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薔薇公の妃  作者: 柱木埠頭
1/1

A面

ヒロインサイド

 腕の中の赤子を見た瞬間、思ったのだ。

 私は生涯、この子を守っていくのだと。




「帰ってきたぁ……」


 修道院で行儀見習いをすること早三年。十七歳になったマイカ・バッハシュタインがついに故郷、ブルーニ公国首都に帰還する時が来た。これから宮廷へと赴き、馴染んだ修道服から、灰色の宮廷女官の着衣へと着替える。どちらも飾り気のないことに変わりはなく、そのことに少しだけ、苦笑いしたくなった。

 馬車に揺られながら、ふと、これまでのことに思いを馳せる。

 早くに亡くなった恋しい父、厳しく気高い母、病弱で、頭の良い弟。そして、『公子様』の小さなてのひら。

 マイカが守ると心に決めていた、小さな少年の、泣き顔だ。

 思わず笑みを浮かべ、真っ赤なリボンを撫でながら、呟いた。


「ただいま、フリッツ」


 彼からの最後の告白は、ぼろぼろとあられもなく、涙を零しながらのものだった。


●◯●


 金色の髪の毛に、蒼い、不思議な燐光(ルミナス)を放つ瞳。こちらを見上げて、きらきらした双眸で、名前を呼ぶ。マイカの、小さな小さな主。


「マイカ!」

「はい」

「だいすきだ!!」

「は?」


 フリードリヒ・バルヒェット・フォン・ブルーニ、未来の“魔導公国ブルーニの君主”はまん丸い目とふくふくした頬をしている、マイカの乳兄弟だ。

 五つ年下のフリードリヒが初めて告白したのは、彼が四歳の時のことであり、以降、その言葉を数えるのも馬鹿らしくなるほど、積み重なっていった。


 フリードリヒが生を受けたのは、勇壮公とあだ名されるブルーニ公ヴィルヘルムと、大公妃ルイーズの間。つまり大公国の正当な嫡子である。

だが、生まれて直後から、ルイーズは体調を崩した。養育はマイカの母であり、フリードリヒの乳母に託されたのである。女男爵にして、子爵令嬢でもあったマイカの母アンナは、細やかな教育を施した。マイカは弟と共に宮中に上がり、公子付きの側仕え見習いとなった。

 母は子爵令嬢と言っても跡継ぎではなく、分与される所領はない。持参金だけで使い果たされてしまった。また、男爵であった夫――つまりマイカの父――も、あまり裕福な方ではなく、早々と亡くなった。

 ただ幸いにして、父は勇壮公に覚えめでたい、勇猛果敢な騎士であった。戦場で亡くなったのだから、マイカは本望だろうとも思っていた。

 思い出されるのは、戦場に行く後ろ姿。

 騎士の死を哀れんだ勇壮公は、乳飲み子を抱えた母を乳母として息子に付けたわけである。以来、私、マイカ・バッハシュタインは、弟であるエーリヒと共に、公子様にお仕えしていた。

 たいしたことはしていない。弟は少し身体の弱い子供であり、元気いっぱいのフリードリヒにいつも付き従うことは出来なかったのだ。

 幼少期の五歳差は、大きい。

 突っ走っていこうとする幼い主、兼弟分をつまみ上げる事もできたし。転んで泣きわめいて入るのを背負って、帰ることも出来る。

 ブルーニはかつてエウロペ大陸の全土を支配した大帝国の血を引く、由緒正しき大公国だ。かつて、『遠い遠い隣』からやってきた夢見人が、魔法の素養を持つ人間を纏め上げ、理想郷を築いたという伝説がある。

 夢見人はエウロペ帝国皇帝の孫娘と結婚し、その庇護の元、公爵として魔法使いの理想郷を治めた。帝国が滅びた後も公爵領は大公国として存続し、現在に至る。

 フリードリヒは、未来の第十代ブルーニ大公として生を受けたのである。傲慢に育たなかったのは、本人の気質もさることながら、マイカの母が厳しいたちであったのも否めない。

 飴と鞭とを華麗に用いてフリードリヒを躾けるさまは、我が母ながら鳥肌がたった。同時に、そんな母についていく事のできるフリードリヒは、才能もあるし、根気もあるのだろう。

 いずれ、大公陛下として、この国を良き方向へと導いてくれる。そんな期待を、マイカもまた抱いていた。

 だからこそ、困惑する。


「殿下」


 ぎゅう、と袖を握りしめる年下の少年に、困ったなぁと溜息をついた。


「マイカ、行っちゃ嫌だ」


 最近、この愛らしい顔でメイドたちを誑かしているのは、マイカの耳にも入っている。未来の側仕えとしては許しがたい傾向だ。甘やかす訳にはいかない。


「あなたは大公陛下となられるのですから、きちんとお勉強なさらないと」

「そういう口調はやめろ」

「来年には、お披露目です。身分の違う私が、貴方に対して軽々しい口をきくわけには行きません」


 それを、フリードリヒも良く理解しているはずだ。

 初めて告白してから五年。フリードリヒは九つになり、後一年で、正式に大公世継、王太子殿下として認められるのだ。同時に、未来の大公妃候補も上がる。

 男爵令嬢でしかないマイカには関係ない。


「最近、マイカが遠い」

「いつもおそばにいますよ?」


 ここのところやけに甘えたがるということもある。

 数代前の大公が女好きであり、宮廷が乱れたことから、女官は首元まで釦を閉じる、窮屈で機能的な衣服の着用を求められていた。癖毛で平凡な茶髪。黄みの強い茶色の瞳、棒きれのような手足。けして、魅力的とは言いがたい身体だと、自嘲せざるを得ない。

味気のない灰色に、飾り気のない釦。姫袖に辛うじて、フリルがあしらわれているのが精一杯のお洒落だ。

 その袖を、フリードリヒが握りしめている。


「最近っていうのは、撤回だ」


 幼い少年は、魔導公国大公の血を引くことを示す燐光の瞳で、マイカを見据えてくる。


「マイカはずっと遠い、昔から、ずうっと」


 その言葉に、マイカはう、と言葉をつまらせた。

 当然だろう、と言ってこの少年を傷つけるのは簡単だ。いずれ負わなければならない傷ならば、今こそ告げるべきだろう。


「私は、魔法の素養を持ちません」


 それが、マイカがどうしたって彼の言葉に応えられない、最大の理由なのである。

 魔法使いの理想郷として建てられたこの国は、エウロペ大陸の全土から、その素養を持つものを集め、あるいは救出し、または勧誘している。一流の魔法使いはこの国より輩出され、宮廷魔導師として名を馳せているのだ。

 そんな国の大公家もまた、魔法使いの力を持つ。初代大公は精霊と契約を果たし、妖精の瞳を与えられたのだ。フリードリヒの蒼い、燐光を放つ不思議な瞳もまた同じ。


「それがどうした」


 見上げてくる少年は、まだ、こちらの背を越さない。腰に容易に抱きついてくる程の年の頃から、お飯事のような告白を繰り返してきたのだ。

 時には花を携えて、時には、リボンを結んで。好きって言わなきゃ好物を全部食べてやるぞと脅されたこともあるし、泣きながら信じてよと言われたことも。

 ただ、最近はおとなしく、切実なものに変わってきた。


「あなたの婚姻相手は、魔力を持つ優秀な魔法使いか、あなたと釣り合う位のご令嬢、姫君でなければなりません。私は確かに貴族としての身分にありますが、あなたの正妻になれるほどのものではありません」

「……」


 いつもは物分かりがいいのに、こればかりは意地を張る。まったく、刷り込みというのは厄介なものだ。


「……やっぱり、離れたほうがいいのかしら」


 ぼそっと呟くと、はっとフリードリヒが目を丸くする。


「どっか行くのか、やっぱり!」

「やっぱりって、」

「アンナが、お前を修道院にやるって!」

「ああ」


 アンナは、マイカの母の名前だ。

 修道院での教育は、淑女としては必須だろう。だが、フリードリヒにとってみれば、青天の霹靂だったらしい。通りでここまでゴネるわけである。


「私が遠いのはね、殿下」


 少し昔の口調に戻すと、態度が和らいだ気がする。さり気なくソファに誘導して、座らせた。

 フリードリヒのための部屋。もうすぐ、エーリヒと詩吟の教師が来るはずだ。宮廷公用語の詩文を作るのは、必須教養であるものの、フリードリヒは苦手としている

「あなたの見る世界と、私の見る世界が、違うからよ」


 この国の貴族らしく母も、弟も、魔法使いとしての素養を持っている。たいした魔力ではないが、それでも日常の細々とした場面で――お茶を温めなおしたり、花を咲かせたり、水を注いだりという小さな用事で――魔法を使っている。

 マイカは、魔法を使えない。妖精の存在、精霊の恵みを受け取ることも叶わない。


「主従としてあなたの側にあり、私でもいいという人が現れたら、結婚するわ。その時は、祝福してくれる?」


 幼子に言い含めるように、ゆったりと頭を撫でながら告げると、フリードリヒは唇を噛む。その時、からんからんと入室を求める小さな鐘が鳴り、マイカは立ち上がった。

 ふと思い出されるのは、この少年と初めて会った時のことだ。

 美しい、儚げな大公妃の腕に抱かれた、まだ、ふくふくとミルクの匂いがする頬の、赤ん坊だった。



『よろしく頼みます』


 平伏する母の後ろで、マイカもまた、必死に頭を下げていた。当然だ。彼女は、この国で最も尊い女性であるのだから。


『顔をあげなさい。小さなお嬢さん』


 それは歌うような声音であった。まるで可憐な少女のようであり、一児の母だとは到底思えない。

 それが、ブルーニ大公妃ルイーズとマイカの初対面であった。彼女は優雅に、だが力なくソファに座っていて、柔らかそうな絹の靴を履いていた。声の通り、可憐な少女のような美貌である。薔薇を好んでいて、その匂いが部屋を満たしていた。


『そのこが、エーリヒ?』

『いいえ、娘のマイカです』


 外から嫁いできた彼女は、こちらの国風の名付けを知らず、よって弟とマイカを間違えたらしい、と後になって聞いた。


『そう、マイカ、こちらへおいでなさい』


 最初何を言われたか分からず、跪いたままぽかんと口を開けてしまった。それから、母に促されて立ち上がり、恐る恐る、礼儀に反しないよう慎重に、近づいていく。

 五つの子供にしては、上出来だっただろう。

 そうしてやっとこさ近づいてから気付いた。彼女が凭れていたソファには、ひとつの籠が置かれていたのだ。


『御覧なさい』


 ルイーズは疲れた響きを隠しもしなかったが、それでも誇らしげであった。


『この国の……魔導公国ブルーニの、正当なる跡継ぎ。名前を、フリードリヒ・バルヒェット・フォン・ブルーニ。貴女の乳兄弟になる、貴女が仕えるべき存在よ』


 彼女はこちらがひやひやしてしまうような細い腕で、首の座らない赤ん坊を抱き上げた。真っ白い肌に、薔薇色の頬をしていて、母親によく似ている。金色の髪がまだ生え揃わない。ぐっすりと眠っているようだった。


『あ』


 その瞳が、ぱちり、と開いた。むずがる気配もなく、随分行儀のよい赤ん坊である。


『光……』


 思わず呟いた言葉に、ルイーズは微笑んだ。産褥期で面窶れしていても、色香と、可憐でいたいけな顔形が、ちくはぐに魅力的な女性だ。ガウンを纏い、ごまかしてはいても、痛々しいほどに華奢である。


『そう、(ルミナス)よ』


 マイカはもちろん、知っている。精霊との契約、妖精の瞳。不思議な光が灯った、蒼い双眸。あらゆる毒を、呪いを災厄を跳ね除け、祓う力を持つ。

 どんな魔法も、妖精の瞳を持つものには、通じない。


『妖精の瞳を持つ、私の息子。マイカ、この子に仕え、しっかりと導きなさい』


 小さな手は、まるで楓の葉のようだ。何もかもが弱々しく、愛らしい。そんな命は、この世界で一番尊いのだと知っていた。燐光の眼差し、未来の、大公陛下。私が仕え、身命を賭していくべき存在。

 どうしてか、とても、泣きたくなった。そんなマイカの気持ちを汲み取るように、小さな手が伸ばされる。弟の世話で慣れているのに、どうしてか、とても怯んだ。


『マイカ、手を』


 それでも、ルイーズに促されて、こちらも手を差し伸べる。ぺた、と呆気無く、ミルクの匂いがする手が、触れた。ぺた、ぺた、……ぎゅ。


『フリッツは、マイカを気に入ったのね』

『恐れいります』


 ルイーズの言葉に答えたのは、母アンナだ。マイカはひたすらに、感動していた。

 私は、この方に仕えて、お支えしていくんだ。薬指を握りしめられて、動けないまま、マイカは密かにそう、誓ったのだ。


 なのになぁ、と思わず呟かずにはいられない。

 公子の乳兄弟であり、側仕え見習いであるマイカは、宮廷に部屋をいただいている。そこで、ぼんやりと外套を脱いだ。

 フリードリヒが生まれたのは秋薔薇の華やかな秋のことで、つい一週間前に誕生日のパーティーが開かれたばかりだ。だというのに寒々しく、外の用事の際には外套が必要不可欠であった。

 ここのところ、そのような仕事を言いつけられることが多い。フリードリヒの告白が、そろそろ子供の戯れと片付けられなくなってきたからだ。

 後一年で、十歳。そうしたら、大公世継として、公式の仕事を行うようになる。その前にマイカを修道院にやり、フリードリヒの頭を『正気に戻す』作戦らしい。


「はあ」


 窓辺に届けられていた秋薔薇の花束を、ベッドの上に乗せる。小さくて他愛もない、リボンの結ばれた愛らしい薔薇。それはとても美しく、ほうっと見惚れざるを得ない。

 送り主が、五歳年下の主でなければの話だ。

 いつからそんな知恵を付けたのか。密やかに想いを薔薇に込めて伝えるようになってきた。正面からの告白が、周囲に歓迎されなくなってきたからだろう。


「……」


本当はマイカだって気付いているのだ。熱心で、真面目で、まっすぐで。そんな彼の言葉に、一欠片の嘘もないことを。だからこそ、厄介なのだ。何よりも、恐い。

 だって、マイカには、魔法が使えない。それに男爵家の娘で、身分も低い。いずれ、高位貴族のご令嬢か、外国の姫君が、フリードリヒにあてがわれるはずだ。その時、きっと彼の目も覚めるだろう。

 それを待ち遠しくも思うし、こなければいいと、そう思う。


「決めた!」


悩むのは自分らしくない。宮廷で必須の音を立てない早足で、母親の元に向かう。ノックをして、許しが出てから扉を開ける。

 針と糸、それから布を手にしている母は、弟の衣服を繕っていたのだろう。老いのにじみ始めた母に対して、あっさりと、マイカは告げた。


「私、修道院に参ります。手配してください」

 



 そうして、俗世に離れて三年間。

 本当は二年間の約束の筈だったのであるが、どうしてか『後一年は修道院に居るように』と連絡が届いたのである。弟から。

 詳しいことは分からないが、公子の外遊に同行して、母も弟も宮廷を離れることになっていたらしい。乳母であり、現在は側仕え筆頭である母と、騎士としての才能はからきしだったものの、数ヶ国語をマスターし、学者への道を爆走している弟であるから、仕方がないかもしれない。


「……しかし、結婚のこともあるのに、まったく悠長な」


 娘、姉が可愛くないのかという話である。ただでさえ魔力なしであるマイカは、果たして結婚の口があるのか、と疑問であった。幸い数年前と違って現在は、名実ともに公子殿下の側仕え家族である。それなりの給金も貰っているはずだし、持参金の蓄えはある、という確約もいただいた。

 第一、物心つくかつかないかくらいの頃から、フリードリヒ公子につかえていたのである。給金は全て、貯金にしてあった。

 これからも彼の側仕えとして働き、お金を堅実に貯め、時には同世代同階級の者達が集う社交に参加し、いいひとを見つけられたらそれでいい。

 夢は見ない。

 ……とっくに、女の子の夢は、現実として現れていた。その思い出だけでいい。きっともう、フリードリヒにも婚約者が居るはずだ。十歳のお披露目パーティーは豪奢なものだったと聞く。

 何故かそこら辺を詳しく弟は書いてよこさないが、宮仕えには主の情報を守る義務があるので仕方がない。

 馬車を降りて、許可証を示し、使用人用の門扉からブルーニ城へと入っていく。あちこちに薔薇が植えられているのは、大公妃ルイーズが愛している花だからだ。病弱な彼女が、窓辺から眺められるように、薔薇で彩られた城。

 秋薔薇。あの日、フリードリヒが窓辺に届けたものと同じ。

 もうすぐ彼は十二歳になるはずだ。

 最後に見た時の彼は、泣き顔だった。修道院に行くと告げ、どうしてもその決心を変えられないと知った時。ぼろぼろと蒼い瞳から涙を流しながら、ぎゅっと抱きついてきた。

 汗と、太陽の匂い。


『      』


 ……はて、なんと言っていただろうか。

 ほっそりと華奢な少年で、それでも剣術を修めて、筋肉がついていた。胸元からぐいっと顔を上げていて、円な瞳がきらきら。可愛い、大切な弟分、仕えるべき君主。泣かせるのはしのびなく、けれどしょうがないことだ。

 早く、目を覚まさせてやらないといけなかったのだ。


「そういえば、」


 皮の鞄を抱え直しながら、薔薇を見つめる。何か、何かを思い出しそうだった。そう、約束をした。

 はて、なんだったか。

 薔薇の下の言葉は、秘密にしなければならないという掟が在る。だから、誰にも言ってはいけないよ、と言われて、そうね、とマイカも笑って返したのだ。ぐずぐずと鼻をすする、白皙の美少年に。

 言ってはいけないから、思い出さないようにしていたら、そのまま忘れてしまった。大切な思い出なのに、不完全だ。

 ぼんやりと手を伸ばした、その時。


「きゃっ」


 修道院にいる間に髪の毛は伸びて、頭頂部分でそっけなくひとつに纏めていた。そのリボンがするりと緩んで、風にさらわれてしまったのである。

 ちゃんと結んでいたはずなのに。


「まって」


 ひらり、ひらりと泳ぐように。真っ赤なリボンは大切にしていたものだ。それは、フリードリヒが贈ってくれた薔薇の小さな花束を纏めていたもので、唯一の思い出にと大切にしていた。


「待って、誰か」


 魔法使いではないから、この手の届く範囲でしか、手に入れることはできない。それはあの少年にも言えたことで、だから、マイカはずっと、弟分として、主人として、大切にしてきた。

 あの日、あの時、大公妃の腕に抱かれていた小さな小さな、宝物。

 守ると、決めたのだ。


「あ」


 ひらひらと真っ赤なリボンが、落ちていく。城の庭。薔薇園の真ん中へ。慌てて花壇を乗り越えて、噴水の前まで辿り着く。

 そこには、ひとりの少年が居た。真っ赤なリボンを、握りしめている。


「……マイカ?」


 ひと目で分かった。その、燐光の蒼い双眸。


「フ、」


 フリッツ、と愛称で呼ぼうとして、口をつぐむ。


「お久しぶりでございます、殿下」

「マイカなんだな?」


 修道院で習い覚えたとおり、淑女として完璧な一礼をした。指先でスカートを摘まみ、裾を美しく見せながらの一礼は、我ながら完璧である。

 無視されたけど。


「マイカ、マイカっ」

「……っフリッツ!」


 いつの間にかこちらの身長を軽々と超えてしまったらしい主は、思い切り抱きしめてきた。金色の髪を伸ばしていて、うなじに青いリボンが結ばれている。動きやすい着衣に、腰の剣。今から剣術の稽古だったのだろうか。それとも、狩りか。


「フリッツ、よね」

「マイカは僕の顔、忘れちゃったの?」


 僕はぜんぜん、忘れなかったのに。と言いながら彼は、きょとんと首をかしげる。


「でも、小さくなった?」

「……あなたが、大きくなったのよ」


 そう。大きくなった。まだ十二歳のはずなのに、すでに成長期を迎えているらしい。


「最近、身体のあちこちがみしみし言うんだ。そう言ったら、エーリヒに恨みがましそうな目で見られた」

「あのこは、伸びてないのかしら」

「まだ会っていないの?」

「今、到着したのよ」


 すっかり敬語も抜けてしまって、はあ、と何もかも取り繕うには遅すぎると溜息をついた。それから、しゃんと背筋を伸ばす。


「マイカ・バッハシュタイン、今日付けで宮廷側仕えに復帰し、明後日より御下に仕えます」

「ああ、そういうのいいから」

「はい?」


 見上げた精悍な少年は――あの脆そうに美しかった少年が、すっかりとまあ、格好良くなってしまったのだ――微笑んでいる。


「マイカ、僕と結婚して下さい」

「は?」

「約束したでしょう? 二年間離れ離れでも耐えられたら、『私に叶えられることだったら、なんだってしてあげるから』って。薔薇の下で」


 そんな約束をしていたのか。ぎくりと肩を揺らす。


「あ、あのね。私にできることはって、言うのはね。あなたと私の立場っていうものも、在るんだから」

「大丈夫。マイカに出来ないことは、すべて僕が手配しておいたよ。そういう意味でしょう」

「じゃ、ない!」


 手配とはどういう意味だ。私はそんな、なんでそんな約束をしてしまったんだろう! 過去の自分の浅はかさを罵りたい。


大丈夫(・・・)()()()()()()()()()()()()()()


 奇妙な熱が篭った言葉に、どうしてか、総毛立つ。混乱するマイカをよそに、にこにこと機嫌良さそうに、再び腕を回して、語り続ける。


「君は今日から侯爵家の養女になってもらうんだ。そこの老夫婦にはお子さんがいなくてね。マイカ・フォン・ヴィッテンフェルトになる。そうしたら、僕の誕生日と共に婚約発表。来年の春には挙式だ」


 薔薇の匂いがする。

 ブルーニ大公妃ルイーズは、薔薇の香水を愛用していた。その匂いだろうか。肩口に額をくっつけていて、心臓の音が伝わってくる。こちらの、早鐘を打つ鼓動も、伝わっているに違いない。


「なんで」

「なんでって、なんだい」

「私は、あなたに仕える身で、五つも年上で」

「それ、関係ある?」

「あるわ。大有りよ! 私が、何のために、三年も」


 涙声になったのも、仕方がないだろう。だって、三年間だ。母とも弟とも分かれて、冷たい石造りの穏やかで、恐ろしく静かな修道院で、周りの女の子たちが入っては出て行くのを、見送った。

 もう自分を、ここに埋めてしまうような気持ちで。


「そうだね、もう、ひとりにはさせないよ」


 胸に巣食った寂しさをぶちまけたマイカの、その顎をすくい上げ、こちらを見下ろしている。距離が近い。年下の、少年。主。


「ねえ、マイカは赤子の僕を見て、仕えると決めてくれたんだよね」

「……ええ、そうよ」


 溢れでた涙の、その眦にくちづけられて、息を呑んだ。稚拙な告白ばかりを繰り返してきた少年が、いつの間にか、大人のような顔をしている。


「僕はきっと、君を初めて見た時に、恋をしたんだ」


 燐光の双眸。見つめられて、くらくらする。十二年間、ずっと君が好きだったよと言われて、荷物を取り落とした。


「マイカ」


 突き飛ばそうとした腕をとられて、抱き寄せられる。

 後はもう、随分饒舌な唇に、もてあそばれるだけだった。


 最初の魔法は、生まれたすぐ後。

 泣きそうになりながら見つめていたひとりの少女に、手を伸ばした。どうか触れられますように。そうして握ることができたら、一生手放さないだろう。

 マイカは知らない。きっと、知らない。

 もうとっくに、約束は交わされていたのだ。ただ、それを九年間、なぞりつづけただけ。少し手間取ってしまったけれど、準備はとっくに済ませてある。

 薔薇の下、泣きながら告げた約束を、彼女は覚えていない。忘れさせたから。


『愛している。世界で一番、だいすきなんだ』

『だから、私は』

『知っている、知っているよ。だから、ごめんね』

『フリッツ?』


 秋薔薇の園に連れ出して、腕を掴んで、逃げられないようにと抱きつきながら、魔法をかけた。


『君を支配する』


 僕以外のものになる彼女なんて、想像するのも狂おしかった。だから、決めた。マイカを僕のものにする。そうして、一生を奪うのだ。

 代わりに、ぜんぶぜんぶ、あげるから。

 彼女の愛だけが欲しかった。


「マイカ」


 途方に暮れたように涙ぐむ年下の少女の、あの日のように白い肌に、くちづける。

 ずっと、こうしたかった。


「やっと、帰ってきたね」


 後に薔薇公と呼ばれるようになる少年は、唯一の妃を、ついに手に入れたのだった。


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