Scene3「先輩と、ボタン」
「……ちょっと待って。千秋くんの制服も……ボタン取れかかってない?」
「えっ……?」
先輩に指摘されて自分のブレザーを見てみると、確かに上から二つ目のボタンが根元からほつれて取れそうになっていた。
「本当ですね……全然気づかなかったです……」
朝は何ともなかったのに……ここに来るまでにどこかに引っ掛けたのだろうか? もっとも、そんな心当たりは全くなかったが……。
まだ辛うじてつながってはいるようだったが、いつ完全に取れてしまうかもわからないこのままの状態でいるのは、あまりにも危険すぎた。
となると……残されている選択肢は……。
僕は壁に沿うように配置されている箪笥の引出しを開け、そこから糸と裁縫道具を取り出す。
「千秋くん?」
その僕の行動を見た先輩は、首を傾げた。
「自分で直してみます。このまま家に帰るのは、無くしそうで怖いですし……」
「ふーん……でも千秋くん、ボタン付けたことあるの?」
「うっ……いやまあ、ないですけど……」
手芸部に所属している僕だが、実を言うと、まだまともに裁縫なんてものをしたことがなかった。
手芸部に入ってまだ日が浅いし……そもそも手芸部に入ったのも、正直ただの成り行きでしかない。
「けど、僕も手芸部の端くれなんですから。ボタンぐらい、僕にだって……」
「そっか」
だけど先輩は、そんな僕に向かって右手を差し出していた。
「良かったら、私が付けてあげよっか? そのボタン」
「え……?」
それは僕にとって、予想外の申し出だった。
「……悪いですよ」
「なんで?」
「なんでって……だって先輩は今、その友達の制服を直してるところじゃないですか」
「ああ、これ?」
僕の言葉から持っていたブレザーを見遣ると、先輩はそれを傍らに置いた。
「大丈夫よ、こっちは明日の朝に返すことになってるから、それまでに直せればいいし。それに、ボタンをつけるくらいなら、すぐにできるから」
「で、でも……僕も曲がりなりにも手芸部員だし……」
「手芸部員だし?」
「ちょっとくらいはできるようになったほうが良いんじゃないかと……」
「まあ、千秋くんに言い分も一理あるかもね。けど……」
先輩は口角を上げて、微笑む。
「千秋くんが自分で挑戦するのはまた今度でいいじゃない。今は私が千秋くんのボタンを直してあげたいの。先輩の好意を素直に受け取るのも、後輩の務めじゃないかしら?」
ずいぶん強引な理屈だなと僕は思ったが、こうなったら先輩は絶対に引かないだろうから、僕は渋々といった感じで了承することにした。
「はぁ……分かりましたよ……じゃあ、お願いします」
「おっけー、じゃあブレザー脱いでくれる?」
僕は言われるがままブレザーを脱いで、先輩に手渡す。上半身がワイシャツ一枚になってスースーするせいか、なんだか少し落ち着かなかった。
先輩は手渡された僕のブレザーをまじまじと見つめる。
「……へー、意外と大きいの着てるんだね」
「ああ、それは……三年間着れるようにって、親がちょっと大きめに買っただけで」
「ほうほう、なるほど……じゃあボタンも卒業するまで絶対に取れないように、しっかり止めないとね」
そういった先輩は、慣れた手つきで作業に取り掛かっていた。手持無沙汰になってしまった僕は、その作業風景を何をするでもなく眺める。
すると、先輩が手を動かしたまま僕に話しかけてきた。
「第二ボタンってさ」
「はい」
「卒業するときに、大切な人に渡すみたいな話があるじゃない?」
「はあ……」
いやまあ、聞いたことはあるにはあるが……それって学ランだった場合の話なんじゃないだろうか。
うちの高校はブレザーだ。もちろんブレザーでもボタンを渡せないことはないのだろうが……確か第二ボタンが重要なのはもっとも心臓に近い位置にあるからなのであって、ボタンがへその位置に来てしまうブレザーとでは有り難味に天と地の差があるのは間違いなかった。
だがそれを果たして分かっているのかいないのか、先輩はこんなことを言う。
「……千秋くんももしかして、三年後には……誰か渡したい女子がいるのかな」
「どうでしょう……まだ先のことですし、あんまり想像はつかないですけど……」
「……ねえ、もし千秋くんが卒業するまでに、このボタンがまだ取れてなかったら……その時は私がもらってもいいかな?」
「へ……?」
僕は先輩が口走ったそのセリフに、困惑を隠せなかった。
何を言っているんだ……この人は……?
というかそもそも。
「そもそも僕が卒業するころには、先輩はとっくに居ないじゃないですか」
卒業するのは、先輩が先なのだから。
「確かに、そりゃそうだ」
僕の指摘に、先輩は苦笑した。
「……よし、完成!」
そうこうしているうちに、あっという間にボタンの付け直しは完了したようで、ブレザーは先輩の手から離れ、僕の元に戻ってくる。
取れかかっていたボタンは、すっかり元通りになっていた。
「安心してくれていいよ、千秋くん。また取れたりしないように、しっかり留めておいたから」
「えっと、ありがとうございます……」
僕は返ってきたブレザーに袖を通し、生返事をする。
ついさっきまで自分が着ていたブレザーの筈なのに、何故か着慣れない。
返ってきたブレザーからは、何となく先輩の香りがするような気がした。