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「藍苺と林檎まで伸びたレール」

作者: 紅島涼秋

 ちらつく雪を遮るビニール傘を差して、ポロポロ崩れるパイ生地と苦戦していた。大学の他の建物からちょっと距離のある図書館傍のベンチは、俺が座ってるところ以外は雪で濡れてしまっていて寒い。通りすぎる大学生たちが奇異の目を残して立ち去っていく。本を借りるためにわざわざこんな寒い中ここまで来るとはご苦労様だと頭を下げたくなる。

 ビニール越しに見た灰と青の入り混じった寒空は、焼けたりんごよりも透明だった。黒いコートの上に落ちたキツネ色の細かなパイ生地と雪の華が混じっていく。雪の華はあっという間に水へと変わり、コートにプリズムの光を吸収する道具になった。

「何でこんな寒空の下でアップルパイ食べてんの?」

 背後かけられた聞きなれた声に、発した言葉は飲み込んだアップルパイなんて比にならないくらい苦かった。

「死んだ彼女との約束なんだ。毎日、外でアップルパイを食べるって」

「嘘つき。そんな彼女いなかったでしょ。何年腐れ縁やってると思ってんの」

 眼前に回ってきて鼻で笑う彼女に苦笑いを浮かべる。二重で印象深い濡羽色の瞳は、返事をした人を吸い込みそうなほどの深度をしていた。細い輪郭に整った顔立ち、額に三角を作って分けられた薄い茶色の入った髪は肩甲骨まで伸びており、風に時折黒のコートの上を踊った。高校の時からの腐れ縁で、学部も一緒になった。違いは俺がほとんど大学に来ないのに、彼女はサークルやら研究室にたむろやらで忙しいということだろう。時折研究室で彼女が先輩たちと笑顔で話しているのを見ると、人間関係の形成を上手くやっているなと思って、そそくさと逃げ出すのが常だ。

 アップルパイがとても苦く感じられて、喉に飲み込むのが一苦労だった。

「アップルパイは嘘つかない」

「あんたアップルパイじゃないし」

 傘が彼女の傘で叩かれる。水滴が宙でキラキラ戦った。こぼれ落ちた水滴は俺の膝をさらに濡らし、風が吹くとちょっと寒い。自分の足に飛んだ水滴を彼女が拭う時みえた髪の生え際がだいぶ黒い。

「なぁ、その髪、また染めなおすんじゃねえの?」

 彼女が長い髪をひとつまみして、口をすぼめながら唸った。

「うーん。これ以上して、痛むのやだからしないかも」

「なんだ。焼いた林檎みたいに綺麗な色で似合ってたのに」

「なんで褒めんのもアップルパイ基準なんだよ」

 バンバンと傘が叩かれて、くるくると傘を回して対抗した。くるくる回る傘は幼い頃走りまわって回した風車みたいで、誰かの言で回される自分みたいだった。

「ちょ、ホントやめて。ダメージ、私のほうが大きいし」

「俺の傘、お前のせいで穴空いたし」

 しくしくと泣きまねをすると、彼女は腰に手を当ててまたもやハンッと鼻で笑う。相変わらず態度が悪い。大学入ったんだから俺に対して高校の頃からそろそろ変わって欲しい。変わってくれれば……、どうするかなと迷って空にそんな考えを投げ捨てたくなった。

「もとからでしょ」

「図書館の傘立てから盗んできたものだから、穴空いた原因がお前だったら、弁償よろしく」

「そもそも盗んでくるなよ」

「当然だろ。俺のだよ、これ。俺の目の前で盗まれそうになって、穴空いてたから結局傘立てに戻されちゃった可哀想な奴」

 クルクルと回すとまた彼女の方に水滴が飛んで、本気睨まれたので回すのをやめた。そんな睨まなくたっていいだろうに、怖い怖いと心のなかで肩をすくめる。目の前でやると容赦無く傘の穴が増えてしまう、今でもかなり限界になのにこれ以上ビニールに穴が開いたら髪の毛が真っ白に雪化粧されてしまうだろう。

 もそもそと最後の一口をのどの奥に飲み込んだ。

「そして、食べ終わりました」

「アップルパイ食べ終わるのにどんだけかかってんのさ?」

「軽く15分ぐらい? 食事ってゆっくりしたほうがいいもんだって言うじゃん?」

「だーかーら、こんな寒空の下で食うのがおかしいって言ってんじゃん。研究室か、サークル室で食べれば?」

 打倒な意見だった。彼女の視線から逃げようと、空に視線を移した。

「どっちも行きにくくってねぇ」

「ああ、しでかしたの?」

 何をだよ。まるで俺がいっつも何かしでかすかのような言い方やめてくれ。彼女は、でもなんかしでかしたんでしょ? と、にこやかな笑顔で無遠慮に尋ねてくる。

「本当に何にもしてないよ。ただ、名前覚えられなかったら行きにくいだけ」

 目をそらして告げると、なんだか楽しそうな声で返された。

「ああ~。人の名前覚えるの苦手だもんねぇ。そんなんで大学やってけるの?」

「母親みたいな物言いで心配されるいわれはない。そっちこそ、いい加減好きな事、しに行けばいいだろう。高校の時は部活に忙殺された生活してたじゃん。スポーツ少女」

 濡れたベンチの隣に座ってこようとするので、カバンの中に入れていたノートを差し出した。青色のデイバックは高校の時から使っていて、すり切れ色あせた青で彼女との関係みたいだった。

「なにそれ」

「座布団がわり。スカート、濡れるじゃん」

「ふーん。それ、講義のノートじゃないの?」

「講義より大事なモノがあるから、座布団がわりに使っていいよ。ほれ、もう置いたから今更気を使わなくて結構」

 ベンチに置いたノートはすぐさま紙の部分は水を含んだが、座る部分は大丈夫みたいだった。中身は水を吸って、もう文字は読めないだろう。滲んで見えなくなった文字は、さっき投げ捨てたようとした迷いに思えて、空に捨てるのは失敗したらしいと気付いた。そんな迷いも彼女に踏み潰されて、高校の頃と同じように消えればいいのにと、あの頃を懐かしんでしまう。

 彼女は曖昧に笑って、俺が無理やり敷いた座布団がわりのノートに腰を下ろした。そこで失礼な人は、座らないだろうなと思って笑った。

「なに?」

「ここで本当に失礼な人は、敷いたノートに座らない人だろうなって」

「うーん、確かに男がすでに実行したことを無下に断るって、よっぽど恥かかせたい人だよね」

「迷惑無視してやってるのも否定しないから、別段無下に断られても良いけどね。どうせ気が向いて全部やってるんだから」

 あんたは相手が断固拒否してるのに無理にでもさせるもんねと、彼女は笑って言い放つ。中々ひどい奴である。

 そんな彼女がカバンから何かをいそいそ取り出して、俺の眼前にかざした。はぁ? と眉をひそめると、彼女のほうがはぁ? と睨んできて、その眼力に敗けた。

「それは一体何でしょうか」

 滅茶苦茶棒読みで尋ねると、彼女はまた偉そうに胸をはった、薄いけど。殴り飛ばされるので本音は出さない。

「ブルーベリーパイ」

「ああ、売ってるもんなぁ。それ、おいしいの?」

「初めて食べます」

 袋の口を丁寧に開く彼女の手元をじっと見つめてしまう。細い指はほんのり赤く、寒いなら中に戻れやと背中を叩いてしまいたくなった。

「ブルーベリーパイって言えばさぁ、映画あんの知ってる?」

「知ってる。女が旅立つやつでしょ。つーか、無理やり貸して来て見ろって言ったのあんただからな?」

 そうだっけかと、彼女がもふもふパイ生地に苦戦しながら食べるのを横目に見ながら呟いた。アップルパイを食べてる自分と同じ姿に、目を細めた。なるほど、傍から見ると中々面白い姿だなと思う。

「あれ、ヒロインが旅立って人と出会って自分を見つめ直すじゃん。でもさ、あれってさ、帰る場所があるって無条件にあるって信じてるから出来ることだよね」

「どういうこと?」

「ふらふらどっか旅立てる人ってのは、帰巣本能がしっかりしてて、かつ帰る場所が明確になってるってこと。戻る場所があるから、出かけられるんだよ」

 寒空に鴨が列をなして飛んでいた。あの鴨たちは帰る場所があるから、冬に日本にやってくる。もし旅立つ先で居心地がいい場所に永住できた時、鳥は……。そして映画の彼女は、彼の下に戻ってきただろうか?

 映画では彼女は彼の元に戻ってきた。けれど、それは居心地の良い場所が見つからなかっただけで、傷心を癒す間に素敵な男性が現れたら、ブルーベリーパイを出してくれた彼のことなど忘れてしまい、彼女は戻ってこなかったのだろうか。

 だって、彼女の家はそこには無い。

「……そのブルーベリーパイで鴨釣れないかな」

「無理っしょ。あんな空飛んでたら、こんなの見えないよ。鳥はそんな万能動物じゃないし」

「……ああ、そうだな。例え餌があっても、それが見えなきゃここに来る理由もないし、立ち止まる理由もないんだよな」

 風が遥か上空から吹き降ろして木々をざわめかせ、彼女の髪もなびかせた。枯れ葉が俺たちの周りを通りすぎていき、濡れたアスファルトにその身を横たえ、最後の力を尽くして風に飛ぼうとしたが、濡れた枯葉にそんな力はついぞできることなく目覚めぬ眠りに落ちてしまった。

 大学生になっても、どこにだって行けない自分の末路みたいだった。

「食べる?」

 ぐいっと差し出されたかじられたブルーベリーパイを見て、白い息を空に吐き出した。

「いいよ、ブルーベリーパイは男が出してやんなきゃダメだから」

「残念ながら私は、今のところ男に浮気された果ての傷心旅行はしないよ?」

「でも、すでに男の家の鍵は持ってるんだろ? モテるんだから」

「うん、男の家の鍵は持ってるね。あんたの家」

 キーケースを取り出して、おもちゃのようにカチャカチャ見せびらかすみたい振る彼女に、唖然とした。片頬がひきつって、目尻の筋肉がピクピク痙攣しているのがわかる。

「はっ!? いや、なんで持ってんの?」

「え、ほら、パクっじゃない。借りた!」

「貸してねぇ!」

 返せとキーケースに手を伸ばすがカバンの中に隠されてしまう。ぐるるると唸るが口笛を吹いて、彼女は我関せずと言った具合に視線を逸らした。いやいや、我関せずじゃないんだよ、大問題なんだよ。

「それで、なんで持ってるんですか?」

「あんたが鍵落としたときに拾って、返すのめんどいからそのまま持ってる!」

 すげえ! なんのよどみもない。それが事実なんだと色々妥協して理解しても良いけど、色々すげえと思ってしまった。普通はやましくなくっても、本院を目の前絵にして勝手に持ってるんだからやましい気持ちになって言いよどむぞ。

「無くした。確かに鍵は無くしたさ。焦りまくって、そっちにも相談したさ。合鍵でなんとか開いたけど、見つけたんなら渡せよ!?」

「いや」

 そんな立った一言。降り積もる雪も吹き飛ばしそうな春の香りがそこにはあった。彼女の笑顔は晴れ晴れとして、さっきまで鬱々と病の雪を降り積もらせていた心の平原に雪解け水の洪水が襲ってきそうだった。

「なんで?」

「私が持ってたほうが有意義だから。だって、近々絶対あんた引きこもるじゃん。バイトもしない研究室にも顔出さないサークルも足が遠のいて。それで良いと思ってんの? 勉強だけしてたらいいなら、大学なんて来る必要なんて無いのよ」

「……大学は学び舎であって、その他しないからって何もないだろ」

 自分の声が弱々しくなって、さっきの枯葉みたいに彼女の風に翻弄されてどっかへ飛んでいってしまいそうだった。そして、彼女のきまぐれの風が止んだら地面に落ちて二度と飛び上がらないんだ。

「高校だったらそこそこ人付き合いしてたのに、なんで大学入ったらそうなるの?」

 まるで見よう見まねの心理カウンセリングを受けてる気分だった。いや、あれはこっちの愚痴をただ聞き、質問を重ねてこちらの愚痴をさらに吐かせるだけで、こんな言葉は飛んでこない。

 これはただのお説教だ。

「名前覚えてないと、人との会話って苦労するんだ。……居にくいし」

「でも、顔合わせないと名前覚えられないじゃん。だから、もっと顔出せばいいのに」

 長いため息に続いた白い息は雲間へ旅立とうとして、結局どこへもたどり着けずに霧散してしまう。自分から出る物はなんだって曖昧になって霧散してしまう。言葉だって、行動だって。

「なぁ、……俺、どっか旅行に出たら戻ってくると思う?」

「思わない。だって、あんた此処が巣だって思ってないじゃん」

 正解、内心で答えておく。きっと彼女も短い沈黙で、答えと分かったのだろう。薄い笑みを浮かべ、でしょーと頷いている。

「自分でもどっか行ったら戻ってこれる自信が無いから旅行好きじゃないんだよね。でも、どっか行って何があるかって言えば、そこに住み着くわけじゃなくて、また座り込んでるだけ」

「鳥はそんな事しないよ。そこは巣じゃないから飛び立つんじゃない? で、あんたはなんなの?」

 良い形容に迷って、お互いの手がかなり赤くなったのに気付くまで迷ってから、彼女に応えた。

「風船、かな。それももう浮かぶ余地のない風船。俺の旅はここで終わったんだ」

「はえーよ。……はぁ。もう分かった。じゃあ、旅が終わる前にブルーベリーパイを買ってきてください」

 ひらひら手を振る彼女に眉間に皺を寄せた。

「なんでブルーベリーパイおごらんといかんのだ。しかも、そっちさっき食べたばっかじゃん」

 彼女がひらりと立ち上がって俺の眼前に仁王立ちする。見下ろされて、彼女の瞳が俺の全部を見透かした気がして、深い黒の瞳の鏡を自分からも覗き込んでしまう。黒の鏡は水面を揺らめかせるけれど、魔女の鏡みたいに何かを答えてくれることはしない。目は口程にモノを言うなんて嘘っぱちだ。

 大学に入ってからも彼女は忙しいのに、気を使われてなんでここまでしてくれんだって聞くのが怖くなり、いつしか名前を呼べなくなった。そうしたら、あっちも俺の名前を呼ばなくなった。互いに名前を呼ばないのは、何の象徴なんだろう。

 いつの間にか雪が止んでいて、傘を閉じる。彼女は反して傘を閉じずに、俺がしてたみたいに傘を回していた。

 くるくる。くるくる。

 風車が回る。それを回す人の笑顔が俺に向いているのに気付いて、差し出された手は寒さで赤くなって震えていた。そうだ、彼女は寒いのが苦手だった。

「風船がしぼんだ先がブルーベリーパイのおいしいカフェなら、あんたも本望でしょ?」

「必ず売れ残ってるなぜか不人気なパイなんだけどね」

 座布団がわりだったノートは、すっかり水でボロボロになっていて、ゴミを残さないように回収しておく。彼女が小首をかしげて、その鈴の音のような声が鼓膜に届いた。彼女が歌えばきっと12月のBGMとしてぴったりだろう。

「用意する意味はあるんでしょう?」

 差し出された苺みたいに赤くなってしまった手に、自分の手を重ねる。冷たい彼女の手を弱く握った。

「愛しい人が食べに戻ってくると信じてるからね」

「で、ブルーベリーパイを奢ってはくれるのかな?」

 俺を雪で出来た海の底から引き上げる彼女が楽しげに尋ねる。俺は笑って応えた。

「いや、ここは趣向を変えて。俺がアップルパイを奢って、絵菜がブルーベリーパイを奢るってのでどうだろう」

 久しぶりにと名前を読んだ。ぶっちゃけ名前を呼ぶ時途中で噛んだ。茶化されるかと思って身構えたけれど。

「あー、そういや、悠斗はまだ食べてないんだっけ。……良いよ、それで」

 名前を呼ばれ、風車が閉じられて、風が吹いて目の前の濡れた黄色の葉が舞い上がった。

「もう水含んで、飛べなかったはずなのに」

 それでも枯葉は安住の地を求めるため、死力を尽くして飛び立った。楽しげに笑う彼女が鼻歌をしながら歩き出す。

「それ、スタンド・バイ・ミー?」

「あれも、ブルーベリーパイ食べるシーンあるんだよ。男の子が大食い大会でブルーベリーパイ食べ過ぎて倒れるシーンだけどさ」

 くすくす笑う彼女に笑った。

「俺に食い過ぎでぶっ倒れろと?」

「看病はしてやろうー」

 ステップを踏みながら踊る彼女に、手を引かれて踊らされる。雪がまたちらつき始めても、彼女は傘をささずに、レンガ模様の茶色と白色で作られたステージの上を踊る。足元をよく見ればヒールで、……なんで女性って器用なんでしょ。俺ならこけて捻挫コースだね。

「そんで、スタンド・バイ・ミーを歌ってるってことは、死体を探しに行くのか?」

「違うね。パイ生地で出来たレールの上を歩いて、藍苺と林檎の焼死体を楽しみに行くの」

「焼死体とか、食欲減退させる表現やめろ!」

 あはははと笑う彼女が自称パイ生地できたレールの上を駆け出し、手が離された。いつもなら風が止めばそこで立ち止まっていた自分の脚は、自然と彼女の笑い声を追いかける。

 真っ白な雪化粧が振るわれたパイに出来たレールの上を走り出す、藍苺と林檎を差し出すために。




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