遺品整理1
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岸本蓮が白井文恵の旧宅に着いたのは、梅雨が明け切らない蒸し暑い午後だった。
飲み物は持っていなかった。 コンビニに寄りはしたが、スマホに届いた電気料金の督促メールを見て、冷えたペットボトルに伸ばした手を引っ込めた。
この仕事を始めたのは1年前。正規の整理業者ではなく、ただの“何でも屋”。
SNSで拾った相続放棄物件の片づけや孤独死の清掃を、資格も届出もないまま請け負っている。
たいていは、金に困った誰かが「誰でもいいから処理してくれ」と言ってくるような案件ばかりだった。
今回の依頼の発端は、数年前に老人介護施設で働いていた頃にさかのぼる。
そこに入居していた白井文恵の甥、佐伯清春とは挨拶程度に顔を合わせただけだったが、数日前、昔の同僚を通してその佐伯から連絡がきた。
「死んだ叔母の家が放置されてて困ってる。悪いが片づけてもらえないか」
佐伯は遠方在住で管理放棄寸前の家屋だったこともあり、「手間を省けるなら誰でもいい」という態度だった。蓮は報酬の額だけはしっかり確認し、「売れそうな物があれば持っていって構わない」という一言も受け取った。
目的の家は住宅地の端にぽつんと建つ木造の平屋。
玄関の鍵は郵便受けに差し込まれていて、扉を開けた瞬間、内側からぬるりとした空気が這い出してきた。湿度の膜で視界がぼやける。
畳は膨らみ、床はたわみ、台所には干からびた惣菜パックが数点積まれていた。
ラップ越しに白いものが広がり、形はもう分からない。底に澱のような液体が溜まっていて、賞味期限の印刷は滲んで消えていた。
文恵が病院に搬送され、そのまま施設に入ったあとも、誰も手を入れていないのだろう。
蓮はゴム手袋をつけ、袋を広げながらぼそりとつぶやいた。
「一人分なら昼で終わるか…」
居間の桐箪笥の上、埃の中で、その布だけが妙に整っていた。
蓮はゆっくりと手を伸ばし、それをめくった。
楕円形の硝子細工が現れた。縁には緻密な彫刻。中にはモノクロ写真が収められている。和服姿の老女——白井文恵。
施設で見た顔が、記憶の中からゆっくり浮かび上がった。
すでにまともな意思疎通が難しかった文恵は、こちらを引き留めようとわざと飲食物をこぼしたり、粗相をしたりすることが何度もあった。
他の職員の前では丁寧に接していたが、ひとりでおしめを替えながら「いい加減にしろよ」と脅しつけたこともある。
肩を軽く押しただけで、文恵は壁際で転びそうになった。 彼女は何か言いたげに黙ったまま、蓮から目をそらさなかった。
写真の瞳が、こちらを見ている。そう錯覚するほど、視線に奥行きがあった。
蓮は硝子を持ち上げ、裏面に目をやった。手慣れた動作で縁の彫りと素材を確認し、すぐに“高いものだ”と確信する。人物写真さえ外せば、“仏具”ではなく“工芸品”として金になる——そう思った。
いまは、何でも売れればいい。
蓮はゆっくり布で包み直し、鞄にしまった。
これはすでに自分のものだ。報告の必要はない。
その夜、蓮の部屋の天井に、黒ずんだ水染みが浮かび始めた。
窓は閉じているのに、空気が湿り、壁の隅がしずかに膨らんでいく。