2.光の竜王キアラ②
全身を蝕むようなこの痛みが、闇の攻撃によるものなのか、地面に打ち付けられたときのものなのか、キアラにはもう分からなかった。
視界が霞み、意識が朦朧としてくる。背中から落ちたキアラは、震えながら横を向き、宝物のように腕に抱えていたアベルを地面に降ろした。
「キアラッ……!」
キアラの姿を見たアベルの瞳が大きく見開かれる。その視線が向かうのは、闇の刃で貫かれた胴の辺りだった。
わざわざ確認しなくても、もう手遅れな傷だということがキアラには分かっている。
真っ青な顔をしていたアベルが、すぐに頭を横に振ってキアラの頬の部分に触れた。
「……キアラ、問題ない。すぐに医者を呼ぶから」
『…………』
とても優しい声だった。キアラが大好きなアベルの声だ。
キアラを安心させようと、無理やり平静を保ってくれているのが分かった。手のひらから僅かな震えが伝わってくる。
「―――何事ですか!?」
「これはっ……」
「アベル団長と……光の竜王さま!?」
バタバタと衛兵たちが集まって来ては、皆が途中で足を止め、絶望的な顔を浮かべた。中にはキアラからそっと目を背ける者もいる。
「誰か、すぐに竜騎士団から医者を呼んでくれ!キアラが……!」
「―――アベル」
凛とした声が響き、衛兵たちが一斉に頭を下げる。キアラは痛みを必死に堪えながら、数回会ったことのある皇太子の顔を見た。
同情と悲しみの表情を浮かべた皇太子は、アベルに残酷な言葉を放つ。
「……キアラはもう手遅れだろう。せめてこれ以上苦しまないよう…お前が葬ってやれ」
「何をっ……!」
「目を逸らすな、アベル。パートナーであるお前が、誰よりも現実と向き合うべきだ」
アベルの動揺で揺れる瞳が、ゆっくりとキアラへ向けられる。
キラアは荒い呼吸を繰り返しながら、一度瞼を閉じる。絶えず打ち付ける雨によって、光の竜王が涙を流したことに気付く者は誰もいなかった。
「……キアラ?」
アベルが戸惑った声で名前を呼んだのは、キアラが呻き声を上げながら体を起こしたからだった。少し動いただけで全身が悲鳴を上げ、早く苦痛から解放されたいと心が叫ぶ。
それでもキアラは、その役目をアベルに担わせようとは思わなかった。
アベルの前では、最期まで誇り高き光の竜王でありたい―――その想いだけが、キアラの翼を羽ばたかせた。
「キアラ!?」
『ごめんなさい、アベル……もっとあなたと一緒にいたかった』
「キアラ、待てっ…!そんな体でどこへ行くんだ!?キアラッ……!」
キアラの言葉は、アベルには伝わらない。それがもどかしくもあったが、だからこそ心が通じ合ったときの喜びは大きかった。
『―――さよなら、アベル』
最期の言葉は、間違いなくアベルに届いたとキアラは思った。絶望の表情を浮かべたアベルを振り返ることなく、キアラは空高く舞い上がる。
命が尽きるその瞬間まで、キアラは飛び続けようと決めた。アベルの手を汚すくらいなら、傷ついた顔を見るくらいなら―――独りで死を迎えようと。
間もなく翼が動かせなくなることを悟り、キアラは草原に転がり落ちるように降り立った。濡れた草は冷たく、空から打ち付ける雨が弱まる気配はない。
そっと瞼を閉じたキアラは、アベルの笑顔を思い出していた。
ふと雨の気配を感じなくなり、不思議に思ったキアラはうっすらと瞼を持ち上げる。
誰かが立っていた。そして、その誰かとキアラを囲むように光の輪が広がっており、その空間だけ雨が降っていない。
神秘的な光景に見惚れながら、キアラは小さく呟いた。
『……竜神さま…?』
「その通りだ、光の竜王よ。私はお前たち竜を司る神だ」
竜たちの間で語り継がれる伝承の神は、人間の男性の姿をしていた。長い金髪がサラリと揺れる。
「残念だが、そなたの命はもう間もなく散る。だが……一つ提案があってそなたの前に現れたのだ」
『提案……?』
「そなたと同じように、死期に近付いてる人間がいる。その人間の死は、私たち竜にとって痛手になるのだ」
『……』
「詳しく説明している暇は無い。即断してくれ。私はその人間の体に、そなたの魂を入れる……つまりそなたは、人間としてなら生き長らえることができる。さあ、私の提案に乗るか?」
竜神が何を考えて提案したのか、キアラには何も分からない。それでも『人間として生きる』という言葉に強く惹かれてしまっていた。
人間になればアベルと話すことができると思った瞬間、キアラの心は決意を抱く。
『提案に……乗ります。お願いします、竜神さま』
「英断を感謝する、光の竜王」
竜神は微笑むと、キアラに向かって片手を広げた。手のひらに小さな光の粒が集まっていく様子を、キアラはぼんやりと霞んできた瞳で見つめていた。
「新しい体と魂が馴染むまで、ひと月ほどかかる。目覚めたあとも出来るだけ体を動かしてくれ。それから……」
キアラの意識がだんだんと遠退き、竜神の言葉が聞こえなくなっていく。
完全に暗闇に沈んでしまう直前まで、キアラはアベルの姿を思い浮かべていた。
***
闇の竜の襲撃から一か月が過ぎた頃、光の大陸に住まうオールディス伯爵邸の一室で、一人の侍女が涙を流していた。
鼻を啜りながら、ベッドで横たわる少女を見つめる。侍女が仕えている伯爵家の令嬢は、幼い頃から体が弱かった。
痩せ細った体に、青白い肌。波打つ銀の髪は艶を失い、輝く宝石のような赤い瞳は閉じた瞼によって遮られている。
伯爵令嬢ルーシャ・オールディスは、一か月以上前から昏睡状態に陥っていた。
両親は病弱なルーシャを幼少期に見放しており、意識を失い倒れてから一度も見舞いに訪れたことはない。
ルーシャのそばにずっとついていたのは、姉のような存在の侍女ただ一人だけだった。
「ルーシャお嬢さま……」
侍女はルーシャの手をそっと握り俯くと、自らの額に当てた。
昨夜、侍女は聞いてしまったのだ。あと数日の内に意識を取り戻さなければ、ルーシャの両親が医師を呼ぶことを止めると話していたことを。
それは、娘の命を捨てたも同然の言葉だった。
病弱ゆえに、一日のほとんどを部屋で過ごしていたルーシャ。両親から冷たい扱いを受けても、泣き言一つ言わなかったルーシャ。
いつか竜の背中に乗って空を飛んでみたいと、笑いながら話していたルーシャの小さな夢を、奪わないでほしいと侍女は願った。
「どうか……ルーシャお嬢さまの意識を取り戻してくたさい……神さま……!」
信じられないことに、侍女が祈った瞬間ルーシャの手がピクリと動いた。
侍女は勢いよく顔を上げる。ルーシャの長いまつげが動き、瞼がゆっくりと持ち上がった。
「お嬢さま……っ、!?」
イスから立ち上がった侍女は、大きく目を見開いた。
赤かったはずのルーシャの瞳は―――黄金色へと変わっていたのだ。