わたしを甲子園に連れていって
西郷川の土手を吹き抜ける風は、どこか焦げるような真夏の匂いを運んでいた。坂道の向こう、神戸の街並みの果てに、青く澄んだ海がまぶしく光り輝いている。
夢の家のリビング。大きなテレビ画面の中では、割れんばかりの歓声とブラスバンドの音がスピーカーをビリビリと震わせていた。画面の隅に映し出されたスコアボードには、無情なまでにくっきりと「準々決勝」の文字が刻まれている。
マウンドに立つエースピッチャーは、連投の疲れの色を隠せない満身創痍のピンチの場面で、ふと深く息を吐き、長い呼吸をした。彼は右手首にはめた青いリストバンドで、あふれ出る額の汗をさりげなく、しかし鮮やかに拭い去る。そして、観客の期待を一身に背負うように、涼やかな笑みを浮かべてキャッチャーミットを見据えた。
その凛々しすぎる背中に、ソファの真ん中に陣取る夢は、膝に抱えたクッションをぎゅっと胸に押し付けた。
「……かっこいい……」
夢の瞳が、星屑を散りばめたようにキラキラと輝く。
その横顔を、ソファの端で智は複雑すぎる思いで見つめていた。手元でパラパラとめくる漫画本のページが、荒くめくりすぎてクシャリと音を立てる。我慢できなくなったように、智は口を開いた。
「おい、世間じゃハンカチ王子みたい、とか持て囃されてるけどさ……よく見ろよ、あのお兄ちゃん、タオルじゃなくてリストバンドで汗拭いてるぜ。全然タイプ違うじゃんか、あんなののどこがいいんだよ」
智のどこかトゲのある声に、夢はムッとした表情で振り返った。
「いいじゃん、そんな細かいこと! かっこいいんだからそれで十分なの! 汗の拭き方までスマートで、まるで映画の主人公みたいなんだから。ねえ、夢、あのお兄ちゃんに絶対会いに行くんだから。今年の夏は無理でも、いつか絶対、甲子園のアルプススタンドで、生の応援をこの目で見るんだから!」
熱っぽく語る夢の顔は、テレビの光を受けてどこか誇らしげですらある。
そのやり取りを、少し離れた床にゴロゴロと寝転がりながらコーラを飲んで聞いていた哲は、プッと鼻で盛大に吹き出した。
「は? 甲子園かよ。夢、お前な、神戸から兵庫県の西宮って、思ってる以上に遠いんだぞ。それに、俺たちのお小遣いじゃ、電車賃をかき集めたってギリギリか、下手したら足りないって。無理無理、行けるわけないだろ、夢見すぎだっての」
哲の冷静すぎる、そしてどこか冷たい現実論に、夢はぷっと頬を思い切り膨らませた。
「うっさいな、哲は! 夢、絶対に行くもん! ……ていうか、二人とも、大きくなったら夢をそこに連れていってよね。約束だからね!」
「はいはい……」と適当に受け流す哲。しかし、その胸のうちは穏やかではなかった。
(……ちっ。なんだよあの野郎。あんなテレビの向こうの奴のどこがいいんだよ。ただリストバンドで格好つけて汗拭いてるだけだろ……。なのに、あんなに目を輝かせやがって……。くそ、そんなに言うなら……俺が、俺が連れて行ってやりゃいいんだろ!)
その夜から、智と哲の平穏な日常は、音を立てずに、しかし確実に狂い始めた。
もちろん、お互いに相手が同じ野望を抱いていることなど、微塵も気づいていない。
『あいつの手伝いなんか目じゃないくらい、俺が泥臭く稼いで、夢の分も含めて三人分の切符代を全部出してやるんだ……! 次の決勝戦までに、絶対に間に合わせる……!』
翌日から、智の変わりようは家族を驚かせた。
普段は嫌がって逃げ出す風呂掃除や、庭の面倒な草むしりを、なぜか自分から進んで買って出る。母親が「どうしたの、急にいい子にして、何か企んでるんじゃないでしょうね」と目を丸くしても、智は「別に、なんとなくだよ!」とそっけない態度をとりながらも、心の中では必死だった。
(くそっ、今日の西郷川の土手は一段と暑い……! でも、これでまた硬貨が一枚増えた。あんな気取ったピッチャーになんか負けない。俺が稼いだ金で、夢を、そして俺たち三人分の甲子園への切符を掴んでやるんだ……っ!)
財布の底でジャラリと鳴る小銭の重みだけが、智のプライドと、夢の笑顔を守る拠り所だった。
一方その頃、哲もまた、別の場所で静かに闘志を燃やしていた。
『俺だって、負けてられない。夢があんな遠い場所に行きたいって言うなら、俺が汗水垂らして稼いだ金で、夢の分も、自分の分も、あいつの分も……三人分の特等席の切符を買ってやるんだ……! 決勝戦までに、絶対に金を貯めてみせる』
哲は、普段なら絶対にやらない母親の肩たたきを毎日熱心にこなし、近所のお使いも「任せてよ!」と二つ返事で引き上げた。肩を揉む手に力を込めながら、哲の頭の中は別のことで一杯だった。
(あんな奴に夢を奪たまるかよ。夢が本当に見たいのは、テレビの向こうの遠い星なんかじゃないはずだ……俺が、俺の手で、あのアルプススタンドに連れていってやるんだからな……!)
二人の少年は、それぞれの部屋で、それぞれの意地と、ほんの少しの切ない焦燥感を抱えながら、決勝戦の日を目標にして毎日汗を流し続けた。
しかし、残酷な運命は、彼らの密かな努力をあざ笑うかのように訪れた。
数日後。
再び夢の家のリビングに集まった三人。テレビ画面の中では、甲子園の準決勝が佳境を迎えていた。
マウンドには、あの青いリストバンドをつけたエースの姿がある。しかし、連投の疲労は限界を超えていたのだろう。彼の投げる球にはいつものキレがなく、相手打線の猛攻を浴びて、スコアボードには痛々しい失点の数字が並んでいく。
「がんばれ……! がんばれ、お兄ちゃん……っ!」
夢は両手を固く握りしめ、画面に向かって叫んでいた。その瞳には、すでに涙の膜が張っている。
哲も智も、心の中で「もっといけ、踏ん張れ!」と叫びながら、カチャカチャとポケットの中の小銭を鳴らしていた。
(あと少しで、三人分の切符代が貯まるんだ。だから、勝ってくれ……!)
――そして、運命の最終回。
ツーアウト満塁。打者は豪快なスイングで、放物線を描く打球をレフトスタンドへと叩き込んだ。
逆転サヨナラホームラン。
「……あ……」
テレビの向こうで、歓喜の輪が広がる。その対極で、マウンドに膝をついたエースピッチャーが、地面にグラブを叩きつけて男泣きしていた。青いリストバンドが、夏の強い日差しの中でむなしく光を反射している。
ゲームセット。
「嘘……嘘でしょ……? 負けちゃったの……? 決勝に行けないの……?」
夢の目から、大粒の涙がポロポロとあふれ出た。
「あのお兄ちゃん、あんなに頑張ったのに……甲子園の優勝、できないの……? もう、あの人のピッチング、見られないの……っ? うわぁぁぁん……!」
わんわんと思い切り声を上げて泣きじゃくる夢の姿に、リビングの空気が凍りついた。
テレビの熱狂は残酷なまでにプツリと切り替わり、次の番組の明るい音楽が流れていく。しかし、夢の泣き声だけが、部屋の中にぽつんと取り残されていた。
その様子を少し離れた場所から見ていた智と哲は、頭をガツンと殴られたような衝撃を受けていた。
(――夢が、あんなに泣いてる……)
二人の胸に去来したのは、ショックというよりも、胸をえぐられるような激しい痛みだった。
彼らの脳裏には、自分たちのポケットの中で、決勝戦の日に向けて必死に貯めていた「三人分の切符代」の重みが、どうしようもないほど痛々しく蘇ってきた。
『決勝戦で勝ったら、三人であの場所に連れていってやるんだ』
『俺が稼いだ金で、夢を笑わせてやるんだ』
そう意気込んで、あの日から数日、親の手伝いやお使いを頑張って、こっそりと貯めてきた小銭の山。
しかし、肝心の「甲子園のヒーロー」は、決勝を目前にした準決勝で姿を消してしまった。夢が一番見たかった夢の続きは、もう二度と叶わない。今年の夏は、彼らの知らないところで、とっくに、そして残酷に終わりを告げていたのだ。
「……なあ、夢」
沈黙を破ったのは智だった。不器用な足取りでソファに近づくと、ジャラリと音が鳴るほど重くなった自分のポケットに手を突っ込み、ためらいがちに硬貨の詰まった小さな財布をテーブルの上にドンと置いた。
「……そんなに泣くなよ。今年の夏は、もう終わっちまったかもしれないけどさ……」
智の突然の行動に、夢は涙を拭いながらぽかんと顔を上げた。
それに続くように、哲もまた負けじと自分のポケットから、毎日のお使いで貯めた小銭の入った封筒を取り出し、その隣にバサリと置いた。
「そうだよ。今年の夏は間に合わなかったかもしれないし、あのお兄ちゃんは負けちまったかもしれないけどさ……。お前がそんなに悔し涙を流すなら、俺たちが来年の夏、絶対にお前をあのアルプススタンドに連れていってやるからさ。だから、そんな顔すんなよ!」
二人の少年が差し出した、不格好で、だけど温かい「未来への切符代」。それは、夢だけでなく自分たちの分も含めた、三人分の切符代だった。
それは、テレビの向こうの遠いヒーローへの憧れなどではなく、目の前で泣いているたった一人の少女を笑わせたいという、彼らなりの精一杯の意地と、不器用すぎる優しさだった。
涙に濡れた長いまつげをパチパチと瞬かせながら、夢はテーブルの上に置かれた小銭の山と、二人の少年の真っ直ぐな顔を交互に見つめた。
「……ほんとう……? 来年の夏、絶対、三人で甲子園に連れてってくれる……?」
「ああ、当たり前だろ! 約束するよ!」
「俺にだって負けないって! ……だから、もう泣くなよな」
智と哲が照れくさそうに顔を背けながらも、力強くうなずく。
その言葉を聞いた夢の顔に、いつしか涙の跡が残ったまま、ぱっと花が咲いたような満面の笑みが戻ってきた。
「うん! 約束だからね! 絶対だよ!」
西郷川の土手に沈んでいく夕日が、三人の影を長く、そして力強く引き延ばしていく。
今年の夏は間に合わなかった。けれど、二人の少年の胸の中にある熱い闘志は、季節が巡っても消えることはない。テレビの向こうのヒーローは去ったけれど、彼らの目の前には、守るべき笑顔がある。
いつか必ず、その手を引いて、あの青く輝くアルプススタンドへ三人で走り出す――その「来年」の夏へ向けて、二人の少年のひそやかで、あまりにも熱い戦いは、今日もまた、静かに力強く続いている。
読んでいただき、ありがとうございます。
小学生たちの熱い甲子園でした。
昭和のアニメに、わたしを甲子園に連れていって!
というキャッチフレーズの某野球アニメがありました。
ーータッチですが。
そのパロディーのような物語になりました。
もうすぐ夏の甲子園も終りですね。




