4、駆けつける
「何だったのよ……」
先程の珍奇な出来事を思い返してぶるりと身震いするエレノアは、自身を落ち着けるように抱き締める形で両腕を擦る。
せっかくランドルフと仲睦まじい時間を過ごして軽快だった気分が、今まさに地を這うほど最悪の気分にさせられ、二重の意味で腹を立てていた。
廊下へ続く段差で通せんぼをされる形で事が起こったため、結局また裏庭の方向へ踵を返す羽目になったエレノアは、廊下を通らずに裏庭沿いに校舎内へ向かう遠回り極まりないルートを辿ることにした。というか、それ以外に選択肢はない。
その不要な労力も苛立ちに加算されるのは言わずもがな。
「――ア! エレノア!」
「あら?」
何やら必死な声が聞こえて耳を澄ませれば、どうやら自分の名前が呼ばれているらしい。
そのことに気づいたエレノアは、息を殺して更に耳を澄ませたことで、その声の主も特定する。
「……ラルフ様?」
「! エレノア……! 教室に戻ったんじゃないのかっ?」
ランドルフもランドルフで、探し求めていた人物の声を拾ってエレノアを見つける。
重く太い髪質故にまぁるいシルエットの頭だが、毛先だけは傷んで軽いランドルフの髪は毛先だけがぴょこぴょこと跳ねている。
いつもならそのはずなのに、余程走り回ったのか全体がボサボサのランドルフを見てエレノアは目を瞬かせた。
「何かあったのですかラルフ様……! 私にできることがあれば何でも仰ってくださいませ!」
「い、いや、それはこっちの台詞で……っ、の前に、ちょ、ちょっと待った……!」
ゼェハァとなかなか整わない呼吸に、ランドルフは両膝に手をついて落ち着こうとする。
そこでエレノアは気づく。
「ラルフ様、魔導書はどうされたのですか?」
「え、ああ……いつもの木陰に置いてきた。それより、君の悲鳴が聞こえたけど、何があった?」
「!」
ランドルフの問いに、その意味に気づいたエレノアが瞠目し、口から零れそうだった今度こそ歓喜の悲鳴を両手で押さえ込む。
「ら、ら、ラルフ様……もしや、私を心配して、魔導書も放り投げて来てくださったのですか……!」
「……放り投げてはない。栞を挟む余裕がなかっただけだ」
顎を伝う汗を手の甲で拭い、上気した頬を見てくれるなと言わんばかりに顔を僅かに背けるランドルフからの回答に、エレノアは今度こそ「きゃあっ」と短く歓喜の声を上げた。
「嬉しいですラルフ様! ラルフ様のミステリアスな雰囲気を醸し出すのに一役買っている漆黒の髪を乱しあまつさえローブが捲れ上がるのも気にせず汗だくになるほど走り回ってくれたなんて感激です!」
「やめろ、君の盲目にも程があるプラスの表現は俺の羞恥心を痛く刺激する」
「しかも私の名前を初めて呼んで下さいました!」
「いやそれは咄嗟に……と、とはいえ、子爵家の俺が伯爵令嬢の君を呼び捨てにしたのは、褒められたことじゃないな。ごめん」
「そんなこと……! できればそのまま、いえむしろ、エ、リ、イ、と愛称で呼んで下さっても構いません! 未来の予行演習だと思って……!」
「どの未来の話をしてるんだ。とにかく、怪我はないのか?」
「エリィ」
「は?」
「エ、リ、イ」
「…………普通は階級的に呼び捨てを怒るところなんだが、君の怒るポイントはズレてる」
あくまでも話を逸らそうとするランドルフに堪えた様子も怯む様子もなく、エレノアはにこにこと期待の眼差しを向ける。
そんな彼女を見たランドルフはうっと言葉に詰まった後、小さく溜息を吐いてからもにょもにょと口の中で言葉を何度か転がし、悪足掻きさながら時間を稼ぐも、エレノアの期待の眼差しは途絶えることなく己に向いていることを察してようやく観念した。
「エレノア、君が無事なら別に良い」
聞きたかった本題とはすっかり違うところに夢中のエレノアに、改めて問い質す度胸も気力もないランドルフは、花が咲いたように嬉しそうに笑って返事をするエレノアを見て、まあ今は良いかと彼も口角を緩めた。
「あと君もその"様"って付けるのやめてくれないか。落ち着かない」
「まああ! では私も予行演習として、あ、な、た、とお呼びしましょうか?」
「普通にラルフで頼みたいんだが」