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前編

それは令和8年1月11日。つまり、本日の物語。


完結したはずのシリーズに続編が生まれました。

もしも鼎と凜が着信拒否をきっかけに鏡を諦めてしまったら……。

もしも圭兄が真相解明に至らず、誤解を解くことが出来なかったら……。

傷心の鏡が辿り着いた、もう一つの優しき物語。

「魔法のドレスでキミと」Another Story「約束の場所で君と」

どうぞお楽しみください。


  プロローグ


 一月十一日。休日の、少しだけ遅めの朝。曇ったガラス窓を通してぼんやりと雪景色が見える。

 湯気を噴きながら電気ケトルのスイッチが切れた。

 ペーパーフィルターの中のコーヒー豆に少しずつ湯を注ぐと、部屋いっぱいに香りが満ちる。

 テーブルの上にはマグカップが二つ。

 ライトブラウンとホワイトのグラデーションが私のカップ。先月、誕生日プレゼントとして(きょう)くんから贈られたもの。

 もう一つ、少し小さめで漆黒の中にキラキラと七色の反射光が見えるのが、去年四月の鏡くんの誕生日に私が贈ったものだ。

 ペアではないが、ペアのカップ。

 半開きの寝室のドアを開けて、寝ぼけ眼の鏡くんが出てきた。

「おはよう」

「おはよー」

 着古してよれよれのパジャマ。たしか、同居を始めて直ぐの頃に買ったものではなかったか。

 同居を始めたのが私が大学を卒業した直後だから、もう間も無く丸八年になろうとしている。早く買い替えればいいのに。

 ……八年? ……もうそんなに経つのか。この八年で私たちは二度転居した。家電や家具もいつの間にか増えたし、車も買った。

 私たちは、お互いがそこにいるのが当然の、空気のような関係になった。

 それにしても鏡くん、寝癖が酷い。朝の弱さも相変わらずだ。

「休みなんだから寝てればいいのに」

「コーヒーの匂いに釣られたんだよ」

 あらら、声もガラガラじゃないか。

「顔洗っといで。コーヒーはまだ冷めないよ」

「ん……」

 鏡くんは素直に洗面所に向かった。

 三杯分のコーヒーが落ちる頃、鏡くんが戻って来た。

 寝癖がまだ少し残る艶やかな髪も、高級な磁器のように透明感のある頬も、相変わらず美しい。

 マグカップにコーヒーを注ぎ、ミルクと角砂糖を添えて鏡くんの前に置く(因みに私はブラック派)

 しかし今朝の鏡くんは、砂糖にもミルクにも手を出さなかった。

「あれ? どういう風の吹き回し?」

「んー? 大地(だいち)くんの真似ー」

 そしてひと口飲んで「にがっ」と言って顔を顰めた。私は思わず失笑した。

「子供舌のくせに、なんで無茶するかな(笑)」

「行けると思ったのに」

 鏡くんは砂糖を二つ、ミルクを一つ、カップに放り込んだ。

 北国の静かな冬の朝は、時折表を走る車のエンジン音が聞こえるのみだ。

 私たちは黙ってコーヒーを飲んでいる。

 二人ともあまり饒舌多弁ではない。こういう静かな時間と空間を好む方だ。私が一杯目を飲み終わる頃、鏡くんが口を開いた。

「大地くんは、今日何か予定ある?」

「うん。カレーを作るよ」

「カレー?」

 鏡くんは小首を傾げ、それからパッと表情を明るくした。

「そうか、カレー記念日だ!」

 そう。本日、我が家はカレー記念日。なんじゃそりゃ?と思われても仕方ない。でも私たちにとっては特別にスペシャルな記念日なのだ。

「大地くんのカレー大好き……あの日から、ずっと」

「そりゃどうも。じゃあ今日は腕に撚りをかけちゃおうかな」

 鏡くんは残りのコーヒーを飲み干して立ち上がった。

「そうと決まったらもうひと眠りしなきゃ」

「どういう理屈?」

「体調を万全に整えるんだよ」

「寝過ぎたら頭痛くなるよ」

 私の最後の言葉には答えず、鏡くんは寝室に戻った。

 私は二杯目のコーヒーをカップに注ぎ、鏡くんの真似をしてミルクと砂糖を入れてみた。

 窓の外を見ると、小雪がちらつき始めていた。まるで今日だけは時間の歩みが静かに緩んでいるようだった。


 へい、お退屈さま。

 それではそろそろ始めましょうか。

 私こと大石(おおいし)大地(だいち)(三十歳)と、彼こと小田(おだ)(きょう)(三十歳)の、今ここに至るまでの物語を。



  第一節

  回想:壱


 私が鏡くんと出会ったのは、忘れもしない高校二年の秋。十月最初の月曜のことだった。

 前の週あたりから転校生が来るらしいとの噂は流れていた。

 可愛い女の子なのか、ハンサムな男子なのか、クラスメイトの関心は日に日に高まって行った。

 教室の扉が開いて担任に伴われた彼が姿を見せた時の気持ちを、どう表現して良いか分からない。

 買ったばかりと思しき真新しい学ランに、骨と皮ばかりに痩せ、分厚い眼鏡を掛けた、いかにも不健康そうな小柄な少年。

 クラスメイト達の期待は早くも外れたようで、静かなため息と舌打ちが聞こえた。

「おだきょうです。よろしくお願いします」

 小さな声で挨拶すると、彼は先生から指示された席に向かって歩いた。私の隣、窓際の席。

 息苦しそうに、ゆっくりと。

 鞄の重みに耐え、転ばないように慎重に歩いているかのようだった。

「遅えぞ、早く歩け!」

 誰かが野次を飛ばした。まったく、こいつらの民度の低さには辟易する。文明に相応しくない野蛮人どもの群れ。

 近くで見ると彼の健康状態の悪さが際立った。髪も肌も極度の栄養不足を物語っている。彼が居るべきは教室ではなく病室ではないのか。そんな失礼なことを考えてしまうほどに。

 席に着いた彼は、眼鏡を外して目を擦った。

 逆光の中に浮かぶその横顔を見て、その時私は思ったのだ。

 なんの根拠も無くただ直感で、この子の本質はもしかしたら「美しさ」にあるのではないか、と。


 見た目通り彼は病弱らしく、翌日には早くも欠席していた。

 水曜、木曜と出席。金曜日にまた欠席。二日続けて休むことは無いが、三日続けて出席することもない。

 普段から顔色が悪かった。

 声は小さく、ほとんど喋らない。

 体育はずっと見学。

 教科書の端は折れていて、やたら丁寧に書き込まれている。

 提出物は滞りがちで、授業中はどこか遠くを見ていた。

 皆は陰気な転校生と言ったけれど、私にはどうしてもそう見えなかった。

 あの横顔は、まるで泣きたいのを必死に堪えているみたいだった。

 そんな彼が、三日続けて欠席した。十月の終わり頃のことだった。

「おい大石、こいつを小田に届けてくれ」

 その日の五限の終わり、担任の伊藤先生が私にA4の封筒を見せた。

「進路希望調査票、今週が提出期限だからな。今週中に自分で持って来るか、無理ならその場で書かせてお前が回収して来い」

「何故俺が……」

「お前友達だろう! それにお前が一番近いんだ」

 言いかけた私の質問を遮り、先生は一方的に封筒を押し付けて来たのだった。

 先生から聞いた彼の住所は私の通学路の途中の、表通りから少し引っ込んだところにあった。記憶違いでなければ、資産家の未亡人が趣味で経営しているような下宿のはずだ。怪しげな風体の人間がよく出入りしているとの噂もある。

 扉の無い門を抜け『一刻館』と刻まれた看板の掛かる玄関に入る。右側に小さな窓口があり、覗くと奥の方に上品な老婦人が座っていた。

 管理人だろうか。それとも家主か。

「失礼します。あの……こちらの小田くんの同級生で、大石と言います。届けものを持って来たのですが……」

 老婦人は窓を開け、値踏みするような眼で私を見つめた。

「小田さんね。三号室。一階の、その廊下の一番奥。今日は熱はないんだけど、起き上がるとふらふらするらしくてね」

 夫人の説明を聞いて、私は胸が締め付けられた。やはり彼は無理をしていたのだ。

 一礼し、来客用スリッパに履き替え軋む廊下を歩く。

 一号室、二号室……。

 部屋の向かいは食堂と浴場らしい。洗濯機が並んだランドリーもある。建物は古いが居住環境は悪くなさそうだ。

 三号室のドアの前に立った。指先で軽くノックをし、私は遠慮がちに声を掛けた。

「小田くん、いるかい? 大石だけど。隣の席の……」

 応答は無かったが人の気配はある。私は返事を待たず、そっとドアを開けた。

 文机に向かい、座布団に座ってぼんやり窓を見ていた彼がゆっくりと振り返った。

「あ……大石くん……?」

 初めて名前を呼ばれた。少し虚ろな声だった。彼は大儀そうに立ち上がり、私の前に来た。

「……どうしたの?」

「これ、先生から。進路希望の……」

 私は封筒を差し出した。

 小田くんが弱々しい笑顔で「ありがとう」と言って受け取る。

 その一瞬で、私は部屋をぐるりと見渡した。……何も、ない。

 六畳一間にあるのは長押に掛かった学生服、下宿の備品らしき小さな文机と、教科書その他の学用品、通学用のスポーツバッグのみ。

 少しだけ開いた押し入れの中に見えるのは上段に布団、下段に小さめのボール箱。中には衣類が入っているようだ。

 趣味その他、プライベートを連想させるものが何もない。漫画も、文庫本も、ゲームの類も……。

 ここは本当に人が住む部屋なのだろうか。今どきテレビドラマでももう少しリアリティーのあるセットを組むのではなかろうか。

 彼はいったいどんな過去を持っているのだろう。二年生の二学期という中途半端な時期に転校して来て、わざわざ独り暮らしをしている理由は何だろう。

「……ここって、小田くんの部屋、だよね?」

 失礼ではあるが尋ねずにはいられなかった。

「うん。そうだけど……何か変?」

「変っていうか……何も置いてないから……」

 私の言葉に、小田くんは少しだけ視線をそらした。そして苦笑いのような、泣き笑いのような表情をした。

「物が多いと落ち着かなくて……」

 そう言った後、小田くんはすぐに俯いた。

 嘘だ。

 私は何故かすぐにそう思った。

 何も持って来られなかった……何も持って来たくなかったのではないか。過去を想起させるものを、何も……(私の想像があながち間違いでなかったことは、後年に判明する)

「小田くん……ご飯、ちゃんと食べてる?」

「え……? うん、大丈夫。大家さんが……作ってくれるし……」

 声が弱い。

 目の下のクマは濃い。

 手は少し震えていて、封筒を落としそうになっている。

 ああ、この子は……この子はすごく、すごく無理して生きている。

 その瞬間、鼻の奥がツンと熱くなった。

 心のどこかで私ははっきりと理解した。

 この子を放っておいてはいけない。

 言葉じゃない。

 理屈じゃない。

 本当に雷みたいに、唐突に。

「小田くん……」

「ん?」

「明日は学校に来れる? 一緒に図書館行こうよ。課題とか……俺、手伝うからさ」

 自分でも驚くほど自然な言葉が口から出た。

 小田くんはきょとんと目を丸くして、それから小さく頷いた。

「……うん……ありがとう……」

 その「ありがとう」は、どこか泣きそうなくらい安堵に満ちていた。


 今でも思う。私の人生のベクトルは、あの日彼の部屋を見たことで決まってしまったのだと。


 翌日、彼は学校に姿を見せた。進路希望調査票の提出は間に合ったようだった。

 それ以降、私たちは図書館で語らうようになった。……彼が出席した日に限ってだが。

 十二月が近付いた頃、彼は浮かない顔で私に言った。

「出席日数が……足りない……」

 聞けば彼は以前の学校でも二学期は一度も出席していなかったそうだ。こちらに来てからも半分程度しか出ていないのだから、それは仕方のないことだと私も思った。

「補習……受けろだって……」

 人の顔色とは思えない、土気色の顔。このまま消えてなくなってしまうのではないか……。私は本気で彼の生命を心配しなければならなかった。

 お節介とは思ったが、私は先生から補習の日程を聞き出した。

 十一月最後の土曜の朝、私は彼の下宿を訪ねた。家主さんによれば朝食は取ったとのことだった。

「小田くん、いるー?」

 返事は無かった。ドアを開けると案の定、彼は布団を被って震えていた。

「え? 大石くん、どうして……」

「今日は補習だよね? 一緒に行こうと思って。一人で行くの、怖いでしょ?」

 しばらくの間彼は私を見つめていたが、やがて観念したように起き上がった。

 彼の歩みは遅かった。怠慢とかでなく、これは体力の問題なのだ。私は努めてゆっくり歩き、時々足を止めて彼を休息させなければならなかった。

「大丈夫、急がなくていいよ」

 隣に立って声を掛けると、彼は安堵したように微笑んだ。

 学校に着いたが、彼は玄関前でまた動けなくなった。

「……やっぱり……無理かも」

「無理なら帰ればいいさ。でも一回だけ……一回だけ、中を覗いてみない?」

 教室に向かっていると伊藤先生と出くわした。彼を送ったら一旦退避するつもりでいたのだが。

「なんだ大石、付き添いか? ついでだからお前も補習受けて行くか?」

「え? いや、俺は……」

 帰りますと言おうとしたが、彼の縋るような眼を見てしまったらその続きは言えなかった。

「別に授業料取るとは言わんよ、入れ入れ!」

 こうして私は半ば強引に補習を受けることになった。結果として私の学力向上にも繋がったので悪い話ではなかった。

 放課後、土日、そして冬休み。

 私は彼の補習に付き合い続けた。我ながら物好きだと思う。だが彼を放っておくことなど、人情として出来るものではなかった。初日に失礼なことを考えてしまったことへの罪悪感も、多少はあったかもしれない。


 三学期の始業式あとのこと。

「追試の範囲、ここだからな。家でちゃんとやっとけよ」

 補習の後、先生から突き付けられたプリントを見て彼が青ざめていた。

「……図書室行く? 一緒にやろう。今日の続き」

 やるしかないと思った。ここまで来て彼を見捨てるわけには行かない。

「え……でも……」

「俺、数学ならそこそこ得意だから。教えるのは下手だけど、一緒にいることなら出来る」

 彼は泣きそうな顔で私を見つめた。

「……お願い……します」

 そう言って、本当に泣きだしたのだった。

 試験対策を終え、彼を下宿へ送り届けた。彼が登校するとは限らないので朝の迎えはしていないが、帰りは送るのが習慣になっていた。

 玄関で靴を履き、管理人室に目を向けると家主夫人がこちらを見て微笑んでいる。会釈をすると夫人は小窓を開けた。

「いつもありがとうね」

「どういたしまして」

 まさか礼を言われるとは。彼はずいぶんと大切にされているようだ。

「あの子はねえ、本当に優しくていい子なの。でも身体は弱いし、直ぐに無理をしちゃうのよ」

「分かります」

「大石君でしたね。どうかあの子のことを見守ってあげて頂戴ね」

「はい。お任せ下さい」

 凡庸な高校生には少々荷が重いが、これはやり遂げなければならないと思った。断るという選択肢はどこにもなかった。


 月曜日。

 世間では成人の日だそうだが、彼は追試。私はその付き添いだった。

 下宿の玄関の扉を開けると、彼は上り框に座って玄関の床を見つめていた。私を待っていたのだろうか。それとも怯えて動けずにいたのだろうか。

 私は彼に視線を合わせ、そっと肩に手を置いた。

「行こう。今日は大丈夫だよ」

 彼は顔を上げ、立ち上がった。表情が和らいでいる。安心してくれたのなら何よりだと私は思った。

 試験中は私が教室に入ることは許されず、休日の事とて学食も図書館も閉まっており、廊下で時間を潰すしかなかった。

 壁にもたれて座っているうちに居眠りしてしまったらしく、教室の戸が開く音で私は目を覚ました。

 伊藤先生に続き彼が出て来た。疲れ果てたのか、いつにも増してふらふらとした足取りだった。

「お疲れさま。どうだったかな?」

「赤点ではない……と思う、多分」

「それで十分だよ。よく頑張った」

 緊張が解けたのか、彼は大きく息を吐いた。

 帰り道、冬の短い日が早くも傾き始めていた。

「小田くんは、今日この後、予定ある?」

「え? 特には……」

 言い難いことだったが、前々から考えていたことを私は思い切って言葉にした。

「良かったら、うちに来ない? 今日さ、親も妹もいなくて。俺一人なんだ。独りで夕飯なんて侘しいし……」

 小田くんはポカンとしている。

「追試お疲れだろ? カレー作るけど。一人で食うより二人のほうが、きっと旨いし」

「……うん。行く」

 嬉しいのか悲しいのか、私には判断の付かない表情(かお)で小田くんが肯いた。


 その日以降、私たちは「鏡くん」「大地くん」と呼び合う仲になった。



  書簡:壱


拝啓 お父さん、お母さん


 初めに、連絡が遅くなりましたことをお詫びします。

 僕のワガママにより転校と下宿暮らしをさせて頂けることになり、本当に感謝しています。

 こちらに来てからもう三か月以上が過ぎ、年も明けてしまいました。

 新しい環境にも少しずつ慣れて来ました。大家さんは優しい人です。下宿にも面白い人たちが大勢いて親切にしてくれます。

 学校にもなんとか通えています。

 こちらでは修学旅行は九月に終わってしまったそうです。南高は十月後半の予定でしたから、僕は行けずじまいでした。

 ただでさえ下宿代を出して頂いている身なので、お金のことで負担を増やさずに済んだので良かったと思っています。

 友達と呼べるかどうか分かりませんが、一人だけ親しい人が出来ました。大石大地くんと言います。

 こちらでも僕は相変わらず「かがみん」と呼ばれていてうんざりしていますが、でも大石くん、いいえ、大地くんだけは僕を「鏡くん」と呼んでくれます。

 一言で言うと、大地くんは怖くない人です。

 いつも穏やかで、どことなくお父さんに似ている感じです。つい先日も僕にお手製のカレーをごちそうしてくれました。


 お父さんには重ねてお詫びとお礼を言わなければなりません。

 去年の十月に、僕が進路希望調査票を白紙で出したことで連絡が行ったと思います。

 先生からは厳しく叱られましたが決してふざけたわけではありません。真面目に書こうと思っていましたが書けませんでした。

「親に連絡する」と言われてきっと怒られると思っていたのに、お父さんは「心配するな。俺たちが付いている」とだけ書いたハガキを送ってくれましたね。

 あれを抱きしめて、その日は思い切り泣きました。隣の部屋の町田さんが心配して部屋に来てくれたほどです。


 今の僕はこんなだけど、いつかきっと元気になって帰ります。どうかそれまで待ってください。


 また手紙を書きます。

 寒い日が続いていますので、風邪をひかないように気を付けてください。


  敬具



  返信:壱


愛する鏡へ


 お手紙ありがとう。

 まずは言わせて頂戴。

 あなたがどれほど辛い思いをしたか、どれほど苦しんで転校を決意したか、私たちも親として理解しているつもりです。

 だから手紙を書けなかったことで謝る必要は無し。今後も書きたい時に書いてくれればそれで良いのですよ。

 OK?


 新しい生活にも少しずつ慣れてきたと知り、父さんも母さんもほっと胸を撫で下ろしています。

 あなたが自分の力で朝を迎えて、自分の足で学校へ向かっている、ただそれだけのことを今の私たちは何より嬉しく思います。

 大家さんや下宿の皆さん、学校のお友達があなたを迎え入れてくれるのも、あなたの人柄があってのことですから自信を持ってください。

 鏡はいつだって、周りを丁寧に見て、人に優しくできる子でした。

 だからどこへ行ってもきっと大丈夫。母さんはそう信じています。


 修学旅行のことも書いてくれてありがとう。

 本当はね、母さんとしては、鏡にもクラスのみんなと一緒に行って、たくさん思い出を作ってきて欲しかったという気持ちもあります。

 でも旅費のことまで気にしてくれたその優しさがとても鏡らしいと思いました。

 お金のことは心配しなくていいのですよ。それが親の役目ですから。

「行けなくて残念だった」という気持ちも「負担をかけたくない」という気持ちも、どちらもちゃんと受け取りました。


 こっちはみんな元気です。

 おじいちゃんは相変わらず朝から庭に出ていて、おばあちゃんはその後をついて回って「ほどほどにしなさい」と文句を言いながら一緒に草むしりしています。

 もちろん風見のおばあちゃんも元気いっぱいですよ。

 圭は先月地元で試合があり、皆で見に行って来ました。カッコ良かったですよ。

 その時撮った写真を同封しました。クラスの皆にも自慢してください。


 鏡の手紙を読んで、お父さんが一言。

「ふむ、大地くんとな……」

 それだけ言って、なんだかニヤニヤしてました。

 母さんも勝手にちょっとだけファンになっています。いい名前だね。

 こっちでも「かがみん」なんだって書いてあって思わず笑ってしまいました。

 でも大地くんだけは「鏡くん」と呼んでくれるんだね。

 そこを真っ先に書いてくるあたりで、鏡がその子のことを大事に思っているのがなんとなく伝わりました。

 カレーをごちそうになった話もなんだか目に浮かぶようです。

 今度の手紙では、その時どんな話をしたのか教えてもらえると嬉しいな。

 大地くんの話、もっと聞きたいです。


 進路希望のことも、お父さんはちゃんとわかっています。だから何も心配はいりません。

 長く書くとついあれこれ言いたくなってしまうので、このくらいにしておきます。

 鏡の今の暮らしの話を聞けて母さんは少しほっとしました。

 K市はこちらより冷え込むでしょう。くれぐれも無理をせぬよう気をつけてください。無茶したくなったらその前に一回だけ母さんを思い出しなさい。そこでブレーキ踏めたら上出来です。

 暖かくして寝ること、ちゃんとごはんを食べることだけは忘れないでください。

 あと、お小遣いが必要ならいつでも言ってね。

 また鏡の好きなタイミングで手紙をください。

 のんびり待っています。


  母より


追伸

 大地くんというお友達、大切にね。話を読むだけで鏡がその人の前では少し楽に息をしているのが分かる気がします。



  第二節

  回想:弐


 四月、私たちは三年生に進級した。鏡くんも無事留年を回避し、クラス替えも無くまた同級生になれたのは幸運だった。

 もし別々だったら私は心配のあまり正気を保てなかったかも知れない。

 鏡くんは少しずつ健康を取り戻しつつあった。

 顔色も以前より良くなり、体重も増えているようだ。笑顔も見せるようになったし、欠席も少なくなっているし、良い傾向だと思った。


 少なくとも、その時の私はそう信じていた。


 あれ以来、私はしばしば鏡くんを自宅に招くようになった。

 鏡くんにカレーを食べさせると言うか、一緒に作るのが楽しくてならなかった。

 私は無趣味な人間で、そういう意味では鏡くんと同じように虚無を抱えて生きていたのかも知れない。鏡くんと何かをするのが私の趣味になっていたのだろう。

 私には水脈(みお)という二つ下の妹(今年から同じ高校の一年生でもある)がいるのだが、この水脈も鏡くんを気に入ったようだった。

 帰り際にはいつも「次はいつ来るの?」としつこく聞いて彼を困らせていた。


 そして七月。あの運命の日が来た。

 我が港陵高校の学校祭は七月、一学期最後の二日間に実施される。六月後半辺りから準備期間に入るが、今年度初採用のプログラムの一つに「女装美人コンテスト」なるものがあった。

 聞くところによると「ミス港陵コンテスト」の企画を提出したところ女性蔑視とバッシングを受けたためこのように改変されたらしい。

 各学級最低一名参加のノルマを受け、我がクラスでも参加者を選ぶことになった。

 準備委員の主催で学級会議が開催されたが、当然ながら立候補者はなし。

 推薦を求めたところ、誰かが鏡くんの名を上げた。その途端教室が賛成の声で満たされた。当の鏡くん本人は怯え戸惑っている。

 私には彼らの本音が手に取るように分かった。自分たちがやりたくないことを、この気弱な転校生に押し付けて済ませようと言うのだ。

 鏡くんは泣きそうな顔で俯いていた。

 私だけでも反対すべきだったのかも知れない。だが出来なかった。私もまた女装した鏡くんを見たいと思ってしまったからだ。

 まったく度し難い。


 帰り道、相談があると言われた私は鏡くんの部屋に上がった。

「服も何も無いんだ……。どうしたらいいんだろう」

「準備委員には相談した?」

「した。そしたら自分でやれって……」

 私は天を仰いで嘆息した。面倒だけを押し付け協力はしない。まったく度し難い蛮族どもだ。

 私は言うしかなかった。

「俺の家に行こう。妹の力を借りよう」

「水脈ちゃんの?」

「そう。鏡くん、サイズは妹と同じくらいだから何とかなる。いや、なんとかする」

 その日のうちに私は水脈に事情を話して頼み込んだ。水脈は「鏡くんなら大歓迎」と言ってあっさり了承してくれた。

 次の土曜日、衣装合わせを行った。両親が外出中なので昼も一緒に食べる計画だった。

「これなんか鏡くんに似合うと思うんだけどなー」

「あんまり派手なのは……ちょっと……」

「そお? じゃあこっちにする?」

 水脈が選び、鏡くんが納得したのはなんという事もないストライプのTシャツと、サスペンダー付きの緩い感じのスカートだった。(後から聞いたがストラップワンピースというそうだ)

 これでは地味すぎて入賞は難しいのではないかと思ったが、出場さえすれば義理は果たせるのだから構わないだろう。

 さっそく着てみようと言うことになり(鏡くんは恥ずかしがったが)私の部屋で着替えてもらった。その間私たちは居間で待っていた。

 着替え終わって現れた鏡くんを見て、私たちは驚愕した。紛れもない「美少女」が立っていたからだ。

「しゅごい……」

 水脈はただ一言言っただけで、あとは絶句していた。無論私もだ。

「『眼鏡を外したら美少女』なんて、王道過ぎでしょ!」

 水脈がはしゃぎ始めた。鏡くんが目を逸らす。

「あんまり見ないで……恥ずかしいから……」

「後は髪と眉を整えてー、少しメイクしたら完璧だよねー」

「やめっ、触らないで!」

 水脈が伸ばした手を払い除けるように、鏡くんはガードを固めた。

「えー? ちょっといじるだけだよー? 絶対可愛くなるから!」

「やだ! やだってば!」

「ちょっとだけ! ね? ちょっとだけだから!」

「やだー!」

 このやり取りを見て、私は思わず大きな声を出した。

「水脈!!」

 妹がびっくりしてこちらを見た。

「やめなさい。鏡くんは本気で嫌がっている。分からないか?」

「……はーい……」

 水脈は不貞腐れつつも鏡くんに絡むのをやめた。

「鏡くん、妹が済まなかった。コンテストは今からでも辞退した方が良くないか?」

「ううん、大丈夫。あとは自分で出来るから……」

 全然大丈夫には思えなかったが、本人がそう言うものを私は否定できなかった。

「でもまあこれで問題は解決かな? じゃあカレーの準備でもしようか」

 私が言うと鏡くんは(てっきり自分の服に着替えると思っていたのだが)そのままエプロンを着けて台所に立った。その所作が極めて自然で、私はつい見惚れてしまった。

「鏡くん似合い過ぎ(笑)新婚さんみたい(笑)」

 台所に並んで立つ私たちを、水脈が囃し立てた。

「これ水脈、失礼だろ(笑)」

 言いながら私も笑ってしまった。鏡くんも微笑んでいた。

 カレーを煮込む間、居間でカルピスなど飲んでいるとまた水脈が調子に乗り始めた。

「鏡くんホントお似合いだよ(笑)そのままお兄ちゃんのお嫁さんになれば?」

 私はカルピスを鼻から噴き出し、鏡くんは真っ赤になって下を向いた。


 七月も中旬になると学校祭の準備も追い込みに入る。暑さが高まる中、毎日十八時過ぎまで居残って行灯行列や模擬店の製作が続く。

 もともと体力がない上に健康を害している鏡くんは本当に辛そうだった。

 単なる夏バテかとも思っていたが、一緒に歩いている途中で鏡くんがふと立ち止まることが増えた。

 階段の踊り場で、窓の外を見ながら長めに息を吐く。

 こちらが声を掛けるといつもの調子で笑ってくれるのだが、その笑顔がほんの少し遅れて顔に貼り付くように見えた。

「疲れた?」と聞くと「ちょっと眠いだけ」と返ってくる。言葉だけ聞けば、どこにでもいる高校生の弱音だ。

 私はそれ以上踏み込まなかった。踏み込んでいいのかどうか、自信がなかった。


 そして学校祭初日。女装美人コンテストがその日のクライマックスだった。

 クラスの人間は、鏡くんが女装したところを(私を除いて)まだ誰も見ていない。誰も関心が無いようだった。

 メイクは自分でやると言っていたが眉はきれいに整っており、ほんのりナチュラルメイクに艶やかな髪も軽くウエーブが掛かっている。

 私の家で見た時も本物の女の子のようだと思っていたが、更に三段階くらいレベルが上がっていた。

 転校初日、まだ髪も肌もボロボロの鏡くんを見て「この子は本当は美しいのではないか」と感じたあの直感が正しかったことを、私はこの時確信した。

「本番、大丈夫そう?」

 開催前の控え室で私は鏡くんに声を掛けた。

「……緊張、してる」

「そりゃあするよな。嫌だったら今からでも……」

「……ううん。やるって決めたから」

 小さく笑うその横顔に私は言葉を失った。

 やめようと言ってやるべきだったのかも知れない。

 だが結局私は背中を押すことも引き止めることも出来ないまま、ただ横に並んで立っているだけだった。

 全校生徒が投票用紙を持って体育館に集合し、ステージの幕が上がった。

 出場者は三学年十五クラス、十七名。

 順番に登場してくる出場者たちに、歓声と笑い声が飛ぶ。

 ネタに走るものあり、ガチ勢あり。

 全員が派手な衣装やメイク、ウイッグとオーバーなアクションでアピールする中、鏡くんは普段着と言って良い衣服(敢えて衣装とは言わない)の、いつも通りの鏡くんだった。

 特に何をするでもなく、舞台の端っこに所在無げに立っているだけだ。

 MCからマイクを向けられても名前とクラスしか言わない。視線を合わせず、素っ気なくどこか遠くを見ている。しかしそれでも、その存在感は他者を圧倒していた。

 投票用紙が集められ、集計作業の間はバンド演奏が続く。

 そして結果発表——文句なし、断トツで鏡くんの優勝だった。

 再度ステージ上に集合した出場者の中、スポットライトを浴びる鏡くんはそれでも表情を変えなかった。

「これが当然」と思っているのだろうか。それとも本当に無関心なのだろうか。

 教室へ戻った鏡くんを、クラスの連中が取り囲んで大騒ぎしていた。何ひとつ協力しなかったくせに優勝の名誉は自分たちのものだと思っているらしい。

 まったく度し難い。

「着替える前に写真撮ろうぜ」

 誰かの言葉を合図に皆がスマホを取り出し、鏡くんに向けた。シャッター音が響き、フラッシュの光が教室に溢れた。

 鏡くんは壁際に追い詰められた。両眼を見開き、明らかに過呼吸を起こしていた。

 まずいと思ったが間に合わなかった。

 鏡くんは悲鳴を上げてその場に(くずお)れ、顔を隠すように両腕で頭を抱えた。

「やめて……撮らないで……」

 泣きながら懇願する鏡くんを見て彼らはいよいよ大声で笑い、強引に腕を引き剥がして顔をカメラに向けさせた。スカートを捲り上げてスマホを突っ込んでいる奴もいた。

 響き渡る鏡くんの泣き声と、野蛮人どもの嘲笑。

 その時の私は「思考」というものを持っていなかった。

「怒りに我を忘れる」が比喩でも何でもないただの事実の描写であることを、私は身を以て知った。

 彼らを押し退け突き飛ばし、有無を言わさず鏡くんを抱え上げて私は教室を出た。

 決して力のある方ではない、むしろヒョロガリと言うべき私に何故そこまでの力が出せたのか、今でも解らない。

 保健室でベッドに横たわる鏡くんを見て、私は涙が止まらなかった。

 後悔の念が押し寄せて来る。やはりこんなふざけた催しに出場させるべきでなかったのだ。もっとしっかり制止すべきだった。

 養護教諭が保護者に連絡すると言ったとき、鏡くんは猛然と反対した。

 自分は大丈夫だから連絡なんかしないでくれと言うのだ。私も彼を説得しようと思ったが、鏡くんは怒り、そして泣いて頼むものだからとうとう根負けして連絡しないと約束せざるを得なかった。

 鏡くんが下宿に帰ると言うので、私たちはそのまま下校することにした。

 下宿玄関まで鏡くんを送り、余計なお節介とは思ったが大家さんにだけは簡単に事情を説明しておいた。

 ともあれ、結果として私はクラスの半分を敵に回すことになってしまった。あの野蛮人どもは「せっかく手に入れたおもちゃを横取りされた」と思っているのだ。

 まったく度し難い。

 まあ今更敵が増えようとそんなことは些細な問題だ。どうせあと半年余りであいつらとはおさらばなのだ。


 鏡くんさえ無事ならそれで良い。



  書簡:弐


拝啓 お父さん、お母さん


 八月に入り暑い日が続いていると思いますが、その後お変わりありませんか。

「霧の街」とはよく言ったもので、こちらK市は毎日が曇り空です。涼しいのは良いのですが、洗濯物が乾かずに苦労しています。

 留年するかと思いましたが、なんとか無事進級出来ました。ご心配をかけてすみませんでした。

 この前送ってくれたハスカップのロールケーキ、とても美味しかったです。

 大地くんにおすそ分けしたらとても喜んでくれました。

 一学期はあっという間に終わってしまいました。中間テストも期末テストも追試を喰らってしまいましたが、大地くんが教えてくれたおかげで何とかなりました。

 一学期の最後が学校祭で、僕はそこでなぜか女装することになってしまいました。

 女装美人コンテストがあって、皆の推薦で出ることになったのです。

 服がないので困りましたが、大地くんの妹さんの水脈ちゃんが貸してくれたので何とかなりました。

 ステージではとても緊張して、途中で人混みとカメラが怖くなってしまって、おかげで少し気分が悪くなりましたが、大地くんが僕を保健室に連れて行ってくれたので助かりました。

 今はだいぶ落ち着いています。

 本当は写真を同封したかったのですが撮るのを忘れてしまいました。ごめんなさい。

 水脈ちゃんは二つ年下で、同じ高校の一年生です。末っ子の僕には本当の妹が出来たみたいでとても新鮮な気分です。


 前の手紙で大地くんのカレーの話を書きましたよね。

 あれからも時々大地くんのお家でカレーを食べています。最近では僕も一緒に作るようになりました。

 二人で並んで料理をするのはとても楽しいです。

 そちらに居た時お母さんの手伝いをほとんどしなかったことが悔やまれてなりません。

 前回「いつかきっと元気になって帰ります」と書きましたが、まだ胸を張ってそう言えるほどではありません。

 それでも、大地くんと一緒に学校に行って、授業を受けて、時々笑って、たまにカレーを作って……そうやって少しずつ、毎日を重ねて行けています。

 どうかあまり心配しすぎず、でも少しだけ心配していてください。

 またこちらの様子を手紙に書きます。

 そちらは暑いと思いますので、くれぐれも体調には気を付けてください。

 それではまた。


  敬具



  返信:弐


拝復 鏡へ


 元気にやっているようで何よりだ。

 転校したいとお前が言った時、正直に言うと父さんは驚いたし心配もした。未成年の我が子を一人遠くへやるんだからな。

 でも人間生きてりゃ一度や二度は逃げるしかないって時がある。今がその時だ。

 お前の行き先、連絡先は誰にも教えていない。兄さん姉さんたちにもだ。だから安心して養生しなさい。


 それはそうと、お前は大地くんが随分とお気に入りのようだな。それを言ったら母さんが「恋してるに決まってるでしょ」なんて言いやがったぞ。これだから腐女子脳は……。

 俺が思うところ、大地くんは誠実で責任感が強い人物のようだな。しかも頼まれたら断れないタイプじゃないか?

 色々抱え込んで、将来は苦労しそうだな。なんとなくだがお前とはお互い支え合えるいいコンビになりそうだ。

 下宿の人たち、大家さんも店子さんもいい人たちばかりのようで安心した。そういう人たちとの縁を大切にするんだぞ。

 父さんたちも大勢の人の好意に支えられて今があるからな。


 勉強のことも進路のこともそんなに心配することはない。父さんだってお前くらいの頃は今の仕事に就くなんて思ってもいなかった。

 人生なんてどこでどう転ぶか分からないんだ。

 焦る必要はない。

 真面目にやっていれば、やりたいことも、出来ることも、出来ないことも、いつか自然と見えてくる。

 何か困ったことがあれば遠慮するなよ。

 お金のことでも、生活のことでも、相談してくれればそれでいい。

 親っていうのは子どもを助けるために存在してるんだからな。

 季節の変わり目で体調を崩しやすい時期だ。

 食事と睡眠だけはちゃんと取れよ。

 母さんはお前が想像している以上に心配性なんだ。元気でいることが一番の親孝行だぞ。


 そうそう、ちょっと前に灯のやつが家に彼氏を連れて来た。結構前から付き合っていたらしい。

 俺は全く知らなかったんだが母さんは知っていたそうだ。

 考えてみれば樹の時も海の時もそうだった。男親なんて寂しいものだな。

 圭もお前もそうなるのかな。

 せめて鏡、お前だけは真っ先に父さんに知らせてくれよな。


 いつかお前の顔を見る日を楽しみにしている。


  父より


追伸

 大地くんに、父さんの下で働く気がないかどうか聞いておいてくれ。

 直接会える日が来るのを秘かに待っている。



  第三節

  回想:参


 高校三年の二学期ともなれば、受験に本腰を入れねばならない。

 既に夏休み中から学習塾の強化合宿に参加し受験態勢を本格化させていた私は、学校以外で鏡くんと会う機会も自然に減っていた。

 私が目指しているのは首都圏の大学だった。

 理由は特にない。この街から逃げ出せるのならどこでも良かった。

 進路指導や三者面談の席では「学びたい学部がある」「都会で視野を広げたい」などもっともらしい建前を並べてはいたが。

 全ての柵を断ち切り、人間関係をリセットして新しい人生を開拓したかったのだ。

 鏡くんに私の受験校を伝えると、彼は何とも言えない深い悲しみに満ちた目をした。しかしすぐに笑顔を作り、応援していると言った。

 もしかして私はとんでもない裏切りの行為を働いたのではなかろうか。

 私は地元を捨てたいと画策しているが、鏡くんは既に親元を離れ、寄る辺なきこの街でただ一人生きているのだ。

 私がいなくなった後、彼はこの街でやって行けるだろうか。それを思うと胃が痛くなる。

 そんな心配をする資格が私にあろうとも思えないのだが。

 だから私はここでも本音を言うことが出来ず、綺麗事で誤魔化すしかなかった。

「鏡くんはどうするの?」

 自分のことを聞かれたくなくて私は話題を反らした。

「僕は……市役所……高卒枠を受けようと思って」

「いいんじゃない? 鏡くんは真面目だから合ってると思うよ」

「他に選べる進路が無かっただけだよ」

「そっか。お互い頑張ろうね」

 なんと空々しい言葉だろうか。


 受験生の時間はあっという間に過ぎる。二学期中、鏡くんの勉強に付き合ってやる暇もなかった。

「赤点は取らなかったから大丈夫。心配させてごめん」

 鏡くんの態度が心なしか冷たく感じた。気のせいだと思いたかった。

 冬休みが近付くにつれて私たちはますます距離が開いていくようだった。

 鏡くんを自宅に呼ぶこともなくなり、私は塾通いと模擬試験に明け暮れていた。そんな十一月末のことだ。

 私は鏡くんがやけに楽しそうな顔をしているのに気付いた。

「どうしたの?」

 訊かずにいられなかった私に、勿体を付けるように彼は答えた。

「ふふ~ん。なんだと思う?」

「公務員試験に合格した」

「なんで一発で当てちゃうの? 礼儀ってものがあるでしょ?」

 私は腹を抱えて笑った。こんなに笑ったのは久し振りだった。

「めでたいじゃないか。何かお祝いしなきゃ」

「じゃ大地くんのカレー」

「そんなのでいいの? 折角なんだからせめてファミレスとか」

「そんなお金ないし」

「奢るよ」

「大地くんのカレーがいいの」

 案外と強情だな、鏡くんは。そんなことを考えつつ「期末試験の後」と約束を交わした。


 半年ぶりに一緒に作ったカレーはこの世のものとも思えぬ美味だった。


 冬休みが明け、私たちの目の前に成人式というイベントがやって来た。

 直前の土曜日、私は鏡くんの部屋を訪問した。恐らく鏡くんは行きたくないと思っていることだろう。

 一刻館に入り、受付の小窓を覗くと大家さんが顔を出す。そこで私は思わぬ情報の提供を受けた。

「小田くんのお父さんがね、礼服一式送ってくれたのよ」

 同封の手紙を見せてもらった。お父さんからの条件は、①礼服の出どころは明かさずに ②鏡くんが式に出たいと言ったら渡して欲しい……というものだった。

 私は大家さんとともにこの困難な作戦ミッション・インポッシブルに取り組むことになった。

「鏡くん、成人式はどうするの?」

 手土産のペットボトルコーヒーと袋菓子を渡しながら、真正面から質問してみた。

「僕は無理だよ、ああいう陽キャの集会は」

 鏡くんには甘めのカフェオレ、私は無糖ブラック。

「俺も」

 私は苦笑しつつボトルの蓋を開けた。

「でもさ、俺思うんだけど……」

 一口飲んで息を整え、私は作戦に取り掛かった。

「成人式ってさ、陽キャのイベントってより『ここまで生き延びて大人になった自分を見てください』って区切りだと思うんだ」

 鏡くんはしばらく黙って、畳の上で指先をいじっていた。

「……そう言われると、ちょっと狡いね」

「狡いかな」

「うん、ちょっとだけ。行かなきゃいけない気がしてくるから」

 小さな声でそう言った後、彼は首を横に振った。

「でもさ。行きたくても着て行く服がないよ」

「スーツ?」

「うん。持ってないし、買うお金もないし。貸衣装だってお金かかるでしょ。今からじゃ間に合わないだろうし、そこまでして行きたいかっていうと……うーんってなる」

 尤もな話だと思った。

 私は少しだけ間を取ってから口を開いた。

「じゃあさ」

「ん?」

「大家さんから借りればいい」

「……え?」

「大家さんならきっと持ってるよ。ダメ元で聞いてみようよ。『成人式の時だけ貸してください』って」

 鏡くんは困ったように笑った。

「そんなの迷惑じゃない?」

「迷惑だったら断られるよ。そのときは素直に諦めればいい」

 私は立ち上がりながらわざと軽い調子で言った。

「服がないから行けない、は理由としてちょっともったいない気がするんだよね」

「……狡いよ大地くん」

「そうかな」

「うん。……じゃあ一緒に聞きに行ってくれる?」

「もちろん」


 斯くして私たちは成人式に参加した。式典の間中、鏡くんは私の隣で震えていた。私は鏡くんの手をそっと握った。

 式典が終わると原始人どもは挙って町へ繰り出したが、私たちは鏡くんの下宿へ戻った。大家さんがささやかながらお祝いの席を設けてくれたからだ。

 さすがは大家さん、鏡くんが街へ遊びに行くような性格でないと解っていらっしゃる。

 用意されていたのは手作りのザンギと筑前煮、それから具だくさんの豚汁。

 豪華ではないけれど心がほっと解けるような温かさだった。

 箸を手にした鏡くんが小さく微笑む。

「こういうの、久しぶりだな」

 大家さんは嬉しそうに頷いた。

「折角の晴れの日だもの。礼服もよく似合ってましたよ」

「え、あ、ありがとうございます」

 その言葉に鏡くんは頬を染めた。

「ご両親の思いやりには感謝しないとね」

 この大家さんの発言で場の空気が微妙になった。大家さんも「しまった!」という表情をしたが、却って開き直ったようだ。

「本当は内緒だったけど、もう言ってもいいでしょ。あの礼服、お父さんが送ってくれたの」

 大家さんは例の手紙を手渡した。

 鏡くんはじっと手紙を読んでいる。そんなに長いものではない。きっと何度も繰り返し読んでいるのだ。

 その目に大粒の涙が溢れた。

 号泣する鏡くんを見ながら、私はその複雑な事情に想いを馳せたのだった。


 ようやく鏡くんが泣き止み、声を掛けられる程度に落ち着いた。涙で濡れたままの顔を上げた彼にそっと言った。

「よかったよ。今日は一緒に行けて。……鏡くん、成人おめでとう」

 鏡くんはまだ泣きながら、でも確かに笑った。

「ありがとう。大地くんのおかげだよ」

 この夜のことを、私は永遠に忘れないだろう。

 鏡くんの涙の理由も、その温度も。

 鏡くんがどれほど優しく、どれほど深く愛されて育って来たかも。

 彼の家庭が複雑なんじゃない、彼があまりにも親を想い過ぎるんだ。

 その優しさのせいでずっと苦しんできたんだ。

 この子は守られるために生まれてきたんじゃない。大切にされるために生まれてきたんだ。


 その翌日。

 私は鏡くんを夕食に招いた。彼は「今度はなに?」と小首を傾げていたが、この日は是非とも鏡くんと夕食を共にしたかったのだ。

 出来得ればその日は両親には出掛けて欲しかったのだがそう都合よくは行かず、鏡くんを呼んで私がカレーを作ると宣言することになった。

 受験生の癖にそんな暇があるのかと言われたが、一日くらい息抜きも出来ないでどうするのか。

 妹も喜んでいた。前回のカレーの時には妹はそれを知らず、友人たちとカラオケに出かけていたからだ。帰宅後それを知った妹の暴れっぷりと来たら……いや本題に戻らねば。

 私は初めて鏡くんと両親を引き合わせた。

 対面するのは初めてだが、鏡くんのことは色々と話してはいた。特に水脈からは「すごく可愛い男の子」だの「お兄ちゃんのお嫁さん」だのと余計な情報が入っていた。

 今回の鏡くんはお客様なのでカレーを作る間は水脈と遊んでもらっていた。

 夕食の席はそれほど楽しいものではなかったかも知れない。

 父も母も私が受験勉強以外のことをするのを喜んでいないのがはっきりと顔に出ていた。

 食事が終わって私の部屋で少し話をした。水脈も同席したがったがここは遠慮してもらった。

 両親による非礼を詫び、今日の趣旨を説明した。

「去年の今日なんだよ、俺たちが初めて一緒にカレーを食べたのは」

 鏡くんも思い出してくれたようだった。

「本当は二人きりで食べたかったんだけどさ、失敗だったよ。なんか変な空気になってしまったね」

 格好をつけるなんて私の柄ではなかった。余計なことをすべきではなかった。結果として鏡くんには嫌な思いをさせてしまった。

 様々な後悔が胸の中で暴れ回る。

「大地くんは……どうして大地くんは……」

 洟を啜りながら鏡くんが抱き着いて来た。

「大地くんと……会えて良かった」

 私は鏡くんの髪を撫でた。この姿を妹に見られたのは一生の不覚である。



  書簡:参


拝啓 お父さん、お母さん


 また寒い季節がやって来ますが、その後お変わりありませんか。

 進路のことで一つ嬉しいことがあったのでお知らせします。

 K市役所の高卒枠に合格しました。最終面接のときにお父さんがT市役所勤務であることを言ったら面接官が大喜びしていました。もしかしたらそれで合格できたのかも知れません。

 卒業したらすぐに研修期間に入ります。

 大地くんが合格祝いにまたカレーを作ってくれました。

 夏休み以降大地くんが受験のために時間が取れなくなり、学校以外では会えなくなっていたのでとても嬉しかったです。

 その大地くんは東京の大学を目指すそうです。


 定期試験は赤点を免れました。大地くんが忙しくて勉強を教えてもらうことも出来ず不安でしたが、なんとか自力でやり遂げました。

 ちょっとだけ自信が付きました。


 成人式の案内状が届いていますが、正直に言うと気が重いです。騒がしい場所は苦手なので。

 でも何とかしようとは思っています。


 また手紙を書きます。

 お元気で。


  敬具



  書簡:参‐弐


拝啓 お父さん、お母さん


 どうしてもお礼を述べたく、またお便りします。

 礼服、送ってくれてありがとうございました。大家さんが「本当は内緒なんだけど」と言って教えてくれました。

 僕はお父さんとお母さんの子に生まれて本当に幸せです。

 成人式にも大地くんと一緒に出席できました。人が大勢いて息が苦しくなりましたが、大地くんがずっと手を握ってくれていたので最後まで耐えられました。

 怖かったけど出席してよかったと思います。

 もうすぐ卒業です。

 これからは一人でも生きて行けるように頑張るつもりです。

 どうかご安心ください。


  敬具



  返信:参


愛する鏡へ


 合格おめでとう!

 お父さんも大喜びで、とっておきのお酒を開けて一人で祝い酒していましたよ。おかげで次の日は二日酔いのまま出勤になったけど。


 大地くんのことはなんと言ったら良いのか母さんには分からないけれど、きっと“ケ・セラ・セラ”でLet It Be.だと思いますよ。大地くんとのことも今は「そういう時期」なだけかも知れないしね。

 お父さんとお母さんは先日同窓会に出席しました。懐かしい恩師や昔の友人たちに会って、三十年の時間を飛び越えてあの頃に戻ったような気分を味わって来ました。

 連絡が付かなくなった人も多いらしくて人数は半分程度でしたけれど、すぐ近くに住んでいると判った人もいて、またお付き合いが復活しました。

 たとえひと時疎遠になってしまっても、縁がある人とはまた繋がりを持てるものですよ。

 例えば、お互い忘れてしまった頃に偶然ばったり出会うとかね。

 鏡は臆病な性格だから卒業して就職となれば不安も大きいでしょう。

 お母さんは思うんです。

 世の中いい人ばかりではないけれど、悪い人ばかりでもないって。

 新しい世界にもあなたを大切にしてくれる人はきっといるはずだから。

 いざとなったら私たちがいるから心配し過ぎないようにね。


  母より


追伸

 礼服が役に立ったようでお父さんも喜んでいます。困った時はいつでも言ってね。



  (後半へ続く)


※今夜、後半で二人の「今」まで辿り着きます」


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― 新着の感想 ―
これ、1/11に投稿された1/11のお話なんですね。 リアルタイムで読めなかったのは残念です。 下宿の名前が「一刻館」にニヤリとさせられました。
非常にしっとりした始まりですね。 リアルタイムな物語で、次が楽しみです。
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