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きみの手をとる物語  作者: 百賀ゆずは
第九章 メーデー
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第二節 遊園地

「……来て、しまったんですね」


 ユミがゆっくりと振り返った。黒い髪がゆらりと揺らぐ。

 アキラには、すぐには返事ができなかった。

 深い、深い、深い、水の底だった。

 水圧で頭が――いや、体中が、軋む。

 アキラの本当の体は今医局で、ユミの手を握ってベッドサイドに座っている。

 シン先生と、読心を得意とする【一族】の手を借りて、ユミの意識に潜った。

 最初のうちは息ができなくて、そのまま死ぬのではないかと思うくらいだった。

 黒く、墨で塗りつぶしたような水の中を手探りで、仄かに明るいほうを目指して――


 そして今、ユミの過去を、彼女の目覚めの経緯を、知ったところだった。


 こぷ、と自分の口から空気が外へ漏れる感触がある。

 実際にはもう肺の中まで液体なのか、それでも呼吸が出来るのか、息苦しくはあるけれど、つらくはない。

 心の底で会うユミの顔は、青ざめてやつれ、やや大人びて見えた。

「……母の名誉のために言っておきますが」

 こぽ、とユミの口からも何かが漏れて、遠い遠い水面目指してのぼっていった。

「わたしは、決して母に邪険に扱われたわけではありません。ごく普通の……母でした。祖母も……父も……ごく普通の、当たり前の、人でした」

 そして幽かに笑う。

「普通でなかったのは、わたしの方です」

 とん、とどこかを軽く蹴って、ユミが泳ぎだした。

 アキラはその後を追いかけた。



 【キャリア】として覚醒した後、ユミはこんこんと眠り続けた。

 目覚めるのには、少し時間がかかった。

 そして目覚めたとき、ユミは自分が何をしたのか、理解が出来るようになっていた。

 君のせいじゃない。と誰かが言った。

 君は悪くない。と誰かが言った。

 悪循環だったんだ。

 君は他人の痛みや苦しみを、自分のことのように感じてしまう。

 あの閉じた関係の中で、弟さんの痛みや、お母さんの苦しみや不安を、感じ取ってしまった。

 だからだよ。

 君が悪いんじゃないんだ。

 君は自分を守ろうとしただけなんだ。

 誰もユミを責めなかった。

 ユミの小さな耳には、もう【チタン】がつけられていた。

 だからしばらくは、ユミは静かに暮らすことが出来た。

 超能力の訓練を始めるまで。


 息を止めて、ユミが最初に知ったことは。

 人間は、心のすべてを語るわけではないということ。

 心の中は一色ではないということ。


 つまりは――自分が悪いのだ、ということ。


 人の機嫌を損ねないように生きてきた。

 初対面の人には、にっこり笑って挨拶する。

 ――なんだ、とんでもない能力を持った化け物って聞いてたけど、いい子じゃないか。

 喉が渇いている人にはお茶を。

 ――よく気がつく子だ。優しい子だ。

 けれどたまに、心の中で眉をしかめる人もいる。

 ――先回りしすぎている。俺の心を読んだんじゃ――。

 用事は、申し付けられてから、はいと返事をしてやろう。準備だけはしておいて。

 ――出来がよすぎるっていうのも不気味だな。何か生意気だ。

 おずおずと、はにかんで見せるくらいのほうが男の人には受けがいい。

 ――なんだこの子はじっと黙って。やりにくい。

 気の利いた会話を。良いところは積極的に誉めて。

 ――小さいくせにお世辞ばっかり。

 自分からは話さずに、相手の言葉にうまい相槌を打つほうが得。


 可愛らしい声の出し方。

 可愛らしい仕草。

 幸い自分の容姿は、大多数の人に受け入れられるもののようだから。

 ――動物の仔が可愛らしいのは、保護欲をそそって生き延びるため。

 ああ、そうか。

 何かに似ていると思った。

 黒目がちで、円らな、わたしの目。

 保護欲をそそるためのもの。




「いいですかい、ユミさん。力のコントロールを覚えること、これが肝要ですよ」

 ユミを起こしてくれたのは、シノブさんだった。

 そしてそのまま、養い親になってくれた。

 シノブさんは長い黒髪が綺麗だった。

 ちょっと変わった喋り方も、面白かった。

 とてもきれいで、優しい人だった。強い人だった。

 心の中がとても静かで、温かくて、言葉に嘘がなくて、そして棘もなかった。

 他の人の心の中を、知れば知るほど、どんなにシノブさんが素敵な人かわかるのだ。

 大好きにならずにはいられない人だった。

 だから、大好きにはならないようにしようと思った。

 大好きになったら――――――――――――――――してしまうから。

 シノブさんは、ユミが生まれて初めて、「大好きにならないようにした」人だった。

 けれど、落ち着いて思い返すと、それまで生きてきた中で、大好きになったものなんて、あったのかどうかわからない。

 母親のことすら、大好きだったのかどうかわからない。

 それで、シノブさんのことを大好きにならないようにするとしたら。

 多分自分は一生、大好きという気持ちを知らずに生きるのだろうと思った。

 でもきっと、それでいいのだと思った。

 そうするべきだと思った。 

 それに心配しなくても、世の中には「大好き」に値するものなんか、そうそうありはしないのだ。

 そして、シノブさんもまた、一度たりともユミのことを好きだと言ったことはなかった。

 でもきっと、それでいいのだと思った。

 それがいいのだと思った。 

 


 十二歳になったとき、遊園地へ行くことになった。

 生まれて初めての遊園地だった。

 その頃のユミは、修行の甲斐があって、大勢の人の中へ行っても自分を保っていられるようになっていた。

 だから、それは、試験のようなものだった。

 大勢の人がいるところ。遊戯物の興奮で感情の針が振れるところ。様々な思惑が交差するところ。

 そんなところでも、大丈夫でいられるか。

 本当はちょっぴり怖かった。百パーセントの自信はなかった。

 でもシノブさんが行こうといってくれたから。

 お誕生日のお祝い、だったから。


 はぐれないように、手を繋いだ。

 思ったよりも大丈夫だった。

 息を止めないで。呼吸を保って。

 楽しくお話をしていよう。

 歌を歌おう。

 そうしたら、楽しいざわめきだけが、まるで音楽みたいに。

 わたしたちを包んでくれるはず――。




 ああ、そうだ。

 アキラは思い出した。

 あの時遊園地で、妹が繋いだ手を引っ張った。

「お兄ちゃん、何だかすごいいい匂いがする」

「カステラかな? ポップコーン?」

 あちこちに赤と白の屋根の露店が並んでいた。

「ちがう、食べ物の匂いじゃない。んーと、やさしい匂い!」

 妹は、不思議な嗅覚を持っていた。

 時折、人間の感情や性格、現象を匂いで感じるのだ。

 本当は常に感じているらしいが、周りに言っても通じないことが多いので、よほどのことでないと言い出さない。

 だから、今彼女が感じているのは、相当にいい匂いなのだろう。

 くんくんと鼻を鳴らして匂いを吸い込む妹の、頭を超えた向こう側に、自分と同じ年頃の女の子が見えた。

 お母さんらしき綺麗な人と手を繋いで、とても楽しそうだった。

 目が離せなくなった。

 真っ直ぐな黒髪は肘の先を越す長さで、カーディガンの肩でさらさらと踊っている。

 その真っ黒の中に、丸い顔。色白で、上気した頬だけはほのかな桜色。

 目が大きくて、黒くて、丸い。この間動物園で見たアザラシの子供みたい。

 タックの入ったスカートから伸びる、黒いタイツの足。

 背は割と高い。アキラと同じくらいか少し低いくらい。



 シノブさんと手を繋いで歩くユミの目に、自分と同じ年頃の男の子の姿が留まる。

 妹らしき女の子と手を繋いで、とても楽しそうだった。

 目が離せなくなった。

 黒い瞳がとても綺麗だった。アーモンドみたいな形で、ちょっと猫みたい――犬みたい?

 人間なのに、他の人みたいなずるさがなかった。

 すっと伸びた背筋も、きりっとした眉も、とってもきれいな男の子。



「んん?」

 アキラの妹が眉をしかめた。

「何か変な匂いがするっ! ……すごくいやな匂い」

 そのとき、向こうのほうで悲鳴が上がった。



「――っ!」

 痛みがユミの体を縮みませる。

 飛んできた。あっちのほうから。思わず受け取ってしまった。

『何だ、こいつ』

『今、いきなり現れて……』

『日本刀持ってるぞ!』

 混乱する人々の声が聞こえる。

 実際の音、心の声、入り乱れて、騒音にもみくちゃにされる。

 みんな、こっちへ逃げてくる。

「ユミさんは、お逃げなさい」

 ぎゅっと握り締めたユミの手をそっと外して、シノブさんが背中を向けた。

 長い髪を揺らして、向かっていく。

 ――だめ!

 ユミは追いかけた。

 空中にちりちりと千切れた和紙の繊維みたいな模様が広がっている。

 SP能力者だ!

 どうしよう、かなり強い――。

 シノブさんは、強い。

 武術もやっているし、能力も強い。

 けど、でも、戦闘向きじゃないって【一族】の人が言ってた。

 抑えなきゃ、反作用、でも……。

 ユミは自分のテレパシー能力を制御する訓練で精一杯で、SPに対しての戦闘は聞きかじりの知識でしか知らないのだ。



 突然現れたその男は、時代劇の刀を振り回し始めた。

 切られた人は、でも時代劇みたいにきれいに倒れるわけじゃない。

 ものすごい怖い声を上げて、のた打ち回っている。

 赤い液体がどくどくと出ている。

 血だ。転んだときに膝から出るのとは比べ物にならないくらい、どくどく噴き出してる。

 妹が鼻を押さえた。よほどひどい匂いがするのだろう。

 そのとき、男の前に髪の長い女の人が立ちふさがった。

 さっき、あの女の子と手を繋いでた人だ!

 アキラは思わず身を乗り出した。

 女の人が先に飛びかかった。

 捕まえられる! と思ったのに――

 男の姿が、かき消えた。



 瞬間移動で立ち回る男に、シノブさんが背中から切られた。

 ユミの中で何かが壊れた。

 それは、長い間忘れていた気持ちだった。

 殺意。

 あの男、いらない、いなくなって――

 思った瞬間、ずき、と【チタン】が痛んだ。呼吸が苦しくなる。

 だめ、こんなところで【罰】に当たっている暇は無い。

 男はシノブさんにもう一太刀浴びせようとしている。

 誰か、助けて、誰か、誰か……。

 あの男の子が見えた。妹の手を引いていた。



 

 妹が、何故か急に、アキラの手を振り切った。

 そしてふらふらと、日本刀男のほうへ向けて歩き出した。

 男は、自分が切りつけた女の人にもう一度切りかかろうとしていたのをやめて。

 アキラの妹へ向かって、歩き出した。

 そして、妹の腕を掴んで、脅すように日本刀を突きつけた。

 助けなきゃ、僕は、妹を――


 

 そう、助けて。

 ユミは念じた。

 あの男の子はきっと、妹を助けるためなら一生懸命になってくれると思った。

 だから妹に囁いた。

 そのままお兄ちゃんと手を繋いでいると、危ないよ、あっちへ逃げなよ、って。

 だから男に囁いた。

 あっちの女の子を襲っちゃえ、って。

 どの人間のことも、テレパシーで直接傷つけたわけじゃない。

 ちょっと背中を押してあげただけ。

 だからユミには【罰】が当たらない。

 何てうまく行ったんだろう。

 嬉しくて、にっこり笑ってしまう。




 ……一瞬、それが何を意味しているか、わからなかった。

 アキラの頭が真っ白になった。

 ユミが今着ているドレスと同じくらいに真っ白に。

「ほら、だから……来ないほうがよかったのに」

 ユミがちょっと困ったように微笑んだ。

「知りたくなかったでしょう? わたしだって、知られたくはなかったんですよ。でも、アキラさんが来ちゃうから」

 まるで、アキラが悪いと言わんばかりの口調で。

「――いいえ、違いますね。悪いのはわたし。いつだって、わたし」

 長い黒髪が揺らめいて、表情を隠す。

「安心してください。もう再生はここで終わりです。これ以上は辛い記憶ですから……また封印します」

 そう言って、ゆっくりと水をかいた。

 かき回された部分が黒く濁って、あの日の映像をかき消す。

「入り口までは送りますね。……それとも、そうだ。その前に」

 水が静まり、髪の陰から再び現れたその顔は、今まで見たことがないようなとびきりの笑顔だった。

「わたしのことも忘れてしまいますか?」

 まるで楽しい計画を話すみたいに、弾んだ声。

「今のわたしにならそれが出来ますよ。ここはわたしの心の底なので、どんなことだって」

 そう、どんなことだって、出来る。

 あなたが望むことも、望まないことも。

「そうしたらアキラさん、あなたは自由です」

 もっと早くそう出来たら良かったのに。

 何かを眩しがるみたいに、ユミは目を細めた。

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