが向けられる。カザルも彼に同じ目を向けた。ゲアンは端麗な顔に微笑を浮かべると
「まだ死ぬと決まったわけではありません。我々が彼を“第三者”から護ります」
そう告げた。
「うっ…うっ」
ライザは嗚咽を上げて泣き崩れてしまった。
「ライザさん、どうか我々を信じてください」
ライザが顔を上げる。彼女はゲアンの目を睨むように見詰め、しゃくり上げながら呪詛のように言った。
「……死なせたりなんかしたら、許さないからね!?」
ゲアンの台詞がややこしぃ・・・ごちゃごちゃしててすみませんm(__)m