Scene17「先輩と、喫茶店」
先輩に案内されて訪れたそこには、寂れた喫茶店がひっそりと佇んでいた。
「先輩、ここは……」
「さ、入ろっか」
先輩は僕の問いに答える代わりにそう言った。
そして先輩が中に入るために入り口のドアに手を掛けたのを見て、僕もその後に続く。
ドアに取り付けられたベルがカランと音を立てたのを聞いたのか、中にいた優しそうな初老の男性がいらっしゃい、と僕たちに声を掛けた。おそらく、この人がマスターなのだろう。
先輩はマスターに軽く会釈した後、店の1番奥の席に座った。素振りからして、先輩がここに来るのは初めてではないようだった。
「さ、千秋くんも座ってすわって」
「先輩って、ここに来たことあるんですか?」
「うん。こうやって買い出しに行った帰りに、何度かね。と言っても、最近はあまり行けてなかったけど」
「そう、ですか……」
唐突に行きたい所があるからどんな場所かと思ったら……確かに、雰囲気の良いお店ではあるけど。
「ここの紅茶がとっても美味しいから、千秋くんにも是非飲んで欲しくて」
そう言われると確かに、紅茶特有の甘い匂いが漂っている気がした。
先輩の紅茶好きもここまで来ると、大したものだな、と少し感心する。まあ別に、僕も嫌いという訳じゃないから良いのだけれど。
「じゃあ、頼んじゃってもいいかな」
「あ、はい」
僕が答えると、先輩は手を挙げてマスターを呼ぶ。
マスターがここまで来るまでの短い間で、先輩は僕に尋ねる。
「千秋くん、甘いものは好き?」
「え? まあ、はい。好きですけど……」
すると先輩は、テーブル前まできたマスターに、こう注文した。
「アールグレイ2つ、それとザッハトルテとモンブラン」
「かしこまりました」
先輩の注文を受けたマスターは、カウンターの中に入っていく。
「私で勝手に注文しちゃったけど、大丈夫だった?」
「あ、はい、最近紅茶が好きになってきた気がするので……」
「そっか、良かった」
そこから、しばらく僕たちの間に降りる沈黙。
アンティークな柱時計が奏でるチクタクという秒針の音が、なんだか妙にうるさく聞こえた。
「……実はね」
先に沈黙を破ったのは先輩だった。
「この場所は、今年卒業した手芸部の先輩と、よく行ったところなの」
先輩は、懐かしさに思いを馳せるかのように目を細めた。
「だから、千秋くんにも、知って欲しくて」
「……良かったんですか?」
「うん?」
「そんな思い出の場所なのに、僕なんかを連れてきて」
こんなことを認めるのは悔しいけど、所詮、僕と先輩は今年の春からの付き合いだ。大した期間ではない。それに対して、今年卒業したというその人物は、少なくとも1年以上先輩と交流があったのだ。そんな人物に僕はまだ到底敵わない。そしてそんな人物との思い出に、ズカズカと踏み込むのも躊躇われた。
だけど、先輩はゆっくりとかぶりを振った。
「……ううん、違うの」
そして先輩は、呟く。
「思い出の場所だから……その思い出に千秋くんも混ざって欲しかったの」
先輩の思い出に混ざるなんて……そんなこと、僕がしてもいいのだろうか。
だけど先輩がここに僕を連れてきてくれたということは、少なくとも先輩は僕のことを、手芸部員として認めてくれたのだと思った。
やがて、トレイに紅茶とケーキを乗せて、マスターがやってくる。
「お待たせしました」
紅茶2つと、ザッハトルテ、そしてモンブラン。
「どっちがいい?」
先輩が僕に問う。
「僕は、別に残った方でも……」
「ダメ。千秋くんが先に選んで」
「じ、じゃあモンブランで……」
別にモンブランが特別好きな訳ではない。ただ…… 紅茶を片手に寛ぐ先輩には、ザッハトルテが似合うと思っただけだ。
そして、両者の目の前にケーキと紅茶が揃ったところで、僕はカップを口まで運ぶ。
ひと口飲んだ瞬間、上品な香りが鼻を抜けた。
なるほど、確かに先輩が美味しいという理由がわかる。
モンブランもひと口。しつこくない甘さで美味しかった。
「どう、美味しいでしょ?」
「あ、はい。すごく」
「そう、良かった」
そして先輩もケーキを口へ運ぶ。先輩は幸せそうに顔を綻ばせた。
「そうだ、千秋くん」
「なんですか?」
「こっちのケーキも食べてみたくない?」
「え?」
「ちょっとずつ交換しようか」
先輩はそう言うと、自分のザッハトルテをひとかけらフォークに乗せて、僕の口元へと近付けた。
「はーい、あーん」
「……え!? あ、いや……!」
「いいから、あーん」
動揺する僕をよそに、先輩はケーキを僕に近付けることをやめない。
というか、それ……間接キスじゃ……。
でも、そんなことを先輩に指摘する勇気は、僕にはない。
覚悟を決めるしかない。
「んっ……」
僕は意を決して、先輩のフォークからザッハトルテを食べる。
「美味しい?」
「はい……」
正直味なんて分からなかった。
この口の中に広がる甘さが、ケーキの甘さなのか、それとも全く別の何かなのか……。
それからというもの、僕は今日一日、先輩の顔をまともに見れなかったのだった。