鉛筆
小学校の頃、僕はよく筆記用具を忘れた。
その日も、国語の時間が始まる直前に鉛筆がないことに気づいた。
先生に言うのも気まずくて、僕はこっそり教室を抜け出し、職員室の横にある“忘れ物入れ”を覗いた。
箱の中には、折れた定規や使いかけの消しゴムが雑然と詰まっていた。
その中に、一本の鉛筆があった。
黒くて短く、軸の側面に名前が書かれていたが、読めなかった。
文字が擦れていて、まるで誰かが爪で削ったようだった。
僕はそれをポケットに入れて、教室に戻った。
その鉛筆は、妙に書きやすかった。
力を入れなくても、すらすらと文字が書ける。
ただ、ノートに書いたはずの文章が、時々変わっていた。
「春の風はやさしい」
と書いたはずなのに、次に見たときには
「春の風はやさしゐ」
になっていた。
漢字練習帳の隅には、見覚えのない言葉が書かれていた。
──“かくれのうしろはまだ”
──“つめのこえはとどかない”
──“あけてはならぬひとつ”
僕の字ではなかった。
細くて、震えたような筆跡。
先生に見せたが、「ふざけて書いたんじゃないの?」と笑われた。
僕のノートには、意味不明な言葉が少しずつ増えていった。
授業中に書いたはずの内容が、いつの間にかそれらに置き換わっている。
僕は怖くなって、その鉛筆を学校に置いて帰った。
数日後、母が急に様子がおかしくなった。
朝、台所で立ち尽くしていた。
呼びかけても反応がない。
目は開いているのに、焦点が合っていなかった。
口元は微かに動いていたが、声は出ていなかった。
父が病院に連れて行ったが、検査をしても、異常は見つからなかった。
「一時的なストレスかもしれません」と言われたそうだ。
母は何事もなかったように帰ってきた。
食事も作るし、会話もする。
ただ、ときどき、誰もいない廊下に向かって話しかけているのを見ることがある。
声は小さく、言葉になっていない。
その手には、いつも一本の鉛筆が握られている。
黒く短く、どこかで見たような気がするけれど、はっきりとは思い出せない。