act.3
「う……ん……」
水中から水面に向かって浮上するように、ゆっくりと意識が戻ってくる。
瞼の裏に感じる光が、夜が明けたことを陽菜に知らせていた。
けれど、陽菜は普段から目覚まし時計が鳴り響くまで寝ていることが多いため、それほど気にする様子はなく、いつものように心地よいまどろみに身を委ねようとしていた。
ベッドが陽菜の身じろぎに合わせて軋んだ音をたてる。
陽菜はそのまま寝返りを打つと、目を閉じたまま布団を肩までかけ直した。
普段と何一つ変わらぬ行動。
そのはずなのに、どうしてだろうか。どこか違和感を感じてならないのだ。
(私のベッドってこんなに柔らかかったっけ?枕も、布団も、何かが違うような気がする)
そこまで考えたところで、ぼんやりしていた陽菜の頭は一気に覚醒した。
体勢を元に戻し、そっと目を開ける。すると、白い薄絹に遮られた見慣れない天井が視界に飛び込んできた。
「……え?」
急いで上半身を起こし、ベッドに視線を巡らせる。
陽菜が寝ていたのは、クイーンサイズの白い天蓋付きベッドだった。
乙女心をくすぐるような繊細なデザインのベッドを覆い隠すように、白い薄絹が天蓋から下がっている。天井だと思ったのはどうやらベッドの天蓋だったらしい。一目で自分のものではないということがわかった。
「うそ……」
陽菜は半ば呆然としながらベッドの足元まで這って移動すると、薄絹をめくって部屋全体を確認した。
陽菜の自室とは似ても似つかぬ、白と桃色を基調にした優雅な部屋。
大きさはゆうに陽菜の自室の倍以上あり、ロココ調に似たデザインの家具が並んでいる。天井からはシャンデリアが吊り下げられ、シンプルながらも質の良い絨毯が敷き詰められている。陽菜の目から見てとても豪華な部屋であるが、下品さは微塵も感じない。むしろ、まるでどこかの姫君が住んでいるようなかわいらしい部屋だとさえ思えた。
「うわ、暖炉まである……って、そんな暢気なこと言ってる場合じゃないし!」
軽く首を横に振り、陽菜はもう一度室内を見渡した。
「どう考えてもここは私の部屋じゃないよね?だとすれば、これは一体誰の部屋?というか、ここはどこなの!?」
言いながら、陽菜はゆっくりと記憶を手繰り寄せる。
しかし、いくら考えてもこのような立派な部屋に覚えは無い。
思い出したことといえば、白い空間でシルヴィアと名乗る女性に出会ったことくらいだ。
「さっきの白い空間といい、この部屋といい、わからないことばっかり!でも、こうして考えてたって答えは出ないし……そうだ、ここ誰かいないのかな?」
混乱する頭で真っ先に思いついたのはそれだった。
このまま一人で考えていても、不安や恐怖が胸中を埋め尽くすだけで何も得るものはない。
今でさえ、内心とても不安なのだ。それを紛らわすためにも、何か行動を起こしたかった。
この部屋の持ち主に会えば、何かわかるかもしれない。
そう考えた陽菜は、早速ベッドから降りることにした。
ふわふわとした絨毯の感触が足の裏から伝わってくる。そこで初めて、陽菜は自分の服装に気がついた。
陽菜が今身に纏っているのは、気を失うまで着ていたはずの洋服ではなく、ネグリジェのような薄い生地の服だった。靴もどこかにいってしまったのか、どこにも見当たらない。
陽菜は仕方なく裸足のまま歩き回ることにした。
「外に裸足で出ることになるけど……仕方ないか。とりあえず、人を探そう」
当たり前だが、室内に人の気配はない。
陽菜は、唯一ある扉の前に立ち、取っ手に手を掛けた。
「大丈夫、だよね?」
今更ながらドキドキしてきた。
扉の先に何が待ち受けているのかもわからない状況の中、部屋の持ち主を探して動き回るのは得策ではないのかもしれない。しかし、動かなければ何も始まらないのだ。
「よしっ!」
気合を入れ直し、陽菜は思い切って扉を押し開けた。
扉の先には誰もおらず、大理石でできた廊下が左右に伸びているだけだった。
陽菜はほっと胸を撫で下ろし、きょろきょろしながら廊下に出る。
ひんやりとした冷たい床の感触はあまり気にしないことにした。
「すごいなあ、天井が高い。こんなところ初めて見たけど、かなり大きい建物なのかな」
呟きながらしばしの間立ち止まって上を見上げていると、どさりと何かが落下したような音が聞こえてきた。音のした方向を向くと、さほど遠くない場所で女性らしき人物が固まったように立ち尽くしているのが見える。
裾部分に白いレースがついた黒ワンピースに、フリルのついた白エプロン、そして頭にはヘッドドレス。服装を見るに、彼女はメイドか何かなのだろうか。茶色の髪を頭の高い位置でひとつにまとめており、年齢も陽菜とそう変わらないように思えるが、何故か彼女の表情は強張っているようだった。
ふと彼女から視線を外すと、足元に数冊の本が落ちているのが見えた。先程の鈍い音は、彼女が本を落とした音だったのかもしれない。
(そうだ、あの人に聞けば何かわかるかもしれない!拾うの手伝うついでに聞いてみようかな)
そう思い、陽菜はメイド服の女性に一歩近付いた。
「あ、あの!拾うの手伝いま――」
「――っ!誰か、誰かあああ!ひっ、ひめっ、姫巫女様があああ!」
「はい!?ちょ、ちょっとあのっ!」
声をかけた瞬間、メイド服の女性は驚愕に目を見開き、散らばった本もそのままに大声で叫びながら走り去っていってしまった。
その場には、呆気に取られたまま動けないでいる陽菜だけが残される。
「……い、行っちゃった。まったく、化け物とか珍獣じゃあるまいしあんなに叫ばなくたっていいのに。本だって落としたままだしさ」
ぶつぶつとぼやきながら本を拾い上げていると、にわかに廊下の奥が騒がしくなった。
いくつかの足音が遠くから響いてくる。大理石の床に反響しているため足音の主がどれほどいるかはわからないが、きっと先程のメイド服の女性が呼んだのだろう。
耳を澄ませてよく聞いてみると、それらの音は徐々にこちらに近付いてきているらしかった。
ここにいてはいけない。そう自分の勘が告げている気がした。
陽菜は、本を胸にかき抱くと、身を翻して元いた部屋に駆け込んだ。
「まったくもう!なんだっていうのよ!」
後ろ手に扉を閉め、陽菜はその場にずるずると座り込んだ。
そしてそのまま扉に背中を預けると、陽菜は本を抱えたまま大きなため息をつく。
「はあ……これじゃ部屋の持ち主なんて探せないじゃない」
本を横に置き、両膝を抱える。
内装を見る限り、この部屋の持ち主は女性である可能性が高いが、よくよく考えればその人物がいい人だという証拠はどこにもないのだ。
「もう本当、どうしろっていうのよ……」
抱えた両膝の間に顔を埋め、陽菜が吐息とともに言葉を吐き出したちょうどそのとき、扉の外から先程の足音が聞こえてきた。だんだん近付いてくるそれに、陽菜は緊張から身を硬くする。
やがて、足音の主は陽菜の部屋の前でぴたりと足を止めた。
(いやいやいや、嘘でしょ!?)
無意識に息を詰める陽菜の背後から、軽快なノックの音がした。
即座に扉から離れ、陽菜は口元に手を当てて困ったように視線を彷徨わせる。
ここは自分の部屋ではないのだが、返事をしてしまってもいいのだろうか。
(ええい、仕方ない!腹をくくるか!)
逡巡したものの、陽菜は覚悟を決めて来訪者を迎え入れることにした。
「ど、どうぞ」
震える声で入室を促すと、一拍の間をおいて静かに扉が開け放たれた。
(……うわあ)
入室してきたのは、二人。
一人目は、腰まである青銀の髪に鮮紅色の切れ長の瞳を持った驚くほど美形な男性。一目で上質だとわかるような服を身に纏い、長剣を腰から下げている。無表情なためか、どこか冷たい印象を受ける。
二人目は、背中まである深緑色の髪をゆるくまとめた眼鏡の男性。こちらも顔の造詣は整っており、ゆったりとしたローブを着込んでいる。髪と同色の瞳は穏やかな光をたたえており、優しげな雰囲気を醸し出していた。
(うわー、この人達すっごくかっこいいんですけど!でもなんか不思議な格好してるよね……コスプレ?)
そう思いながらじっと二人を見つめていると、眼鏡の男性がふと柔和な笑みを浮かべた。
「ふふ、そんなに見られては顔に穴が開いてしまいますよ。安心してください、我々はあなたに危害を加えるつもりはありません」
「!」
彼はどうやら注がれる視線の意味を警戒だと解釈したらしい。陽菜は自分の無遠慮さを恥じながら慌てて視線を逸らした。
「す、すみませんつい」
「いえ、いいのですよ。あなたの心情を鑑みれば無理もないでしょうから」
そう言うと、眼鏡の男は居住まいを正し胸に手を当てた。
「申し遅れました。僕はリード・アルクレスト。こちらのお方は――」
「我が名はゼイル・フロイス・クロスティア。娘、そなたの名は?」
リードの台詞を遮るかのように、長髪の男――ゼイルが表情を変えずに言い放つ。
陽菜は緊張を隠せないまま、おずおずと口を開いた。
「望月陽菜。陽菜といいます」
「陽菜……それが名か。歓迎するぞ、光の姫巫女よ」
「……あの、ごめんなさい。私なにがなんだかさっぱりなんですけど……その、光の姫巫女ってなんですか?」
これは、ずっと気になっていたことだった。
シルヴィアも、メイド服の女性も、示し合わせたように陽菜を“光の姫巫女”と呼んだ。
そして、目の前にいる彼らも。
「これは……予想外でしたね。本当に、何も知らないのですか?」
虚をつかれたような表情のまま、リードが念を押すように陽菜に問いかける。
陽菜は素直にこくりと頷いた。
それを見たゼイルは腕組みをすると、眉を寄せて不快感を顕にしていた。
「姫巫女自身が己を知らぬとは……神は無知なる娘を我が国に遣わしたというのか。娘よ、それは我らを欺くための嘘ではあるまいな?」
「そんな、違います!私は“光の姫巫女”なんて知らないし、もしそれが人の名前なら絶対人違いです!なのに、おかしな現象に巻き込まれるし、神様らしき美人なお姉さんに“私の姫巫女”だって言われるし……なんでこんなことになっているのか全然わからないんです!そりゃあ、証拠はないから信じて欲しいなんて言えませんけど、何が起こっているのか最初から最後まで説明してほしいくらいなのに、初対面のあなたたちに嘘なんかつけるわけないじゃないですか!」
まくしたてるように言ってから、陽菜ははっとしたように口を閉ざす。
嘘ではないと答えるだけでよかったはずなのに、これでは完全に八つ当たりではないか。
叫んでしまった陽菜を、ゼイルとリードはどう思ったのだろうか。
(やっちゃったよ……やばいよねこれ。怒られるかな?)
しかし、ゼイルとリードは予想に反して何も言わず、周囲はしんと静まり返ったまま。
いたたまれなくなり、陽菜は俯いたまま彼らの言葉を待った。
「――いいだろう」
少しの沈黙の後、ゼイルの静かな声が響く。
思わず顔を上げると、真っ直ぐにこちらを見下ろすゼイルと視線がかち合った。
「我が望むは光の姫巫女。ただそれだけだ。そなたが無知であるならば、これから知ればよい。陽菜、我はそなたを歓迎する……リード」
「はい、お任せください」
ゼイルに視線を向けられ、リードは深々と頭を垂れる。
それに頷くと、ゼイルは悠然とした足取りで部屋を出て行った。
ぱたんと扉の閉まる音を聞いてから、リードは姿勢を正して陽菜に向き直った。
「ええと……確か、陽菜さんでしたね」
「は、はい」
名前を呼ばれ、陽菜は緊張した面持ちでリードを見上げる。
リードは人差し指で眼鏡を直してから、陽菜に向かってにっこりと微笑んだ。
「少し、お茶にしましょうか」
そう言って部屋の中央にあるテーブルを指し示すリードに、陽菜はただ頷くことしかできなかった。
読んでくださっている皆様、お気に入り登録してくださっている皆様、本当にありがとうございます!
今回はなんとか二人出せました。
ゼイルの口調が意外と難しかったですね。
光の姫巫女とは一体何なのか――それは次回語られると思います。