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きみの手をとる物語  作者: 百賀ゆずは
第二章 きみに惑う
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第三節 会議(「大丈夫です」)

 ――あれはどういう意味だろう。


 さっきから考えている。答えは出ない。

 アキラには珍しく、だらりと頬杖などついて、ぼーっと一点を眺めている。


 詰め所に戻った後、ユミはお篭り部屋で、ショウコを書記に吉岡から読み取った内容をまとめている。

 それが終わったら捜査会議になるはずで、あと十分か十五分、という時間がどうにも微妙だった。

 潰し方に困る。

 いや、自分なりに事件をまとめてみるとか、有象無象の書類とか、やることはそれなりにあるのだけれど、結局手につかないのだ。


「アキラも飲むかー? 姐さんお篭りやからインスタントやけど」

 給湯所からライムが呼ぶ。

「……ああ、もらうー」

 考えても仕方が無いことは考えない、なるようになる、というのがアキラの「割と」モットーなのだが、今日はどうもだらだらしてしまう。

 午後になってもやまない雨のせいだろうか。

「お待っとうさん。一杯百万円やでー」

 ライムが机の上にカップを置いた。

「サンキュ。ツケといて」

 湯気を顔に当てながら、そっとすする。いつもより大分甘い。

「何やお疲れみたいやから、ちょいと砂糖をサービスや」

 そう言うライムが飲んでいるのは、いつも通りの無糖ブラックだろうか。

「うん、美味いよ、ありがとう」

 しばらく無言でコーヒーを飲む。

 気がつけばカスミもトウゴも席を外して、部屋にはライムと二人きりだ。

 ふと思いつく。

「……なあ」

「んー。なんや?」

 アキラはカップを置き、椅子を回してライムに向き直った。正面からじっと見つめる。


「俺、お前になら傷つけられてもいい――」


 言った瞬間、ライムが盛大にコーヒーを噴いた。

「おわ」

 予想外のリアクションだ。さすが関西人。

「アホっ……何いきな……げふっ」

 むせているようなので、ティッシュを箱ごと渡し、自分でも数枚取って拭くのを手伝う。

 幸いアキラにはかからなかったが、机の上一面に見事な霧吹き状態だ。

「大丈夫か?」

「それはこっちのセリフや! なんなんや、今日の自分おかしいで、ほんま。熱でもあるんちゃうか?」

「いや、ライムは経験豊富そうだから、聞いてみようかと思って」

「何を」

「だから、『あなたになら傷つけられてもいい』ってどういう意味だと思う?」

「――『盛大にコーヒーを噴け』」

「――おお」

 暗号か何かだったのか。それであのリアクションか。

「……まさか今ので納得したんとちゃうやろな」

「あ、違うのか、やっぱり」

「違うわ、決まっとるやろが。ちゅうかそれなら最初からそう聞きいや。何や紛らわしい言い方しよってからに」

「まぎらわし……かったかな」

 そのほうがリアルに置き換えて答えやすいのでは、というのと……原文をそのまま伝えるとやはり説明が少々ややこしいかと思ったので、考えた末の行動だったのだが。

「あーあー、紛らわしかったでー。思わず押し倒しそうになったやんか」

「押し……」

 さすがのアキラも復誦をためらう。一応男同士なんだが。

「何でそうなる?」

「せやからそういう意味やろ、そのセリフは」

「『私を押し倒してください』?」

「教科書の和訳かいな」

 教科書には不適切な内容ではないだろうか。

「要するに! 告白か、求愛か、誘惑や!」

「それぞれどう違う」

「実質一択。つまりは殺し文句やろ」

 ……ふむ。ライムの解釈だとそうなるのか。

 顎に手を当てて考えていると

「んーで、誰や? 誰に言われたんや?」

 中年スケベオヤジ的に絡まれた。

「ユミに」

「いや、言いたくないなら言わんでもええでー、当てたるさかい」

「だから、ユミに」

 繰り返すと、ライムはジト目でこちらを睨み、盛大にため息をついた。

「――オレな、たまぁにやけど、思うんよ。ひょっとしてアキラに嫌われとるんちゃうか、て」

「何で? 好きだけど?」

「せやったらその、天然体質をもちっと何とかせえや」

「天然……かなあ」

「天然のやつはみんなそう言うねん。ま、ええ、それはもうこっちゃおいといて、やな」

 ずい、と椅子を寄せて顔を近づけてくる。がし、と首に腕を回された。

「そうかそうか、アキラにもとうとう春が来たんやな」

「多分違うと思う」

「それで納得や。大将の言うことにあんなにムキになったんも、ユミちゃんの身を案じればこそ、ちゅうわけやね」

 ……それは、まあ、違わないが。

「まあ、あれはな、ちょお感情的過ぎたけど、しゃあないな、好きな子のことは守りたいもんやしな」

 ……否定するのも面倒になってきた。

 ライムが言うことも、まるっきり見当はずれ、というわけではないのだ。

 確かにユミのことは守りたいと思うし……たとえ、いくら本人からいいと言われたって、傷つけたくなどない。

 ただこれが、いわゆるひとつの恋愛なのかというとどうも違う気がする。

 たとえて言うなら……そう、諒が妹の天花に対して抱く気持ちと、ひょっとすると近いのではないかと思う。

 保護欲、とでもいうのだろうか。

「俺はどうしたらいいんだろうなあ」

「そりゃあもちろん……」

 ライムが意気込んだところで、お篭り部屋のドアが開いた。

「……あやしいわね。悪だくみ?」

 顔を寄せてこそこそしている二人の背中に、ショウコが冷ややかな声をかけた。




「それじゃあまずは、吉岡の心理走査の結果から」

 捜査会議は始められた。

 ユミを含めた全員が席に着き、トウゴだけが机の島の端に立って、報告書を読み上げる。

「わかりやすいところで、動機。吉岡被疑者は、コンビニアルバイト店員の宮本天花さん――諒刑事の妹さんだが、これに以前から好意を持っていたらしい。興味を引きたくて、というのがきっかけだったようだな」

 アキラはライムをちらりと見た。

 推理――というか男の勘は当たっていたというわけだ。

「彼女の勤務時間を狙って犯行を繰り返すうちに、エスカレートしていったらしい。天花さんのほうで個人的に吉岡の身の回りを洗っていたようだが、それを知って逆に嬉しいと思ってしまったようだ。徐々に大胆になり、単価も高いものを狙うようになった。酒やタバコを盗んでは、仲間内に配ったりもした。そして――」

 トウゴはレポート用紙をめくる。

「昨日、逮捕された時には、大分よからぬことを企んでいたようだ。万引きの濡れ衣を着せられたと騒いでおいて、あとで天花さんに『落とし前』を強要するつもりだったんだな。金品ではなく――交際、いや、性的な関係を」

「――はん」

 ライムが鼻で笑った。

 どう聞いても好意的ではなく、剣呑な雰囲気が漂っている。

 翻訳すると「もうちょっとシメておけばよかった」になるのだろう。

 これは、今後もライムを吉岡に会わせないほうがよさそうだ。

 それにしても――と、向かいのユミの様子を伺う。

 トウゴの顔を見て話を聞き、懸命にメモを取っている。

 「性的な関係」か。

 こんな幼気な少女が、そんなドロドロした部分まで読まざるを得ないのだと思うと、やはりどうにももやもやする。

「発症時期は……特定できなかった。これについては、医局からの結果報告とあわせて後述する。次いで、犯行の背後関係などについて。生徒同士の横のつながりも、買取業者や暴力団などとの縦のつながりも、一切確認できなかった。個人的な理由による、個人的な犯行ということで終始一貫している」

 そこで一枚の写真を見せた。パソコンからプリントアウトしたもののようだ。

「秋葉原のCDショップの防犯カメラからだ。仲間じゃないかと思って念のため聞いてみたが、こんな生徒に見覚えはないそうだ。……もっとも、この画像じゃよくわからないが」

「元データがすでにそうなんですよ」

 カスミが不満そうに言った。

「僕が何か変な加工をしてしまったわけじゃないです」

 アキラが見ても、顔付近の形や特徴がはっきりしない。妙なノイズがかかっている。

「書店員の話でも顔がよくわからん、ということだったな。防犯カメラも調べたが、ほんの一瞬映っていただけ、と」

 ライムとショウコがうなずく。

「何らかの物理的心理的障壁を展開しているのかもしれん。おれたちの『これ』みたいに」

 と、自分の翡翠の【チタン】を指した。

 超能力制御その他もろもろの機能の為、この小さな物体からは特殊な電磁波が出ている。

 人体には影響がない(らしい)が、デジタルなカメラで写そうとすると映像が乱れることがある。

 おかげで、昨日のような捕り物劇があって通行人に携帯カメラを向けられても、証拠写真は残らない。

 アキラたちの存在は極秘でもないが、あまり表立って目立ちたくもないので、そういう意味では都合がいい。

「ブティックのほうはどうだった? 防犯カメラに映像は残ってたか?」

「取り寄せは出来ました。ただ、結果は芳しくないですね」

 カスミが、右手人差し指でつっと眼鏡を上げる。

 トウゴはうなずき、話を続けた。

「今回明るみに出た件の他にも、ここ数ヶ月で同様の事件があったかもしれん。カスミ、リストアップと、ついでにネットの噂なんかも集めてくれ」

「もう取りかかってます」

「普段から万引きの多い店は、わざわざ被害届を出していない可能性もある。聞き込みだな。これはおれのほうから、指導二係に協力を要請しておく。さて次は――」

 トウゴは別の書類を取り出した。

「医局からのデータだ。まずは【キャリア】検査の結果。昨日も少し話したが、陰性は確定した。血縁情報を見ても、両親、祖父母、姉、すべて健在だから、可能性は薄い」

 もっとも、戸籍に残らない血縁――他人が産んだ子供を最初から自分たちの嫡子として届けてしまう、などがあった場合には、追跡調査にも限界があるが――。

「まあ、ライムたちに中和・反転が出来たんだから、SP症によるものだと断定して差し支えないだろう。しかし……」

 かりかりとトウゴは頭をかく。

「ちょっと話がややこしくなってきた。吉岡が感染した《麦芽》はどうも、今年のものじゃないらしい」

 全員にかすかな緊張が走る。

 SPウィルス通称《麦芽》は、人体に侵入したときから変異が始まり、個人個人で異なるものになる。これについては前述の通りだが、それでも細かく分析をすれば様々なことが調べられる。

 まず、型だ。基本的な性質を決める部分は、いくつかの型に分類される。これは変異をしたあとでも特徴が残り、比較的容易に見分けられる。

「今年流行の型じゃない――まあ流行じゃないからといって皆無とは限らないわけだが、珍しい型だ。H型、それも第一世代の頃に見られた特徴を備えてる、と思われる」

 第一世代。

 一番最初の彗星の到来一九八七年から、次の回帰二〇〇二年までの十五年間だ。

 この頃に流行った型は、原始的であるがその分生命力が強く、「原種」的な位置づけをされている。

 患者の血液を精製して治療薬を作る技術は年々向上し、多様なバリエーションに対応できるように発展してきたが、その分、昔の型には特効性がなくなってきているという説がある。

 宇宙を漂う、最初の彗星がばら撒いたウィルスは完全になくなったわけではなくて、まだ何かの拍子に降り注ぐことがあり、それに感染してしまった患者については重症化するケースも報告されている。

「だが、吉岡の場合は、それとも微妙に違う。ウィルスのカウンターが回ってるんだ」

 カウンター、というのはウィルスの遺伝子のある部分をさした言葉だ。

 変異をした回数、つまり人体に感染した回数をここで判別することが出来る。

 人体に進入したことのないウィルスはカウンターが「ゼロ」の状態だ。

 大多数のウィルスは、人体感染後に見つかるから、イチをさしている。しかし。

「吉岡のは少なくともニ、もしかするとサン――はっきりと確認は出来ていないが、しかし確実にイチではない、つまり――」

 トウゴは一呼吸をおいて、固唾を呑んで聞いているアキラたちを見渡した。

「《柘榴》――人体間感染――の可能性がある」



 SPウィルスの人体間感染は稀だ。

 ウィルス自体の生命力が弱いから――と言われる。弱い、というとやや語弊があるだろうか。

 それまで存在していた宇宙空間と地球上とでは環境が大きく違う。感染者――宿主の特徴に合わせ、自身と宿主とを大きく変化させることで順応しているのがSPウィルスであり、超能力が副次的に発生する原因だ。

 そんな性質であるから、せっかく快適に作り上げた感染者の体内から出る必要はないし、また出てしまったら生きられないということから感染が少ないのではないか、と推測されている。

 この仮説が正しいかどうかはともかくとして、実際に飛沫感染や空気感染、単純な皮膚同士での接触による感染は、報告されていない。

 しかし、人体間感染が皆無というわけではない。

 ごく濃厚な接触の元で、それが起こる場合はある。

 たとえば――性交による粘膜同士の接触、輸血など体液の交換、注射針の使いまわしを含む傷口からの侵入などだ。

 人体間感染が厄介なのは、たとえ一度超能力風邪にかかったものであっても、その抗体が役に立たず再び発症する危険性があるから。

 そして、ある人間の体内で変異したウィルスは、別の人間にとって非常に強い毒性を示す場合があるからだ。

 こんな事件があった。

 カルトな宗教団体が、非常に稀で強い能力に目覚めた少女を生き神と崇め、儀式を行った。その能力にあやかろうと、少女の血液を採取して信者に注射していったのである。

 結果、血液を入れられたほとんどの信者が死亡した。

 血液型自体の不適合による事故の可能性もあるが、ABO式、Rh式が少女と合致している信者のみが注射を受けていたことから、やはりウィルスの感染による事故だと結論付けられた。

 また、発症後に性行為を行ったことでパートナーを感染させてしまう事件も見られた。

 このような悲劇を防ぐため、超能力風邪で治療を受けた患者に避妊具を配っていた病院があって、この是非について議論が交わされたこともある。

 感染させる可能性は一生涯続くわけではなく、超能力が発動されている期間と、能力収束後または治療後の数ヶ月という短い期間に限られていると言われているが、絶対とは言い切れない。


「《柘榴》だとしたら――」

 寸秒の間のあと、皆を代表して口を開いたのは、ショウコだった。

「感染源が存在する、ということになるわね」

「そうだ」

「もしかして、一連の事件の《覚醒犯罪者アンチテイル》容疑者たちは、同じ感染源と接触した可能性がある……ということになりますか?」

 質問しながら、アキラは思う。確かにそう考えるほうが――

「そう考えるほうが、自然だな。というわけで、今後の捜査方針としては、個々の事件を追いかけるというよりも感染源――《拡散者アウトバースター》を特定することに重点を置こうと思う」

 《拡散者アウトバースター》もまた、アキラたちの捜査・保護の対象だ。知らずに自分が感染したウィルスをばら撒いてしまうのは悲劇だし――故意に感染させたとしたら、犯罪になる。

「これだけのやつらを感染させてるとなると、故意の可能性も高いがな」

「今のところ、吉岡が唯一の手がかりですが――彼に心当たりはあったんですか? その――濃厚な接触の」

「さしあたり、心当たりは無かったようだ。ただ、医局から情報が上がってきたのがユミの走査のあとなもんで、その辺突っ込んだ質問をしてないんだがな――」

 言葉を切り、トウゴはユミに目を向けた。

 それを受けてユミが立ち上がる。

「本人が気がつかないうちに感染した可能性もあります。ですが、性行為に関して言えば、彼には経験自体がないものと思われます」

「何故そう思う?」

「あくまでも一意見として聞いていただきたいのですが――想像に、触覚が伴っていなかったからです。先ほどの話でも出たように、彼は宮本さんに性的な関係を強要するつもりで計画を立てていました。成年向けの雑誌や映像ソフトから得た知識はあったようですが」

「しょせんは童貞の妄想だと」

「……そのような表現には抵抗がありますが、――そうですね。未経験者と経験者との間には、かなり明確な差があるんです。言葉で説明するのは難しくて……触覚、皮膚感覚の問題、としか言えませんが」

「まあ、説明されなくてもわかる、何となくな。もし飲酒や薬物で本人の記憶がなかったら?」

「それでも、実際に経験したことは無意識のうちに反映されることが多いです。ただ、今回の走査では性的な体験の有無については、特に追跡をしていませんから。それも含めて、感染時期の特定、感染経路、及び感染源の情報を得るために、再度の心理走査を提案します」

「そうだな。――アキラ、座れ」

 こちらには目をくれず、トウゴが言う。

 それで初めて、自分が立ち上がっていたことに気がついた。

 いつの間にかもわからない。

 何故かもわからない。

「何か言いたいことがあるのか?」

「――いえ」

 様々な思いを飲み込んで、座ろうとする。

 椅子が少し離れた場所にあった。

 それだけの勢いで――ほとんど蹴立てるようにして、自分は動いていたのだ。

 座りざま、少し深めに頭を屈めて、前髪の隙間から正面にいるユミの様子を伺った。

「ただ、すでに気になる点があります。吉岡被疑者の記憶には、空白、またはノイズがいくつか見受けられたからです」

 よく通る声で淀みなく話し続ける。淡々として、それでいて要所要所の立て方が自然で、聞き取りやすい。

 それは、先ほどからずっとそうで、彼女には不釣合いな単語を並べているときもずっとそうで、ただ淡々と、淡々と、男子高校生の妄想を読んでしまっても、淡々と。

 過去に、皮膚感覚を伴うような妄想を読んできたことすら、淡々と。

 もしかすると、その邪念が向けられた対象というのはユミ自身だったのかもしれないのに。

 また立ち上がって、机の天板を叩きたくなる衝動を、アキラは必死で抑えた。

「特に感染、発症に関わる部分に解析不能箇所が多く、……人為的な記憶操作、改竄の可能性があることをあらかじめ報告します」

「わかった」

 トウゴがうなずく。一礼してユミは着席した。長い髪で表情が隠れる。

「これが終わったら、今日中に心理走査を行おう。今度は医局のリラックスポッドを借りて、吉岡を半睡眠状態に置く。立会いは――俺と、念のためショウコもだ」

 はずされた。トウゴの意図がはっきり伝わってくる。

 足元が崩れるような不思議な消失感に、奥歯を噛み締めた。

「少し長くなったな」

 トウゴが壁の時計を見る。

「ここで一旦休憩を入れよう。五分」

「あ、そしたらその間に資料を配っておくよ」

 カスミが手を上げ、隣の席のユミにコピー用紙の束を渡した。回して、とあごをしゃくる。

「鷹群高校について、気になることを見つけたから」



 息苦しい。

 詰め所に居続けることが出来なくて、アキラは廊下へ出た。

 湿気を含んだ空気が乾いた目にまとわりついてくる。

 かすかな肌寒さもあいまって、皮膚表面がじわりと痒みを覚える。

 皮膚感覚――ってこんな感じだろうか。

 気持ち悪い、としか思えない。

 早足で歩き出す。どこへと行く当てもないが、とにかく動きたい。できれば人気のないところへ。

 廊下を進んで、裏口付近までたどり着いたところで、背後からの足音に気がついた。

 ぱたぱたと、軽く、どこかたどたどしい。

 ゆっくりと振り返る。

 予想通りユミだった。追いかけてきたのか。

 二メートルほどの距離をおいて、ユミが立ち止まる。

「……あ、あの……」

 ためらいがちな声は、確かにユミのものだった。

 初めて会ったときの印象そのままの、臆病で、引っ込み思案で、だからいつでも一生懸命な。

 会議で発言していた様子は。

「――随分、違うと思って」

 知らずつぶやいてしまった言葉に、ユミの表情が変わる。

 ショックを受けたような――切ないような。

「……ごめんなさい」

「――って、あ、別に……責めてるとかそういうわけじゃないんだ。ただ」

 消え入りそうな謝罪に、慌ててしまう。自分はいつもこの子に謝られている。今に至っては、謝らせてしまった。

「その……ええと……」

 このもやもやを何と説明したらいいのだろう。

「無理、してるんじゃないかと、思って」

 ようやくそれだけ言った。

 ユミは口をつぐみ、やや経ってから口角を上げた。微笑むみたいに。

「……わたし、かま猫さんになりたいんです」

「――かま猫?」

 唐突な、初めて聞く言葉に、首を傾げてしまう。

「ええ、かま猫。寒がりで、かまどの中で寝る癖があるから、かま猫。『猫の事務所』っていうお話に出てきます。宮沢賢治が書いた」

「宮沢、賢治……」

 聞いたことはあるような。

「『銀河鉄道の夜』とか『セロひきのゴーシュ』とか書いた人なんですけど……『注文の多い料理店』とか、『やまなし』とか」

「――蟹の兄弟の話?」

 小学校の教科書に載っていたような覚えがある。

「はい、それが『やまなし』ですね」

 ユミは少し体の向きを変えて、窓の外を見た。

 アキラもつられてそちらを見る。

 窓ガラスにはねた水滴、庇から落ちる雨だれ、その向こうに降り注ぐ銀の描線。

 多層の水が彩る風景。

 やや風があるのか、洗われた初夏の緑が灰色の空を背にして微かに動く。

「猫の事務所には四匹の書記猫と、所長の猫がいて、歴史とか地理とかを調べて案内するんです。お客さんに『氷河鼠を食べたいのでベーリング地方へ旅行をしたいのですが』って言われたら、鼠の産地とか旅行するときの注意とかを教えて」

 想像してみる。シュールな光景だった。

「そのときには、所長さんが順繰りに書記たちを指名していくんです。一人一答で。そこで四番目のかま猫は、自分が次に聞かれることをちゃあんと心得ていて、資料にこう……」

 小さく前ならえをするように、腕を出す。

「短い前足を挟んで、準備してるんです」

 ふふっと、いとおしそうに笑う。

「……そうして、質問にはきはきと答えるのを、子供心にかっこいいと思いました。憧れました。だからそれ以来ずっと、わたしはかま猫さんみたいに仕事の出来る人間になりたいと思っているんです」

 雨の音に混ざって、風の音が聞こえ始めた。

 アキラは言うべき言葉を探していた。

「廊下は、冷えますね」

 ユミが小さくつぶやく。

「そろそろ五分経ちますし、戻りませんか?」

 確かにそんな頃合だった。けれど――。

「……俺は……もうちょっとここで……」

 頭を冷やしたかった。詰め所は、とにかく息苦しい。

 自分の横顔を見つめるユミの視線を感じた。

「冷えるから、ユミは先に――」

 ふわりと、あの香りがした。昨日雨の中に漂った、不思議な芳香。

 ごめんなさい、という声が小さく聞こえた。

「……え、と……?」

 気がつくと、腕の中にユミがいた。

 シャツ越しに触れる体の、表面が少し冷えている。

 けれど、ぎゅっと抱きしめられたその奥には確かな熱がある。

 あまりにも急な接触に、心臓が跳ね上がった。

 いつも物事に動じないと言われるアキラだけれど、さすがにこれは予想外で――もやもやした感情の全てが一瞬頭からすっ飛んだ。


「大丈夫です」

 ユミが言う。

「わたしは大丈夫ですから」

 胸にかかる、熱い息。 

「アキラさんはいつものアキラさんに戻ってください――」

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