第一節 事件(「過保護だな」)
翌日は朝から雨だった。
そして、朝から事件だった。
万引きの通報が秋葉原のCDショップから入ったのは、午前十時三十分。
特殊捜査課に連絡が来るからには、もちろん一通りの事件ではない。
目撃した店員の談によれば、仔細は次の通り。
開店直後、店に入ってきた女性客がいた。
高校生らしい制服姿だったので、まずそれが引っかかったという。
平日の十時、真面目な学生なら授業に出ている時間だ。
それとなくマークしていると、新譜コーナーに立って、平積みのアルバムをじっと眺めている。
その日は人気アーティストの新譜が出ていたので、ああ熱心なファンが朝一番で買いに来たのかな、とも思ったが、それにしては様子がおかしい。
何がどうとは言えないが――
「生気が無いって言うか。もしそんなに気合を入れて買いに来たんだったら、もうちょっとこう、興奮とかあるような気がするんですよ」
だがその人物はただ静かに佇んでいた。
五分ほどもそうしているので、怪しいを通り越してむしろ薄気味の悪さを感じ、気にかけているのが苦痛になった。
別の用事があったのを幸いと目をそらした隙に、学生の姿は消えていた。
「予感はしたんですよね。そしたら案の定」
CDがごっそり、なくなっていた。
そのアーティストのアルバムだけではなく、新譜コーナーが空になっていたという。
以前から万引きの被害はあったが、ここまで大胆なのはさすがに初めてだった。
慌てて防犯カメラの映像を確認したところ、奇妙なものが映っていた。
学生が手をかざすと、CDがかき消すようになくなっていったのだ。まるでその掌に吸い取られてしまったように。
「実況検分って、ほんとに必要なのか?」
雨の中を担ぎ出されて、カスミは目に見えて機嫌が悪い。
根っからのインドアひきこもり体質、こんな日は一歩も事務所から出ず、昼ご飯も買い置きのカップ麺で済ませたいくらいなのだ。
「ごめん。頼むよ」
アキラは素直に頭を下げた。
カスミがたじろぐ。
「そりゃまあ仕事だから……やるに決まって……何もそんなへり下んなくたって……」
ぶつぶつと口の中でつぶやいて、新譜コーナーの前に立った。
制服のジャケットをはだけ、内側に吊っているホルダーから「道具」を取り出そうとして、並べられたCDが全て本物の商品であり、棚がプラスチックであることに気がつく。
「――めんどくさ。まあ質量が少ないから、こっちでもいいか」
胸ポケットのボールペンを抜く。
ペン先をCDに向けて、軸の横のスイッチを親指で押した。
かつん。
こつん。
乾いた音が響くたびに、CDが消える。
より正しく描写すると、ボールペンの先から小さなビーズが飛び出て、それがぶつかる瞬間にCDが消えるのだ。
かつんというのは、何もなくなった棚のプラスチックにビーズが当たる音。
「こんな感じだね」
肩からかけたカバンを開けてみせる。消えたCDがちゃんと移動していた。
「あとはこうして、抜けてしまえばいい」
出入り口まで歩き、ゲートの直前に立って、今度こそホルダーから取り出したのは拳銃だ。
こめかみから二センチくらいのところに銃口を置いて、引き金を引く。
カスミの姿が一瞬ぶれて、次の瞬間にはゲートの向こう側に移動していた。
「防犯ブザーは鳴らない。通過したわけじゃないから」
そのまま無造作に歩いて中へ入ると、CDに貼ったタグに反応して今度はけたたましい警戒音が鳴り響いた。
カスミは全く気にも留めず、床に転がっていた銀玉を拾い上げる。
先ほど自分に向けて撃ったものだ。
「ま、手口としては昨日捕まえたコンビニのやつ? あれと基本は一緒なわけだけど」
そう言って前髪をかきあげた。
隠れていた耳が現れて、乳白色の【チタン】――ムーンストーンが淡く光る。
「言っとくけどこれ、けっこう高度だよ。カバンの中みたいに狭い空間へ物を送るのって、座標設定にそれなりの精度が必要なんだ。ゲート抜けるほうが簡単。――まあ、自分の体分の質量を、しかも服や盗品ごと移動させるとなるとやっぱりそれなりの力が要るけどね」
確かに、とアキラも記憶をたどる。
過去に全裸で街を歩いて捕まった《覚醒犯罪者》がいた。
最初は「瞬間移動能力が急に発動した、これは不可抗力の事故だ」と主張していたのだが、数日前から小学生の女児の前に突如裸で出現するいたずらを繰り返していたことがわかり、公然わいせつ罪と超能力悪用で再逮捕となったのだった。
若い身空で、難儀な性癖である。
あの場合は、もともと服ごと移動する能力が無かったわけだけれど。
「ま、あのバカな例はちょっとおいておこう。《覚醒犯罪者》になるようなやつには、デタラメなスペックも多いから、やろうと思ったら出来なくはないさ。先にカバンだけ送ってしまって体のほうは歩いて通ったっていいんだし。ただ――」
そう、ただ、この時期に来て、という思いは消えない。
《麦芽》にも個体差があるようで、強力なものとそれによって引き起こされる高い能力は、大体「短い潜伏期間、高熱、短い発症期間」がセットになっている。
例外はもちろんあるが、少ないのだ。
ピークも過ぎたこの時期に、昨日の吉岡、そして今日と、立て続けに起こるのは少し、確率が高すぎる。
まして二人とも申し合わせたように瞬間移動能力者で、同じように万引きを働くなんて。
「それで、防犯カメラのデータはもらった?」
「ああ、今諒が行ってる」
「とりあえず制服から目星つけるか」
だんだん乗ってきたらしい。
カスミはCDショップの店頭でノートパソコンを開けた。
スリープモードから立ち上がる間に、諒が帰ってくる。
「あ、来た来た。データ貸して、宮本刑事。検索かけるから」
カスミが手を出すが、諒の反応は鈍い。顔色も優れない。
「――何か、あったのか?」
アキラが聞くと、諒はかすれた声で答えた。
「検索は……まず『東京都立鷹群高校』でかけてみてくれないか?」
その名前には聞き覚えがあった。
「それって――」
「……何度も映像を見返した。多分、天花の――妹の通ってる学校の制服だ」
「なんや、また派手にやらかしよったなあ」
空っぽになった平台を見て、ライムが感嘆の声を上げる。
アキラたちが出かけていったすぐ後で、上野にある大型書店から通報があったのだ。
同じく万引き、同じく不審な点多し。
アキラたちに帰りに寄ってきてもらうことも考えたが、署から歩いても来られる距離だったので、ライムとショウコ、それから指導第二係の佐々木刑事とで調査に来ている。
「こんなことが可能なのかねえ。相当重くなるでしょうに」
佐々木刑事も剃り残しのひげを撫でながら、首をかしげている。
四十過ぎのおじさんだが、気さくな性格で、ライムたち事件第二係とも仲がよかった。
被害は、漫画単行本ばかり。平積み新刊と、人気のある少年漫画の既刊がセットでこれまたごっそり。
「換金目的かしら」
「本は割り合わんでぇ。重いしかさばるし」
人気コミックの新刊ならば高価買取をしているところもあるが、一冊せいぜい二百円。
塵も積もれば、と言いたいところだが、同じ新刊を十数冊も一度に持っていったら盗品だと喧伝しているようなものだ。わかっていて買い取れば扱った古物商のほうも罪に問われるから、その辺は慎重になる。
「もっとも、一冊二冊なら気づかん振りで買うところもあるやろけど」
「あちこちの古本屋に売って回るとか」
「行商人かいな」
雨の中、四角い風呂敷包みを背負って町々を訪ね歩く姿が浮かぶ。ご苦労なことだ。
「まあ、買取先がグルってケースも考えられるからねえ」
佐々木刑事がメモをしながら、ペンの先で紙面をこつこつ叩く。
「グルは言い過ぎにしても、盗品を承知で積極的に受け入れてるとこがあるかも知れない。まあ、地域の古本屋に当たってみますよ。注意勧告と」
「頼んます」
盗まれたタイトルのリストアップは佐々木刑事に任せて、ライムとショウコは目撃者の店員に話を聞くことにした。
「最初からおかしいな、と思ったんです。平日のこんな時間なのに制服姿で、それが男の子二人で連れ立って来たので――」
黒縁メガネで背の低い、童顔の女性店員はエプロンの裾をもじもじと握りながらそのときの様子を振り返る。
「真っ直ぐに新刊のコーナーに向かったと思ったら、ぐるっとコミック売り場を回って、そのまま出口まで引き返して……その間、一言も口をきかないし、目と目で会話とかもなくて、ただ二人縦一列に並んで……とにかく何ていうか、異様な雰囲気だったんです」
そこへ同僚の男性店員が、血相を変えて飛んできた。自分が今整頓したばかりの平台があんなことになっていたからだ。
怪しいやつはいなかったか、と聞かれたので、思わず例の二人組を指差した。
正に店を出て行こうとしているのを見て、少々頭に血が上りやすい性質の男性店員はとにかく追いかけ、追いついて、肩に手をかけようとした瞬間――。
「ぱっ、と消えてしまったんです、二人とも」
言いながら、男性店員はやたらと手をこすり合わせる。
手が空を切る感触がよみがえって気持ちが悪いのだろう。
「まるで怪談ですけど、あ、これはあれだな、きっとSPがらみだな、と思って」
SP、は「超能力」よりも少し今風の言い方だ。SPウィルスのSP。
「その男子生徒の人相とかわかりますか?」
ライムの質問に、店員同士が顔を見合わせた。
沈黙。
「……どうしました?」
「それが、その……」
「そう聞かれると、何だか全然思い出せないんです。印象が薄いって言うか、なんか……顔の辺りだけ靄がかかったみたいで」
「制服はよく覚えているんですが」
「どんなでした?」
「学ランです。多分あそこの――、あ、多分なんです、決して決め付けてるわけじゃないんですけど」
「で、こっちもまた鷹群高校やった、と」
ライムが自席の背に体重を預けてふんぞり返る。
足は机にかけて、あまりいいお行儀とは言えない。
「偶然にしては出来すぎだよな」
アキラは机の上にひじをついて組んだ指に額を乗せている。
昼飯を前に、詰め所にて情報交換が終わったところだ。
トウゴとショウコはお篭り部屋で打ち合わせ、カスミはパソコンに向かって何やら作業中である。
「覚えとるか、昨日の。コンビニ行く前に寄った事件」
アキラもちょうどそれを考えていたところだ。
若者向けのブランドを扱っているショップでの出来事。
何着も試着ルームに持ち込んだまま長時間出てこない客があったので、思い切って開けてみたところ、客の姿はなく、床には服が散乱しており、さらに白い砂状のものが大量に付着していた。
ほとんど砂に埋もれていたと言ってもいい。
店は悪質な営業妨害だと考え、通報した。
はっきりと超能力が絡んでいるとわからなくても、「得体が知れないから」という理由で、面倒くさそうな案件が特殊捜査課に押し付けられることは珍しくない。
昨日は天花との約束で気が急いていた上に、ショップのお偉いさんがえらく高圧的でヒステリックな態度だったので、ついついなおざりな対応をしてしまったのだが、こうなるとあれも同種の事件としてくくるべきという気がしてくる。
「あの砂――だか粉だか、姐さんもう読んでみたゆうてたっけ?」
「うまく読めなかったって。今科研で組成を調べてるとこ」
「……人の骨やったりしてな」
にやり、と人の悪そうな笑みを浮かべるライム。
「それだったら普通に読めるだろ?」
ショウコの能力はいろいろと繊細で、たとえば生体エネルギーが強すぎるものからは、安定した情報が読み取れない。
人と握手をして相手の経歴や考えていることがまるまるわかる、という芸当は出来ないのだそうだ。
もちろん善人なのか悪人なのかを感じることはあるが、「勘がよい」程度で、とても正式な捜査の根拠にはならないと言っていた。
だから逆に、骨にまでなってしまえば揺らぎは少なく、ショウコの能力は十分に発揮されるはずなのだ。
「多分大きさの問題じゃないかと思うよ。量はあったけど、結局一粒一粒が小さいから情報の含有が少ない……ん?」
ライムが憮然としているのに気がつく。
「何?」
「何と言われても何とも言えへん」
「――ああ、そうか、悪い。人骨の可能性は否定できないもんな、質量が原因なら」
「……うん、まあ、せやね」
何かをあきらめたかのようなため息をつく。
「話元に戻そか。本屋におった二人組のことやけどな」
そこまで戻るのか。
「盗ったもんが入るような大きいカバンの類は、どうも持っとらへんかったようなんや」
「他にも仲間がいたんじゃないか? たとえば店外に送って、それを受け取るとか」
「できなくはないだろうけど、この雨じゃね」
意外な方向から答えが返ってきた。
それまでパソコンとにらめっこでこちらのことなど完全に無視していたカスミが、席に戻ってきたのだ。
手にプリントアウトしたらしき数枚の紙を持っている。
「万が一にも本が濡れたり汚れたりしたら、金にならないよ。それに空間にノイズが多くて、めんどくさいんだ、雨は」
「カスミちゃん、よっぽど雨が嫌いなんやな」
「好きなやつはいないだろ」
木で鼻をくくったような答え。
自分はそうでもないけど、と会話へ入りかけたとき、お篭り部屋のドアが開いて、ショウコと、トウゴが出てきた。
トウゴがシャーペンで耳の上を掻き掻き、アキラに言う。
「午後からの吉岡の取調べだけどな、ユミに入ってもらおうと思う」
「――え?」
不意に、きゅ、と耳の奥が縮んだ。
周囲の気配が遠のいて、トウゴの声だけが響く。
「奴さん、不貞腐れて何にも言わないらしいんだが、どうも雲行きがおかしなことになってきたからな。手っ取り早く調べることにした」
「……もしかして、ユミに読ませるんですか!?」
自分の声がやたらに硬いのがわかった。
「そうだ」
「それは、問題がありませんか? 被疑者のプライバシーの侵害になるし、そんな取調べが行われてると知れたら抗議が」
「より悪質かつ大規模な事件の発生を防ぐためなら、おれたちにはある程度の特権が認められている」
「――でも」
「表層より深くは読まない。ポリグラフ並に考えろ。――万一読めてしまっても、それを公表・記録・悪用しなければ、読まなかったのと同じことになる。その辺は、一般的なテレパスの取り締まりや、一昔前の盗聴の定義と一緒だよ」
「盗聴と一緒にしないでください!」
思わず椅子を蹴って立ち上がった。
一瞬、室内が水を打ったように静まり返る。
「……いえ、その……」
自分で自分の劇しさに驚いて、アキラも次の言葉に困る。が。
「そんなに心配なら、心理カウンセリングの名目でこっそり行ってもいいぞ」
「そういう問題じゃないんです!」
トウゴの明後日を向いた提案にまた苛立つ。
「じゃあ何が問題だ?」
「……ユミは……まだ正式な配属前、ですし……」
「過保護だな」
冷静な指摘に言い返せない。
「辞令なんておれたちにとっては飾りだろう。好むと好まざるとに関わらず、一生現場に携わっていくしかない。ユミだって今までに何件も何十件もこなしてきてる。お前が知らないだけで」
アキラにもそれはわかっている。だから、自分の力を使うことにはためらいを持たずにやってきた。けれど。
「……それでも、もっと……慎重に行ったほうが……」
「わかった」
トウゴが低く言った。目線をアキラから外す。
「取調べにはライム、お前が立ち会え」
「――了解」
「本当はアキラにやらせるつもりだったが、不適格みたいだからな」
付け足された一言に、喉の奥がかっと熱くなった。
「待って下さい! だったら俺がやります。やらせてください」
「……自覚はあるか?」
「――え?」
「だいぶ頭に血が上ってる。いつものお前からは考えられないくらいに、だ」
いつもの……自分?
そこでようやく、周りの景色が目に入ってきた。
椅子にかけたままこちらを斜めに見上げているライムや、その机についたひじや組んだ膝や、目を伏せて怒っているのか拗ねているのか軽く口を尖らせたカスミや、その左袖を握り締める右手指の関節の意外な骨っぽさや、気遣わしげなショウコの薄く開きかけた唇や、淡く曇った窓ガラスや蛍光灯の光を鈍く反射する机の天板や――そしてトウゴの、いつもは象のように穏やかで優しい瞳が、深みを増した色で自分を見据えていることなどが。
雨の音が聞こえている。
鎮火していく。
「すみません、そうですね……言い過ぎ――いや、会話が出来ていませんでした」
ふう、とトウゴが息を吐いた。
「いい機会だから言っておこう。ユミは基本お前と組ませる。だが、それでお前がおかしくなるようなら、考えなきゃならん。チーム編成だけじゃなく……配属自体もな」
複雑な思いだった。
自分にかかってくる責任の重み。
それでも、自分がパートナーとしてユミを見ていけるのならば、その関係を崩したくはない。
「わかりました」
短くそれだけを答える。
「よし。――じゃ、午後に備えて飯食って来い」
肩に軽く手が置かれた。トウゴの手は少し冷たくて、シャツ越しのその感覚がすっと心に重石を乗せる。
不快な重さではないが、胃袋の底だけがピンポイントで落ち着いたようなおかしな感触だった。
「食堂、行ってきます」
いらいらするのは、空腹のせいもあるのだろう。
そう切り替えて、詰め所を出た。