Scene6「先輩と、持久走」
――体育の時間。
この日の体育は、誰が何を血迷ったか、持久走だった。つまりは、ただひたすらグラウンドを走るのみ。
距離にしてグラウンド10周。1周が約400メートルとのことだから、合計4キロということになる。そんなの運動部じゃない僕からすれば、冗談にしか聞こえない距離だった。
もちろん生徒たちからも非難轟々だったが、体育の先生はそんな非難程度で折れるほどヤワな性格ではないらしく、結局、僕を含めた生徒たちは嫌々グラウンドに集まざるを得ず、今に至るのだった。
「はぁー、やってらんねぇぜ……」
そう言って深いため息をついたのは、同じクラスの長峰くんだった。
「でも、長峰くんって陸上部でしょ? これくらいなら余裕なんじゃない?」
僕がそう聞くと、長峰くんは分かってないな、といった顔をする。
「陸上は陸上でも、俺の専門は高跳びなの。つまりは全くの専門外ってわけ」
「そうなんだ」
「つーかさ、仮に長距離専門だったとして、授業でまで本気出して走りたくないって」
まあ……長峰くんの言いたいことも分からなくはないけど。それでも運動部なだけマシじゃないか、と思う。
僕なんて全然体力がないから、最後まで走り切れるかすら怪しいものだ。
「ちなみに女子は、何するか知ってるか?」
長峰くんが僕に問う。
体育の授業は男女別々になっていて、今日は男子がグラウンド、女子が体育館、という割り当てだった。だからこの場に女子はいない。
僕は首を横に振った。すると長峰くんは体育館のある方を眺めながら羨ましそうに言った。
「ドッヂボールだってさ」
「へぇ」
「方や俺たち男子は持久走ときたもんだ。最早ちょっとした差別じゃねーか。きょうび流行らねーだろ、男女差別なんてさ」
「はは……」
まあ、長峰くんの言うことも分からなくはない。男子にだけこんな苦行を課すなんて。
僕らもドッヂボールだったら、どれだけ楽だったことか……。
「そういや、女子と言えば……」
長峰くんが思い出したように言う。
「うん?」
「お前は、女子の中では誰が好みなんだ?」
「え?」
「ほら、うちのクラスの女子、結構レベル高いじゃん。例えば、楢崎とかさ。お前はどういうタイプが好きなのかと思って」
……確かに、長峰くんの言う通り、僕らのクラスには可愛い娘が多いとは思うけど。
「うーん……」
僕が少しだけ返答に困っていると、別の男子が僕らの会話に口を挟んでくる。
「あー、無駄無駄。だってこいつ、手芸部だぜ?」
会話に加わってきたのは、長峰くんと仲のいい男子――相田くんだった。
「手芸部?」
長峰くんは、その聴き慣れぬワードを、相田くんに聞き返す。
すると相田くんは、驚いたように言った。
「あれ、知らない? かの有名な『織原真琴』先輩が所属してる部なんだけど」
「……ああ、そういうことか」
長峰くんは、その人物の名に、何やら合点がいったかのように頷いた。
……どういうこと?
「先輩のこと、知ってるの?」
僕が尋ねると、相田くんは深く頷いた。
「知ってるも何も、めちゃくちゃ有名人だぜ? 告白した男子は数知れず、玉砕した男子も数知れず。数多の男をちぎっては投げ、ついたあだ名はキラー・クイーンって」
相田くんの言葉に、長峰くんは疑問符を投げかける。
「キラー・クイーン? 初めて聞いたぞ?」
「今考えた」
「……さいで」
長峰くんは呆れ気味にため息を吐いた。しかし相田くんは動じる様子もなく、言葉を続けた。
「とにかく、彼もまた、織原先輩に魅せられた哀れな男子の1人ということなんだよ。つまり、クラスの女子になんて興味はないってこと」
「なるほどな……」
いや、なるほどな……じゃないよ。
まあ確かに、先輩は綺麗な人だなとは思うけど……決して下心を持って近づいたわけじゃ……。
……いや、下心が全くないと言ったら、嘘になるかも知れないけど……。
「いくら先輩を狙ってるからって、手芸部にまで入部とは、なかなか気合いが入ってるな」
だから違うって!
「……ってかさ、織原先輩って確か、2-Bだろ? もしかしたらここから見えるんじゃね?」
そう言った相田くんは、向こうに見える校舎の2階部分を指差す。
いやでも流石に見えないでしょ。そう都合よく先輩が窓側に座ってるとも限らない訳だし……。
「2-Bは確かあの辺……って、あれ、マジで織原先輩じゃね?」
……え? 嘘?
相田さんの声に、僕は思わず2階の窓を凝視する。
するとそこには、一際目立つ整った容姿の女子生徒。
あれは確かに……先輩だった。
しかも、窓越しにこちらの方を見ているようだった。
そして、次の瞬間、先輩と目が合う。
僕の視線に気付いた先輩は、にこりと微笑んでから、小さく手を振った。
『おい、今織原先輩、俺に手を振らなかったか?』
『おいおい、自惚れるのはよせ。俺に決まってるだろ』
『いや、俺だろ』
先輩が手を振った瞬間、それに気付いた数人の男子が俄かに色めき立つ。その様子に、僕は先輩の知名度の高さを改めて実感する。
それを見ていた長峰くんが、面倒臭そうに吐き捨てた。
「けっ……おめでてー奴らだぜ」
『おーいお前ら、油売ってないでさっさと出発しろ!』
体育教師の声が飛ぶ。
それに合わせて、長峰くんは走り始めた。
「じゃ、お先に」
「あ……おい! 置いてくなって!」
相田くんも長峰くんに追従する。
「千秋、お前も早く来いよ」
「うん――」
僕も走り出そうとして、もう1度だけ2階の窓を見る。
もう既に先輩はこちらを見ておらず、黒板に集中しているようだった。
さっき確かに、目が合ったよな……。
僕は走りながら、考える。
先輩はさっき、誰に向かって手を振ったのだろう?
先輩が手を振ったのは、僕に向けてだったって。
自惚れても、いいのだろうか――?