後編
お待たせしました。後半です。
第四節
回想:肆
二月、私の入試の結果が出た。
本命・東都桐明大学はまさかの不合格。試験慣れのために受けたK市立大学に通う羽目になってしまった。
親からの通告は「入学金だけは出してやる。あとは自分で何とかしろ」だった。「飯を食わせてもらえるだけありがたく思え」とも。
やはり檻を抜け出すことは出来ないのか……。私は絶望に打ちひしがれた。
このことは鏡くんにも言えなかった。
そして三月。
絶望の朝がやって来た。
本日、卒業式。
浪人ではないというものの、私には何の希望も無かった。いっそ浪人して来年にかければ良かったと思わないでもないが、しかしそれを許してもらえるような家庭環境ではない。
不本意な道を歩まねばならない己が惨めでならなかった。
教室に入ると胸に着けるリボンが配布された。
見廻すともう泣いているやつが居る。私にはその感覚が理解できなかった。小・中と「卒業式で別れを惜しむ」という感性を、私は持ち合わせていなかった。
体育館に移動し、退屈な式典を他人の感覚で眺め、教室に戻って卒業証書を受け取る。担任の挨拶が済むとこれで本当に終わり。
私たちは教室を出た。ぞろぞろと廊下を歩き、玄関を出た。あちこちで別れの挨拶が繰り返されている。水脈が私たちを見つけて近づいてきた。
そこで私は初めて理解した。
これでもう鏡くんとはお別れなのだ。離れ離れになるのだ。
72dpi.の高校生活の中で、鏡くんとの記憶だけが4Kハイビジョンで残っている。
それが今日限りで消えてなくなるのだ。
そう思うと耐えがたい喪失感と恐怖が襲ってきた。そして鏡くんへの感情を初めて言語化できた気がした。
私は鏡くんの手を取り、水脈を置き去りにして静かな中庭へと移動した。
「突然済まなかった。……明日からもう会えなくなると思ったらさ……なんか……胸が潰れそうになって…… これ……今までずっと自分でも説明がつかなくて悩んでいたんだけど……恋愛感情なんじゃないかって思って。
いや、違うかも知れない……でも……もしかしたら俺は君のことが好きなのかも知れない。ほんとはこんなこと言うべきじゃないんだけど……迷惑だよな。忘れてくれ。返事とかいらない。聞かなかったことにしてほしい」
私は言うだけ言うと回れ右をし、走り去ろうとした。いや、逃げ出したのだ。
しかし鏡くんは私を逃がしてはくれなかった。驚くほどの反射神経で私の袖を捕まえた。
振り向くと彼は悲しそうに私を見ていた。
「もう会えないなんて……そんな悲しいこと言わないでよ。大地くんは市立大でしょ? 同じ市内に住んでるんだし、会おうと思えばいつでも会えるよ。……恋愛的なことは……僕にも分からないけど……これからも会って欲しい」
私が地元に残ることを、何故か鏡くんは知っていたようだ。
私たちはその時初めて連絡先の交換をした。迂闊な話だが私たちはその時までお互いの電話番号もメールアドレスも知らなかったのだ。
なんとも間抜けな話だ。一番仲が良くて、お互いの部屋を訪問し合う関係なのに。
ありえないと君たちも思うだろう?
しかしだからこそ私たちは踏み込み過ぎない関係を保っていられたのかも知れない。そう思うことにしよう。
ともあれ私たちの関係は卒業後も続くことになった。
鏡くんの言葉は目の前の暗雲をきれいに掃ってくれた。刑務所のようだと思っていたこの土地が、途端に楽園に早変わりした。
現金過ぎるって? 悪かったな(笑)
私たちが会えるのは月に二回程度だった。何故なら二人ともお金がなかったからだ。
手ごろなお値段で有名なイタリアン・レストランへ行くのが最高の贅沢だった……と言えば伝わるだろうか。
鏡くんは高卒の地方公務員で、手取りも多寡が知れている。下宿代を払ったら後は必要経費を捻出するのが精一杯だった。
四年後、同居するようになってから聞いた話だが、給料日前の数日は昼食代が無くて水だけで過ごすこともあったそうだ。「食事付きの下宿だから朝と夜は確実に食べられる、それが救いだった」と。
親に仕送りを頼めなかったのかと聞いたら、鏡くんは「これ以上親に甘えたら僕は本当に立ち直れなくなる」と厳しい顔をしていた。
私は実家暮らしの学生とは言え学費と食費を自分で稼がねばならず、自由に使えるお金はほとんどなかった。
空き時間は全てアルバイト。その上で学業に支障を来たさないようにせねばならない。留年などしたら親に頃され兼ねない。(学費は自己負担なのだから、文句を言われる筋合いも無いはずなのだが)
鏡くんは、私と遭う時は必ず女装していた。
頼んだわけではない。無理はしなくていいと言ったのだが、鏡くんは「せっかく大地くんに会うんだから可愛くなっておきたい」と言っていた。
服はすべてリサイクルショップで安く調達していたらしい。
この、鏡くんとの至福の時間が私の心の支えだった。これが無ければ耐えられなかったろうと思う。
鏡くんもまた「月に二回も会えるなんて贅沢だよね」と笑ってくれた。
そしてカレー。
両親の留守を狙って、時に水脈も交えて、私の家でカレーを作る。この時間が一番楽しかった。
二年生のお盆の頃だったと思う。
休み期間はバイトを増やせるので私の懐も多少は温かく、また鏡くんも初めての賞与をもらったとかで、その日の私たちは街のオープン・カフェで優雅にスイーツタイムを楽しんでいた。
そこへ偶然通りかかったのが高校時代の級友たちだ。吉川、小早川、桂ともう一人(残念ながら名前を失念)だった。
「よお、大石じゃーん」
「なんだよデートかよ。お前でも彼女が出来るんだなあ(笑)」
二年振りにも関わらず無遠慮な声が響く。まったくやれやれだ。折角の鏡くんとの時間が台無しではないか。
鏡くんは視線を逸らしてアイスコーヒーを啜っている。彼らは許可も無く席に着いた。なんと無作法極まりない奴らか。
「俺たちこいつのダチなんですよー、よろしくー」
そう言って鏡くんの手を握ろうとした吉川が固まった。どうやら気付いたらしい。
「……もしかして……かがみん……?」
ストローから口を離さず、鏡くんが小さく頷く。
「ひょっとしてお前ら……」
小早川の声は震えていた。私は噴き出しそうになった。
「お前ら、付き合ってるのか?」
桂が質問して来たが、私は答えに窮して思わず鏡くんに目を向けた。
鏡くんはグラスをテーブルに置き、恥ずかしそうに目を伏せて「うん」とだけ言った。
その後は、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。店のスタッフが飛んできたほどだ。
「うわああああああ!」
「そんな馬鹿なーっ!」
「これは夢だ! 夢でござるー!」
「余は信じぬ! 信じとうない!」
四人はスタッフに制止されて席に着き直し、コーヒーを注文したが一言も喋らなかった。黙って下を向いている。
コーヒーが運ばれてきた。ごゆっくりと言って店員が立ち去り、ようやく吉川が顔を上げた。
「なあ。もう一度聞くけど、お前ら本当に付き合っているのか?」
「まあ……そういう事になるかな」
今度は私が答えた。
「俺だってかがみんとお付き合いしたかったのに……いったい何をどうすりゃこんなことになるんだよ」
吉川は本当に泣いていた。申し訳ないが、ちょっとだけ優越感に浸らせてもらった。
「何って……卒業式の後に告白しただけだが」
意図したわけではないが、なろうの主人公みたいなことを言ってしまった。
「そんな馬鹿なーっ!」
「俺たちも……俺たちも告白すればワンチャンあったのか!?」
「勇気を出せばよかったー!」
地面を転げ回りながら泣き叫ぶ吉川たち。再び阿鼻叫喚の地獄絵図が発生し、スタッフが飛んできた。
彼らを見ているうち、私の中にある感情が浮かんできた。先ほどの優越感とは違う、と言って哀れみのようなものでもなく、ただ「もう彼らを見下す必要はないのだ」というものだった。
皆さん既にお気づきとは思うが、私は人を見下すことでしかプライドを保つことのできない人間だったのである。
そういう事に気付けたのはやはり鏡くんのおかげと言うべきだろう。
書簡:肆
拝啓 ご両親さま
まずはご報告申し上げます。
高校を無事卒業し、四月一日付でK市役所に採用され、水産港湾空港部水産課水産係に配属となりました。
ここの業務には市営マリンパークの管理も含まれており、展示の説明文を手直ししたり注意書きを貼って回ったり、イベントの手伝いに駆り出されたりと細かい仕事が多くて大変ですが、水族館大好きな僕には夢のような職場です。
ただ初めは分からないことだらけで、色々とミスをしては先輩方に怒られてばかりでした。アルバイトさえしたことのない僕が、働いてお金を稼ぐことの大変さをよく理解しました。
お父さんがどれほど苦労して僕らを育ててくれたのかも。
少しずつですが、仕事にも慣れてきました。
学生時代と違って長い休みがないのは本当に大変で、家に帰るとぐったりして下宿の自室に倒れ込むような日もあります。
それでも自分は今ちゃんと働いているんだなと実感できるのは、少し嬉しかったりもします。
高校の時は朝起き上がることも出来ず、そのまま休んでしまうこともありましたが、今は眠い目をこすりながらもスーツに袖を通し、ネクタイを締めて、満員まではいかないけれどそれなりに混んだバスに乗って通勤しています。
ようやく普通のことが出来るようになっただけで自慢することではないと分かってはいますが、それでもお父さんお母さんが見捨てずにいてくれたおかげで「普通になれた」と実感します。
下宿の人たちも相変わらず親切です。
大家さんも僕の健康を気遣ってくれています。
大地くんとも時々会っています。大地くんの進学先は東京になるはずでしたが、そちらは不合格でK市大に通うことになったそうです。
大地くんには申し訳ないけれど、心底ほっとしました。大地くんがそばに居てくれないと生きていける気がしないので。
一人では外に出るのが少し怖い日でも、大地くんと会う約束があるとちゃんと支度をして出かけられるので、勝手ながら随分助けられている気がします。
大地くんは学業とアルバイトの両立でとても忙しそうですが、それでも月に一回か二回は会って食事をしたりおしゃべりしたりしています。
大地くんに会えると何をしていてもとても楽しいです。でも一番楽しいのは一緒にカレーを作る時です。
どんなに忙しくても、一月十一日は必ず一緒にカレーを食べようと約束しています。この日は僕ら二人が初めて一緒にカレーを食べた、カレー記念日なんです。
改めて、ここまで育ててくれて、そして転校や下宿のことまで背中を押してくれて、本当にありがとうございました。
まだ胸を張って「親孝行しています」とは言えませんが、少しずつでもお二人からもらったものを返して行けたらと思っています。
夏が過ぎ、季節の変わり目で体調を崩しやすい頃だと思います。どうか無理をせず、お二人ともお元気でいてください。
また落ち着いたら手紙を書きます。
お二人の息子・鏡より
敬具
返信:肆
拝復 鏡へ
まずは高校卒業、そして就職おめでとう。心よりお祝いさせてもらうよ。
K市役所水産港湾空港部水産課水産係か。立派なものだ。もはや早口言葉だなw
「働いてお金を稼ぐことの大変さが分かった」とあったが、それで十分だ。父親冥利に尽きるとは正にこのことだ。
父さんも母さんも、自分たちの子育てが間違っていなかったと確信できたぞ。
俺も昔、初めて給与明細をもらった日のことをよく覚えている。嬉しいは嬉しいんだが、それより先に「この額のために、こんなにヘトヘトになるのか」と思ったものだ。
それでも昼休みに缶コーヒーを一本だけ奮発して、今日からは自分の稼ぎで飲むんだとやけに誇らしかったのを覚えている。
俺の場合は学生結婚でその時既に子持ちだったし、直ぐに海が生まれたからそれが最大の贅沢だったんだけどな。
四大卒とは言え地方公務員の初任給で家族を養うなんて、親の助けがなければ絶対に不可能だった。実家住まいで家賃も水道光熱費も負担せずに済んだからなんとかなったようなものだ。
鏡も一人でやって行くのは大変だと思う。
カネが必要なら遠慮なく言えよ。仕送りくらいいつでもしてやるからな。
毎日定時に起きて、遅刻せずに出勤する。その「普通」がどれほど大変かも、父さんは良く知っている。
水族館の仕事を楽しんでいる様子も頼もしい。
「細かい仕事が多くて大変」とあったが、些細なことを誠実にこなせる人が自分の経験に照らして公務員には一番向いていると思う。
俺たちは世間からスポットライトを浴びるような立場じゃなく、どっちかっていうと地味な裏方仕事だからな。
なんだか説教臭くなってしまったな。
せっかく好きな水族館に仕事で関われるんだ、存分に楽しんで欲しい。
大地くんにもよろしく伝えてくれ。
こちらの勝手な言い分ではあるが、同じ街にいてくれるのは父さんも母さんもありがたく感じている。
以前にも書いたが、鏡の手紙から読み取れる限り彼は「状況をよく見る」「自分を安売りしない」「必要な時には行動する」タイプの人間らしい。
本気で部下に欲しい人材だ。お前を安心して託しておける。
「カレー記念日」の話には思わず笑ってしまった。
お前の人生の転機だったんだな。今後も続くといいな。
母さんはお前の手紙を繰り返し読んでは泣いたり笑ったり、忙しそうだ。
じいちゃんたちもちゃんと元気だ。
兄さん姉さんたちもそれぞれ立派にやっている。
鏡、お前も社会で働く立派な大人だ。とはいえ「もう子どもではない」と気張り過ぎる必要もない。
疲れたら「疲れた」と書いてくれて構わない。辛くなったら「辛い」とだけでも知らせてくれれば良い。
これからも無理のない範囲でそちらの暮らしぶりを聞かせてくれ。
人生楽ありゃ苦もあるが「水族館の仕事が楽しい」「カレーを一緒に作る相手がいる」と書いてくれるうちは、父さんとしてそれ以上望むことはあまり無い。
季節の変わり目は体調を崩しやすい。
うがいと手洗い、そしてそこそこの睡眠。それから、たまには贅沢をして美味いものでも食べること。
兵站軽視は戦の大罪だが、個人の人生でも同じだ。心と体の補給を怠らないように。お金が足りない時は親を頼るように。
また手紙を楽しみにしている。
お父さんより
敬具
第五節
回想:伍
大学四年の秋、K市役所から内定が来た。
別に不思議はない。市大生としては極めてスタンダードな選択肢だ。同じ立場の者は他にも沢山いる。
ただ私の場合、志望動機が「鏡くんの近くに居たい」という極めて利己的なところが他の者との違いだった。もちろんこんな事はおくびにも出さず、面接ではもっともらしい受け答えをしてはいたが。
次のカレー記念日の時だった。
親が留守にしてくれなかったので鏡くんの下宿の台所を借りての記念日になった。大鍋いっぱいにカレーを作り、大家さんや他の下宿人にも振舞って、私たちは鏡くんの部屋での食事を取った。
そこで鏡くんが浮かぬ顔で打ち明けたのだ。
「大家さん、下宿やめちゃうんだって」
聞けば今年度いっぱいで閉鎖するので退去しなければならないと言う。
「どうする? これから……」
私が訊いても鏡くんはしばらく無言だった。
「部屋を探しては……いる……」
「見つかりそう?」
鏡くんは黙って首を振り、否定した。
「高いんだ、家賃が。ここ以上に……」
その言葉に私も黙ってしまった。ここは食事付きの下宿だ。ここよりさらに金額が上がり、その上食費と光熱費が別に掛かるとなると、失礼ながら彼の収入ではやって行けないだろう。
その時私に名案が浮かんだ。
「なあ鏡くん。俺たち、一緒に暮らさないか?」
その時の鏡くんの顔を、私は生涯忘れないだろう。
「俺も就職したら家を出たかったんだ。一応目星は着けてある。単独じゃ厳しいけど、二人でなら何とかなるだろ?」
私は説得を続けた。
「俺は君と一緒に暮らしたい。鏡くんのいない人生なんて考えられないんだよ」
鏡くんは信じられないと言う顔で私を見ていた。そして笑い出した。
「何それ。プロポーズ?」
「そうかな? うん、まあ、それでもいいや」
私は真正面から鏡くんの目を見つめた。
「約束する。君を泣かせたりしない。鏡くんが過去を思い出して苦しくなる夜は、俺が隣にいるから。俺と一緒に……同じ人生を歩いて欲しい」
確かに鏡くんが言う通り、これはプロポーズだと私も思った。そんなつもりは(少ししか)無かったのだが。
「よろしく……お願いします」
そう言って鏡くんが泣き出した。秒で誓約が破れた私は大いに焦ったが、鏡くんは「嬉し泣きはノーカンだから」と言って更に泣き続けたのだった。
書簡:伍
拝啓 お父さん、お母さん
ご無沙汰してしまい申し訳ありません。
暑い季節ですがお変わりありませんか。
公務員生活も五年目に入り、ミスも減ってかなり慣れてきました。後輩も増えましたが、高学歴の後輩の方が給料も高くて、僕より先に昇進して行くのを横目で見ているのは結構辛いものですね。
既にお聞き及びかと思いますが、五年半お世話になった一刻館が三月で閉鎖になりました。
大家さんも既に八十に近く、体力の限界だそうです。建物自体も老朽化著しく、跡継ぎも見つからないため今回のご決断に至ったとのことでした。
大慌てで引っ越し先を探しましたが、こちらは家賃が高く、僕の給料では負担し切れません。
もうどうにもならない、また逃げなければならないのかと思って絶望しかけていましたが、大地くんが同居を提案してくれました。彼も卒業したら一人暮らしをしようと思っていたのに、家賃の高さに諦めかけていたそうです。
大地くんは「同じ人生を歩いて欲しい」と言ってくれました。
そんなわけで、僕らは今一緒に暮らしています。
大地くんも市役所に就職したので職場でも一緒です。(時々僕を「先輩」と呼びます。恥ずかしいのでやめて欲しいのですが……)
もう一人じゃないと思うだけで本当に安心です。もう一歩前に進んでみようかなとも思えてきます。
どんなに忙しくても、一月十一日のカレー記念日だけは欠かさず一緒にカレーを食べています。
あの日からもう何年も経ちましたが、やっぱり大地くんと食べるカレーが一番おいしいです。
来月の連休に、二人でそちらに顔を出します。
楽しみにしていてください。
鏡より
敬具
追伸
一つだけわがままを聞いてください。
今回僕が帰ることについては、鼎と凜には伝えないでもらえると助かります。
二人のことを嫌いになったわけではないのですが、今はまだ胸が苦しくなってしまいます。
いつかちゃんと向き合えるようになった時には、その時あらためて相談させてください。
返信:伍
愛する鏡へ
お手紙ありがとう。
久しぶりにじっくり腰を据えて書いてくれたのが分かって、読みながら何度も目頭が熱くなりました。
あなたが家を出てからもう六年が経つんですね。早いものです。
あの時は私たちも必死で、あなたがもう帰って来ないんじゃないかとまで思ったものです。
だから今回「連休にそっちに顔を出します」と書いてあった一行を読んだ時、お母さんは奇声を上げて家の中を走り回ってしまいました。
「六年待たせた」なんて気に病む必要はないからね。あなたが六年かけて自分の足で立ち上がって、帰って来られるようになった、それだけでもう言う事なし。
水産課での仕事も、五年目に入ったのね。
「細かい仕事が多くて大変」と前に書いて来ていたけれど、それを真面目に、投げ出さずに続けてきたからこそ今の鏡があるんだと思います。
後輩さんたちに追い越されるのは面白くないことでしょう。
でもね、人の価値は肩書や数字で決まるものではないよ。自分に出来ることを一所懸命続けていれば、どこかで誰かが見ていてくれるものだから。
お父さんも横で「そうだそうだ」と頷いています。
そして一刻館の件。
こちらにも大家さんからご挨拶の手紙がありましたよ。
あなたのことを「優しくて素直な、とても思いやりのある子」と褒めてくださって、お母さんも嬉しくなりました。
きっとそこでの五年半があなたを成長させてくれたのね。
嬉しい半面、もうすっかり大人になって「可愛い鏡ちゃん」じゃなくなっているかもと思うと少し寂しい気もします。
大地くんとのこともお母さんは何となく察していましたよ。
「同じ人生を歩いて欲しいと言ってくれました」と書いてあるのを読んで、思わず手紙を持ったまま「I Will Always Love You」を熱唱して、お父さんから冷たい眼で見られてしまいました。
良い人に好きになってもらえたのね。
親として言えるのはただ一つだけです。
どんな関係であっても、鏡がその人と一緒にいる時にちゃんと笑えているなら、母さんはもう満足です。
それが友達でも、相棒でも、恋人でも、将来どんな形になったとしてもね。
大地くんにもくれぐれもよろしく伝えてください。
会ったら直接「私たちの息子を助けてくれてありがとう。あなたのおかげで鏡は生き延びることが出来ました」と言わせてもらうつもりです。
あまり気負わせてもいけないからほどほどにしますけど(笑)
来月の連休、みんな首を長くして待っています。
鏡の部屋はあの日のままにしてありますよ。灯が「ここは鏡の部屋だから」って、誰にも譲らなかったの。
二人にどんなごちそうを食べさせるか、それを考えると母さんも今からテンションが上がっています。
おじいちゃんおばあちゃんもカレンダーに赤丸をつけて楽しみにしています。
兄さん姉さんたちも「何があっても帰る」と言って張り切っています。海なんて「上司を殺してでも帰る」なんて物騒なこと言ってます。本当に実行しなきゃいいけど。
六年も経っているのですから、家を出た時とはお互いに変わっているでしょう。年取った私たちを見てあなたもびっくりするかもね。
大人になったあなたと、年を取った私たちとで、また新しい関係を作って行けたらなあと思っています。
かっこつけてしまいましたが、要するに「久しぶりに顔を見て、いっぱい話したい」というだけです。
熱中症に気を付けて、栄養と睡眠をたくさん取ってね。
大地くんとの同居生活のことも、また少しずつ聞かせてくれると母さんは嬉しいです。(決して腐女子的な意味ではありませんよ!)
それでは、当日を楽しみに。
くれぐれも健康にだけは注意してね。
母より
追伸
万事了解しました。皆にも口止めしておくから安心して帰っておいで!
第六節
回想:陸
大学卒業と同時に鏡くんと同居を始めた。
最初に住んだアパートは二人で住むには手狭だったが、当時の収入ではそこが精一杯だった。
次に住んだのは広くて部屋数も収納も多く、家賃は破格に安い三階建てマンションの二階。これは超優良物件だった。ただ一つ、心理的瑕疵物件であることを除けば。
今でこそ笑い話だが、私は本当にそういうのが苦手なのだ。
逃げるように転居し、今の1LDKのアパートに住んでいる。
築年数は古いがリフォームされたばかりでなかなか快適だった。もうしばらくはここに住むことになるだろう。
鏡くんの実家にもお邪魔した。同居を始めて半年ほどたった九月の大型連休だった。特急で乗り換え一回を含み四時間かかる遠隔地、T市。
鏡くんがなぜ高校生の身空でこんな遠いところから一人居を移したのか。
はっきりと聞いたわけではないが、何年も付き合っていればいやでも見当は付くものだ。
高校時代の彼は間違いなく何かから身を隠していた。
過去を一切話さなかった。常に何かに怯えるような、そんな目をした少年だった。
部屋には必要最小限のものしか置いていなかった。人生を楽しむことを諦めているかのようだった。
女装には抵抗がないのに、他人に、特に女性に触れられることを極端に嫌がった。
そして写真を撮られることに病的な拒否反応を示す。この頃に至っても、私たちは二人での自撮りすらしたことが無かった。
T市に向かう列車の中、窓側の席に座る鏡くん。見れば緊張若しくはほかの感情で青ざめている。震えているようにも見える。
私がそっと手を握ると、鏡くんはびくりとして顔を上げた。
「緊張してる?」
わずかに頷く鏡くん。
「あまり無理しないで」
続けて言うと、彼は首を横に振った。
「大丈夫。僕は……家族に会いたい」
本当に大丈夫なんだろうか。鏡くんは過呼吸を起こしているように見えた。
列車に揺られ続けること約四時間。やっとこさという感じで私たちはT駅に降り立った。
初めて見るT市の街並みは実に大きく感じた。人口で言えば我がK市と大差ないはずなのだが、やはり衰退傾向にあるK市に比べると勢いがある感じがする。
私たちはタクシーで小田家に向かった。約二十分の距離だった。
車を降り、玄関前に立つ。私もそうだが、むしろ鏡くんの方がガチガチに緊張していた。ドアノブを握る手が滑稽なほど震えている。自分の家なのに……。
いろいろあったのだろう。そこは想像するしかなかった。
鍵は掛かっておらず、鏡くんはそのままドアを開けた。
そこは実に不思議な空間だった。
踏み込んだ途端に奥の方から出汁の香りと子供たちの笑い声が流れて来て、誰かから「よく来たな」と言われたような気さえした。鏡くんの緊張が解けたのが一目で分かった。
リビングから女の人が顔を出した。恐らくお母さんだ。
その人は駆け寄って来てものも言わずに鏡くんを抱き締め、「おかえり」と言って泣いた。
鏡くんも「ただいま……帰りました」とだけ言って泣いていた。
小田家は大家族だった。
鏡くんにはお兄さんとお姉さんが二人ずついて、上のお姉さんとお兄さんは既に結婚してお子さんもいらっしゃる。
祖父母四人の内、母方のお祖父さんを除きお三方がご健在でいらっしゃる。
その全員が、鏡くんを迎えるために集合していたのだ。
下のお姉さん・灯さんが私の手を引いてリビングに案内してくれた。やんちゃそうな小学生たちが私に跳び付いて来た。
キッチンでの会話が聞こえてきた。
「母さん、あの人は誰?」
「大石くん。鏡の一番大切な人」
「ほ~ん」
これ以外、私たちへの質問がなかった。
普通ならもっとあれこれ訊かれそうなものだが、かと言って無関心なわけでもなく、私は既にここにいるのが当然な人間——つまり家族として扱われているらしい。
「こんちゃーっす」
二十代後半くらいの、ちょっと軽そうな男性が声を掛けてきた。下のお兄さんかと思ったら灯さんの交際相手だそうだ。
「ここ、いいでしょ? 俺も最初っから家族扱いだったよ(笑)今やこっちが実家みたいな感覚(笑)」
「解る! 解ります!」
私は禿げるほど同意した。
ここが鏡くんの育った家なのだ。
詳細は聞かないけれど、ここを捨てなければならないほどの何かがあったのだろう。そして今、ようやく帰還を果たしたのだ。
おめでとうを言わせてもらうよ、鏡くん。
それから三年後の六月、鏡くんに葉書が届いた。
その日私たちは偶然にも帰りが一緒となり(私の部署は残業が多い)アパートに着いて郵便受けを開けたところで鏡くんが固まってしまったのだ。
「どうしたの? 何か悪い知らせ?」
鏡くんは暫く黙って葉書を見つめていたが、中に入ってからそれを見せてくれた。差出人はお母さんで、内容は「鼎くんと凜ちゃんが結婚しました」というものだった。
「この、鼎さんと凜さんって言うのは?」
私の質問に答えてくれたのは夕食の後、デザートのアイスクリームを食べている時だった。
そこで初めて、私は鏡くんの過去を知った。
十七歳の初夏、凜さんの影響で女装とコスプレを始めたこと。
それによって性自認が揺らぎ、鼎さんを好きになってしまったこと。
しかし二人は以前から付き合っており、その間に割って入ろうとしたが敢え無く敗れ去った事。
そして自殺未遂までしてしまったこと……。
色々と腑に落ちることばかりだった。
「そうか……。辛かったんだね」
「……うん……」
「でも、こうやって人に話せる程度にはなったんだね」
鏡くんは答えなかったが、代わりに私に寄り掛かって来た。安心の笑顔を見せて。
ややあって、鏡くんはスマホを取り出した。
「連絡してみるよ。アドレス変わってるかもだけど」
真剣な顔で、震える指でメールを入力する鏡くん。やめておいた方が良いんじゃないか……。私はハラハラしながらその横顔を見守っていた。
送信が終わり、鏡くんがホッと一息ついたが、次の瞬間に返信があった。鏡くんは着信音にびっくりしてスマホを落としそうになっていた。
私は思わず噴き出してしまい、鏡くんに睨まれてしまった。
「良かったね、アドレス生きてて」
私が慌ててフォローすると、嬉しそうに頷いた鏡くんは、届いたメールを見せてくれた。
『かがみん!?
アドレス変えずにおいて良かった。
連絡くれてありがとう。もちろん迷惑なんかじゃない。
俺の方こそちゃんと謝りたいことがいっぱいある。
もし良かったら、今度のお盆に三人で会えないかな』
おそらく、こいつもいい奴なのだろう。少なくとも鏡くんが好きになる程度には。ちょっと妬けてしまう。
それからもいろいろあって今に至るわけだが、私たちの関係が常に順風満帆だったと思わないで頂きたい。
生まれも育ちも異なる二人が一緒に暮らすのだ。小さな衝突は日常茶飯事だった。
特に二度目の転居を巡っては意見が激しく対立し、喧嘩別れ寸前まで行った。
財政状況が厳しく、一人になったらやって行けないという前提がなければ本当に別れていたかも知れない。
私たちがお互いの性格を飲み込み、どうにか適応できたのはここ二~三年のことだと思う。
あるいは一緒に食べる仲直りカレーのおかげかも知れない。喧嘩のあと泣きながら玉ねぎを刻む鏡くんの後姿を見ていると、我を張った自分がいかに愚かだったか理解できる。
カレーは私たちにとって特別のごちそうだった。誕生祝いを始め、特別な日にはカレーを食べるのが私たちの習慣になっていた。
貧しかった学生時代にはそれ以上の贅沢が出来なかったこともあるが、やはり鏡くんと初めて一緒に食べたカレーの感激が忘れられない。
そして今年、十四回目のカレー記念日。
十四回……干支一回りを越えていたとは……。
そんな感慨に耽りながら私は玉ねぎをみじん切りにしている。今日のカレーだけは私が作らないと鏡くんが納得してくれない。
エピローグ
時々思う。
十七のあの日。あの夏の日……うずくまって震えていた鏡くんを、私はただ無我夢中で背負った。
あれは決して「守ってやる」なんて立派な気持ちじゃなかった。ただ偶然そこにいて、手を伸ばすことができただけだ。伸ばした手が偶然届いただけだ。
けどさ。
気がつけば、あれから干支が一回りするほどの年月が経っていて……私たちは今、同じ部屋で、同じ空気を吸って、同じカレーを食べて、同じ布団の匂いを感じながら生きている。
不思議なものだ。
あの時は守る側と守られる側だと思っていたのに、今は並んで歩くのが当たり前になっている。
私たちは恋人同士ではなく、ましてや夫婦でもない。それでも同じ方向を向いて歩き、時々視線を交わし、必要に応じて背中を守り合う、大切なパートナーであることに間違いはない。
鏡くんが強くなったからじゃない。私が強かったからでもない。
多分……縦糸と横糸みたいに、ただ重なっただけなんだ。
どっちが上とか下とかじゃなくて。
どっちが支えて、どっちが支えられるとかでもなくて。
並んでいるから布になる。
一緒にいるから形になる。
私たちは、そういう風に織り成されて来たんだと思う。
そして今、その布は私にとっての家であり、鏡くんにとっての帰る場所になっている。
長く曲がりくねった道を歩いて、時に迷い、時に倒れ、時には歩くのをやめたくなっても、それでも歩き続けて、お互いがそれぞれの扉に辿り着いたのだと思う。
こんな奇跡、神様だって二度は起こせまい。
それでも……それでも私は、今日も祈ってしまう。どうか、この布がほつれたりしませんように。これからも二人並んで歩けますように。
「大地くん。今日のカレー、すっごく美味しかったよ」
隣のベッドから鏡くんの眠たそうな声。
……嗚呼。
この幸せが、二人の日々が、明日もまた続いて行きますように。
(Another End)
今日はカレー記念日。ここまでお付き合い下さり、まことにありがとうございました。
またどこかで幸せな二人に会えることを祈りつつ。
アトリエだいこんや 拝
※ https://novel18.syosetu.com/n2235lp/ 併せてこちらもお読みください。小田家の背景の解像度が上がると思います。




