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第二十五話:彼の中の勇者【後編】

遅くなりましたが、これでこのエピソードはラストです。語彙の少なさ拙さに嘆きつつ、妥協しながらもなんとか書き終えることができました。ぜひ最後までご覧ください(切実)

 急速に闇に落ちていく空が、アークの視界を一面の黒に染めあげていった。何も見えない闇、広くも狭くも感じられるその空間が、彼をその場に一人取り残された孤独感で精神を圧搾した。目に見えぬ防壁では守られているという実感も持てず、彼は小さな体をさらに小さく縮めながら、固く瞼を閉じて神に祈った。


 どうか、どうか誰も死にませんように!


 バドが魔物に足をちょん切られませんように!


 アークの位置は待機場所とされ、通常もっとも力の弱い者がそこに入る。そこに立った者はその位置から情勢を見計らい、仲間が危機に陥った時に加勢するのが役目であった。本来ならそこにスパークが立っていたであろう。


 ビン――……と弓弦を矢が弾いたような音が連続した。“訪問者”の襲来であった。その音はルジェのような特殊能力を持たない者でも、経験を積んだ者であれば聴くことができる。何者かが魔方陣の外枠に接触したときに生じる警告音っであった。それを耳にしたバドは、神経を研ぎ澄ませて周囲を窺った。視界でそれを捕らえることは適わない。彼は夜目が利く呪文を使えたが、その呪文は眼を光らせる作用があり、敵に存在を知らせてしまう怖れがあるため使えなかったのだ。

 一方、ルジェは邪気を感知できる体質であり、接近するとそれを炎を象る物体として意識の中に捕らえることができた。この時も彼は、意識の中に舞い込む“炎”を待っていた。

「囲まれたぞ」

 それを感知した彼は、バドに向けて潜めた声で鋭い警告を発した。

「一つ、馬鹿でかい“やつ”がいる」

「そいつが親玉ボスか?」

「おそらく」

 ルジェは短くそう答えると、瞼を閉じて巨大な炎(邪気)の位置を探り始めた。その直後――


 ビン――……



 再び弓弦を弾いたような音がした。


 その刹那。


 ボコッという音とともに地面が割れ砕け、巨大な炎が闇に踊った。

 否、意識の視野にそれを捕らえていたルジェは、既に暗順応していた眼球を通して、朧気に見えた物体に驚愕した。

「!」

 前方にそれがあることを知ったその数瞬後……

 彼の視界は、静かに横に移動した。


 炸裂する絶叫――


「!?」

 闇の中にそれを聴いたバドが振り向く。

「ルジェ――――!?」

 枠の外から誰かの叫び声が迸った。

「解!」

 その声の後に、枠の中へと新たに侵入して来た者があった。

「闇を映す光る眼<モノクローム・ビジョン>!」

 唱えた直後、青色に光る双眸。

 それを歓迎するかのように、いくつもの光る眼がそこに群がり始めた。不気味に喉を鳴らすその群は獣のようであったが、先の侵入者――魔の存在に違いなかった。

「……っ!」

 鞘鳴りがし、ほぼ同時に地面を蹴る複数の乾いた音がした。

 直後――入り乱れる短い叫喚と殺戮の残響。無差別容赦ない剣の乱舞は、もはやどちらが残虐か分からなくなるほど凄絶さを極めていた。敵の群れを剣で一掃すると“侵入者”は先刻かけた魔法を解いた。発光していた双眸がもとに戻る。新たに彼は呪文を唱えた。

「炎の魔力を此れに与えよ<ファイヤー・エディション>!」

 手持ちの剣に魔力を付与し、その刃が人の頭程の大きさの炎を上げる松明と化す。橙色の炎が顔面を明々と照らし、闇の中に無精髭を生やした武骨者の顔が浮かび上がる。

 スパークであった。彼が負った重度の怪我は、放置されていた間に患部の血と砂塵が混ざって黒ずんだ赤色となって固まり、目も当てられぬ惨状であった。

「ルジェ――――ッッ!?」

 彼は怒号し、重傷を負ったその体では驚異的と言える速さで走り出した。松明の灯で闇を照らしながら魔方陣の奥へと進んでいく。



 魔方陣の西側で甲高い濁音の悲鳴が上がった。

 な、何……!?

 そこにいたアークは茫然となった。今まさに彼の眼前に現れた光る一対の眼、それが見えたと思った瞬間、今の悲鳴が起きたのだ。それは彼を襲撃しようとした魔物と思われた。しかし闇の中ではそれを確認することができない。恐ろしかったが先刻のように魔法の防壁が守ってくれることを願うしかないアークであった。

「アーク」

 そう小さな声がして、アークは大きく目を瞠った。

「バド!?」

 一気に安堵が生まれてそう歓呼するが

「魔法の壁が消えた」

「え……?」

 それを聞いて固まるアーク。何で? と拍子抜けした顔で訊ねると緊迫に満ちた声でバドが言った。

「“あいつ”が魔方陣ここにかけた魔術を解除したことで、この中の魔法効果も消滅してしまったんだ」

 先にアークにかけた防御魔法『遮壁バリア』は、盾と同じで防御できるのは一方向のみである上に、魔法や毒息などの特殊攻撃には無効。そして当時のバドは全面防御魔法である『覆遮壁フルバリア』をまだ習得していなかった。それ故、彼はアークの護衛を魔法だけに頼ることができなかったのだ。

 腑に落ちなかったアークは渋面を作り、首を傾げた。

「なんで解除ちゃったの?」

「この魔方陣は魔法が完成すると異次元と繋がって結界が発生し、魔族以外の者が入ろうとすると跳ね返されてしまうんだ」

「だからってなんで……そんなことしたら、せっかく捕まえた魔物はどうなっちゃうの~!?」

 その問いにバドが答える前、また一つ悲鳴が上がった。

「ルジェ……っ!?」

 悲嘆と叫喚の木霊が闇空に冴え渡る。スパークが手にしていた松明の灯が、何かを照らしていた。

「あ……ああ……あぁ……」

 そこに視点を合わせた瞬間、衝撃のあまりアークの思考は一時的に停止した。


 束の間。


「ぅ……ギャアアアアァア――――――――ッッ!?」

 彼は精神失調を来したような絶叫を迸らせた。時間差をもって沸いて来る恐怖が身体の自由を奪い、目や口は開いたまま、指一本さえ動けなくした。極限の恐怖がもたらした金縛りに相違なかった。


 違う、あれは……あれは、そんなこと……違う違う違う違う違う違う――――ッッ!


 目に投影したものを否定することで、強制的に恐怖を追い払おうと試みる。

 しかしねっとりと間延びしたような時が刻まれるほど、“それ”は彼の目にくっきりと焼き付き、逃れられぬ現実の像を記憶の中に刻印していくのであった。


 それは非現実的な光景。


 悪夢の光景がそこにあった。


 地面の上に立つ膝から下の二本の足。それが履いている革のブーツは、ルジェが履いていたものと同じだった。アークの位置からは、その傍らに転がっている物体も見える。

「あぁっ!……」

 彼は恐怖しながらもその恐怖に犯され、そこから目を逸らせなかった。精神が氷漬けにされていく。それに抗い、松明の灯に照らされた物体が服を着た人間の胴体であることを視覚が認めても、必死でそれを脳では否定しようとする心理が働く。

 が、しかし悪夢はそれだけでは終わらなかった。否現実的光景は、闇の中にまだ潜んでいた。胴体のない足の奥にそれは“居た”。

 スパークが掲げた松明が、白い楕円形の物体を映し出す。それは白目のない一対の赤色の眼球と大きく裂けた口、醜く吊り上がった鼻を有しており、異形でありながら人のものと伺わせる顔面の片鱗を僅かに残していた。しかしその体の構造は人とはあまりにかけ離れたもので、腕が一対の巨大な鎌のようになっていた。それに繋がる下部には節くれだった四肢があり、地面に伏したその姿は人の顔を持つ巨大な虫のようであった。

 これまでの魔物とはわけが違う! 素人ながらにアークは本能でそう感じた。これこそがルジェの言っていた“魔換種”なのか……

「貴様も同じく、切り刻んでやろう」

 人の顔を持つ化け物が言葉を発した。まさしくそれは人の話す言語であった。これでこの化け物が、人が魔物化した魔換種であることが明らかになった。魔換種は足元を狩るべく低く構えた巨大な鎌で、スパークを威嚇した。

 対するスパークは再び暗視の魔法をかけた。左目が光る青い目と化す。彼は固定した視線で敵を捕らえながら、剣を構えて相手の隙を窺った。柄を握る手に力が籠り、軋む刃身がみしみしと鳴いた。

「殺してやる……」

 憎しみは深く静かな声音で吐き出された。

「手を出すな!」

 そこに駆け付けたバドを振り返らずに、鋭い怒声で制すスパーク。

「……」

 バドはそれに従い、数歩離れた位置から様子を見守る。

 スパークは中段に剣を構え、異形のものを憎しみを込めた眼で見据えた。全快していない右目は敵のその像を朧げに映す。彼は足元を狙う巨大な鎌を意識の中に捕らえながら、敵の出方を探った。怯まず敵に立ち向かおうとするこの態勢は勇ましかったが、どこかしら危ういものが見え隠れする。

「貴様の魂は浄化させるに値しない。強制的に魔界じごくへ送ってやる!」

 大切な仲間を無残な姿に変えられたことで、スパークはもはや慈悲も自制も失っていた。

 魔換種に遭遇した場合、その種の技術を会得したハンターは、魔換種の魂を浄化して天に導いてやらなければならない。それがハンターの務めであり、人の情けというものであった。本来なら……

「地獄に逝け! 魔換種ばけもの――――ッッ!」

 復讐心しかなかったスパークにその余地はなく、彼は剣の切っ先を魔換種の心臓目掛けて突き出した。

 その時。

「ふ……」

 ふと魔換種が冷笑した。

「憑移」

 その口が呪詛のように言葉を紡ぎ

「っ!?」

 次の瞬間スパークは目を剥き、落雷を受けたように、大きく一度身を震わせた。

 開く瞳孔。

「……っ……っ」

 小刻みな痙攣が始まった。空を掻くように開いた掌から落ちる剣。地面に落ちても尚、それは炎上し続けていた。

「愚か者め……魔輩に肉体すみかを…………奪われるとは……っ」

 ふとそこに低く呻くような声がした。スパークが落とした剣の炎が灯火となって赤々とそれを照らし出す。素早くそこに顔を向けたアークとバドは、視界にその光景を捕らえて凝固した。

「!?」

「ルジェ!?」

 バドが“その名”を叫んだ。彼らが見たもの、それは両足の膝頭から下を切断されたルジェが、地面に剣を突き刺して震えながら起き上がる姿であった。

 スパークが笑う。

「ほぉ、まだ生きていたか。だが起き上がれた所で、足を切断された貴様には何もできまい」

 その言葉はスパークの口から紡がれた。しかしそれはスパークのものでありながら、全く性質の異なる違和感をもたらすものであった。その声が、零下の下で吐く息のごとき冷たさで耳を伝う。

「……?」

 状況がうまく飲み込めないアークは、スパークが何故そんなことを言ったのか分からず、ただ茫然とするばかり。その傍らにいたバドは待機を続けていた。彼は前方にいるルジェと魔換種の情勢を見ながら出方を待つ一方で、同時に後方にいるアークのことも守らなければならない。神経が張り詰めた彼に、声をかけることすらはばかられるアークであった。

「オレのかわいい相棒によくも取り憑いてくれたな。決して貴様を逃しはしない」

 ルジェは端正な目を細めて、スパークを仰ぎ見た。そこに重傷を負った者とは思えない不敵な笑みが加わった。ゆっくりと口の端が上がっていく。もがき狂うほどの強烈な痛みを怒りが凌駕したのか? その姿は常軌を逸していた。

「なら、どうしてくれる?」

 嘲笑を含んだスパークのその問いに答える代わりに――

「聖なる炎の包囲<サイレント・ファイヤーサークル>」

 ルジェは低声で呪文を唱えた。

 白い炎が地面に列を成し、魔法陣の外縁に灯が点る。聖なる白い炎の包囲であった。

「何をした?」

 周囲に起きた現象を見て、不快げにスパークは眉根を寄せた。

 それを面白がるようにルジェは嗜虐的な笑みを浮かべる。

「オレの相棒が魔法陣を解除してしまったからな、代わりに“魔法の包囲”を張った。

 せっかく捕らえた獲物を逃さぬように」

「ほぉ、その様でよく言った」

 スパークは首を傾け、蔑む眼でルジェを見下ろした。

「だが、その貴様も生きてここから出してはもらえないということを忘れるな」

「構わない」

 ルジェは即答した。それが決意の表れか? 今ここで、頭上から剣を振りかぶられれば終わりのような状況にいて、彼は怯まなかった。虚勢からではない、強い自信が彼の双眸を満たしていた。


「貴様もオレも、この包囲なかで運命を共にする」


 死を恐れていない若者の宣言は、相対する男の顔を凍て付かせた。スパークから笑みという余裕の色が消える。

「貴様を魔界(地獄)へ案内してやろう」

 餞にルジェは微笑した。

 徒桜の如く

 戦場に咲いた氷の微笑はな

 刹那に散り

 無に帰した。


「!」

 迸る眼光。ルジェが放つ視線のやいばが、スパークの体を虚空に張り付けにした。

 銀線が夜気を裂く。

「ぐふッ!?」

 スパークの胸にナイフが突き刺さった。懐中に忍ばせていたナイフをルジェが投げ放ったのだ。それは深くスパークの胸の中央に見事命中していた。スパークは震える手をその胸に伸ばす。

「貴様ッ……“このおとこ“を殺すつもりか!?」

 ナイフの柄を掴んだ彼は、眼を血走らせて呻くように叫んだ。

 ルジェは細めた目許と口の端に喜色を滲ませる。スパークに対し冷薄であった彼はそれを極めたのか? 仲間の生命を顧みないほど……

 答える代わりに彼は一笑した。

「苦しいか?」

 その問いはいたぶりだった。

 スパークは胸を押さえておののきながら身を屈め、眼球がむき出しになるほど力を込めた目でルジェを睨み返した。

 地面に沈座する“膝頭から下のない男”を。

「貴……様……何を……企んでいる?」

 危機に瀕したのはスパーク。もはや形勢逆転か。状勢が入れ替わったかに思える光景がそこに生まれていた。

 ナイフの柄に手を掛けて苦しみ悶えるスパークを冷ややかな瞳でルジェは傍観する。彼の心体なか感情いかりが大部分を支配していたが、完全に痛覚を失ったわけではなかった。顔面から吹き出る大量の汗がそれを示す。

「貴様を裁く……」

 呼吸を整えるように息を漏らし、ルジェは続けた。

「そのナイフは裁きの小刀だ。刀身に刻まれた呪文が、汚れた魂に罪を咎める苦を与える」

「く……っそぉ!」

 スパークは憎しみを込めて奥歯を強く噛み締めた。ナイフの柄を握る手が震える。抜いたところで傷口から血が吹き出して、死が早まるだけだということは分かっていた。策を巡らすが

 氷眼にスパークを映し

「神の裁きを<ジド・アルカ・ジュ・ゲド・シフィル>」

 ルジェが一唱。

「かくあれ」

「ああぁあぁあぁぁ――――ッッ!」

 直後、スパークをいまだかつて味わったことのない苦痛が襲った。それはこの世に生を受けた者が感じるあらゆる苦痛を凝縮させた最大値の苦痛という“罰”であった。

 このままではルジェ(やつ)にられる!――スパークは選択を強いられた。この“体”を諦めるか……

「魔道に堕ちた者よ」

 待たずしてルジェはそう投げ掛けた。音程を下げた声の凛然たる響きがスパークを威圧する。語調の変化が、その場の空気をより緊迫したものに換えた。

「汝が罪なき村人の尊き生命を奪ったこと。さらにはその男スパークの身に魂を堕とした業を我はその裁きの小刀を持って裁く」

「おのれぇぇ……」

 喉から這い出すような悪声が、スパークの口から漏れた。今にも絞め殺さんばかりに憎しみを込めた眼をルジェに向けている。ナイフが刺さっている胸の局部からは、不思議と出血が多くはなかった。悪戯に苦痛を長引かせ、なぶり、じわじわと死に至らしめようとする仕置であろう。罪人はその裁きの小刀というナイフによって、生き地獄の余生を堪能させられる。スパークはその呪縛に心体を拷問されながら吐き捨てた。

「貴様っ……あの男共が犯した悪業を……知ってのことかぁぁ――――!?」

 怒号の雷喝を迸らせたスパークのその形相は凄まじく、もはや原形を止どめていなかった。夜間でなければ、赤い顔相の邪鬼として映ったであろう。外縁を縁取る掌大の炎がほの明るく周囲を照らし、この有様をぼんやりと浮かび上がらせていた。その逆鱗の岩漿がルジェを直撃したが、彼は畏縮することはなく、氷塊の冷たさでスパークを一瞥した。

「怨恨は巡る因果である。故に汝の業により害された者もまた、汝に怨恨を抱くこととなる」

「……っ」

 スパークの口から苦悶が漏れる。

 種類が違えど激痛という苦しみの中に居ながらにして、依然として沈着かつ冷静さを維持し続けているルジェが説く。

「汝を苦しめる幾重もの苦の中に、その者たちの怨恨も混ざっている。殺された者やその家族たちの」

 それが意味するものはあまりに嗜虐的。

「ぉああああぁ……!」

 此処は地獄か? そう思わせる叫びが外耳道を通過して、鼓膜のその奥にある脳髄まで轟き渡り、聴く者の精神をも犯そうする。

 肉体、精神を苛む逃げ場のない重苦の拷問は続いた。

「生ける肉体から離れるまでその苦痛は永続する。 下界の苦痛から解放されたくば答えよ。汝は何者だ? 名を名乗れ――――!」

「答えるものか! 我は魔道に墜ちた時、人の体もその名も捨てたのだ! 貴様ごときに説き伏せられるほど、この怨みは浅くはないわ!」

 どちらが先に朽ちるか、これはその闘いでもあった。

 命を賭して己の務めを果たそうとする男と

 死しても尚、復讐に執念を燃やし続ける魔換種との。

「魔道に堕ちた者よ。殺戮からは怨恨しか生まれず、それを重ねても汝の魂は永久に救われない。名を告げて懺悔せよ」

 しかし確実に死に近いルジェ。彼が取ったこの方法も、精神力が尽きるより先に死に絶えれてしまえば失敗に終わる。

 果たして運命はどちらに微笑むか。

「名を聞いてこの体から我の魂を抜こうとしても無駄なこと。我とこのおとこの魂は入れ替わり、この男の魂は……」

 消え入るスパークの語尾。それに続く言葉の意味を示唆するかのように、彼の視線が“それ”に向けられた。

しもべよ」

 スパークの中に宿る“別人”がそう命じた。

 ルジェが意識の中に捕らえていた炎の塊が一つ消える。

 刹那の空白。

「?」

 突如、ルジェの前に炎が踊った。

 否、意識の視野に出現したそれは、一対の大鎌を両腕に持つ魔換種であった。音もなく空間を、地中を異動したのか? 最初に出現した時と同じく、ただ隆起した瞬間の轟音だけが鼓膜を叩いた。同じ状況――しかし足を切断されたルジェに回避の術はなく、無情にも魔換種の薙いだ大鎌がルジェの首を刈る。

「ああっ!……」

 その瞬間を見ていられなかったアークは、咄嗟にぎゅっと目を閉じた。

 それからいくらか間を置いてから、恐る恐る瞼を開ける。

「?」

 と、予想した状況とは違っていた。ルジェの首は繋がっており、彼に代わって魔換種を相手取っていたのは――バドであった。一対の大鎌が虚空を裂いて闇に唸り、まるで雑草を刈るようにバドを襲う。決して俊敏とは言えないながらも、魔換種の繰り出す鎌の一振りは大きく、左右の大鎌がバドを挟んで交叉する度アークは息を飲み、何度心臓が止まりそうになったか分からない。一時は魔物と闘うその姿が勇姿に思えたアークではあったが、今は違っていた。恐ろしくて恐ろしくて、泣きたくて仕方がなかった。見守ることしかできない非力な少年は、ただ手を組んでひたすら神に祈るだけ。神様神様……! 心の中で懇願するその声が、発声なくして唇を動かした。


「視力を破壊する光球<アイ・クラッシュ・ボム>」


 闇の中に浮かんだ白い光点が一瞬にして肥大化した。それが宙を滑空し

「あっ!」

 バドと魔換種のいるど真ん中に着弾した。目、口、ともに大きく開けてアークが驚愕していると、機敏に反応していたバドは片方の腕で視界を塞ぎ、強力な光から目を庇っていた。

「く………っくく……」

 魔換種のほうは苦悶を漏らした。両腕が人の持つそれとは大きく異なり大鎌である魔換種は、瞼こそ瞑っていたようだが強力な光はそれでは防ぎきれず、その奥の組織に損傷を受けたようだ。

 バドは首を巡らして、光球を射った主を尻目に見た。地面に沈座する“膝頭から下のない”狙撃者を。

「手荒い真似をして悪かった」

 低い位置から声を響かせるのはルジェ。その音色は、喩えるなら荒野に吹く冷たく乾いた風であった。彼は体を支えるために地面に刺した剣の柄を握る掌に力を込める。端整な双眸が目標物に視点を固定し、頑な決意を著わした。

「“そいつ”のことは、オレがけりを付ける。バド、お前は“あの子”を……」

 その会話が交わされている最中、アークは意識の中に何かを捕らえていた。瞬時にそれが戦慄を誘う。僅かに頭を垂れると

「!?」

 彼の大きな瞳が“それ”を目認してしまった。

 並んだ二つの赤い……光点。それは伺うように、じっとこちらを“見ている”。

 即、彼はそこから目線を上げた。それは逃避したい気持ちの表れであった。

「神様……」

 見られていると分かっているのに、気付かれないようにと小さな声で祈った。心拍数が加速する。開ききった眼球を強制的に定位置に着かせ、顔や背中を水面に広がる波紋のように伝わっていく戦慄の寒波に身を委ねた。

 いつの間にか彼は、見入られていたのである。光る赤い目に。魔法陣の外縁に灯る白い聖炎が、異形の物の姿を朧気に映していた。獣の四肢に限りなく獣に近い、人の顔? 正視しがたいおぞましさがアークに込み上げた。相手からも同じようにこちらの姿が見えているだろう。しかしアークは、気付かないで、気付かないで……! と必死で祈り、異形の物から目を背け続けた。その時が何時間にも、何十時間にも感じられる。息を殺して背後を見た。そこに赤い光点が……


  警告の赤。

  呪怨の赤。

  殺意の赤。


 回避の余地を与えず――

 瞬く間の微かな音に続き

 宙に躍る二つの影。

 跳躍が最高到達地点に達した時、四つの赤い眼が幼い少年を射た。

 少年は悲鳴とともに頭を抱えてしゃがみ込む。この後自分を待ち受ける災難に怯え、彼は縮こまりながら震えた。

「やだよやだよ、痛いのはやだよぉぉ……!」

 泣き喚きながら震えていた。敵の襲来を報せる脅威の音を遮断するように。

 そこに小さな足音が接近した。錯乱して喚き続けるアークには自分の声しか聞こえない。

「アーク……」「ひゃあ!」

 声に驚いたアークはしゃがんだまま飛び上がり、バランスを崩して尻餅を突いた。「あわあわ……」と目を回す。すると卒倒しかねない彼の前に“目に見える壁”が。

 それは岸壁のように頑丈そうな、とはいかなかったがアークにはとても頼もしかった。

「バド!?……」

 安堵に涙が溢れ、その壁――否、背中に抱き付きたい衝動に駆られる。そして腰を上げるが

「危ない!」

「え……」

 素早く体ごと振り向いたバドが、何かを追うようにアークの背後を見た。

「な、何……?」

 アークは金縛りにかかったかのように瞠目して固まった。

「アーク、しゃがめ!」

「へっ!?」

 バドに突然怒鳴られて言われた通りにしゃがむと

 頭上を涼しい風が凪ぎ、継いで何かが衝突したような鈍い嫌な音と濁った悲鳴が短く木霊した。今まさに彼を背後から襲撃しようとした魔物の断末魔に相違なかった。いつの間にか地面には三体の死骸が散らばっている。バドがやったのであろう。アークは放心状態から抜け切らぬ開ききった目で、速い胸の鼓動に自分でも驚きながら、ただただバドを凝視した。恐怖と絶望と驚きと歓喜が次々と入れ替わって息着く暇もない。

 一方バドは剣に付いた血を払い落とすが、それを鞘に納めようとはしなかった。アークはそっと立上がり「まだ残ってるの?」と怯えた小さな声で尋ねる。不安げに上目遣いでバドの表情を伺うが

「わからない」

 とバドの答えは曖昧だった。ルジェのように敵を感知できない以上、彼は常に周囲に警戒しなければならない。

 いや、今度の敵は感知させない特技を持っているようだ。そのせいでルジェは回避できなかったのだろう。その彼によってできた聖なる魔法の包囲により、既に魔物の侵入は阻まれてはいるが残存数がわからない以上、気を抜くことはできなかった。もしまた地面の下からでも現れたりすれば避けようもないだろう。正体不明の敵ほど厄介なものはなかった。

「ねぇ、あの男の人、どうなっちゃたの? さっき解除しちゃった人」

 スパークを指差してアークが尋ねた。背中から緊張感を漂わせていたバドは振り返らずに答える。

「魔物に取り憑かれたんだろう」

 経験上、バドにはそう判断できた。

「“取り憑かれた”って……大丈夫なの、あの人!?」

 アークは青ざめ、心底心配していたが

「……」

 バドは答えず、ふと後ろを振り向いた。

「?」

 アークは少しきょとんとする。

 するとバドが、剣を持っていないほうの手を伸ばしてアークを抱き寄せた。まだ幼い少年アークの頭をその胸に埋める。

「ごめんな、アーク。怖い思いをさせて」

「うん……」

 アークはまた涙ぐんだ。さっきは本当に、殺されちゃうかと思ったんだから! そう叫ぶ代わりにバドの服をくしゃっと握り締める。その頭をバドがぽんぽんと叩いた。

「もう離れたりしないから」

「絶対だよ……?」

 アークがひょっこりと顔を出して念を押す。

 バドは頷き、アークの背中から手を放した。


「小癪な真似を……」

 こちらはスパーク。彼は魔換種を見て悪態を吐いた。先刻目潰しを食らってしまった魔換種の視力はまだ回復しておらず、渋面を作っていたことが彼を苛立たせていた。悔しそうに吊り上げた口の片側から、歯をむき出しにして舌打ちする。その憤りの余韻を残した表情で、彼は視線を他に移した。ある人物へ。

 みるみる吊り上がっていく口角。一変してその表情が喜色に染まった。

「……」

 ルジェにはそれが意味することが何か分かっていた。


  情けは無用――


 次の瞬間、抵抗を辞さない水平な払いが地を撫でた。通過しても尚、対象物を揺らすことなく、刃が横に移動する。数瞬遅れて横にずれた対象物が切断面をさらした。地面に向かって頭部から頽れていく人体。そこまで経ってようやく斬られたことが実感できるという幻相の剣技であった。見る者を圧巻させる。革のブーツを履いた足首から下だけが地面に残っていた。

「……貴様ぁぁ、狂気の沙汰かぁああ――――ッッ!?」

 足の持ち主が怒号を轟かせる。切断部からの流血が、みるみる血の池の面積を広げていった。持ち主は地面に転がりながら、憎悪を燃やして執念で這い上がろうとする。激痛と憤りに歪んだその顔は血と埃に塗れ、昼間はそれほどひどくはなかったはずの不精髭が繁茂し始めていた。筋骨逞しい腕を軸にして、痙攣しながら身を起こす武骨者の無様な姿がそこにあった。言うまでもなく、それはスパークである。彼は憎悪の炎を揺らめかせた眼で、自分の足を切断した人間を眼で射た。膝頭から下のない男を。

 そして自分が今、地面からその男を仰がねばならぬ立場に立たされてしまっていることが、彼にさらなる屈辱を与えた。敵の足を切断して、苦しみの果てに死へと導くことに快楽を覚えていたというのに。やり返されてしまった。仲間の足を犠牲にして。それは彼の理解を越えていた。“この男”は狂人なのか!? 

 それを傍観していたバド。彼は何度かルジェとハンターの仕事をしたこともあり、彼なりのやり方があることを多少は把握していた。しかしこれは……何が彼をそうさせたのか、その意図するものが全く読めなかった。アークにいたっては、ルジェまで魔物に取り憑かれてしまったと疑う始末だ。

「この男は貴様の仲間ではなかったのか!?」

 スパークの糾弾にルジェは否定せず、僅かに微笑した。スパークの目にはそれが嘲笑いに映る。切断された足、下界の苦痛が彼にさらなる苦を重ねた。生きることを放棄したくなるような拷問であった。

 足を切断されたのはルジェも同じだった。なのに何故? 彼は平然としている。その異常な落ち着き振りは、もはや常人と呼べるものではなかった。そのルジェが開口し

「オレとスパークは“斬っても切れない仲”だからな」

 軽い冗談のようにそう述べた。しかしスパークにそんな冗談が通じるはずもなく

「ふざけたことを……っ!」

 彼は鼻息を荒げて憤慨した。ルジェ(こいつ)が邪魔するせいで計画が台無しだ。目障りな奴め……! 彼は呪詛の言葉を唾とともに吐き捨てた。

「己……この体はもう必要ないわ!」

 ――今度こそ。

 彼の双眸が闘志に燃える。意識が標的に集中し、唇が語句を紡ぐ形に開く。

「バドに乗り移るつもりか?」

 しかしルジェの声が先に出た。またか? と煩わしそうに一瞥するスパークを正面にルジェが説く。

「それは諦めるんだな。そのナイフが挿さっている体は、魂も同時にその支配を受ける」

「ならばこんなもの!」

 スパークがいきりたち、胸に挿さっているナイフの柄に手をかけた。

「言っておくが、魔術を解かずに裁きの小刀を抜けば、魂は無に帰する。下界、冥界、魔界、どの世界にも属することなく虚空を彷徨い。その末路は、神のみぞ知る」

「なんだと……!?」

 ルジェの警告に怯んだのか、スパークのナイフの柄を握る手が緩んでいくが

「貴様の言うことなど信用するものか……」

 思い返した彼は強行に出ると

「憑移!」

 大きくそう発した。

 口を開けたまま“それ”を待つ。その口から魂が抜け出して、他の体に宿る魂と住処を交換する――

「何故だ……!?」

 はずであった。しかしそれは無反応な空白に取って代わった。焦慮して再び唱えるも結果は同じ。

「図ったな!?」

「何も」

 憤慨したスパークにルジェは軽く眉を上げて否定した。どちらも重度の負傷者であるのに、ルジェばかりがふてぶてしい。スパークの行動を阻止する策を常に持ち合わせていた。彼は淡々と終止符を打つべく勧告を促した。


「さぁ、名を……」



 この男に従うことは不服だったが拒んでいるうちにもしもこの男が死んだりでもすれば自分は生き地獄の中に取り残されてしまうことになる。無念だが……

「私の名はキュラーゼ」

 スパークの口からその魂の名が告げられた。彼はルジェの指示に従い、両膝を突いて平伏し、神への懺悔の意を表した。その傍らでルジェは、瞑目しながら静かに聖句を読み上げる。

「……キュラーゼよ、これで天上界に昇る死者の名簿に汝の名は刻まれた」

 この世に生れ落ちた者は皆、その名を天上界の名簿に刻まれる。名を持てない者もその記録を司る天上人から授けられた名が代わりに刻まれ。しかし魔道に堕ちた者は、その名簿から名を外され、死んでも天上界へ行けず、成仏できなくなってしまう。そのためこうする必要があったのだ。

「汝にかけた呪術を解く」

 スパークの目を見据えてルジェが言った。その意思を確認するように言葉を続ける。

「このまま昇天するか、その前に何か言葉を遺すか」

 疑問符なしで選択肢を与えた。それが彼の魔換種に対する慈悲であろう。

 スパークの――否、スパークの体に乗り移った者“キュラーゼ”は言った。

「成仏する前にもとの体に戻らせてほしい」

「わかった」

 承諾してルジェは頷くと

「神よ、お眠りください<リュ・エスト・アン・レムゥ・ジド・アルカ>」

 ナイフを抜かずに呪術を解く言葉を紡いだ。

 間もなくして、荷が降りたように体が軽く感じて、薄く口を開けたまましばし放心するスパーク。彼は自分を苛み続けていた苦の拷問から解放されると先程の呪文を唱えた。

「憑移!」

 それは魔輩が編み出した禁断技なだけに、不気味な音を響かせた。スパークは口を開けて待機し、魂の移動――交換が行わる。それは形として目で見られなかったが、変化はすぐに起きた。

「ぐうっ!」

 突如スパークが発作を起こしたかのように、目を剥いて胸を押さえたのである。地べたに突いていた尻が一瞬浮き上がった。足首から下の切断された両足の尋常ではない痛みも同時に彼を襲う。一瞬にして全身が汗に濡れた。

「まったく、お前はほんと、酷すぎるぜ……」

 体の部品(パーツ)を繋いでいたネジが全て吹き飛んで、ばらばらに引き千切られたような感覚に陥る中、彼はルジェを見て笑った。愛憎の痙笑である。彼は両手を後ろに突いて、痛みに耐えながらその姿勢を維持した。

「帰ってきたか、相棒」

「ああ、帰ってきたぜ……て! 愛想ねぇなぁ、もっと喜べねぇのか? せっかくオレはお前を助けに来てやったってのによぉ……ぶつぶつ」

 悪態を吐き、不貞腐れて唇を尖らせるスパークにルジェは

「ふっ、助けるならきちんと助けて欲しかったな」

 と冷ややかに冗談を飛ばした。ルジェなりの礼句である。長い付き合いでそれがわかっているスパークは「ふんっ」と鼻で笑うのだった。

「嘘おッ!?」

 アークが驚愕の声を上げた。その小振りな人差し指が指し示すのは……

「?」

「ッ!?」

 魔換種――その姿がまさに幻となって消えていく瞬間であった。怨念に燃えていた赤い目が、醜く吊り上がった鼻が、耳まで裂けた口が、時を遡るかのように普通の人間の姿に戻っていく。巨大な虫を想起させる体躯は縮小し、両腕の鎌が形を変え、先程までの威圧感と憎悪を醸し出していた魔換種の姿は彼らの記憶の中に残像として残るだけとなった。

「わあぁ……」

 アークの口から今度は驚嘆が漏れ

「へぇ〜」

 スパークは関心を示す。

 魔換種は見事に変貌を遂げ、誰が見ても人と分かる姿になっていた。女性である。頭頂部で髪を纏め、まだ若いようだ。地味な色のブラウスにスカートという質素な出立ちから、身分は低いほうであるということが窺える。彼女は腰の前で手を重ね、誰というわけでなく、しかしそこにいる全員に聴かせるように言った。

「私の話を聞いて」

 その声が静寂の中に細い波長を描いた。か細くも凛と澄んだその声には、聞き逃してはいけない気にさせる神聖な響きがあった。

「私には将来を誓い合った人がいた……」

 彼女は隣村から物資を運送しに来ていた青年と結婚の約束を交わしていた。出会ったのは彼女が十六、彼が十七の少年の頃。彼女は農家の者ではなかったが、定期的に訪れる彼を村でよく見掛けることがあった。興味魅かれて彼女が声をかけてみると、歳も近いことが分かり、二人はすぐに親しい間柄になれた。

 やがて二人は恋に落ち、仕事の合間に逢引するようにまで発展した。

 深まる愛。しかし彼女はこの村の娘。彼は他村の者。その二人が結ばれることを親は許してくれるだろうか。彼女は不安だった。両親は、健康で働き者の男性と結婚してくれることを望んでいた。その条件に彼はぴったり当てはまる。しかし大きな問題があった。それは、彼には財産と呼べるものがないことだった。

「そんな奴に大事な娘はやれん!」

 彼女の父親の厳しい反対に遭い、結婚の道は閉ざされてしまった。しかし彼は彼女にこう言った。

「キュラーゼ、オレが貧乏なせいで結婚させてもらえなくてごめん。でもオレは諦めない。これからもっと働いて家が持てるようになったら、もう一度君のご両親の所へ行く。そして許可をもらったら、結婚しよう」

「……」

 二人は結婚することを誓い合った。それはいつになるか分からないことだったが、彼が言ってくれた言葉が彼女を希望で満たした。そして二人はそれからも人目に付かぬ納屋などで逢引を続け、両親には内緒で愛を育んで行った。

 しかしその幸せは永くは続かなかった。

「その幸せは…」

 “キュラーゼ”の声が沈んだ。虚空を見詰める目が、蓄積された憎悪の暗色に澱んでいく。

 密会している所を誰かに目撃されていた。そしてそのことが彼女の両親の耳に入り、激怒した父親は罰として、娘に家から出ることを禁じたのだ。堪らなくなったキュラーゼは、父親が仕事でいなくなる昼間、母親の目を盗んでこっそりと家を抜け出した。そして彼の荷馬車を見付けると積んであった藁に身を隠して、そのまま運ばれて行ったのである。いつしか眠りに着いてしまっていた彼女が目を覚ましたのは荷馬車が他村に到着してからのことであった。車体が揺れた衝撃で目を覚ますと、積まれていた物資や藁が降ろされ、それと一緒に彼女も地面に落下した。その時、地面に頭を打った彼女は脳震盪を起こしてしまった。しばらくそこに放置され、やがて草や家畜の臭気を感じて目を覚ますと自分が草の上に倒れていることがわかった。それからふと人の話し声を耳にして彼女は立ち上がった。男性の声だった。もしかしたら彼も近くにいるかもしれない! 彼女は夢中で駆け出した。前方に人影があり、その顔は黄昏に霞んでいた。しかし彼女の意識は真っ直ぐにそこへ向かっていた。まず彼の顔が見たかった。

 黙って家を飛び出して来た。これからのことはまず彼に会ってから、それから考えるつもりだった。

 ――それが運命の別れ道であった。

 彼女はそこで前途を断たれてしまった。この時不運にも、雑草を刈っていた鎌に足を取られてしまったのである。少女の細い足を草刈り鎌の鋭い刃は容赦なく抉っていた。両足のふくらはぎから脛にかけて。脛の皮が裂け、刃の切込みが入ったふくらはぎは半ば切断されたようになり、朱に染まる肉のその下の白い骨を剥き出しにした。転倒して泣き叫ぶ彼女の側に草刈りをしていた中年の男性が駆け寄り、付近にいた村人たちも集まって来た。この時彼女の顔を見て「どこから来たんだ?」という質問に、彼女は答えられなかった。この状況でもそれは言えなかった。父は彼女を許しはしないだろう。こんな時でもそんなことが脳裏を過ぎった。しかしそこに彼女を他村で見掛けたらしい人間がいて、すぐに素姓はばれてしまったが……。思わぬ災難に遭ってすっかり混乱してしまったキュラーゼは、もうどうしたらいいのか分からなくなっていた。不安と痛みで、涙と震えが止まらなくなる。その少女を尻目に、大人たちが声を潜めて話し始める。

「……って、あれだろ?」

「まずくないか、あんな怪我させちまって」

「どうする?」

 彼らは皆、厄介者を見る冷ややかな目でキュラーゼを見ていた。やがて話し合いを終えた村人たちが少女のほうを向き、近付いてきた。と、キュラーゼの記憶はそこで一旦途切れている。

 そして次に気が付いた時、彼女がいたのは薄暗い小さな部屋の中だった。室内には男性が一人いたが、目を覚ました彼女を見ても気遣う様子はなかった。彼は窓際に立って半分閉めたカーテンの隙間から外を覗き、まるで見張りをしているようだった。

「ここはどこ?」

 彼女が問い掛けても答えようとしない。

 彼女は不安になった。体がだるい。なんとなく頭部に鈍痛がするので触れてみると、

 痛い! 何これ? 後頭部に大きなこぶができていた。そしてぼーっとしてくる頭を動かし、ふとあることを思い出した。そうだ、私は足に怪我をしてたんだわ! そして彼女はおもむろに視線を足に移動した。すると

 ああ――! 表現するに耐えないものを見てしまった彼女は愕然として顔を歪めた。両足の膝から下の部分を包むように、無造作に包帯が巻かれていた。それが血と薬液だろうか、濁った赤や黄色の染みを作っていた。そして痛みは患部だけではなく、太股にまで広がってきていた。この焼けるような熱さと鋭利な刃物に押しつけられたような痛みは何だろう? 負の思考が彼女を満たし始めた。痛みの浸食に飲まれていく自分の姿が目に浮かんでくる。助けて――!

 彼女は発狂したように叫んだ。それを「うるさい!」と男性が叱責し、容赦のない平手打ちを振るった。頬を打たれた彼女が張り倒されてマットに沈む。

 それから度々、他の村人たちがその部屋を覗きに来た。そのうちの一人が彼女にこう言った。

「明日、医者を呼んで来てやる」

 それだけ告げてその中年男性は出て行ってしまい、今度は別の男性と彼女が部屋に残された。

 見張りの男性はまた窓際へ行った。そこから外を覗いている……

 いや、違った。男性は息をするのも耐え切れぬように、細く開けた窓から外気を吸い込んでいたのである。

 キュラーゼは美人ではなかったが、醜女ということもなかった。やつれはしたものの原形は止どめている。なのに何故。彼女にだんだんそれが分かり始めてきた。彼女の周りを蠅が飛び回る。何度手で追い払おうともまとわりつくように。腐敗物に群がる害虫が。

 その日、医者は来なかった。彼女は不可解な熱を出し、ベッドの上でうなされ続けた。そして翌日、ようやく村人が連れて来た医者に診てもらうと壊疽を起こしていることが判明した。後処理が災いしたと言う。傷口をしっかりと洗浄せずに放置したため、黴菌が繁殖してしまったのだ。「切るしかないのか」という村人のぼやきに医者は沈黙する。もう手遅れだ――ということらしかった。医者が痛みをやわらげるための劇薬を出していなくなると、それを見計らったように村人たちは抑えた声で会話を始めた。

「ただの切り傷じゃなかったのか〜?」

「でも骨が見えてたぜぇ」

 緊張感のない若者たちの声。

「早く帰してやればよかったなぁ……」

 男性の軽薄な低声のぼやき。

 すると誰かが威圧的に念を押した。

「いいかみんな、このことは絶対誰にも喋るなよ。もし誰かにしゃべったら……わかってるだろうな?」

「しゃべったらどうなるんだ?」

「村から追い出す。または……“消えてもらう”」

 そう言った男性が誰かを懐疑した。

「どうしたニッカ?」

「……」

「そいつ嫁に勘付かれたらしい。まだしゃべってはいねぇみてぇだけど」

 誰かが告げ口し、男性は憤慨した。

「嫁に勘づかれただと? 馬鹿野郎! 女は口が軽いんだぞ、分かってんのか!?」

「ああ、だから悪かったって……!」

 ニッカという男性が泣き声を出し、叱責した方は疲れたように深く息を吐き出した。

「ったく……じゃあ、嫁がその勘付いたことを人に言い触らさないことを願うんだな」

 ああ、それから。と彼は付け足した。

「とくにグラヌスには知られないように注意しとけ。あいつは……」

 キュラーゼに向かって顎をしゃくると、「ああ」と理解したように皆頷いた。



「それから残酷な日が続いたわ。まともな治療なんてされなかった。時々痛み止めの薬を飲ませるだけで放置され。口には布を当てられていた。叫び声が外に漏れないように。後から窓も何かで塞がれた。だからその部屋は一日中暗くて、昼も夜も分からなかった。何日経ったのか、自分が何日間生きていたのかも分からない」

 暗闇の中での孤独死。 

「私が死んだことを誰も知らない。彼、グラヌスさえも……“あの男たち”意外は」

 彼女の遺体はこの件に関与した数名の村人らによって極秘裡に処分された。彼らは遺体を村外れの山林へ運び、地中に埋めた。そこは不気味な虫の化物がいるとして、昔から近隣に住む人々に忌避されてきた場所だった。近付く者はおらず、遺体の隠し場所にはもっとも適していた。死体を遺棄した者たちはすっかり安心しきっていたであろう。

 しかしそれでは終わらなかった。土の中でその遺体は、彼女の魂は息づいていた。深い憎念が山林を包む負の波動に共鳴する。

 そこに悪魔が舞い降り、彼女に向かって囁いた。

「取引をしよう」

 その姿は確かにあったが、何故か記憶することができなかった。だが声の悍ましさだけは覚えている。


 自分を死に追いやった男らに復讐を。

 若く尊い命は

 希望を見出した日々は

 永久に砕かれた。

 あの男どもを許すべからず。


 悪魔の囁きが負の思考へと彼女をいざなう。

「契約を交わせば、お前に力を与えてやる」

 彼女は復讐を強く望んでいた。

 同じ苦しみをあの男たちに……

「さぁ」

 悪魔が手を閃かせ、開いた書物を彼女に向ける。それは魔界の名簿であった。記名すれば魔力を持った体に再誕できるという。怨恨に燃える彼女に躊躇いはなかった。彼女はその名簿に自分の名を記し、悪魔の契約が成立した。


 数日後の晩それは起こった。山林の地面を激しく隆起させ、地上に何かが出現する。それは一つの誕生であった。それは人ではなく、また獣にも類をみない形状をしていた。光る眼は赤く、地獄の業火のごとく。雲に隠れかけた月の細い明かりを反射させ、孤を描く銀線が下部に閃く。雲が流れ月が全貌を現した時、悲しい咆哮が空に木霊した。


「変わり果てた自分の姿を見て、私は泣いた……」

 甦った彼女は、もはや人ではなくなっていた。顔面頭部は残されたものの、赤く光る双眸は人間のものとは言えない。その光が放つのは魔物の妖光であった。他の作りも皆、全てが醜い化け物の姿。

 彼女は悪魔の契約の恐ろしさをこうなってようやく思い知った。悪魔が言った『力を与える』その意味は、彼女を魔物に変えるということだったのだ。しかし人から魔物へと変貌し、魔換種となってしまった彼女に残された道は一つしかなかった。彼女は復讐の鬼と化し、村に降りて行った。



「こうして私の復讐は始まった」

 怪我の恨みからか彼女の両腕は、巨大な鎌となっていた。彼女の両足を抉ったそれよりもっと剣呑で凶悪なる武器に。それでの男性たちを殺害しようと試みるが、その道中また悪魔の囁きが聴こえてきた。


 あの男どもを殺すだけで満足できるのか? 

 その鎌のもっといい使い方を教えてやろう。

 まずはそれを使って奴らの両足を切断する。そして倒れた者の頭に……

 悪魔は彼女にもう一つ機能を授けたことを伝えた。


 ――奴らの脳味噌を喰らうのだ。


 その機能とは……


「それは人間の脳味噌を吸引する機能だった」

 彼女の開いた口の奥から何かが出てくる。それは先端が針のように尖った管とおぼしき器官であった。その姿はやはり不気味で人外のものに違いなかったが、それを見せる彼女の顔はあまりに哀れで痛ましかった。嗚咽を上げ、眼に悲愴の色を滲ませながら、彼女はそれを口内に引っ込めた。

「悪魔はこう言ったわ。この体は人間の脳味噌から養分を吸引することで生命を維持することができる。そして悪魔は、脳味噌を吸われて空になった髑髏の魂を行き先の無い死者の亡霊として魔界に連れていくと」

 彼女はそれを実行した。自分に死をもたらした憎き男たちを夜毎、見付けた者から順に襲い。両腕に備わった巨大な鎌で彼らの両足を雑草のように刈り、切断し。ほぼ胴体だけになり地面に転がる様を虫けらを見るような眼で見下ろし、逃れられぬ死に怯えさせる。そうして恐怖と無力感で満たしてから、その頭部に向かって口から出した管を伸ばす。卵の殻を割るより簡単にその先端が頭蓋骨に穴を開け、内部に到達する。そして後はただ養分として脳味噌を吸い取るだけ。どろどろとした感触が管を伝う。それは心地よかった。味は分からなかったが、食事では満たすことのできない欲求が満たされていく。吸引が終わると彼女は言い様の無い優越感に浸れた。この至福が膨張したような高揚感は復讐を成功させたからだろう。そう思っていた。しかしその高揚感は、その行為を重ねるごとに高まっていき、男たちを全員殺し復讐を果たした彼女は、尚もその高揚感を欲するようになっていた。同時に思考が凶暴性を増していく。

 そして悪魔から彼らの葬儀の模様を聞かされた時、彼女はさらに憤慨した。

 ――この村の人間は惨い死に方をした少女の存在に気付かぬばかりか、その少女を死に追いやった男たちを弔い、悼む涙を流すのか?

 それは村人全員に対する怒りにまで発展していく。


 知らぬことは罪深きこと。

 それは死に値する。


 悪魔の囁きではなく、それは彼女自身の心の声だった。邪悪で凶悪な概念が芽吹き、次第にその思考が彼女を支配していく。


 分からぬ者には死を持って知らしめてくれよう。

 私が害されたように足を斬り。

 気付くまで……


 彼女の無差別な惨殺劇が幕を開けた。


 彼女は夜が更けると徘徊するようになった。魔換種の眼は光を苦手とする。昼間の太陽光の下では眼が眩み、活動できなかった。一方夜はその闇が人の視界を閉ざし、彼女の存在を隠してくれる。闇は彼女の味方だった。

 彼女はまず村の農作物を食い荒らした。そうして獣の仕業だと思い込ませ、村人をおびき寄せる。荒らされることに耐え兼ねた村人はすぐに策を講じて夜間その場所に見張りを立てた。そうしてやって来た人間を彼女は惨殺する。仕留めるのは簡単だった。獣を撃退するために桑や鋤などを振り回す人間など彼女の敵ではなく、それが数人なら尚のこと。彼女は容赦せず、来た者全てを殺るだけ。

 そのうち彼女の体に変化が生じた。新しい能力が開花したのである。脳味噌を喰い続けたからでは? と尋ねるが、その心の声に悪魔はただ笑うだけだった。

 そして彼女の“狩り”は進化した。

 音も無く地中を移動し、地面の下から飛び出し“獲物”を刈る。大地が割れ砕ける瞬間は音を発するが、それも一瞬のこと。獲物がその音に気付いた時は既に遅く、両足を鎌に切断され地面にずり落ちるそこから上の体。地面から仰ぐその表情は恐怖に固まり、その頭部に彼女が管を刺す。鋭利なその先端が頭蓋骨を貫き、内部に詰まる脳味噌を吸引する。(後に習得することとなる彼女の得意技――魂を入れ替える術は、彼女の強い怨念が作用し、編み出した技である)

 するとそこに群がる者が現れるようになった。闇中で赤く光る眼は、彼女と同じ魔換種の証。しかし彼らは彼女より下等で、特殊な能力を持たなかった。獣の四肢に限り無く獣に近い人の顔を持ち、人語を解せるがほとんど話せない。その彼らも人間の脳味噌を食したが、頭蓋骨に穴を開ける能力はなく、彼女が脳味噌を吸引して穴のあいた頭部から、その残りを貪るだけだった。彼らはそれにあやかれると思って寄り集まって来たのだろう。卑しいとは思ったが、自分と同じく魔換種である彼らを追い払う気にはなれなかった。そうなるには怨恨が充満した、呪われた過去があることを彼女は知っている。自らの力で欲する物にありつけない不憫なこの同族に、彼女は同情さえ覚えた。そんな日が続き、しだいに村からは働き盛りの男女がいなくなっていった。残されたのは年寄りや子供ばかり。味を感じるわけではなかったが、年寄りの脳味噌を食するのはあまり気が進まず、また子供の脳味噌を喰うのも好ましくなかった。しかし鈍感な村人たちに慈悲を与える余地はなく、彼女は住民の脳味噌を喰い尽くし、村を全滅させてやることを決意した。



「それがようやく阻止される日が来た。私はどこかでこうなることを望んでいたのかもしれない」

 嘆きと喜びを込めてキュラーゼは言った。天を仰ぎながら見詰めるのは呪われた日々か。それとももっと遠い、穏やかな日々か。その瞳は、夜空の漆黒に濡れていた。

「これでも私は天国に逝ける?」

 彼女は声を震わせた。怯えるように、そして悔いるように。罪の重さを自覚したのだろう。人の心を取り戻した彼女は儚かった。

「それは天上の神が決めること。汝はその裁きに従うのみ」

「そう……」

 彼女は静かにルジェの言葉を受け止めた。声から力が抜け、だが安堵した笑みを浮かべながら。天上界へ向かう死者の列に参列できるだけでも感謝しなくてはいけない。その後どんな運命が待つか……それも覚悟して。

 離れる時が来た。

 ルジェがその句を読み上げる。

「浄化されしキュラーゼの魂よ。今こそ、天に召され賜え!」

 少女キュラーゼの魂が昇天していく。彼女の姿は瞬く間に薄れ、残像も残さず消えていった。それはまるで夢の後。輪郭のない像だけが記憶の片隅に残る。確かに出会った。だが居たはずの所には彼女の居ない開かれた景色だけが見える。その光景を眺めてアークは、悲しいのか、それとも嬉しいのか分からない不思議な感覚に浸っていた。すると

「ルジェ!?」

 バドが叫んだ。力尽きたルジェが肩から頽れる。その体を支えていた剣は手が離れても尚、地面にしっかりと突き刺さっていた。彼は立つこともできない体で、地を這い前進した。

「悪いがお前もオレももう助からない」

 自分の前まで這ってやって来たルジェを見てスパークは笑い、「ははは」

 笑いながら自分も地面に倒れた。二人は足を逆にして向かい合うように頭を並べ、会話を始めた。心配して駆け寄ったアークは、傍らでバドとその様子を見守る。

 スパークが言う。

「お前がオレに詫びるなんて初めてだな」

「そうだったか?」

「そうだったッ!」とスパークは強調した。

「だいたいお前はいっつもオレにだけ冷てぇし、扱いが雑だし……ぶつぶつ」

 むすーっとした顔で悪態を吐いて不貞腐れるが

「じゃあこれからはもっと優しくすればいいんだな」

 とルジェが言うと動揺したのか、スパークは落ち着きなく瞬きして眼球を動かした。

「お、おぅ……そう言われると何かドキドキするじゃねぇか。あ、でもお前の“優しく”は優しくねぇか……」

 つい先程まで地獄絵図のような展開を繰り広げていたというのに、二人は和気藹藹として和んでいた。画的には相当悲惨なのに微笑ましいのは何故だろう。この異色のコンビを見ていると、命が燃え尽きようとしているのが嘘のようであった。

「オレと出会わなければもっと長く生きられただろうに。お前も運が悪いな、スパーク」

「馬〜鹿、その逆だよ。オレはなぁ……っお前となら、あの世でも地獄でも魔界でも行けんだよ!」

「ありがとう」

 相棒から力強い言葉をもらってルジェは微笑んだ。幸福そうに。そして手を伸ばし、スパークの胸に刺さったナイフの柄に添えた。

「また逢おう」

「ああ、またな」

 答えてスパークは瞼を閉じた。 

 するとルジェは歯を食いしばり、残っていた全ての力を注いで、一気にそのナイフを引き抜いた。そして安堵の息を漏らすとともに、脱力してまた地面に頽れた。

 そしてスパークは動かなくなった。だが眠っているだけなのか死んでしまったのか、アークには分からなかった。彼はただ茫然としてその光景を眺める。その肩にバドが手を乗せていた。

 動かなくなった相棒の傍にルジェは身を寄せた。血糊で汚れた髪に指を滑らせ愛撫する。愛おしそうに。そして頬を寄せると上から被さるように顔を近付けた。それは接吻したように見えた。

「すぐに後を追う」

 顔を上げ、そう告げてから彼は、スパークの隣りに倒れこむようにして仰向けになった。スパークの血糊が少しその顔に付着していた。その体勢で視線だけ向けて彼はバドを呼んだ。

「何だ?」

 呼ばれたバドが傍へ行き、膝を突いてしゃがみ込む。アークも駆け寄った。呼吸が弱まって消え入りそうなルジェの声を聞き逃さないように、バドはしっかりと顔を見詰めて耳を澄ます。アークも一緒に。

「この中には、僅かだがまだ邪気を放つものが残っている……オレが死ぬ時、そいつも一緒に連れていくから……魔包囲は、それから解除してくれ……」

「“連れていく”って……どこに?」

 バドが怪訝そうに眉根を寄せるとルジェは「ふふ」と含むように笑った。

「ちょっとした寄り道をしていく。“魔界”に……」

「魔界――――っ!?」

 叫んだのはアーク。バドは驚愕に目をみはった。

「それならオレが始末し……!」

「……」

 ルジェが手を上げてバドの言葉を遮る。彼は否定するように静かに頭を揺らした。

「オレに任せてくれ」

「……」

 バドの表情がやりきれない思いで悲しく歪む。それを宥めるようにルジェは優しく微笑みかけた。

「大丈夫、危なくなったらきっと“あいつ”が来てくれる。

 それが――“魔界”だとしても……」





 ルジェは旅立っていった。邪悪なものを道連れにして。

 バドは彼の遺言に従って行動し、この闘いは幕を閉じた。



 それから帰宅した日、アークを災難が襲った。後遺症とも言うべきか幻覚が見えるようになり、間もなくして彼は寝込んでしまった。魔物狩りに行った日の記憶がしっかり脳裏に焼き付いてしまい、その時経験したことが鮮明に甦ってはうなされるというのを繰り返す。同時に高熱を出し、医者にも看せるが薬で治るものでもなく、その症状が幼い少年アークの体力をみるみる奪っていった。バドやゲアンは何もしなかったわけではなく、魔法での治療を試みたが効果は得られなかった。医者は匙を投げ、手に負えなくなった二人は危険と知りながらも海を渡り、遥か遠い地で暮らしている師の下へとアークを運ぶことにしたのだった。

 その途中の海上で彼らは奇跡に出くわした。偶然にもその周辺で彼らが会おうとしていた師、その人が乗る船が漁をしていたのである。弟子たちは手を上げて歓んだが、実はそれは奇跡でも偶然でもなかった。そして師にこっぴどく叱られるのであった……

 師フォガードは弟子たちが助けを求めているを感知して、彼らがそこに来ることが分かっていて船を出したのだ。漁はそのついでである(?)

 アークの治療は船上で行われた。急を要した上に、その時彼らの船は海岸から離れた海上のど真ん中におり、そうするしかなかったのだ。船と船をロープで結び、フォガードが弟子たちの船に移動した。生死を彷徨う少年アークの頭部に手を当てるフォガード。彼が使ったのは記憶操作の魔術であった。それは高い精神力を必要とし、魔法の熟練者であっても極めて成功率の低い、危険な魔術であった。失敗すれば患者は精神が崩壊し、最悪の場合、昏睡状態に陥ってしまう。不安で押し潰されそうになる弟子たちではあったが、彼らは師に期待する。願をかける。“フォガード”なら治してくれる! と。彼らの師に対する信頼度は高かった。離れていてもこうして弟子たちの行動が読める人だ、人知を越えている。そう、彼はきっと“千里眼”に違いない! そんな感じで……


 そして治療が終了した。アークの運命やいかに?

 もちろん無事だったが……

 アークの頭の中にはまだ悪夢が記憶として残っている。フォガードが行った記憶操作は、その記憶を消滅させたのではなく、それを客観視できるように過去の記録・経験として分別し、さらにそこから甦る精神失調を来すほどの激しい恐怖心を緩和させたのだ。消去してしまうことは、今後バドやゲアンとともに生きていくアークのためにはならないとして――意味深げである。そして今アークはというと……

 アークは今、バドの帰りを待っていた。彼の中の勇者を。真の危機が迫った時、救世主は現れる。それが今だ。先生が死んじゃうかもしれないよ……バド、早く帰って来てぇぇ〜〜〜〜! と彼はテレパシーを送った。フォガードにあるような――第六感をバドにも期待する。もしくは奇跡か偶然に。


 同じ頃そこから半日とかからずに行ける場所に、馬に乗って沃野を走る若者の姿があった。バドである。彼は焦茶色の髪を風に靡かせて、大地に馬蹄の荒々しくも軽快な律動を刻んでいく。その姿はまるで魔王にさらわれた姫を助けに行く勇敢な若者――のようであったが

 その顔に浮かぶのは不敵な笑み。馬上で彼の思考を満たすのは、キュラリー河で起きたあの変事のことであった。そう、彼は既に知っていた。アークの声が聞こえたのか? いや、そうではなく

 彼は――“風”に聞いたのだ。




あれ? 勇者ってルジェだっけ…みたいな感じになってしまいましたが(違う~!)一応アークはバドに守られ、助けられ~だったので、そこは寛大な心でお許しを(苦笑)

次回ぐらいから内容をダークにしていくつもりです。

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