プロローグ
――父ちゃん! 母ちゃん! これ欲しい!
――ん? お前がねだるなんて珍しいな……手裏剣?
――雄介の好きなアニメのおもちゃよ……高いわね……。
――まあいいじゃないか。よし、買ってやるぞ雄介。
――やったぁ!
幼い頃の思い出が蘇っていた。まだ父と母と、三人で暮らしていた頃の思い出。
――かっけー! 俺もいつか……
しかしそれも終わりだ。現実逃避にしか過ぎない。
「……おっかしいなぁ、こんなはずでは」
少年は空を飛んでいた。正確には落下中だ。この少年の名前は猿飛 雄介(さるとび ゆうすけ)。埼玉県内の公立高校に通う高校二年生である。
身長172センチの体重58キロ、黒髪の短髪で、良くも悪くも普通の顔立ち、目つきは若干悪い。
これまでの人生では少し変わった経験をしてきたが、現在は少しばかり学力がアレで、己の欲望に忠実なただの高校生だ。
そんな彼がこんな状況に陥っているのには訳がある。それはコンビニのバイトが終わり、帰路に就いている時の出来事だった。時刻は遡る。
「ふう、疲れたっと」
雄介は学校の帰りに直接バイト先に寄っているので、学生服を着ている。何の変哲も無い学ランで、中には白いYシャツ、さらにその下には黒いタンクトップを着ていた。
季節は秋。めっきり冷えてきたことに愚痴を漏らしながら手を擦り合わせる。
「最近急に冷えてきたな。帰ったら何するか……風呂の準備かな……」
雄介は5歳の時に両親が行方不明になり、それからは父方の祖父と二人で暮らしてきた。家事は幼い頃は祖母がやってくれていたが、病気で他界してからは雄介の仕事となっている。
(心も寒い……天空から美少女でも降って来ねえかな……ん?)
道のど真ん中に派手な落書きがしてある。雄介が現在通っている道は狭い一本道で、車は一台ギリギリで通れるくらいの幅しか無かった。
この時間はほとんど車が通らないので、近づいてよく見てみると魔法陣のようだった。子供が落書きしたにしては本格的過ぎる。
雄介は床に鞄を置き、ペタペタと触って確かめてみた。
「へぇー! すげえ本格的だ!」
しばらく触って確かめていたが、当然何も起こる気配は無い。やがて飽きたのか立ち上がると、雄介は家に帰ろうと鞄を持つ。
「さて! さっさと家に……!?」
すると足元の魔方陣が光輝いた。尋常じゃない光量に雄介は焦り、戸惑った。このままじゃまずいことになる。そんな気がした雄介は咄嗟に魔方陣から出ようとするが……。
「……おおう……動かない……」
雄介の足は何かに掴まれているかのように、全く動かすことができなかった。そしてこの状況で雄介は逆に冷静になってしまった。
「動かせない……先日告白して見事玉砕した、クラスのマドンナ佐藤さんの心のようだ……あ、俺上手い事言ったかもしれん」
そんな言葉を残し、バシュン! という音と共に雄介はその世界から姿を消した。もう少し何かなかったのだろうか。
そして……。
「人ってこういう時、意外と落ち着いてしまうもんなのかね」
今に至る。周りを見渡せば青い空が広がり、白い雲が流れる。先程まで魔方陣の上に立っていたはずなのだが、気が付けば空を飛んでいる。あまりの急展開に雄介の頭は追いついていなかった。
思わず持っていた鞄は手放してしまい、遥か彼方だ。普通なら慌てふためくところだが、この男は一周回って逆に冷静になっていた。
「……落ちてるな。すごい落ちてる。まるで近所の美人のお姉さんが実はニューハーフだと知った、あの時の俺の気分のようだ」
グッバイ俺の初恋、と落ち着いてみせたがこのままでは確実に死ぬだろう。雄介はそれまでの人生に想いを馳せた。そして、
(……あれ? なんか俺の人生しょっぱくない? もっと甘酸っぱい思い出無かったっけ?)
と、そんな後悔を始める。
「このまま死ぬのは嫌だ! 俺は死ぬなら女の子の胸の中って決めてるんだ!」
そこまで叫んだ時ふと閃いた。
(いや、これは夢なのでは? さすがにこの状況は無いでしょ……そうだ! 夢だ! 明晰夢ってやつか初めて見た!)
雄介は都合の良い思い込みを始め、拳を固く握り締めた。だが風は冷たく感じるし、感覚はしっかりしている。やっぱり夢じゃないのでは、と頭の中をそんな考えがちらついた。
(いや待て! 夢でも痛かったり寒かったりすることあるし!)
雄介はポケットの中に入っていたガムを取り出し、落とさないように慎重に包み紙を剥がしだした。
(夢だったら使える……よな?)
どこかは知らないが上空で高度はかなりのものだ。猛烈に寒く、手がガチガチと震える。それでも落とさないように集中して包み紙を剥がし、丁寧に口に運んだ。
それからもう一度己の人生を振り返る。彼にはずっと憧れていたものがあった。叶わない夢なのは知っている。だが未だに妄想だけは続けていた。
――俺もいつか……かっこいい忍者になるんだ!
――そうか、なら頑張って修行しないとな!
――あ、雄介! 走っちゃだめよ!
大好きだった忍者のアニメ、親におもちゃを買ってもらった思い出、憧れの主人公。映像を切り取ったようにそれらが頭を駆け巡る。
体の震えはいつの間にか止まり、冷えた体が自然と熱くなっていった。
夢とは言え、憧れの忍者になれる。雄介の胸は期待に膨らんだ。そして子どもの頃からずっと思い描いていた、オリジナルの忍法を発動させる。
「ムグムグ……ひんほぅ! 『めぅへにっふ・はぅーん』!(忍法! 『めるへにっく・ばるーん』!)」
その瞬間、ガムは大きく膨張し、雄介は本当の意味で空を飛んだ。今は巨大な風船ガムに口でぶら下がっている状態だ。
忍法『めるへにっく・ばるーん』
雄介が小学校三年生の時に考えた、全部で十ある忍法のうちの一つ。考案が小学生の時と言えど、このネーミングはいかがなものか。
これを使えばガムや風船など、膨らむ物があればそれで自由に空を飛ぶ事が可能。重力や媒体の強度は完全無視、念じただけで風が無くとも移動できる優れた忍法だ。だがわずかに欠点もあった。
(い、息がぁぁぁ!!)
ガムの場合、口を結べないので絶えず膨らまし続けなければならない。巨大化した風船ガムに必死に空気を送り続け、雄介の顔はひどい事になっていた。むしろガムより顔が破裂寸前だった。
(何このリアリティ!? ぜんぜんメルヘンじゃねえし!!)
締まらない。先程までの良い雰囲気をぶち壊しながらもそんな事を数分続け、鳥に突かれたり強風に煽られたりしながら、ようやく雄介は地面に降り立つことができた。
「ぐへぇぁ! うぇ! ゲホッゲホッ! あー死ぬかと思った!」
辺りを見回すが一面砂漠で、人の気配がまるでない。
「……誰もいません……よね?」
当たり前だが返答が返ってくる事はない。
「おぉ……なるほど。こういう夢か」
このままでは埒があかない。そう判断した雄介は、見知らぬ地に降り立った不安と未知への好奇心を胸に旅立った。
そして二日後
「……あるぇ? これ……やっぱ夢じゃないよね?」
現実逃避していただけで最初から気づいていたのだが、そんな事をうわ言のように呟く。雄介は干からびる寸前まで追い詰められていた。
「ってか……『めるへにっく・ばるーん』使えばもっと早く移動できた。なんで気づかなかった俺……」
浅はかな男である。しかも今からの使用は不可能だ。もう口の中も渇き、唾液すら出そうにない。ガムを膨らませる事などできないだろう。
「疲れた……あと二日前から独り言ばっかりだ……誰かと会話したい……」
砂漠は昼は凄まじい暑さだが、夜になると急に冷え込む。眠れずに二日間歩き続け、体力的にも精神的にももう限界であった。
さらにそれから歩くこと三十分。もうだめかと思われたが、雄介の前に森が見えてきた。
「あ……あれは……!!」
蜃気楼という訳でもなさそうだ。森ならばどこかに水場があるかもしれない。雄介はその森に最後の力を振り絞って駆けていった。