第三節 無貌の告白
≪主な登場人物≫
藤沢解:兄
藤沢来栖:妹
篠原史行:演劇部員。脚本担当。
友永朝日:演劇部部長。
――おにいちゃん!
叫びは様々なメッセージを含んでいた。
助けて。
逃げて。
許して。
とめて。
やめて。
そして、――死んで。
どちらが先に始まったのかわからない。
兄が妹を『解く』のが早かったのか。
妹が兄を『繰る』のが早かったのか。
分解された妹はそれでも兄を操り、兄自身をも分解させ。
操られた兄は自分を分解しながらも妹を分解し続け。
折り重なって倒れ、輪郭は滲み、二つの存在が一つになる。
兄妹の両親が部屋へ入ってきたのは、正にそのときだった。
融け合う二人を前にしてどうすることも出来ず、ただ呆然と立ちすくむ。
凍り付いたような時の果てに、両親は恐る恐る一人残った子供を抱き起こし、そして呼んだ。
――「解!」
かくしてその存在の真の名が決まった。
もとから余りにも【力】に近い名前であったが故に、文字を換える必要すらなく。
ここに二つの存在が喪われ、一つの存在が生まれた。
両親が兄の方の名前を呼んだのは、何より顔が「彼」のものであったからだが。
心の底で、どちらかを選べと言うならば兄が生き残るのを望んでいたから、なのかもしれなかった。
解は賢い少年だった。
体が弱く学校へはほとんど行けなかったが、それで勉強が遅れたということもない。
家庭教師がついたことでむしろ級友たちよりも成績はよかった。
優しく穏やかで、決して親に逆らわない。
そして美しい外見をしていた。
こうなるとその病ですら、両親には慈しみの理由にしかならない。
対して妹は、体は丈夫ではあったけれど、頭も要領も悪く、うるさいばかりで品性の欠片もないのだった。少なくとも両親の目にはそう映っていた
なので思わず、本当に思わず、抱き起こした解に向かって両親は口走った。
――お前が残ってくれて、よかった、と。
「彼」の体が、はっきりと女性の特徴を備えているのを知らぬままに。
両親は悩んだ末に、呼び方を改めた。
来栖、と。
子供が生める体でよかった、藤沢の血を絶やさなくて済む、婿養子を取ればよい、と。
失われたのは兄の方とされた。
だがほとぼりが冷めるまではと、その戸籍は残された。
死亡診断書を書いてくれる医者のつても、礼として包む金もあったが、とりあえずの面倒を避けた。
もしかして、あきらめきれなかっただけかもしれないが。
一度は『解』と名づけられた存在は、以降その名で呼ばれることなく、別の型にはめこまれた。
呼び名に沿って生きるべく、彼は――ばらばらになった記憶と知識をたぐり寄せ、かき集めた。
「来栖」とは、どんな存在だったろう。
そう、確か、賑やかで、明るくて、元気で……優しい、子だった。
学校を休みがちな「解」に、そこでどんな楽しいことがあったのか、友達はどんなに素敵なものか、話して聞かせてくれた。
振る舞いや言葉遣いに、少し奇矯なところもあったけれど……それすらも可愛い……僕の……妹。
真の名の故にか、あるいはやはり兄が生存競争の勝者だったのか。
「来栖」の心は、記憶は、「解」のそれに近かった。
けれど「解」は最早「来栖」なのだから、「来栖」でなければならなかった。
「来栖」でなければならなかった。
それが、自分が命を奪った妹へのせめてもの償いだと――思い、言い聞かせた。
私は「来栖」、私は「来栖」、私は「来栖」。
その名前で高校へ通い始めた。
その名前で部活に入った。
「えー、やだー。『藤沢さん』って呼んじゃダメ!」
――だって「解」も「藤沢さん」だから。
「『来栖』だよ。来栖って呼ばなきゃ、お返事しなーい」
――そう、きっと、「来栖」だったらこんな風に。
「うん、『くーちゃん』なら良いよ。許可します!」
――こんな風に、楽しく、みんなと過ごせた……。
何度も何度も何度も、その名で呼ばれた。
何十回も何百回も何千回も、自らに言い聞かせた。
いつしか彼は「来栖」であることに何の疑問も持たなくなった。
それが当たり前だと思っていた。
あのときまでは。
周囲の景色が薄茶色になっていく。
輪郭が徐々にぼかされて、まるで白いキャンバスの端っこまで塗っていない油絵のように、映像が浮かぶ。
――あの洋館のセットだ。
演劇部員が、隙間の床に車座になって座っている。
新しく仕上がったばかりの脚本を眺めている。
「僕」の目はその文字に釘付けになった。
「カイ」。
そう書いてある。確かにそう書いてある。
懐かしくて指でなぞった。
これ、僕の……。
「じゃ、キャストを発表しまーす。といってもノゾミ、イマチ、トオカヤは変わらないけどね」
朝日ちゃんが言う。
「エイタは篠原ー」
名前を呼ばれて、フミユキおにーちゃん――フミユキは、口をちょっとへの字に結んで、首だけでひょこっとお辞儀をした。
よくわかる、あれは照れているんだ。
「そして、我らが少年探偵・カイくんは……くーちゃん!」
くーちゃん……来栖……来栖は……カイ……解。
――脚本の中の言葉たちは、妙に懐かしく、生々しかった。
カイの台詞、カイの表情、カイの考え方。
不思議だった。どうしてこんなに『僕』にしっくり来るんだろう。
忘れていた何かが蘇ってくる。
そうだ、「解」はこういう物言いをする子だった。
こういう表情をする子だった。
こういう考え方をする子だった。
私は……僕は……。
エイタ――フミユキを見つめると、ん? と首を傾げた。
「何だよ。何か言いたいことあるか?」
「……どうしてフミユキおにーちゃんはこんなお話が書けるの?」
「友永に書けって言われたから」
「……朝日ちゃんが……お願いしたから?」
「まあ、それは『狂想曲』の方だけど」
あのやり口はひどかった。あれはもう恐喝だ。そう言いながらもフミユキは何だかとっても嬉しそうで。
「『変奏曲』を書いたのは、……来栖がいたからだよ」
そう言って、首を掻いた。髪の毛の尻尾が揺れる。
よくわかる。これも照れているんだ。
「あ、舞台に忘れ物しちゃった!」
僕は頓狂な声を上げた。
「えー、またぁ?」
「何忘れたの?」
「……だいほーん」
僕はぺろりと舌を出す。
「あれを読まないと眠れないので、取りに行っちきます! みんなは先に帰ってて!」
僕は敬礼をして学校へと走り出した。
……最近、みんなといるのが、苦痛だった。
帰り道で、友永さんとフミユキと三人だけになるのが、とても苦痛だった。
僕が先に電車を降りて、動き出す電車の中で並んでいる二人を見るのが、苦痛だった。
自分でもおかしいと思う。
この間のあれからだ。
足を止めて空を見る。通学路の、建物の隙間の、狭い空。
あの日、天文部の主催で『星を見る会』をやった。
屋上で寝転がって、一晩中、彗星と流星群を観察した。何故だかひどく懐かしかった。
僕の隣にフミユキがいた。フミユキの隣に友永さんがいた。
僕の手をそっと……フミユキが握った。
――繰り返し繰り返し、思い出してしまう映像を感覚を、振り切るように夜道を走る。
すぐに学校に着いた。
門はもうとっくに閉まっている。
ひらりと飛びつき、よじ登って、飛び越えて――
ああ、まるで夢の中みたいに体が軽い。
こんなこと、昔の僕なら想像すら出来なかった。
息をするだけで苦しかった。不規則な鼓動が恐ろしかった。
それが今は――今は?
今は、何故こんなに、動けるのだろう。
答えはわかっている。
これは、僕の体であって僕の体ではないからだ。
そっと胸に手を当てる。
ささやかだけれど、そこには確かにやわらかいふくらみがある。
脚本は、本当に舞台に置いて来ていた。わざと。
ステージへ続くドアを、部室から取ってきた鍵で開ける。
そのとき。
「来栖!」
呼び止められた。足がすくむ。
ためらいを隠して、振り返る。
「……あれ、フミユキ、おにーちゃん?」
「おま、足……早すぎ」
息が切れている。
「夜の学校に一人でなんて、危ないから……」
追いかけて、来てくれたのだろうか。
「……ありが、とう」
息が苦しい。
走ったせいでは全然なくて、急にもう、息が苦しい。
僕は体育館へ駆け込んだ。
ドアを閉めた。鍵も掛けた。閉じこもった。
『三日月仔猫狂想曲』のヒロインみたいに。
外灯の明かりが遮られると、ステージは真っ暗で。
まるで僕の心みたいだった。
「――来栖!? おいこら、ちょ、開けろ!」
がちゃがちゃ、とノブを回そうとする音。
ばん、と掌でドアを叩く音。
ごめん、ごめんね、フミユキ。
僕は君とはもういられない。
来栖って呼ばれるのがつらい。
ごめん、ごめんね、来栖。
僕は君を生きると決めたのに。
こんなに丈夫な体を君がくれたのに。
涙すら流せずに立ちすくむうちに、外の音は静かになった。
怒って帰ってしまっただろうか。それならばそれで。
もしも待ってくれているとするなら、何食わぬ顔が出来るように心を整えて。
ひとまず、台本を取りにステージを進む。
大体どこにあるかはわかっていたから、真っ暗の中を手探りして――。
あった、と思った瞬間、不意にボーダーライトがついた。
まぶしさに目がくらむ。
「明かりくらいつけろよ」
馴染んだ声がした。
鍵は、かけたはずだった。
なのに何故、そこに彼がいるのか。
ああ、部長の――友永さん、の鍵を借りてきたのか――。
その確認は、彼女の名前を口にすることがつらくて、できなかった。
「……ごめん」
彼は謝った。
「何が?」
「この間の……『星を見る会』で……」
言わないで。
――繰り返し繰り返し、思い出してしまう映像を感覚を、振り切るように「来栖」は尋ねる。質問で遮る。やや唐突に。
「そうだおにーちゃん、星って言えば前から思ってたんだけど!」
台本の見返しを開く。
「何でここに献辞が書いてあるの? 『流星群に捧ぐ――』って」
「え、ああ……」
鼻の下をこする。
「……うん、いつか言わなきゃと思ってたんだけど、お前、十歳くらいの頃に、俺と会ってないか?」
十歳。僕がまだ――僕だった頃だ。
「地域のプラネタリウム主催で天体観測イベントがあって、そこで、カイって名前の子に会ったんだよ。なんか、大人みたいな口きくんで、最初は何だこいつって思ったんだけど、よく話してみるといいやつでさ、すごい頭よくて、その日ずっと一緒に行動してて」
――ああ。
「連絡先交換するの忘れちゃって、以来会ってないんだけど、あのシリーズのカイってそいつがモデルで」
――それ。
「初めてお前を見たとき、びっくりしたんだよ、そっくりで。でも名前違うし、確かあいつは男の子だったしって……でもカイの台詞喋るところ見てると、本当にそっくりでさ」
――僕だ。
<お前って、変なヤツ>
<変かな。何が>
<えらそう……っていうか>
そうだ、この間テレビで見た名探偵みたいだ。
いいね、名探偵。
<じゃあ君がワトソンだ>
<なんかつまんねー>
<助手は必要条件だよ、名探偵の。事件と同じくらい重要だ>
「……行った」
「え?」
「そのイベント、行った」
「あ、じゃあやっぱり」
フミユキの顔がぱっと明るく輝く。
「お前だったんだな、来――」
「カイ!」
自分でもびっくりするほどの声で、遮っていた。
「……え」
「……カイ。カイだよ。カイって呼んで」
組んだ手が震える。かちかちと歯が鳴る。涙が零れた。
「『解』って……呼んで」
フミユキは戸惑いながらも、僕の視線を受け止めた。
そして、ゆっくりと、唇を動かした。
「――解」
その瞬間僕は、フミユキに向かって駆け出していた。
嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて、両手を広げて、抱きついて――。
次に気が付いた時は、ただ一人、自分の体を抱きしめていた。
耳鳴りのするような静寂の中、振り返る。
舞台に倒れる、僕。僕と同じ姿の、来栖という名前の、存在。
たった今、僕が脱いで捨てた――少女。
恐る恐る手を見る。少し、骨ばっている。
喉に触れる。リンゴの芯を飲み込んだ突起。
胸に触れる。そこにやわらかなふくらみはない……。
一つになってしまったものを、もう一度二つに分けるのには、質量が足りなかった。
それでは僕は、その足りない分を、どうやって埋めたんだろう。
何を使って――埋めたんだろう。
逃げ出した。
来栖を置き去りにして逃げ出した。
ドアを――抜けた。
閉まったままのドア、鍵のかかったドア。
振り返る。
ノブを回す。掌で叩く。
けれどそれは、やはりドアで。
そうかフミユキ。これは君の――宿した力か。
そしてその力ごと――僕は君を――。




