第五節 保護者/被保護者
「お先にー」
「お疲れ様です」
同僚の挨拶に、日誌を書いていた諒は顔を上げて反応する。
ついでに時計を見た。もう十時近い。
いつの間にか最後の一人になってしまった。
さっさとこれをまとめて、今日はそろそろ帰るとしようか。
何しろ大きなイベントが待っている。
妹にお説教をしなくてはならない。
万引犯に注意をする。
それは本来悪いことではない。
正しいことを正しい、間違っていることを間違っていると言えるのは、美徳だ。
だが。
この辺り、刑事としての正義感との板ばさみではあるが、それでも。
天花には自分の身の安全を第一に考えてほしい。
ずるくても、時には間違っていても、何でもかまわないから、とにかく無事にこの世界で生き残ってほしい。
――などと言うと、逆に反抗されるのは目に見えているので、まあ「言いつけを守らなかった」部分を叱るしかないのだが。
……あの親のことをどうこう言えないな。
苦い思いで、片頬を歪める。
夕方捕まえた万引犯――吉岡少年の両親が、つい先ほどまで署に来ていた。
《覚醒犯罪者》は逮捕後、まず何よりも先に、医局で検査を受ける。
血液を採取され、そこからウィルスのおおよその型が割り出されて、治療薬の精製が始まる。
ウィルスは、感染先の個々人の体内で千差万別の変異をするため、誰にでも効く薬というものを作ることが、まだ出来ないのだ。
感染者本人の血液を加工して、薬にするしかない。
この治療には当然ながら費用がかかる。
覚醒時に、犯罪を起こす前に自己申告で治療を受ければ、保険が利いて一割の負担で済む。
また最近は民間の生命保険や学資保険に超能力治療費を組み込んだプランもあり、「とにかく目覚めてしまったら病院へ行きましょう」が国からの呼びかけだ。
しかし、犯罪を起こして捕まった後に警察内で治療を受けると、全額負担。
保険に加入していても支払い対象外になることが多い。
その額は――大体二十万円弱。
これは、罰金や保釈金とは別会計だ。
超能力犯罪は家計にかなりの負担をかける。
その上、《覚醒犯罪者》は多くの場合、未成年で、学生で、扶養家族なのである。
連絡を入れると、まず大体の場合家族は飛んでくる。
治療が終わるまでは面会が出来ない、治療費や罰金については確定してから改めて連絡しますと、きちんと言い渡しても、それでも一目会いたい、一言話がしたい、と食い下がる。
吉岡少年の両親もそうだった。
身支度もそこそこの母親と、会社から直行したという父親。
最初のうちは、こちらの説明を受け入れていた。
しかし、同じコンビニで半月もの間万引きを繰り返していた、という事実を前に、母親は泣き出した。
あの子は、そんな、大それたことの出来る子じゃないんです。
みんな超能力が悪いんです。そんな力を持ってしまったら、魔がさすこともあるでしょう。
お願いですから、あの子と話をさせてください。
「決まりですから。治療が済めば面会も出来ますから」と事務的になだめ、とりあえず治療同意書にサインをさせた。
――もちろん、吉岡少年は罪を犯した方で、天花はそれを注意した方だ。
まったく同じとは言えないし、言ったら天花が納得しないだろう。
だが、保護者の気持ちには大して変わりはない。
自分の身内だけは、犯罪とは無縁のところにいてほしい。
もちろん被害者にはならず、そして加害者になることもなく、たとえ世の中がどんなに腐ってしまっても、その水をかぶらないところで生きてほしい。
エゴだ。立場と形が違うだけで、どんなことも、その基本には利己心がある――。
「――諒」
優しい声に引き戻された。
ドアを半身分開けて、アキラが立っていた。
諒はしかめていた顔を何とか緩めた。
「あ、お疲れ様」
「お疲れ様。入っていい?」
ちょっと首を傾けて、中の様子を伺っている。
もちろん、と手招いた。
「はい、コーヒー」
紙コップに入った液体が机に置かれる。
インスタントではない芳香と、すでに入れられている多めのミルク。
ショウコが淹れてくれたのだとすぐにわかる。
「ありがとう」
両手で包み込んだ。温かい。
そこで初めて、指先が凍えていたのに気がついた。
今夜はずいぶん冷える。
夕方に降り出した雨がまだ降り続いているようで、さああ……という音が、人気のない室内に寒々しく聞こえている。
期待を込めて待たれているようなので、コーヒーをすすった。
「美味しい。――さすがショウコさんだね」
アキラが笑んだ。
黒目は黒く、白目は白い、強い印象のアーモンド型の瞳と、きりりとした一文字眉。
精悍で整った顔立ちをしているけれども不思議な透明感と柔らかさがあって、こうして微笑まれるとこちらも微笑み返さずにはいられない。
「ありがとう」
不意にお礼を言われた。
「……何が?」
聞き返してから、思い至る。
「別にそんな、普通だよ」
――派手な逮捕劇の様子は、どこからか吉岡少年の両親に漏れ聞こえていたらしい。
会わせろ、会わせないのやり取りに興奮するうちに、母親が口走ったのだ。
『ここの刑事さんも、刑事さんなのに、おかしな力を使うみたいじゃありませんか。嫌です、そんな人間の――いいえ、化け物のいるところにうちの子を置いてはおけません。連れて帰らせてください。お願いですから』
保護者の気持ちは、理解できる。利己心も、理解できる。
けれどそれは免罪符ではない。
『いいですか、お母さん。あなたのお子さんは罪を犯しました。そして私たちはそれを調べ、取り締まり、ある意味で守る者です。そこには能力の有無は関係ないし、ましてそれで差別をされるいわれのものでもない』
取調べはルールに則って行われること、理不尽な暴力や自白の強要がないよう、録画などの可視化もされていることを、きちんと説明した。
やがて両親も落ち着きを取り戻して、納得して帰って行ったのだ。
「そういうのも僕たちの仕事のうちだから」
「仕事増やしてごめん。――ライムがなあ、あれは確かにやり過ぎだった」
ちゃんと注意しておいたから、としかつめらしい表情で腕を組む。
思わず笑ってしまう。
「どっちが年上かわからないね。アキラとライムは」
「今回は特にね……。まったく、私情を挟むのはよくないよな」
「私情?」
ライムは犯人に、何か個人的な恨みでもあったのだろうか。
諒が眉をひそめて首を傾げると、アキラは一瞬微妙な表情を浮かべ、それから苦笑した。
「世話かけておいて言うのもなんだけど、なるべく早く帰んなよ。天花ちゃんきっと待ってるよ」
「……ああ」
そうだった。一大イベント。お説教。
ずんと暗くなった諒の気持ちを読み取ったのか、アキラが明るく励ます。
「大丈夫だよ、天花ちゃんも自分で反省してたみたいだし。諒はいいお兄ちゃんだから、ちゃんとわかってくれるさ」
「だといいけど」
ため息をついてみせた。
「はは。それじゃ、あんまり邪魔しても悪いから俺はこれで」
「ああ、お疲れ様」
身軽に入り口へと向かい――出て行きかけたところで足を止めた。
諒に背中を向けたまま半分独り言のようにつぶやく。
「でも、よかった」
「ん?」
「ほら、たまにいるだろ、化け物って単語を自分の子供のほうに使う人。――吉岡の親がそうじゃなくて、よかったよ」
そう、そういう親も、たまにいる。
たま、よりもやや高い頻度でいる。
自分たち特殊捜査課は超能力犯罪者を逮捕し、調べ、取り締まり、ある意味で守る者だが……親と子供の間に生まれた溝の全てを埋められる力までは持っていない。
アキラが去った後、諒はコーヒーの最後の一口を飲み干した。
諒のことを「いいお兄ちゃん」だと言う彼にも、昔、妹がいたのだと、いつか話していた。
強大なその力と引き換えに、子供という被保護者の立場だけでなく、兄という保護者の立場もなくした彼は、どんな気持ちで諒と天花の兄妹を見ているのだろう。
そう思うといつも少し切ない。
恐らく天花は、今日は諒の好物を夕飯に作って待っている――。
冷たい雨の音が、夜の底に聞こえ続けている。