第三節 きみを見つける
上野公園にちょうど入る頃、携帯が震えてメールの着信を知らせる。
予想通りショウコからだった。開いてみる。
件名 写真と番号
本文 お疲れ様。表題の件送ります。
とりあえず直接電話して――と、番号のところが反転するように方向キーを押していく。
これを押したらかかるはず……。
「ん?」
文章はその下にさらに続いていた。
でも今かけてみたら、充電切れそうなんだって。繋がらなくなるかも。
上野動物園の入り口で待つように言っておきました。
よろしく。
……どんどんミッションの難易度が上がっていっている気がする。
駅の出口を間違えて、電話で案内しても上野公園の中に迷い込んで、そのまま出られなくなるような方向音痴は、果たして自力で指定の場所にに辿り着けるものだろうか。
はなはだ疑わしく思いながらも、何しろ手蔓がそれしかないのだから、動物園入り口に向かう。
長い黒髪の女性を辺りに捜すが、それらしい人影はない。いや、人影自体がまばらだ。
腕時計を見る。六時十分過ぎ。
美術館、博物館の閉館時間は軒並み午後五時だから――と思いかけ、今日が月曜日だったことに気がつく。
休みじゃないか、動物園も。
もちろん、中で待ち合わせをしているわけではないし、そもそも動物園も五時に閉まるはずで、営業しているかどうかは端から関係ないのだが、何となく焦る。
いくら日が長くなったとはいえ、日没も近い。
加えてこの時期はずれの肌寒さに曇天。
周りに気を配りながら足を速めた。ほとんど走って動物園前に辿り着く。
が、案の定誰もいない。
携帯を開けた。
別に息は乱れていないが、深呼吸一つ。ダメもとでかけてみる。
呼び出し音。それから、『電源が入っていないか、電波の届かないところに――』
アナウンスを最後まで聞かずに切った。
どうしようか。目を漂わせる。
その視界が霞む。
湿気のせいだろうか。眼球にぺたぺたしたものが染み込んでくるようで、何だか息苦しい。
背筋がぞくりと震えた。悪寒、だ。
――こんなときに。
アキラは奥歯を噛み締めた。
別にたいしたことではない。
持病があって発作を起こしたなどというわけでもない。
ただ――。
降りそうで降らないこの空が嫌なのだ。
時折見る夢にイメージが似ている。
どこともしれない広い場所、アスファルトの歩道に生垣、行きかう人々。
リアルの背景に幻影のような薄暗い姿の群れが重なる。
世界は白黒で――というよりも灰色で、けれど本当はそうではないことを知っている。
晴れているはず。
鮮やかな色をしているはず。たとえばあの生垣は緑、あの露店の屋根は赤と白。
自分はこの光景を知っているはず。
焦燥に駆られて、何かしなければと思う。
けれど体は動かず、目は一点を見つめる。
そこだけが、やけに明るい。
雨が降ればいいと思う。
降ってほしいと思う。
お願いだから降ってと。
祈りながら目が覚める。そんな夢だ――。
ぎゅっと目を閉じた。
三つ数えてから、ゆっくりと開ける。
そこに広がるのは馴染みの公園の景色だ。
桜の木々は緑が濃く、灰色の空の下でも色彩が失われるわけではない。
人影は、まばらであっても皆無ではなく、その服装は奇抜な色ではないにしろ白黒二色というわけでもない。
目のすぐ下に、ぽつり、と冷たい刺激。
降り出した、と思う間にアスファルトに黒い斑点が出来ていく。
こらえにこらえてから泣き出した空の涙は、緑を打つ音を立てながら降り注ぎ、数分のうちに世界を満たした。
前髪が濡れて重みで下がり、その先から滴がこぼれた。
――降ればいいとは思ったけれど。
髪をかきあげながら苦笑いする。ここまでは願わなかったんだけどな。
じっとりと雨が染みて、肌にシャツが張り付く。
ただおかげで頭は冷えた。
まずはショウコに連絡。
最後に電話が繋がったときの状況から、居場所を推定できるような情報がなかったかを確認。
そこから目星をつけて捜していけばいい。
降りだしたのはかえって幸いだ。
どこかで雨宿りでもしていてくれればすれ違いの確率は減る。
四阿か、木の陰か、売店の軒先か――本当に猫探しみたいになってきたな。
考えながら、しかし何故かアキラはそれらを実行に移せずにいた。
銀の糸が天から地へ向かう、そのベクトルに抑えられたみたいに。
首筋を雨が流れる。袖まくりした腕を雨が流れる。
頬のラインを雨が伝って、顎からしたたる。涙に間違えそうな感触。
……呼んで、みようか。
「保険程度」に思っていたことを、やってみたくなる。
呼んでみようか。心の中で、自分はここだと。
あるいは耳を澄まそうか。助けを求める声が聞こえるかもしれない。
アキラの能力は完全に念動力系だが、精神感応系の集中も、一応訓練はした。
雨の幕の中に、会ったこともない少女の姿を思い浮かべる。
真っ直ぐな黒髪……長い。
肘の先を越す長さ。カーディガンの肩でさらさらと踊る。
その真っ黒の中に、丸い顔。
色白で、上気した頬だけはほのかな桜色。
目が大きくて、黒くて、丸い。動物の子供みたいな印象。
タックの入ったスカートから伸びる、黒いタイツの足。
背は割と高い。アキラと同じくらいか少し低いくらい。柔らかそうな印象で、
――いい匂いがする。
息を吸い込んだ。
湿った空気の中をどこからか流れてくる。
秋雨に漂うキンモクセイのような……いや、今の時期ならジャスミンか、それともバラ……。
それらすべてに似ているけれど、どれとも違う香り。
ふわりと体が温かくなる。
雨に濡れていることを忘れてしまいそうな――。
……ん?
いつの間にか閉じていた目を開けた。
視界にかかる、薄緑の影。
白い傘に、淡い緑色で模様が描いてある。
いろいろな種類の貝だった。太古の海を思わせる。
アキラの頭に触るか触らないか、ぎりぎりの高さを保っている。
雨を忘れているのではなくて、この傘のおかげで実際雨に打たれていないのだった。
はっとして振り返る。
小柄な少女が、精一杯腕を伸ばして、アキラに傘を差しかけていた。
「……あ」
思わず声が漏れる。
長い黒髪、うつむいてよく見えないけれど愛くるしい顔立ち。
「……あの」
少女も声を上げる。一度聞いたら忘れられない、綺麗な、鈴を振ったような音色。
「――もしかして」
「濡れます……っ」
言われて、シャツが完全に肌に張り付いているのに気がついた。
濡れます、というか……濡れてます。
「か、風邪を、引きます……」
つかえながら精一杯言葉を紡ぐ少女の黒髪は、雨を含んでしっとりとぺちゃんこで、揃えた前髪は重みでいくつかの房に分かれて、その先から水滴が落ちている。
どのくらいそうしていたのか。
少女はアキラに傘を提供し続けていたのだ。
とっさに何と言ったらいいのかわからない。
もうこっちはとっくにびしょびしょの濡れネズミで、これ以上降られたからって大して変わりはしないのに、それなのに、アキラが雨に当たらないように、冷たい雫を受けないように、小さな体で精一杯の背伸び。
自身のことにはまるでかまわずに――。
思わず傘の柄を掴んで、ぐいと押しやってしまう。彼女がこれ以上濡れないように。
小さく悲鳴があがった。
アキラの行動が予想外だったのだろう。
「――あ」
しまった、そんなつもりじゃ。弁解する前に。
「ごめんなさい」
先に謝られてしまった。蚊の鳴くような、消え入りそうな、本当に心からの謝罪の言葉。
「ちがう、ごめん、ありがとう!」
もはやブツ切りの単語しか出てこない。
「も、もう、大丈夫、俺は、その……大丈夫?」
「……はい」
少女は小さくうなずいた。
本当に、可愛らしい声だった。
そして、見知らぬ人に自分から話しかけることに慣れていない声だった。
道に迷っても、困ったことがあっても、行き交う人に助けを求められない声。
傘を差しかける前に、濡れますよ、と一言かけられない声。
だから、今、こうしてアキラと向き合うことにひどく緊張しているであろう、声。
沈黙が、傘の下の小さな空間を支配する。
お互いが柄を握ったまま、どちらに傾くこともなく真っ直ぐに立てた傘。
雨が当たる音だけが、ぱらぱら、ぱらぱら、不思議に遠くに聞こえる。
少女がおずおずと顔を上げた。
まつげの先まで濡れている。
黒くて真ん丸い、吸い込まれそうな瞳。
アキラの耳をじっと見ている。
アキラも思わず、少女の耳朶にそれを探した。
――髪に隠れて、よく見えない。
確信はあった。
この子がきっと、新しい仲間だ。
でも同時に、違っていてほしいとも思った。
こんな、アキラよりも年下なのに、中学生くらいにしか見えないのに――。
視線の熱さに気がついて、少女の手がそっと耳元を押さえる。
白い指が寒さに赤くかじかんでいる。
しまった、と焦る。
こんなにじろじろ眺めるなんて、あんまりにも不躾に過ぎる。
謝る言葉が、少女の動きで止められる。
黒髪がそっと指で掬い上げられて、耳にかけられる。
桜貝のような耳たぶに、食い込むのは特殊ピアス――【チタン】。
能力を制御するものでもあり、身分を証明するものでもある。
少女の石は、少し緑がかった淡い青。
海に落としたら溶けてしまいそうな、やわらかなきらめき。
「アキラさん、ですよね」
恐らく少女もアキラの赤い石を認めたのだろう。
先ほどまでより少ししっかりした、背筋の伸びた声で名乗る。
「新しく配属されました。丹生川ユミです。よろしくお願いします」
「――秋葉、アキラです。よろしくお願いします」
ようやく出会えた二人は、それから同時に笑みをこぼした。
アキラが傘を持つ。今度はごく自然に。
ユミがバッグからハンカチを出してそっと腕や肩を拭いてくれた。
すぐに乾いたところが無くなって困っている。
それを取り上げて、アキラは自分のポケットからハンカチを出し、渡した。
「交換。――今度はそっちの番だよ」
さすがに拭いてやるわけにはいかない。
「ありがとうございます」
ユミの頬に押し当てられたハンカチが、水を吸っていく……。
それから二人は、両方がなるべく濡れないように寄り添って、駅へと向かった。