Scene7「先輩と、膝枕」
この日、手芸部の部室に顔を出すと、室内には誰もいなかった。
普通だったらこのくらいの時間になれば、絶対に先輩がいるはずなのに。
だがまあそこは、あくまで自由参加の部活動な訳で、咎められる訳でも何か罰が与えられる訳でもない。きょうの先輩には、きっと部活よりも優先すべき用事があったのだろう。
しかし先輩がいないことで当てが外れてしまったのは事実な訳で、僕は扉を開けたポーズのままで数秒間静止したあと、取り敢えずは中に入ってからどうするか考えようという結論に至り、中へと入った。
先輩のいない部室は、なんだか変な居心地だった。
いや、普段と何かが違うという訳では決して無いのだけれど――あるいは先輩が居ないというその決定的な違いが、僕の中の手芸部のファクターの大部分を担っているのかも知れなかった。
なんとなく、ソファに座ってみる。
そこは、普段ならば先輩が座っている、言わば先輩の専用席のような場所だった。
どことなく、先輩の良い匂いがする気がする。僕はこの匂いが好きだった。もしかしたら僕は、匂いフェチなのかもしれない。こんなこと絶対に先輩本人には言えないけど。
……そうしてぼーっとしているうちに、だんだんと眠気が襲ってくる。
5限目が体育だったから。
それも、持久走という根こそぎ体力を持っていかれるだけの、なんの面白味のない授業だったから。
持てる力全てを振り絞ってなんとか完走したことで生じた疲れが、今頃になって襲って来たのだった。
僕は耐えきれなくなって横になる。すると睡魔がみるみると膨張し始め、抗えない波となって襲ってきた。
あ……ダメだこれ……。
そして僕は少しずつ、まどろみの中に落ちていく。
朦朧とする意識の中で、僕が最後に記憶していたのは……こんな部室に置いておくには勿体ないくらい上等なソファの寝心地と、微かに残る先輩の匂いだった――。
――しばらくして、僕は不思議な違和感を覚えて目を覚ます。
ソファの感触が、寝落ちしてしまう前と、なんとなく違う。柔らかいようでいて弾力があって、まるで人間の肌のような……。
そして僕は、ゆっくりと閉じていた目を開ける。そるとそこにあったのは――。
「――あ、おはよう。千秋くん」
先輩の顔だった。
「せ、先輩っ……!?」
先輩の顔が真上から、僕を見下ろしていた。
待てよ……ということは……。
この後頭部から伝わる感触はもしかして……先輩の太もも……!?
これって、膝枕!?
「すっ、すみませ――」
ことの重大さに気付いた僕は、直ぐに先輩の太ももから飛び起きようとする。
だがそれを、
「――うぐっ!?」
「……だーめ」
先輩の細い腕が押さえつけていた。
「先輩……? なんで……?」
先輩の不可解な行動の真意を図りかねた僕は、思わず先輩には尋ねていた。
すると先輩は、何でもないように答えた。
「だって、私の座る場所がなかったから」
「だったら、僕を起こしてから座れば良かったじゃないですか?」
「でも……疲れてたんでしょ?」
先輩は、いつもの優しい声で言った。
「見てたよ」
「え……?」
「千秋くんが走ってたところ」
やっぱり、見ていてくれていたんだ。
その言葉に僕は、少しくすぐったくなる。
「頑張ってたね」
「……下から数えた方が早いくらい、遅かったですよ」
「でも完走したじゃない。最後まで走りきれてない子だって居たんだから」
「それは……そうですけど……」
「だから――」
そして先輩は、僕の頭に手を伸ばし、ゆっくりと撫でた。
「――えらいえらい」
「ちょっ、先輩っ!? 何やってんですかっ!?」
僕はあまりの予想外の展開に顔が強張るも、それでも先輩は手を止めようとしない。
「何って、頭を撫でてるだけだけど?」
撫でてるだけって……それだけでも僕には一大事なんですが……。
僕が言葉に詰まっていると、先輩が不安そうに僕の顔を覗き込んできた。
「千秋くんは、撫でられるの……嫌かな?」
そんな顔をされたら……僕に出来る答えは、最早ひとつしかない。
「……嫌じゃ、ないですけど……」
僕がそう答えると、先輩はぱぁっ、と笑顔を咲かせた。
「そっか、良かった」
その笑顔を見て、僕はもう何も言えなくなってしまう。
こうして僕は、心地よさと気恥ずかしさが綯い交ぜになった何とも言えない感情に苛まれながら……先輩に為されるがまま、頭を撫でられ続けたのだった。