act.5
目の前で静かに扉が閉まり、足音が少しずつ遠ざかっていく。
陽菜はふうと息を吐くと、緩慢な動作で先程まで座っていた席に戻った。
椅子に浅く腰掛け、テーブルに頬杖をつく。
視界に入れた二組のティーカップの中身は、ほとんど減っていない。
陽菜は冷めた紅茶を眺めながら、長いため息をついた。
「異世界……か……」
何もかもが突然すぎて、どこから考えればいいのかすらわからない。
自分はごく普通の大学生だったはずなのに、どこでその歯車が狂ってしまったのだろう。
異世界などという、非現実的な世界。けれど、陽菜にとっては紛れもない現実でしかない。
目を閉じて、耳を塞いで、すべてを否定しようとも、運命の糸に絡め取られてしまったら最後、もう逃れられないのだ。
「お父さん、お母さん……」
ぽつりと呟き、日本にいる家族を想う。
一人暮らしを始めてから、家族と共に過ごす時間は圧倒的に少なくなった。
一人の時間を謳歌しつつ、家族とはたまに電話やメールで連絡をとり、連休などを利用して帰省する。
その生活がずっと続いていくものだと思っていた。
――この世界に来るまでは。
リードの話から察するに、元の世界に帰る方法は無いに等しいのだろう。
帰る方法を探そうにも、陽菜はこの世界のことを何一つ知らないし、出会ったばかりのゼイルやリードを心の底から信頼していいのかもわからない。
この世界には、自分を知る者は誰一人としていない。
帰る場所なんて、どこにもないのだ。
「うえ……っ」
そう自覚した途端、ふいに視界が滲んだ。
鼻の奥がつんとして、じわりと涙がこみ上げてくる。
衝動に任せてぎゅっと目を閉じれば、溢れ出た涙が頬を伝った。
「かえりたい……っ!」
陽菜は顔を両手で覆い、悲痛な叫びを漏らした。
もう二度と、家族や友人に会うことは叶わない。今までの日常には、もう戻れないのだ。
堪え切れない悲しみは大粒の涙となり、嗚咽とともに次々と頬を濡らしていく。
拭っても拭っても、溢れる涙は止まってくれそうになくて――陽菜はしばしの間感情のままに泣き続けた。
* * * * * *
しばらく続いていた嗚咽が止み、涙とともに感情の波が収まってくると、陽菜はゆっくりと顔を上げた。
目尻に残った涙を手の甲で拭い、ふうと息を吐く。
すべてを受け入れたわけでもないし、つらい気持ちが消え去ったわけでもない。
はっきりしているのは、涙を流したことでほんの少しだけ気持ちが落ち着いたことだけ。
(蟠りが無くなることなんてないのかもしれないけど……)
心の中でそう呟くと、陽菜は気持ちを落ち着けるために冷め切った紅茶を一気に飲み干した。
それからまもなく、陽菜の耳に控えめなノック音が飛び込んできた。
(……誰だろう?)
陽菜は首を傾げつつも、扉の向こうにいるであろう人物に入室を促した。
「失礼致します」
入室してきたのは、先程お茶の準備をしてくれた侍女だった。
ややウェーブのかかった栗色の髪に、ぱっちりとした同色の瞳。年の頃は陽菜よりも若干上くらいだろうか。彼女は美しい所作で一礼すると、陽菜に向かって笑いかけた。
「このたび光の姫巫女様の身の回りのお世話をさせていただくことになりました、レティシアと申します。御用の際は、なんなりとお申し付けくださいませ」
彼女――レティシアはそこまで口にすると、唐突にはっとしたような表情を浮かべ、つかつかと陽菜に歩み寄ってきた。距離を詰められ、何事かとうろたえる陽菜の目をレティシアはじっと見つめ、悲しげな表情を浮かべる。
突然のことに、陽菜は困ったように視線を彷徨わせた。
「あのう……レティシアさん?どうかしま」
「――ああ!こんなに真っ赤に泣き腫らして……なんておいたわしいのでしょう!乙女の顔を涙で曇らせるなんて、宰相様といえどやはり殿方は気配りがなっていませんわね!」
「……はい?」
一瞬、彼女の言っている意味がわからなかった。
硬直したまま、陽菜は脳内で先程の台詞を反芻し、理解しようと努力するも、その前にレティシアが陽菜の両手をとってにっこりと愛らしい笑顔で口を開いた。
「姫巫女様。ここにはもう姫巫女様を傷付ける者はおりませんわ。だからどうかご安心なさってくださいまし。このレティシア、侍女長の名にかけて姫巫女様を傷付ける不逞の輩を排除し」
「ちょ、ちょ、ちょっとストップ!」
笑顔のままとんでもないことを口走るレティシアに、陽菜は思わず制止の声を上げた。
レティシアはきょとんとした顔で陽菜の言葉を待っている。
陽菜はどこから突っ込んでいいのかわからず、とりあえず無難なところから聞いてみることにした。
「宰相様って、いったい誰のことですか?」
「先程まで姫巫女様とご一緒されていた方のことですわ。リード様はクロスティアの宰相を務めていらっしゃるんですの。とても頭の回転が速い方なのですが、いくら尋問といえどこの世界に降り立たれたばかりの姫巫女様を悲しませるなんて……!」
許せませんわ、とレティシアは憤慨している様子だったが、陽菜は彼女の口から出た尋問という単語に首を傾げていた。
(尋問って、そんなのいつされたっけ?)
疑問に思いつつ、陽菜はいまだ両手を握ったままでいるレティシアに声をかけた。
「私、尋問なんてされてないですよ?」
「……え?」
「私のことを少しだけ話して、あとはこの世界のことを掻い摘んで教えてもらっただけで……泣いてたのはその、ちょっと寂しくなってしまって。だから」
リードさんは悪くありません、と付け足すと、レティシアは数回目を瞬かせた後、勘違いであったことを理解したのか真っ青な顔で陽菜の手を離した。
「わ、わたくし、とんでもない勘違いをして……!姫巫女様、申し訳ありません!」
詫びながら深々と頭を下げるレティシアに陽菜は慌てて近寄った。
「わわ!ちょっとレティシアさん顔を上げてください!私全然気にしてませんから!」
「ですが……」
「心配してくれたんですよね?その気持ちがすごく嬉しいです。ありがとうございます、レティシアさん」
「姫巫女様……」
「それと、その姫巫女様っていうのやめませんか?私はただの一般人だし、そんな畏まられるほど大層な人間じゃないので」
目上の人間に傅かれることには慣れていないし、慣れるつもりも毛頭ない。
光の姫巫女の証拠を見せつけられても、どこか信じられないでいる陽菜にとって、姫巫女と呼ばれるのは正直苦痛であった。
陽菜とは正反対に、レティシアの顔には困惑の色が浮かんでいる。
「では、わたくしはなんとお呼びしたらいいのでしょう」
「陽菜、と。名前で呼んでください。あ、呼び捨てにしちゃってかまいませんよ」
「呼び捨てなんてそんな、恐れ多い!」
「いやいや、恐れ多くなんてないですって!今はなぜだか丁重な扱い受けちゃってますけど、元は本当に一般人なんですから!……それに、姫巫女って呼ばれるの、あんまり好きじゃないんです」
ダメですか、と陽菜はレティシアの顔色を窺った。
彼女ははじめこそ考え込むように視線を伏せていたが、やがて決心したように陽菜の目を見返すと、にっこりと微笑んだ。
「わかりました。呼び捨てにすることはできませんが、これからは陽菜様と呼ばせていただきますわ」
「!ありがとうございます!」
「ですが陽菜様、恐れながらわたくしからもお願いがございます。どうか、わたくしども侍女に敬語を使われるのはおやめくださいまし」
「え、でも」
「他の者に示しがつきません。侍女長として――いえ、わたくし個人としてお願い申し上げますわ」
陽菜はなおも言い募ろうとしたが、レティシアに一歩も引く気配がないことを悟り、ふっと苦笑いを浮かべた。
「……わかったわ。じゃあ、お言葉に甘えてそうさせてもらうね。改めてよろしくね、レティシア」
「はいっ!」
レティシアは満足そうな笑みを浮かべてから、タオルを取ってくると言って部屋を出て行った。
泣き腫らした目を気遣ってくれたのだろう。陽菜は彼女の優しさが素直に嬉しかった。
「涙と鼻水やばかったからなあ……確かにこのままじゃきついよね。レティシアに感謝!」
初対面だというのに、レティシアは陽菜にとても親切にしてくれている。
光の姫巫女に仕える侍女として来たのだから当然かもしれない。
けれど、立場を抜きにしても彼女は出来た人なのだろうと思う。
なんとなく、彼女は信頼しても良い気がした。
* * * * * *
国王の執務室は、文字通り国王が仕事をするために作られた部屋である。
適度な広さの室内には、書類が山積みにされた大きな執務机、資料や本が詰まった本棚など必要なものだけが整然と置かれている。無駄なものは一切なく、仕事に関係ないものといえば、仮眠用のソファーだけだった。部屋主の性格が如実に反映されている。
「――それで?どうであった」
手元の書類から目を離さないまま、ゼイルは目の前の人物に淡々と問いかけた。
目の前に立っているのは他でもない、政務を補佐する役割を担う、クロスティアの宰相。
彼は、ゼイルに命じられた役目を全うしてきたところであった。
「そう、ですね……」
リードは眼鏡を押し上げながら、先程まで対面していた少女のことを考える。
話が進むにつれ、緊張に彩られていた少女の纏う空気は暗いものに変化していった。気丈にふるまっていたようだが、震える声から察するに、泣き出したいのを堪えていたのかもしれない。
慰めるのは簡単だ。けれど、リードは敢えてそうしなかった。
彼女に安い慰めは逆効果だと判断したからだ。
「印象としては、良くも悪くもごく普通の少女、といったところでしょうか。受け答えもしっかりしていましたし、理解力はありますね。愚者ではないでしょう。話を聞くに、彼女は既に神と対面を果たしているようですので、信憑性は高いかと」
「そなたが言うならばそうなのであろうな。魔力のほうはどうなっている?」
「……残念ながら。探りを入れてみましたが、何も」
「光の姫巫女ならば魔力は最高位のものであると踏んでいたのだが……やはり伝承は伝承でしかないということか?」
「いいえ……花の聖印がある以上、彼女は光の姫巫女であると言えます。内に秘めた魔力がどれほどあるかは未知数ですが、期待する価値はあるのではないかと。いずれ国の益にもなりましょう」
リードの言葉に、ゼイルはようやく顔を上げた。
「力を使いこなせるようになるまでは、光の姫巫女といえどただの娘ということか」
ゼイルの脳裏に浮かぶのは、光とともに現れた黒髪の少女。
臆することもなく、彼女がゼイルに向かって叫んでみせたのは記憶に新しい。
そのさまを無意識に思い出しながら、ゼイルは吐息と共に言葉を吐き出した。
「リード、神は何故我らを“騎士”に選んだのであろうな……?」
問いに答えられる者は、いなかった。
今回は侍女登場がメインでしたね!
ゼイルとリードの会話では、リードは優しいというより――という曖昧な感じを出したかったのですがあえなく撃沈。
……いつになったら甘い話が書けるのか(苦笑)
ゆっくりですが、がんばっていきますよ!