第二節 現状
アキラは、ふらふらと寮の自室に戻った。
崩れ落ちるようにベッドに腰掛け、頭を抱える。
お籠もり部屋を出てからどうやってここまで歩いてきたか、記憶はおぼろだった。
ただ、
――このままだと、ユミは目覚めないかもしれん。
トウゴの言葉が頭の中でがんがん響いていた。
「……どういう、ことですか?」
「体の傷は確かに深い。でも今眠り続けているのは心因的なものだ」
それがシン医師の見立てだった。
ユミがこのような状態になるのは、初めてではないという。
過去に二回、同様のことがあった。
自分が覚醒したとき。それからアキラを覚醒させたとき。
「自分で自分を閉じ込めている。――その能力で」
精神感応。
人の心を読み、感覚に同調し、暗示によって肉体にまで影響を及ぼす力が、ユミ自身に向けられたとき。
潜ってしまう、自分の内側に。
閉じこもってしまう、殻の中に。
「どうしたら……目を覚ますんですか?」
「前二回は、シノブさんがユミを起こした。精神ダイブして呼びかけて、引っ張り上げた。だが――今彼女は連絡の取れない場所にいる。いつ戻ってくるかもわからない」
ごく、とアキラの喉が鳴る。
「このまま手をこまねいていても、恐らく事態は好転しない。ユミの体は衰弱していくし――精神は潜り続けて、誰の手も届かないところへ行ってしまうだろう」
それくらい、ユミの心の底は深い。能力と比例するように。
体が弱り、心が沈んだら、待っているのは。
「死、だろうな」
予想はしていても、殴られたようなショックに頭が真っ白になる。
「そもそも、体の傷が癒えないのも、ユミがそれを望んでいないからという可能性がある。自罰的な性格をしてるから」
――何でも一番悪いのはわたし。それでいいんです。
「そんな……そんな、誰か他にいないんですか。シノブさんじゃなくて、ユミを助けられる人間は!」
「いる」
トウゴがアキラを見据えた。
その目は冷たく冴えていて――黒目の周りがやや青みがかっていた。
「お前だ。お前しか、いない。ユミの心に潜って――連れ戻せるのは」
「……俺……が……?」
耳を疑った。
自分には精神感応系の素養は無い。そんな高度なことが出来るとは到底思えなかった。
トウゴはしかし、うなずいた。
「覚えていないか? お前は一度、入り口までは行っている」
解との戦いのあと。
アキラの【罰】と自分の【罰】、二つを受けて倒れたユミ。
その精神に同調した、という。
言われて思い出す。
確かにあの時、どことも知れない水の中でユミと向き合っていた。
白いサマードレス。
黒い髪が藻のように揺らいでいた。
「だから、怪我は大した事ないのに、丸々二日目覚めなかった」
「あそこが――入り口、なんですか」
充分に深いと思った。上を見ても光は見えず、水の圧力に音は消されて、ユミ以外は真っ暗だった。
「おれにはよくわからんが、シン先生曰く、お前が一人で戻って来られる深さなら入り口程度だろう、ということだ。これが何を意味するかわかるか?」
「それ以上潜ったら……一人では戻ってこられない」
トウゴはうなずく。
「命綱なし、酸素ボンベもなし、地上との連絡も取れず、深度は不明。しかも完全にお前がアウェイだ」
「戻って来られないと、どうなるんですか?」
「死ぬ」
訊く前から答えはわかっていた。
しかしそれでも、自分がやるしかないのなら、自分に何か出来るのなら。
「やります、やらせてください!」
「――そう言うと思ったよ」
腕を組んでソファに深くもたれる。その口元には、冷笑とも苦笑とも取れる表情が浮かんでいた。
「いいか、冷静になれ」
「俺は冷静です」
「冷静なやつがこんな事態に即答するか、バカ。さっきまでの話を思い出せ。お前はユミに人生狂わされてるんだぞ」
「――!」
どうしようもない怒りがこみ上げた。
テーブルを叩いて立ち上がろうとするその頭を、トウゴが掴んだ。
力が逸らされるのか、どうしてもそのまま立つ事が出来ず、アキラは元通り座らされた。
「おれが言ってるんじゃない。ユミが自分で言ったんだ」
――ごめんなさい、と謝り続けるユミの姿が脳裏に浮かんだ。
「だって、そんなの――仕方ないじゃないですか。ユミのせいじゃない」
「ああ、そうさ。ユミのせいじゃない」
アキラをいなしながら、しかしトウゴ自身も苛立っているようだった。
何に対しての、誰に対しての苛立ちかはわからないが、抑えた声がことさらに低い。
「お前言ったな、ユミを守ってやりたいって」
先程口を滑らせたことを拾い上げられて、一瞬戸惑う。
「――はい」
「どうしてそう思う」
「――だからそれは……」
小さくて、方向音痴で、内気で、……可愛らしくて。
「そうだな、あれを見て可愛くないと思う男は、多分いない。いや、女もか。最初の日にショウコがべた褒めだったろう」
迷子のユミの保護をアキラに頼むときに、並べ立てた特徴。
顔も可愛い。声も可愛い。ライムとは正反対に、大人しくて素直で穏やかで優しくて。
「好みの問題はあるだろうが、大体の人間に嫌われないタイプだ。そして、その好みの問題すら、ユミはある程度クリア出来る」
「……」
「本来はな、おそらく引っ込み思案で気も弱い。目立つことはしたくない。なのに、あの自己紹介は見事なもんだったろう? お手本みたいな『ご挨拶』だ」
確かに、違和感を感じた。そして、疎外感も。
「おれがそうするように望んだからだ。以降、会議での発言もそれに準じてる。ライムの軽口には笑ってやる。カスミと話す時は簡潔に無駄なく。相手に自分を合わせることにかけては、ユミ以上の才能を持つやつはいない。そのテレパスの能力コミでな」
「それの何が悪いんです!」
並べ立てられれば、そのどれもに思い当たる節はある。
思い当たり、記憶の中のユミをたぐればたぐるほど、本当の彼女の姿がわからなくなる。
上げた大声は、その迷いを誤魔化すためもあった。
そうだ、人に合わせようとして、好かれようとして、何が悪い。
「何にも悪くない。だが、ユミ本人はそれに常に罪悪感を抱いている」
「――」
……ユミの性格なら、さもありなんと思った。
自罰的。
最初に会ったときにも感じた。そう、それがやはりユミの本当の性格で――。
「そう聞いたら、そんなところも愛しいと思うだろ」
「……なっ」
「図星だな」
言葉に詰まり、下唇の裏を噛む。トウゴも黙った。
「……さっきから、トウゴさんが何を言おうとしているか、わかりません」
「お前の人生は、ユミに狂わされた。そして現在進行形で狂わされ続けている」
きっぱりとトウゴが言い切る。
「ユミと会ってからこっち、体調が悪かったろう。熱っぽくなかったか?」
「あれは……人形たちに襲われた怪我と、【罰】のせいで」
「その前からだ。頭がぼうっとしたり、時々わけがわからなくなったりしなかったか?」
心当たりは、無いでもなかった。
特にユミが絡むと、自分でも不思議なくらいにいらついて、過剰な反応をしていた。
ふと思い至る。
「もしかして……さっきの話の、刷り込みに関係が?」
「それもある」
守りたいという過剰な欲求。守られたいという裏返しの。
ライムがしきりに、恋心だと囃していたのが思い出された。
――全然、まったく、そういう話じゃなかったわけだ、と時に合わぬ苦笑がこみ上げた。
「それもあるが……さらに根が深い。おれたちが【キャリア】であるが故に」
まだ何かあるのか。
「お前はな、無意識下で抵抗していたんだ。ユミの能力に」
「テレパシーで……干渉を受けていたってことですか?」
思い返す。
ユミは、息を止めてしまう癖があると言っていた。
だから、故意でなくても心を読んでしまったらごめんなさい、と言っていた。
「たとえば、俺の心をユミが読みそうになっていて、それに対して抵抗していた、ってことですか?」
「違う。――能力は能力でも、転換した方じゃない。根源の【力】のほうだ」
きぃん、と耳鳴りがした。アルミ箔を奥歯で噛んだような、不快感。
「……は」
笑い飛ばそうとしても、ようよう息を吐くのがやっとだった。
「……だってユミは、いつもちゃんと【チタン】をしてたじゃないですか。外してるのなんか見たことないですよ?」
何をバカなことを、というニュアンスを敢えて混ぜたのは――その不快感が消せないから。
しかしトウゴはその問いを無視して、話を続けた。
「ユミの本来の【力】は、洗脳だ。いや、洗脳という言葉では生ぬるいかもしれん。人間を、心底から操れる。彼女が本気で望めば世界は滅亡するだろう。全人類が殺しあうか、もっと手早く集団自殺だ」
信じられるか? とトウゴが続ける。
予想ではあるが、ユミの【力】を以てすれば、自らを扼殺させることも可能だという。
自分の手で自分の首を絞めて、苦しくなっても締め続けて、意識を失っても締め続けて――絶命に至る。
いや、もしかすると、息を止めさせることで殺すこともできるかもしれない。
ごくり、とアキラの喉が動いた。
二度三度、口をもぐもぐと動かし、それからようやく言葉を紡いだ。
「……そんなの、別に、俺だって、言われましたよ。『世界を滅ぼすほどの』なんて、俺たちの【力】の枕詞じゃないですか」
そうだ、つい先日相対したばかりの解の【力】も――【キャリア】の持つ力、そのすべてが、SP症による超能力という枠組みを超えた、デタラメなもの。
「まあそりゃそうだ」
皮肉な笑い。
「だがその力が、実際自分に向けられてるとなると、お前さんだって穏やかじゃいられないだろう?」
「だから、そのための【チタン】でしょう」
「抑え切れないんだよ、ユミの力は。テレパシーへ転換することに落ち着いたものの、力の種類が近すぎて、境界が曖昧なんだ。そして」
アキラを指差す。
「ユミと特殊な関係にあるお前、近しいところにいるお前は、その影響をもろに受ける」
たとえばユミが、アキラに自分を好ましく思ってほしいと思う。
するとアキラは、ユミを好ましく思わずにはいられない。
たとえばユミが、アキラに自分を避けてほしいと思う。
するとアキラは、ユミを避けずにはいられない。
ユミ本人がことさらに望むわけではない。
だが、人に好かれたいという気持ちは――抑えきれるものではない。
「当人が、好むと好まざるとに関わらず、だ。いや――もう洗脳を受けている時点で、好むも好まないも無い。それがそいつの本心からの行動になる。普通ならな」
「俺の場合は……その力に対しても、多少の抵抗力がある、っていうことですか」
「そうそう。少し冷静になってきたか?」
アキラは首を振る。
「抵抗できるなら、いいじゃないですか」
「抵抗力がある、って言うだけで、結局抵抗は出来ん。最終的にはユミの思いのままだ。体が消耗するだけ損してる、そういう状態だ」
返す言葉が、もう無かった。
もちろん、ユミを擁護することはいくらでも出来る。
でもそれは――どこまで自分の本来の心の動きから来るのだろう。
一度疑いだすとわからなくなる。
「……ま、疑えるようになっただけでも、進歩か」
トウゴはふうと息をついた。出来の悪い生徒を前にした教師のように。
「要するにお前は、今とんでもなく性質の悪い――魔性の女に引っかかってる。手を切るなら今しかない。卑俗な言い方をすればそうなる」
「手を、切るって」
「見捨てろ」
言い放たれた言葉に、血の気が引いた。
「ユミをあのまま安らかに眠らせておけ。最初は苦しいかもしれんが、そのうちに忘れられる。お前はこれ以上煩悶することなく、元のお前に戻れるんだ」
「……出来るわけ、ないじゃないですか、そんなこと」
「じゃあ助けに行くのか?」
「当たり前です」
「ユミがそれを望んでいなくても?」
反論が、止まってしまう。
その可能性は考えていなかった。
「あのな、そもそも助けてほしくないから、このまま目を覚ましたくないと思ってるから、眠ってるわけだろ」
「――それでも」
「もう一つ言うと、ユミはお前に対しては罪悪感しか抱いていない。もしも心の底でユミの精神と触れあうようなことがあったら、多分今までおれが言ってきたのと、全く同じようなことをぶつけられるだろう。おれに言われても相当混乱するものを、本人に言われて、お前は冷静で言われるか?」
星宮医院で、ユミと言い争いをしたときのことを思い出す。
事情がわかった今となっては、ユミがあんなにも自分に対して謝り続けたことは理解できる。
それでも――。
今同じことを言われたとしてもアキラは、ユミは悪くないと叫んでしまうだろう。
そして、ユミはそれを受け入れないのだろう。あくまでも自分が悪いと言い張るのだろう。
拒絶された、分かり合えない、そのときに感じる絶望の深さ。
それはもう理屈ではなくて、身がすくむ思いだ。
「冷静さを欠けば、その分生還の確率は減る。乱されれば乱された分だけ、お前は戻ってこられなくなるかもしれない。生死を賭けた口喧嘩、お前に出来るのか?」
――ケンカは、苦手だった。
人と争ったことなど、ない。記憶にない。
先程のカスミやライムとのいざこざは、ほとんど人生初だった。
「まだある」
アキラはもう、トウゴの視線を受け止めきれなかった。知らず知らずのうちにうつむいていた。
そこにかぶせられる、決定的なリスク。
「……よしんば首尾よく事が運んだとして、そうしたらお前はもう、元のお前には戻れない。精神ダイブは互いに影響し合うから、今まで以上に、心にユミが食い込む。強固な絆と言えば聞こえはいいが、実際は隷属だ。もしこの次にユミが怪我をしたり――万が一、死ぬようなことでもあれば、お前は殉教する破目になるだろう」
それでも――いいと。
そんなこと、望むところだと。
むしろそうなりたいと。
思ってしまう自分が、もうわからない。
どこまでが自分の本当の気持ちで、どこからがユミとの関係とその【力】に影響を受けてのことなのか。
自分という存在は、どこにあるのか。
しばらくの静寂。
深い海の底にいるような、圧迫感。
ユミの心の底は、ここよりもっと、絶望的に深い。
「――ああ、そうか、悪い。おれが間違ってた」
トウゴはいつもの飄々とした風情に戻って、言い直した。
「こう言えばよかったんだ。お前がユミを助けに行くと、ユミはひどく傷つく。多分、死んだほうがマシだと思うくらいに傷つく。お前はユミを傷つけられるのか?」
ユミを、自分が傷つける。
アキラは部屋で一人、頭を抱えたまま、唸った。
脳がその状態を想像することを拒否する。
もうユミは、充分傷ついている。
自らの力のせいで。アキラという存在のせいで。
これ以上傷つけることが正しいとはどうしても思えない。
でもだからといって、このまま起こさずにいるなんてできっこない――。
どうしたらいい?
問いかける対象は、相談出来る相手は、それなりにいるはずだった。
ライム、カスミ、ショウコ、トウゴ。
シン先生や義父母。
――数え上げて、しかしその全てが、たった一つの存在で上書きされる。
ユミ。
苦しくて、苦しくて、どうしようもなく苦しくて、アキラは泣いた。
この仕事をするようになってから、初めて自覚して流した涙だった。




