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きみの手をとる物語  作者: 百賀ゆずは
第六章 ダブルビジョン
24/42

第一節 二つの脚本

≪主な登場人物≫


アキラ:主人公。サイコキノ。

ユミ:ヒロイン。テレパス。

ライム:アキラの相棒。テレキネシス。

カスミ:情報担当。テレポーター。

ショウコ:事務担当。サイコメトラー。

トウゴ:係長。念写。


宮本天花:宮本諒刑事の妹。高校2年生。


藤沢来栖:演劇部員。14年前の事件で死体となって発見された少女。

篠原史行:演劇部員。脚本担当。14年前の事件で行方不明になった少年。


友永朝日:14年前の演劇部部長。

 六月四日、土曜日。朝十時。晴れ時々薄曇。

 不忍署の前を行ったり来たりしている者がある。

 いつもと同じポニーテールに私服姿――天花ゆきだ。

 もう十分間もこうしている。不忍署は、通称こそ「署」だが、前にも言ったように外観が蔦に覆われた小学校なので、入りづらいことこの上ない。

 もっともいつもの天花なら、たとえば泊り込みの兄に差し入れとか着替えを持ってくるような用事なら、ためらいなど覚えずずかずかと入っていくのだが――今日はちょっと勝手が違う。

 手には封筒。銀行でもらえるやつだ。そして中身は小銭、六百円也。

 先日のお茶代をライムに返すつもりでやって来たのである。

 きっかけは昨日、歌瑠とちょっとした言い争いをしたことに始まる。

 授業中にメールをして、歌瑠が先生に注意された。

 ふわふわ髪でおしゃれな彼女だが、真面目な性格でいつも綺麗なノートを取っている。

 珍しい、と思って昼休みに話題を振ったら、捜査協力だと言った。

「昔の演劇部の先輩に連絡を取ってるの。うまく繋ぎが取れたんでつい気が急いて」

 演劇部は、割と縦の繋がりがある。卒業してからも練習や舞台を見に来てくれたり、大会で機材を運ぶのに車を出してくれたり。また、芝居を続けている人からはチケットをもらったり買ったり、細々とだが、伝っていけば意外に辿れるものだという。

「あとSNSにも部の卒業生のコミュニティがあったからね、そこで該当年度の人を探してみたりして」

「そこまでして、何を調べてるの?」

「……秘密」

 ふふ、と笑う、その笑顔が何だかあんまりにも切なく美麗で、胸がきゅっと痛んだ。

 何だろう、いつもと違う。それに尽きる。

 小百合がもお弁当の唐揚げをぐもぐと咀嚼しながらあっさりとネタ晴らしをする。

「あれでしょー、ライムに頼まれて過去の抜けてる台本探してるっていう」

「あいつに?」

 眉根が寄るのはもはや反射だ。先日の喫茶店での一件以来、株はさらに暴落している。

 軽くてお調子者でいい加減でだらしない女ったらし。という像が脳内で出来上がってしまっているのだ。

 故に、大事な女友達がそいつに振り回されている、というのは看過できない由々しき事態である。

「……ちょ、やめなよ、あいつと関わるのは」

「――何で?」

「その、信用できないって言うか、何ていうか」

「お兄さんの同僚なんでしょ? 身元は確かなんでしょ?」

「それはまあ、そうなんだけど」

「何か個人的に嫌なことでもされた?」

「そ、そんなことは、断じて! 無いけど!」

 本当は、「可愛いなあ」とか「足が綺麗やね」とか実に度々色々言われていてそれが不信の大きな原因なのだが、さすがにこの場でそれは言えない。

「じゃあ何」

「その……何か、軽いって言うか……女の子によく声かけてるとか、そういう噂で」

「そんなの知ってるわよ。この間だってそうだったもの」

 いつもあんな調子ってことでしょ? と澄ました顔でパックのいちご牛乳をすする。

「え、ちょっと、だって、あんなんでいいの?」

「嫌だったら協力なんかしないわよ」

「きょ、協力とか、口実に決まってんじゃん! きっと歌瑠と親しくなりたいだけで――」

「あのね」

 じろり、という感じで歌瑠が睨む。美人顔なので、そうすると大層な迫力がある。

「誤解しないでね。協力を口実にしてるのは、あ、た、し、の、方、なんだから」

 え、あ、いや、うん、実は、誤解は、してないんだけど、一応、言ってみただけで、なので、言い切られるとたじろいでしまう。

「――どこがいいの?」

 確かに黙ってる分には見てくれは悪くないし、喋ってもあの関西弁がむしろツボっていう場合もあるだろうけど、もっと点数の高そうな大学生に声をかけられてもなびかずに軽くあしらっていた彼女が、こんなにのめりこんでしまうその理由が、やっぱりわからない。

 名前を誉められたから、とか? でもそれこそ、ナンパの手口、口説きの常套句でない?

 たっぷり五秒の間を取って、さらにその後ため息をついて、歌瑠は言う。

「電話していい? って聞いたら、ええよ、って言った」

「は?」

 思わず聞き返してしまった。

「そんだけ? だってそんなの、いいって言うに決まってるじゃん! それが目当てなんだから」

「でもその後、仕事で出られないこともあるから堪忍な、って言った」

「そ、それくらい! 誰でも言うわよ、うちの兄でも言うわよ!」

 取り乱す天花を、歌瑠はじっと見つめている。

「多分、誰にもは言わないの。だからよ」

 何そのナゾナゾ。

「――そもそもユキは失礼よ」

 やや調子を変えて、芝居がかって歌瑠は言った。

「あたくしは、言うなればご馳走していただいたお茶分の働きを返しているに過ぎないわ。あんたタダでご馳走になっておきながら、その相手をどうのこうの言うのってマナー違反じゃなくって?」

「ぐ……」

 それは、ちょっとは気になってはいた。いくら相手が年上で社会人でも、平気でおごらせるような女にはなりたくない。ないがしかしこの場合は。

「でもそれは、あっちがおごるって言ったんだし、小百合だって――」

「あたし情報提供したもん」

 それまで空気を読んで大人しくしていた小百合が、得意げに胸を張った。

 え、な、まさか。裏切り者。

「あと耳たぶ触らせ賃」

「――そ、そうよそれよ、あたしが言ってるのは。あんなことするヤツ、嫌でしょ? 最低でしょ?」

「別に。いいじゃない、耳たぶくらい」

 歌瑠が長い髪をくるくると指に巻く。

「むしろ触ってほしいくらいだわ」

「テンカも触らせてあげたら? それでお茶代チャラ」

 喜んでさらにお小遣い弾んでくれちゃうかもよー、と小百合が笑った。頬杖をつき足をぶらぶらさせながら。

「――そ、んなん、不潔!」

「……潔癖」

「ま、テンカだからしょうがないよね」

 二対一ってことはつまり敵戦力が当方の二倍なわけで、どうやってもこうやっても不利、だった。そもそも一対一でも勝てないのだ。

「わかったわよ。お茶代返してくるわよ。それで文句ないでしょ!」


 ――と、ぶち切れてから、もうすぐ二十時間が経過するわけですが。

 結局まだこの辺をうろうろしている次第である。

 事務所に行って、ライムがいてもいなくても、それなりに困る。

 いない方が気が楽だけど同僚の人につっ返すお金を預けてくるのもなんだし。

 いる方が話が早いけどまた捕まって何だかんだと聞いてて恥ずかしくなる言葉をかけられるのは避けたいところ。

 理想を言えば、今ここにひょっこりとアキラが現れてくれれば、誰よりも預けやすいしうまく取り成してくれそうだし、なのだが。

 いっそ兄づてに、と思わなくもなかったのだが、まだまだ何かと忙しいらしく、この間まではやれ聞き込みで、昨日辺りからはやれ張り込みで、今朝も早くに出かけて行った。

 うーうー唸りながら、動物園の熊のように外周の金網の脇を行き来する。

 と、駅のほうから歩いてくる女性に気が付いた。

 年の頃は二十代後半。背は天花より少し高い程度。肩を越す長さのストレートヘアに、メガネをかけている。スーツまでは行かないけれど、少し改まった感じのブラウスとスカート。少し大きめのショルダーバッグ。

 携帯の画面と見比べながら、不忍署の建物を伺っている。門の前を一旦通り越して、でもやっぱり、と引き返す。

 これは。どう見てもここに用事がある人ではないだろうか。

 思わず見ていると、目が合った。

 案の定、急ぎ足でこちらに向かって歩いてくる。

「すみません、警視庁、生活安全……部、特殊捜査課というのはこちらの建物でいいんでしょうか」

「はい、そうです」

 こうなればもう、そこから入れますよ、と指差すだけでは済ませられない。

「あの、よかったらご案内します。私もここに用事があって」

「――ありがとうございます」

 丸顔で少したれ目のその女性は、優しい顔で微笑んだ。



「ご足労いただきましてありがとうございます」

 取調室とは別の、関係者に事情を聞くための部屋で、アキラは来客に挨拶した。書記のユミも一緒にお辞儀をする。

 少し緊張した面持ちで、女性は頭を下げた。

 友永朝日。三十一歳になったばかり。

 都立鷹群高校卒業、在学中は演劇部に所属していて――事件当時部長を務めていた。

 天花の友達で現演劇部の生徒、中川歌瑠が、探し出して連絡を取ってくれたらしい。

「いえ。ちょうどよかったです。私も一度は訪ねてみなくてはと思っていたので」

 卒業以来、学校近辺では電車を降りたこともないらしい。この辺りも変わりましたね、と微かに笑う。

 その顔には、十四年の歳月を越えても当時の面影が残っていた。

 ライムが演劇部から借りてきたDVD、『三日月仔猫狂想曲』の舞台で、彼女の演技を見た。

 舞台のあらましはこうだ。

 どことも知れぬ森の奥に古びた洋館があり、美しい女主人とメイド、書生が暮らしている。そこへある嵐の晩、二人の招かれざる客が迷い込む。

 その客の一人、主役級の方を演じていたのが友永だった。

 女主人の奇行や、一癖も二癖もある登場人物たちに翻弄されながらも、彼女はそこで起こった殺人事件を解き明かし、女主人を過去のしがらみから解き放つ。

 一言で言えば、とてもよく出来ていた。

 もちろんアキラたちには観劇の経験など無いし、ドラマすらろくに見ないから芝居の良し悪しがわかるものではない。

 ただ、何かを賭けている感じ、言ってみれば情熱のようなものは、画面を通しても伝わってきた。

 スポットライトに浮かび上がる大道具の物々しさ。恐らく近くで見れば張りぼてに過ぎないそれも、その一瞬だけは本物として息づいている。

 台詞も多く、人間関係も複雑で、正直一度見ただけでは把握しきれない部分もあったが、高校生がこんなものを作り上げたということ、それだけでとても感動した。

 アキラは特に、同じくらいの年齢なので、余計にそれを感じた。

「ご覧になったんですね。――恥ずかしいな。でも、ありがとうございます」

 アキラの感想は訥々と述べられたが、逆にそれが社交辞令ではないものとして伝わったらしい。

「あの映像は、事件の前の年のものですよね?」

「ええ、夏に地区大会があって――そこで勝って都大会へ進んだんです。ご覧になった映像は、多分そのときのものだと思います」

「演じていた方々のお名前を伺えますか。――あの中には藤沢さんも篠原さんもいらっしゃらなかったんですよね?」

「はい、そうです」

 出演者五名すべての、役名と役者名を挙げてもらう。友永本人も含まれるが、他には特に聞き覚えのある名前は無い。

「そのとき藤沢さんたちはどのようなお仕事を?」

「一応舞台監督というか、演出助手というか……そういう名前の雑用です」

 自分の言葉に笑う。

「その後、事件まではどのような活動をなさってたんですか?」

「幸い、都大会でも高い評価をいただいて――その年はたまたま枠が多かったので、関東大会まで行くことが出来ました」

「それは……すごいですね」

「すごいんですよー。しかも生徒の書いた脚本でだなんて」

 生徒の書いた、という言葉の裏に、微かな痛みを感じた。けれどそれは覆い隠されて表には出てこない。

「自作の脚本で出場するところもありますけど、大体顧問の先生の手が入ってたりするんです。あと、審査員にも好みというか――既成概念みたいのがあって、ちょっと小難しい脚本ほんをやると、これは高校生らしくないとか、必ず言われました。だからと言って古典が喜ばれるかというとそうでもないんですけれど……と」

 ちょっといらないおしゃべりが過ぎた、と口を押さえて、笑う。

「関東大会って、年が明けてから一月にやるんです。役者のうちの二人が三年生だったから、大変でした。二人とも引退せずに残ってくれて……。全国には行けませんでしたけど、でも精一杯出来ました」

「そのお二人は三月で卒業なさったんですね」

「はい、それで……少し困ったことが起こったんです」

 毎年、演劇部は二回公演を打っていた。

 ひとつは夏の大会用の演目。これを文化祭にもやって、都大会に進めればそこでもやって、大体はそこで終了となる。

 そこからもう一回、春の公演の準備を始める。

 ところがその年は一月まで前の芝居をやっていたので、準備期間が足りなくなってしまった。

「プロの劇団であれば一つのお芝居にかける時間はそんなに長くないのですが、何しろ人数も少ない部活ですから、脚本を選んで、大道具を作って、衣装、小道具……となると、本当に時間が足りないんです」

 道具も要らない、人数も少ない、うんと簡単なものにしようかという意見も出た。

 けれど春の公演は新入生歓迎――勧誘の舞台でもある。できればぴしっとしたものを見せたい。そう、今やってる『三日月仔猫』くらいの――。

「そしたら篠原――君が、面白いことを思いついて」

 と言って友永は、カバンの中から何かを取り出した。

 サイズはB五、ノートと同じ大きさだ。B四のコピー用紙を折って、紐で綴じている。

 二冊あって、片方の表紙には『三日月仔猫狂想曲』。

 そしてもう一冊には『三日月仔猫変奏曲』。

「こっちが春の公演の脚本です」

 そう言って友永は『変奏曲』をつっと滑らせて寄越した。

「……こちらに、カイという役が出てくるんですね?」

 そうであってほしい、と思いながらアキラは聞いた。

 DVDで見た大道具は、アキラが夢で見た洋館のイメージとよく似ていた。

 が、しかし、その舞台にはカイという名前の登場人物は出てこなかったのである。

 アキラの質問に、友永はちょっと驚いたように目を丸くした。

「ええ、そう――あ、もうお読みになってるんですか? 確か十四年前にも、一冊ずつは証拠として警察にお預けしましたから」

「……いえ、それはまだ」

 返事に困る。友永にはとても言えない。

 実は、十四年前の事件に本格的に取り組むに当たり、アキラたちのほうでも証拠品を探してみてはいたのだ。ところが、保管してあるはずの脚本が見つからなかった。管理がずさんだったのだろうか。

「どんな役なんでしょうか?」

 ぱらりと表紙をめくった。

 と、見返しの一行が目に飛び込んできた。

「探偵役です。篠原君が前から書いてた推理小説のシリーズものの登場人物で――どうしました?」

「これは、どういう意味でしょう」

 見返しにはこう献辞が書いてあったのだ。

 『流星群に捧ぐ――』と。

「……ああ」

 友永は困ったように笑った。

「わかりません。当時も警察の方に随分聞かれましたけど……篠原君がこっそり入れて、一人で悦に入っていたんです。理由を聞いても教えてくれなかった。ただ、『この話が書けたのは流星群のおかげだから』としか」

 ……この献辞のせいもあって、いよいよ篠原は犯人としての疑いを受けたのだろうか。

「二作はタイトルがとても似ていますね。これが――『面白いこと』ですか?」

「ええ。読んでいただければわかると思うんですが、『変奏曲』は『狂想曲』の《もうひとつの解決編》なんです」

「もうひとつの……?」

 『狂想曲』の中で事件は一応の解決を見た。途中、やや観念的で幻想的な部分が入ってくるが、それは女主人のトラウマに関するところで、実際に起こった殺人事件についてはきちんと説明がされている。

 しかし、篠原はそれを変奏曲でひっくり返して見せたのだという。

「ちょうど、と言ってはなんですが、その女主人と第一被害者を三年生が演じていたんです。だから、その二人が抜けて、代わりに探偵のカイくんと助手のエイタが登場人物に加わりました」

 舞台は同じ洋館。だからセットはそのまま。

 書生、メイドの衣装も変わらず。また性格も変わらず、ただ『狂想曲』の経験を重ねたという設定。

 友永だけが、新しい主人としてやや役どころを変えたが、一番舞台慣れしているのでまず問題は無かった。

「展開はほとんど同じなんです。嵐の夜に招かれざる客があって、それが探偵と助手で――過去に起こった事件を解きながら、今起こっている事件も解き明かすっていう、二重構造で」

「それは――」

 まるで、今自分たちが取り組んでいることそのままだ。

 そうか、だから『過去からの亡霊』なんだ。

「それは、面白そうですね」

「……面白いですよ」

 友永は笑った。

「完成してたら絶対、すごい名舞台でした。もう、夏公演もこのまま行っちゃおうかなんて話してたんです。あの『高校生らしくない』って言った審査員の鼻を明かしてやったらどんなにすっとするだろうって……話して……あの、日も」

 そこで不意に言葉が詰まった。

 洟をすする音がする。

 ……よく、笑う人だと、思っていた。

 今ようやくわかった。多分泣きたくなる度に笑顔を作っていたのだろう。

「だから、絶対、そんな犯罪なんてするはずないって、言いました、私たち。一人で考えた密室殺人なんかより、みんなで作ってる舞台のほうが絶対面白いんだから、絶対、絶対、篠原がそんなことするはずないって、言いました。でも、誰も聞いてくれなかった!」

 涙がぽたぽたと、テーブルに落ちた。

 それでも彼女は笑っていた。

 泣く時に人間は、逆に笑顔を作る。

 それはアキラも知っていた。

「どうして、あの、ワイドショーとかで、容疑者の過去の卒業文集とか、読むんでしょうね。なんで、読む人はあんなに、下手くそなんでしょうね。あたしたちも、読まれました。篠原が書いた文章の、台詞の、殺人とか密室とか入ってるところを片っ端から、前後の脈絡もなく拾って読まれました。下っ手くそな――読み方で」

 あたしたちが、何ヶ月も何ヶ月もかけて、積み上げた台詞。 

 ここはどんな気持ちで言ったんだろうとか、どういう風に言えばいいんだろうとか、ワンセンテンスに何時間も何時間もかけて、作り上げた言葉。

「全部無視で――知りもしないで――」

 後はもう、言葉にならなかった。

 アキラは黙って見守るしかなかった。

 悲しいのだろうと思う。悔しいのだろうと思う。

 けれど、自分が慮るこの感情は、決してこの人のそれと同質のものではなく、同等のものでもない。

 それがわかるから、それだけはわかるから、ただ黙って。

 メガネをかけている人は、涙を拭く時にそれを押し上げるんだな、ということを、どこか醒めた頭で認識していたりした。

 そっと、箱ティッシュが差し出された。友永が取りやすい位置に置かれる。ゴミ箱もそれとわかるように足元に置かれた。

 ユミだ。

 少し落ち着いてきた友永は、うつむいたままティッシュを取って涙と洟を拭いている。

 山になるほどティッシュを使って、ようやくそれが止んだ。

「……すみません、お見苦しいところを」

「いえ、当然のことだと思います」

 鼻の頭が赤くなり、薄化粧が剥げ落ちていた。それでも少しすっきりした様子で、今までよりも自然な表情になっている。

「……だから、部室の保管庫には置いてないんです。この二作」

 これ以上マスコミの手に落ちて、勝手なことを言われないように。

 予備の分は処分した。ただ、本当に全部を消し去ってしまうのはあまりに忍びなかったので、未使用のものを数冊友永が持ち帰り、ずっと持っていたのだという。

「そんな大切なものを、ありがとうございます」

 友永は首を振った。

「あの頃とは時代も変わりましたし――中川さんが熱心だったので。絶対あの人たちなら真実を解き明かしてくれる、って。お話してみて、わかりました。あの頃の警察やマスコミとは、全然態度が違うもの」

 ちらちらとアキラとユミを見比べる。

「……本当を言うと最初は、随分お若いんでびっくりしたんですけど。きっと優秀でいらっしゃるんですね。飛び級みたいなものですか?」

「ええ、それほどでもありませんが、ある種の資格を持って配属されています」

 友永は納得したようにうなずいた。

「すみません、変なこと聞いてしまって。どうぞお話を続けてくださいな」

「ありがとうございます。それで、その、『変奏曲』についてですが、新しく加わった探偵と助手の役を、篠原さんと藤沢さんがなさったんですね」

「はい。助手のほうが篠原君で、探偵が藤沢さんでした」

「カイ――くん、とおっしゃいましたね、さっき」

「はい。少年探偵なんです」

「ということは、藤沢さんだけは男装していたことに?」

「ええ。私たちの役はみんなアテ書き――あ、役者のキャラクタに合わせて登場人物を作る方法だったんですけれど、カイとエイタは既存のキャラクタの流用だったから、仕方なく」

「どうして、逆ではなかったんでしょう?」

「え?」

「いえ、その……素人考えだと、学年が上のほうから役が決まっていったりするのかな、と思いまして。そうすると、探偵役が篠原さんということもありえますよね?」

「それは……考えてもみませんでした」

 くすり、と友永は初めてちゃんと笑った。

「配役を決める時は、実力のことももちろん考えるんですが、イメージ重視のことも多いんですよ」

「そうすると、カイのイメージに藤沢さんが合っていた、と」

「実力も圧倒的に上でしたけどね」

 篠原君は、演出担当の私としては一番苦労させられたくらいでしたから、と苦笑いする。

「エイタのほうも、ワトソン的語り手だけあって、篠原君がそのまま反映されてましたし」

「カイのイメージ、というのは、たとえばどんな」

「一言で言うと、王子様ですね。顔がよくて、頭がよくて、育ちがよい」

「……まるで陶器の人形みたいな」

「そう、そうです! ちょっと儚げで――透明な感じ」

「すみません、不躾ですが……過去の資料で見た限り、藤沢さんのイメージは、それらと多少違うような……」

「あ、ああ、そうですよね、すみません。そこが実力が上だっていう所以で、くーちゃ……藤沢さんは外見はすごく整っていてイメージぴったりなんですけど、普段の性格は正反対なんですね。明るくて、屈託がなくて、ちょっとこちらが戸惑うくらい。それが、カイの台詞をしゃべらせると全然変わっちゃうので」

「そういえば写真も持ってきていただけるということでしたが」

「ええ、そうですね、ちょっとお待ちください……」

 カバンから透明なプラスチックの書類ケースを取り出す。

 百円ショップで売っているようなものだが、何となく埃っぽく、随分古びた感じがする。

 中にはさらにビニールで包まれて、数葉の写真と、台本が入っていた。

 台本は先ほどの新品とは違い、全体的に手垢で汚れ、角がよれてところどころ破けている。何かの書き込みがぎっしり入っている。

「こっちが大会のときに取った写真で――あとこれは篠原君と藤沢さんが使っていた、そのものの台本です」

 台本――警察は証拠として押さえなかったのだろうか。

「……これも、隠しちゃいました」

 その時たまたま、篠原は友永にこれを預けていたのだという。少し内容を直した方がいい気がしたので、メモをしておいたから目を通してほしい、と。

「思い出した。そのとき確か篠原君は、熱出して二三日寝込んでたんですよ」

「熱――」

 それが、篠原がSP症を疑われた状況証拠でもあったのだろう。

「はい、で、わたしがお見舞いに行ったら、台本を差し出してきて。思いついたから寝床でメモってたって」

 ちゃんと寝てなさいと怒ったら、うんそうする、これ以上気にならないように台本持って帰ってくれないか、と。

「ねえ、そんな、犯罪とか考えてる人がそんなこと、しないですよね、言わないですよね……。でも、もうその頃には警察に話すのも無駄な気がしてきて……」

 藤沢来栖の脚本のほうは、部室の棚の中で随分経ってから見つかったのだという。

「あの子、忘れっぽいのか、すぐに物をどこかへやってしまって。台本も何回か失くしてるんです。これは多分最初にあげた分」

 言いながら、ずいっとこちらへ押し出してくる。

「お預けします」

「お預かりします」

 手袋をはめて写真を取り出した。

 すぐにわかる。その少女の――いや、「カイ」と呼ばれる者の、顔。

「こちらが、藤沢さんですか?」

「はい、そうです。ね、黙ってたら美少女でしょう?」

 一枚目の写真は確かにそうだ。どこか遠くを見つめる大きな目、色素の薄い印象。

 二枚目では、他の部員と一緒に大きな口を開けて笑っている。

 しかし、表情こそ違えども、どちらも同じ。あの日詰め所でアキラを「フミユキ」と呼んだ白い影の顔そのものだった。

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