五十服目 怪氣学園S(26)
千桜は、自分自身の腹へと包丁を刺した。
そしてその傷口から、大量の血を噴出させながら……ドサリ、と。
その場に、カノアの肩に顎を乗せる形で倒れた。
そのあまりにも信じがたい出来事を前に、千桜の血を間近で浴びたカノアの頭の中は真っ白になり、その出来事をカノアはすぐに事実として認識できない……否。正確には、認識するのを拒否していた。
殺されるのは、自分であると。自分は千桜を、戦う力がない彼女を巻き込んだのだから、その報いを受けるのだとカノアは思っていた。
だが、その予想は大いに外れ、被害者であるハズの千桜が、自傷行為に出た。
その気になれば、止める事ができたかもしれない位置にいたにも拘わらず。予想を外したせいで、絶対に救うと誓った親友が倒れたのだ。
認識すれば、きっと……自分の心が壊れてしまいかねないほどの衝撃を受ける。
そして、それほどの衝撃を受ければ、この事件の核心まで迫ろうとする事ができなくなる。その事を、考えるよりも先に本能で察したのである。
「…………チハ、ル?」
しかし、いくら待っても親友が倒れた事実は消えてくれない。
たとえ拒否しても、それはすぐに……彼女の中で事実として認識された。
「チハルゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥーーーーーーーーーーーーッッッッッッ!!!!」
慟哭が、カノアの心を支配し。直後に、親友を巻き込んだという事実が刃として彼女の心に突き刺さる。その両目から、とめどなく涙がこぼれ出る。全身の血の気が引いて、受けた衝撃のあまり、脚から力が抜け……思わずその場で座り込んだ。
「……なぜ、じゃ……なぜじゃチハル!!!? なぜ自分を刺したのじゃ!!!? 刺されるべきはワシだったハズじゃろ!!!? なぜなんじゃ!!!?」
ショックのあまり、親友へ絶叫を浴びせながら……彼女は今も己にかかる、千桜の生温かい血液を、呼吸を……体のかすかな震えを感じた。まだ生きている。だがこのままでは死んでしまう。早くこの場から脱出し、病院に連れていく事ができれば助けられるかもしれない。しかし、親友が自傷行為に出た事実が、彼女の思考を妨げる。ショックのあまり思うように体を動かせない。
「あぁ~~~~ららららら……まさか、こんな結末になるとはねぇ」
と、その時だった。
この場にはあまりにも不釣り合いな、どこかのんびりとした口調の声が……鏡の向こう側と思われるこの空間内に響き渡った。
「………………は?」
直後にカノアは、再び思考を停止させた。
聞こえたのが、あまりにも空気を読まない、のんきな一言だったから……というのも、もちろんあった。
だが、それ以上に。
聞こえてきたその声は――。
※
「ふぅむ。この鏡も違うか」
同時刻、北校舎一階にて。
中塚は校舎内の鏡の一つを調べながら眉をひそめた。
カノアが鏡の向こう側に連れ込まれたのを、知っているワケではない。
ただ単純に、カノアの故郷に伝わる神々の一柱――古代アステカにおいて、魔術を始めとする数々の権能を持つとされるジャガーの化身の神『テスカトリポカ』の和訳である『煙を吐く鏡』から、煙繋がりで、校舎内の鏡に何かあるのではないかと考えたからだ。
それに霊媒師業界において……鏡は、霊界と繋がるための呪具として使用されている。
そして、これはもしもの話であるが……敵がなんらかの経緯で、神の領域に踏み込んでいるとしか思えないような秘術を身に付けていた場合、鏡の中を異界化している可能性は充分考えられるのだ。
そしてもしも、それが事実だとするならば。
鏡の中の世界という、ある意味分煙用の領域とも言える領域があるのだとすれば……カノアが今まで彼らの拠点を見つけ出せなかったのも納得ではないか。少なくとも中塚はそう考えたのだ。
しかし、教え子と共にいくら校舎内の鏡を調べても、別段何も起こらない。
もしかすると、特定の条件下でしか発動しない仕掛けだったりするのだろうか。
「うぅむ。これはさすがに……クロード君たちが倒した敵からの情報が頼りか?」
そして、いくら調べても敵の拠点が見つからない事に難色を示し始めた中塚が、そろそろ捜査の仕方を変えるべきかどうか悩み始めた……その時だった。
彼の携帯電話が、突然振動を始めた。
すぐに彼は、懐から携帯電話を取り出した。画面には昇降口で待機している教え子の一人の名前があった。
いったい、何があったのかと、中塚はすぐに通話ボタンを押した。するとすぐに『教授!! 大変な事実が分かりました!!』と絶叫された。
『売人が……不完全なる煙草の臭いを、完璧に消せる飲食物を持っていた可能性が浮上しました!!』




