決死行
王都グロリオサ、ナスタチュウム王国の中でもっとも栄えているこの街では今日も多くの人々が行き交っていた。働いている人も、この街で暮らす家族も、観光しに来た人々もそれぞれがそれぞれの理由で街を歩いていた。
そんな中、人々の隙間を縫うようにしながら疾走する一人の少女の姿があった。彼女の名前はラグラス・ルゥ・メルシア。淡いエメラルドのような瞳に、落ち着いた明るさの茶髪をした一つ星花屋の少女である。
「マリー、今行くから…!」
彼女と共に行動をしていたマリーが赤い髪をした男に連れ去られた。そのことを記した手紙をフリージアに渡すために彼女は王城を訪れ、面識のある騎士団員の青年デッゼに手紙を託した。
「マリー…」
手紙を託してからラグラスはずっと走っていた。時折、俯きながら必死に走るその様は、どこかを目指して走っているというより何かから逃げているような走り方だった。
「ごめんね…」
彼女の傍に、目の前に、マリーが居る訳ではない。けれど、ラグラスは謝罪を口にした。そうせざるを得ない気持ちに追い込まれていた。
彼女は酷く後悔していた。
一夜を明かした宿を、この街を後にするリーゼロッテとナイトハルトの簡素な見送りをした後、ラグラスはマリーと共に宿の部屋に戻った。
「さて、二人で話でもしよっか」
この後に待ち受ける事態を当然知らないラグラスはそんな風にマリーと共に緩やかに流れる時に身を置こうと考えた。
「マリーはさ、花屋になってみたいと思わない?」
「……考え中」
「マリーと一緒なら師匠と三人で楽しくやれると思うんだけどな」
「そっか、フリージアに教えてもらえるのか」
「うん!それでゆくゆくは三人でお店やっちゃったりとか楽しそうだよね!」
「うん…」
そんな風に二人は会話を楽しんでいた。今置かれている状況から。今抱えている問題から目を背けるように未来の希望に満ちた話をしていた。
カチャ
そんな時、部屋の扉にかけた鍵が開くような音がした。
「誰?」
音を聞いたラグラスは即座に警戒の体勢を整えながら、部屋の扉の方に目を向けた。施錠された部屋の鍵を開けられる鍵はラグラスが所持している物と、宿の人間が緊急時に用いる鍵の二つだけである。今鍵を開けたのは当然ラグラスではないので、考えられるのは宿の人間だが、宿の人間なら鍵を開ける前に扉をノックするだろう。
「下がってて、マリー…」
ゆっくりと部屋の扉が開いた。マリーを守るように彼女の前に立ち、ラグラスは拳に力を込めた。
何が起きているのか、誰がこの部屋の扉を開けたのか、それを見極めようと視線を向けながらラグラスはじっと待った。
しかし、どれだけ待っても開いた扉の向こうから何者も姿を現すことはなかった。
「誰もいない…。風のせい…?」
扉が自然に開くようなことがあればそれくらいだろうが、鍵が独りでに開いた説明にはならない。はっきりとした解答が見出せないまま、首を捻りながら開いた扉を閉めようとラグラスはゆっくりと扉に近付いた。
その時だった。
「ぐぅっ!」
鈍い衝撃がラグラスの腹部を突如襲った。何者かによる明確な意思を持った攻撃。ラグラスはたちまち部屋の中に無理矢理戻される形になり、転げ回った。
「邪魔するぜぇ」
不敵な笑みを浮かべながら、ラグラスに攻撃を加えた人物が部屋に入ってきた。それは赤く長い髪が特徴的な男だった。
何も難しい話ではなかった。部屋の鍵をどうやって手に入れたかは分からない。大方、宿の人間を襲いでもして奪ったのだろう。鍵を手に入れた男は二人が居る部屋の鍵を開け、扉をそっと開く。その様子を確認、また扉を閉めに来るまでじっと部屋の外で待ち、開いた扉の隙間からラグラスの姿が見えた所で彼女に蹴りを加えて部屋に押し入る。ラグラスの油断が招いた非常な結果だった。
「なんだ、お前らしかいないのか」
頭を働かせることしか出来ずに、はいつくばるラグラスを一瞥して赤髪の男は部屋にずかずかと入っていく。男の右側、長く伸びた髪で隠れた顔をラグラスの側から見ることが出来なかった。奴は今どんな顔をしているのか、本物のフリードと見分けはつくのか、その赤い瞳で何を捉えているのか。
「マリー…」
赤髪の男が見ているのはマリーしかいない。全身に響く腹部の痛み、それに重なるように寒気が体中を走った。
「赤い髪の…偽者…」
赤髪と対峙したマリーが、思わず口にしていた。
「偽者、ねえ…」
その赤髪の男が偽者であることをマリーとラグラスは知っている。何故なら本物の赤髪の男、フリードを知っているから。
では、この男の正体は誰なのか。ダンデやリーゼロッテの話を聞く限りではルドベキアが怪しいということになっているが確証はない。そもそも、何故フリードに成り済ましているのか。何の為にフリードの振りをしているのか。
そして、何故今ここに来たのか。二人が知ることはとても少ない。
「それを貴様が知っていたとして何にもならん、もう計画は止められないところまで来ている」
偽フリードはあくまで冷静だった。余裕の表情でマリーとの距離をゆっくりと詰めていく。戦えないマリーと倒れているラグラスは完全に見下されていた。
「あとは貴様の力があれば、計画は至上のものとなる」
赤髪の男はマリーの顔を指さしながらそう告げた。その手を払いのけることが出来るほどに二人の距離は近付いていた。
「…断る」
部屋の端まで追い詰められながらも、マリーは抗ってみせた。じっと相手の目を見据えながら、彼女は戦う意思を見せた。戦う力がないからといって、敵に素直に従うような真似はしなかった。
「がっ…」
だが、そんな思いはあっさりと打ち砕かれる。
「貴様の意思など関係ない。貴様に選択する権利はない。今ここにある貴様の命も、そこに転がってる小娘の命も俺の手の中だ」
赤髪の男がマリーの首を掴みながら、言葉を放つ。その一言が告げられる毎に首を掴むその手に力が込められていく。
「んぅっ…」
全身で暴れて何とかその手から逃れようとするが、状況は変わらない。むしろ悪化していくだけだった。
「ああ…急がねばな」
男はぐっと力を強め、程なくマリーは気を失った。張っていた糸が突然切れたようにその場に倒れ込む姿に、ラグラスはただ怯えるしかなかった。
「さて、次の工程に行こう」
薄れていく意識の中でラグラスは声を聞いていた。
「時間があればこの小娘は殺すのだが…、まあ念には念を、か」
言葉の意味は分からなかった。考えている内にラグラスは意識を失った。
そして、いつしかラグラスは目を覚ました。
辺りを見回して、マリーが居ないことを確認した。そして自分の命が失われていないこと、腹部の痛み以外特に変わった点はないことを認識して、ほんの僅かだけ安堵した。
「…そんな場合じゃない」
そしてラグラスは手紙を書き始めた。この状況を変えてくれる、そう信じている人物に希望を繋いでもらうために。
「…師匠はきっと来てくれる。それまで私がマリーを…、今度こそ、守らなきゃいけないんだ!」
地面を蹴る足により強く力を込めた。この広い王都からもう少しで外に出られる。
あの偽者の赤髪の男がどこに行ったかは分からない。けれど、「計画」とか「次の工程」とかいった言葉を残していた。少なくとも、あの宿の付近からは場所を移動したはずだ。しかし、気を失ったマリーを連れて、人目に付くような場所には向かえない。当然そこまでの道のりも人目を避けなければならない。その考えに合致するのは王都の中か、外か。
もしも、王都の中だとしよう。仮にそうだとした場合、奴はどこに向かうのか。城か、それともこの広い街中か。
「シオン君みたいに鼻が利けばいいんだけど…」
ラグラスは決して頭が切れる方ではない。それでも今は行動するしかなかった。だから、必死に考えながら彼女は走っていた。
「賭けるしかない、よね」
その選択が正しいかなんて分からない。分からないなりに彼女は考えて、あの男が向かった先は「王都の外」だとにらんでいた。人目を避けるしかない、「急がねば」と口にしていたこと、そして「計画」という言葉。ラグラスはそれらの要素から考えを導き出していた。
あの男が口にした「計画」というものがどういうものか全く見当はつかない。けれど、それは王都の中で完結してしまうような小さな物か。また、王都の中で進められているのならば、それほどに急ぐ必要はあるのか。
疑問点は残るし、誰かに話せば否定されるような浅はかな考えだとは思う。ラグラスはそのことに気付いていながらも立ち止まるわけにはいかなかった。
「マリーが捕まったのは私のせいだ。それに…」
脳裏に浮かぶのは苦悶の表情を見せるマリー。そして…
「王都の中なら、師匠がいる…!」
そんなマリーを救ってくれるであろう存在、フリージア・ハーティス。ほんの少し緩めていた脚の筋肉に再び力を込めて駆け出す。王都の外に出るまであとわずか。
「えっ…」
寝泊まりした宿がある城の周辺の街並みは比較的背の高い建造物が並んでいて、視界はあまり開けていなかった。こうして改めて街の入り口まで来ると開けた視界になり、空の様子が分かりやすくなる。今にも激しい雨が降り出しそうな暗雲、広がる黒い雲にかかる多数の黒い影があるのにラグラスはそこでようやく気が付いた。
「あれって、この前の…」
空を舞う黒い影、形こそ鳥には似ていたが、国内に生息する鳥ではあり得ない大きさのもの。ラグラスはそれを知っていた。
「魔獣…!」
リーゼロッテの屋敷で魔獣の群れの襲撃を受けた際に、出会った鳥型の魔獣。それが今、王都の上空に姿を見せていた。
「こんな時に…!」
その姿を視認したラグラスが敵意を向けたその瞬間、数羽の魔獣が彼女に向かって飛翔を始めた。向かってきたタイミングは偶然だったのだと思う。何故なら、魔獣の視界に映っているのはラグラス一人ではなく、王都で暮らす人々が周囲にいたからだ。
「くそっ…!」
上空の異変に気付いた王都の人々が空を見上げながら、呆然と立ち尽くすその場に魔獣は向かって来始めた。その瞳には明確な攻撃の意思が秘められていた。
「フレイムアーツ!」
ラグラスは叫んだ。左手でそっと触れた右手に装備した手甲から煌々と輝く炎が立ち上る。そして、前へと強く脚を踏み出した。
「団長、申し訳ありません。鳥型を王都の方に逃がしてしまいました」
「…構わない、とは言わないが今はこちらを食い止めることが先決だ」
どこからともなく姿を現した魔獣の群れ、その王都進入を阻むべく騎士団員の大部分が駆り出されていた。騎士団長ゼスティエルをはじめ、正式な装備も与えられていないような下っ端までもが現在この戦場に集っていた。
「あちらは王都に残っている者を信じて任せるしかない」
「残っている者…副団長もですか?」
ゼスティエルに問いただしたこの団員、名をローズ・センティフォリアといった。騎士団にはそう数多く在籍していない女性の騎士団員である彼女には目の敵にしている存在がいた。それが副団長のルドベキアだった。
「この緊急事態に奴がいないのはどういうことかと思っていたのですが…成る程、王都の守護に就いているのですね」
「…ああ、そうだな奴は王都に残っている」
真っ直ぐとした純粋な目を向けるローズにゼスティエルは歯切れの悪い返答をした。
「…少しすっきりしました。それでは前線に戻ります」
二人がこうして会話を出来ていたのは前線で魔獣の進行を食い止められていたおかげである。その立役者がこのローズだったが、状況報告の為に一度後方のゼスティエルの下まで下がって来ていたのである。
「私も前に出よう」
「…はい、お願いします!」
術式を刻んだ愛用の槍を携えて前へ踏み出すゼスティエルの姿にローズは思わず笑みをこぼす。
「死ぬなよ、ローズ」
思わすそんなことを口にしていた。彼女の耳に届くか届かないかという程の微かなものだった。
「…私の惨めな姿を貴方にお見せしたくはありません。ですので、貴方が死ぬまで私は死なないでしょう」
漏らした声はどうやら届いていたようで、ローズは凛とした瞳でそう返した。
「何を言い出すんだ」
言葉が返ってきたことは特段気にすることではなかったが、内容は眉をひそめずにはいられないものだった。まさか、自分の死を想起させるような話をされるとは思っていなかった。
「…そして貴方は私がお守りするので死にません」
不快な感情を滲ませた表情をしていたはずだが、ローズは取り繕う様子など見せることなく言葉を続けた。
「つまり、それは…」
けれど、自分のことを思慮していない発言でないことをゼスティエルは理解した。
「私は死にませんよ」
どこまでも澄んだ瞳と、優しい笑みだった。そうして、ローズは剣を握って前線へと駆け出して行った。
「すまない、ローズ」
今度は聞こえないように限りなく小さな声で呟いた。
副団長であるルドベキアが戦場にいないのは、王都を守護するためではなく、赤髪の男と思わしき存在の襲撃を受けて負傷しているためだと言えなかった。いや、敢えて言わなかった。
ローズを、他の団員を不安にさせたくなかった。そして何より彼自身、今の状況に不安と疑念を抱いていた。
「今置かれているこの状況は誰かが仕組んだものではないか」
そういった考えがゼスティエルの脳内で渦巻いていた。国王の暗殺、魔獣の襲撃。更にはリーゼロッテの捕縛もその一端か。思い悩めば思い悩むほど彼の頭の中には最悪のシナリオが浮かんでくる。
そして何よりも、偽者のフリード=レイ・アウグストゥス。このことが何を意味しているのか。
「…チェーンアーツ」
けれど悩んでいる暇がある程、今は余裕のある状況ではない。術式を発動させて手にした槍から光り輝く鎖を出現させる。
「私は戦うしか知らない」
思い悩むことがある。迷い、戸惑うことがある。喪失感、虚無感、倦怠感…自身に付きまとう負の感覚を全て振り払い、戦うことを決意する。自分に今出来ることはこれなんだ、そう信じて彼は戦いに身を任せる。
ふと空を見上げると、王都の方角に飛んでいく一つの影があるのに気付いた。
「…ふう、ゼスティエル・ヴァンガード、推して参る」
それがどうした、呆けている場合ではない。今注意を向けるべきは魔獣の群れに対してだ。上空の影は一瞬だけ人間のように見えた気がしたが見間違いだろう。空を飛ぶ人間など常識的に考えて存在する訳がない。そう自分に言い聞かせて、息を吐いた。
最強と謳われる騎士団長が戦場でその力を見せる。自陣から上がる雄叫びを耳にしながら、ゼスティエルは自慢の槍を振るった。
「…んー、どうすっかね」
ダンデは思い詰めた様子で言葉を漏らしていた。ひたすら「うーん」と唸りながら必死に何事かを思案していた。誰かに知恵を借りられれば良いのだが、そうもいかない。
何せ、彼は今地上からでは視認困難な遥か上空を飛行しているのだった。
「あのゼストっぽいのがいた騎士団の連中にもっと力があればなー。…いや、それはそれで俺が動きにくくなるか」
得意の魔法で浮かばせたグレイブ、それに乗った状態で空を縦横無尽に駆け巡りながら、思いを巡らせた。常識では考えられない法則を操る存在、「クランドールの魔法使い」の数少ない生き残りであるダンデは上空から騎士団と魔獣の群れの戦いを観察していた。
「理想としては、あいつらが来てくれると俺も動きやすくなるんだが…」
両膝をグレイブの柄に掛けた状態で、逆さまにぶら下がりながら、思考を続けるダンデ。頭に血が上ることも気にせず、腕を組みながらぼーっと遠くを見つめていると北の方から何かがやってくるのが見えた。
「あれは…もしかして奴か?」
上体を起こして、ひっくり返っていた天地を戻す。そして、やってくるものを凝視した。
「いやー、こりゃあツいてるねえ。俺にとっていい風が吹きまくりだ!」
そう叫んでから、ダンデは体勢を低く屈めて、足場である柄を手でしっかり握りしめた。
「かっ飛ばすぜ、月光!」
ダンデが、空飛ぶグレイブが地上に向かって一気に滑降し始めた。それはさながら流星のように見えなくもなかった。
「灯火!」
上方に向かって放たれた炎の槍が、空を舞う一羽の鳥型の魔獣に命中した。魔獣はその身を焼かれながら真っ直ぐと地面に向かって落ちていった。
「もう一発!」
再び炎の槍が、上空に放たれるが今度は命中することなく、次第にその火は消え失せた。
ラグラスは王都を襲う魔獣の群れとたった一人で戦い続けていた。本来戦うべきであるはずの騎士団員の多くは王都の外で奮戦していて、助けは来ない。王都に残った僅かな騎士団員は、街が襲われているこの現状に気付くことなく、王城の守りを固めることに尽力していた。
「きっつ…でも、何とか…」
ラグラスの周囲に他の人影はない。突如訪れた脅威に対して彼女は必死に抗いながら、人々を逃がしたからだった。地面に横たわる魔獣の姿と、人気が全く感じられない街の様相をはっきりと目で捉えながらラグラスは小さく息を吐いた。
「まだ、まだだ…」
街を襲う魔獣の撃退、その点でみれば彼女は見事な対応だった。建物に大きな被害もないし、怪我を負ったのは自身だけ、彼女一人の戦力からすると立派な戦績だったと言えなくもない。
「私はまだ…」
けれど、彼女が本来やりたかったことは別にあった。それを行う道すがらで、偶発的に、突発的に、避けられないものとして魔獣の撃退をしただけなのである。
「マリー…」
その名を声に出しながら、棒のようになった足で走り出そうと呼吸を必死に整える。もう少し、もう少しだけこうしていれば普段通りに走り出せる、そう感じながら、そう信じながらラグラスは視線を前方に向けた。
「うそ…でしょ…?」
眼前にあるのはこの王都グロリオサの入り口である大きな門。そこへ真っ直ぐ繋がる道を歩くラグラスの視線の先にいくつもの影が見えた。人のような高さはないが、こちらへ悠然と歩み寄ってくる様に威圧感を覚えた。見覚えのある四足獣のような動きを見せるそれにラグラスは一気に警戒度を上げた。
「魔獣…!」
先程彼女が撃退した鳥型のものとは異なる新たな魔獣。狼や獅子といった四本足で地面を駆ける生物、それが変化したような出で立ちの魔獣が王都に今到達しようとしていた。
「あそこでも見た奴かなあ…」
リーゼロッテの屋敷で受けた魔獣の襲撃、その場でラグラスはその存在を確認していたが、今は状況が異なる。
「はぁ、しんど…」
屋敷の時は仲間がいた。圧倒的な殲滅力を誇る魔法使いダンデ、国内トップクラスの花屋にして類まれな戦闘力を持つフリージア、術式を駆使した特異名戦闘技術を持った執事ナイトハルト。これらの面々が居て勝利を収めたのが前回の魔獣との戦いだった。鳥型だけならラグラス一人で対処は出来た。しかし、今彼女が置かれている状況はそんな生やさしいものではなかった。
「…まあ、頑張るしかないんだけどさ」
じわじわと近付いてくる魔獣を見据えながら、ラグラスは右手に力を込めた。彼女を今奮い立たせているのは気合い、ここで折れてたまるかという意思だけだった。
体は限界に近付いていた。
心が折れるまでどれだけの時間があるか。
分からない、それでも立ち向かう。
「伏せろ!メルシア!」
そんな時だった。魔獣の背後から急速に接近してくる大きな影と、叫び声がしたのは。ラグラスのいる位置からでは、その声の主の姿を窺い知ることは出来なかった。けれど、
「…嘘みたい」
けれど、聞こえたその声には聞き覚えがあったし、彼女の聞き間違いでなければその声の主はラグラスのことを「メルシア」と、ファミリーネームで呼んだ。そんな呼び方をする人物は彼女の死る限り一人しかいない。
「冷徹のハイドランジア…、フリーズアーツ!」
ラグラスに襲いかかろうとした魔獣が飛びかかろうとした体勢のまま一瞬にして氷漬けになった。
「シオン君!」
頭頂部にある大きな耳、毛に覆われた肌に鋭い瞳。狼の亜人シオンが、一時だけ一行から離れていた仲間が巨大な氷塊と共にラグラスの目の前に颯爽と現れた瞬間だった。
「悪い、遅くなった」
シオンは氷に包まれた魔獣が動かなくなったのを確認すると、そう声を掛けながらへたり込むラグラスに手を差し伸べた。
「ありがとう」
差し伸べられた手を取ってラグラスはゆっくりと立ち上がることが出来た。体には疲労が残っている。でも、心はもう大丈夫だった。
「この氷…シオン君がやったんでしょ?すごいね」
「色々とあってな…、それよりも一体何がどうなってる?」
「それは………えっと………クシュン!」
話を始めようとラグラスは口を動かしてはいたがくしゃみを抑えることは出来なかった。ラグラスの服装は袖や丈が短く、露出が多めである。そして、シオンが作り出した氷によって辺りの気温は異様に下がっていた。
「…すまない」
小さな声で謝りながらシオンは自身が羽織っていたコートのような大きな布を手渡した。
「ありがと…でも、シオン君は大丈夫?」
「この術式を使う際にはあった方が楽だが、そもそも俺は寒さに強いからなくても困らない」
シオンは手にした愛用の太刀、その刀身に刻まれた術式の紋様を見つめながら、そう口にした。狼の亜人である彼は全身を毛に覆われており、言われてみれば確かに寒さに強そうだな、とラグラスは少しだけ羨ましそうにしながら羽織ったコートの温もりに癒されていた。
「えっと、それで状況なんだけど…」
「いや、少し待とう」
寒さを気にしなくなったところでラグラスがようやく説明をしようとすると、今度はシオンが彼女の言葉を遮った。
「揃ってからの方が都合がいい」
狼らしく鼻を利かせながら、視線をラグラスの背後に向けると、二つの人影がシオンとラグラスの目の前に現れた。
「ラグラスに…シオン…か?」
黄色い髪に黄色い瞳をしたフリージア・ハーティス、そして城に囚われていた謎の女性カトレアが二人の目の前に現れた。
「師匠!」
「へぇ、こんなかわいいお弟子さんと、ハンサムな狼君と知り合い?」
「ハーティスは匂いで分かったが、この女は誰だ?」
「シオンはいつ王都に来た?」
顔を合わせた四人はそれぞれが思い思いのことを口にし、会話にならなかった。
「…いや、細かいことは後だ。マリーを助けに行こう」
「マリーを助けに、だと?」
その言葉にシオンは眉間にしわを寄せた。
「ああ、マリーがルドベキアにさらわれた、らしい。奴の居場所が分かるのが一番なんだけど、予想がつかない。だから仕方なく僕たちはこれから魔獣の群れが出てきている所へ向かうつもりだったんだ」
端的に、必要だと思われる情報を最低限度でフリージアはシオンに伝えた。
「…そういうことか」
それだけで言わんとすることは伝わったのだろうか、少し不安に思ったフリージアだったがその言葉を口にしたシオンの聡明さに感心したが、事実は違っていた。
「色々と疑問はあるが、奴の思惑に乗るか」
続けられた言葉の真意をフリージアが図りかねているとシオンがゆっくりと説明を始めた。
「ここに着く直前にあの胡散臭い魔法使いとやらが俺に伝言を寄越しやがった」
「…ダンデか」
ラグラスは不敵な笑みを見せるダンデの姿を思い浮かべながら「胡散臭い」という表現が妙に合っている気がして、思わず笑ってしまいそうになった。ダンデの能力をしっかりと見ていないシオンからすれば「胡散臭い」ただのおじさんでしかないのかもしれなかった。
「ああ、そいつが俺に残したのはこうだ」
「ルドベキアなら、こっから東に行った洞窟にいる。そいつが全ての元凶だからよろしく」
「…とお前等に伝えろと言い残して、どこかに飛んでいった。最初は何の意味がある伝言かと思ったが、今の話を聞いて理解した」
受け取った伝言を反芻し、シオンの口振りからフリージアは答えに行き着いた。
「…マリーを助けるための道を示してくれたのか」
「だろうな。まあ、奴がそんなことをする意図の方は分からないが」
シオンとフリージアは顔を見合わせながら、やがて小さく頷いた。
「あのおじさん何考えてんだろ…?」
「けれど、信じるしかない」
「…それに、東の方角なら魔獣が来てる方向と一致しそうね」
今の状況を彼女がどこまで理解できているか定かではなかったが、カトレアも話に加わった。
「何が起きているか、赤髪の男に会うために付いていくからよろしくね」
そう明言し、マリーという一人の少女を救うためにカトレアも助力することを約束した。
「行こう」
こうして、フリージア、シオン、ラグラス、カトレアの四人が共に行動を開始しようとした。
その時だった。
「呑気なものだな」
どこからともなく暗く低い声が四人の耳に届いた。
「しかし…、貴様等がここにいるとは、な」
四人が声の主を見つける前に、再び同じ人物の声がした。姿は見えない、けれど聞き覚えのある声だった。
「この声………アキレアか」
フリージアがその名を呼びながら、声が聞こえてきた方向を見ると、二人の人物が立っていた。一人は先程から言葉を発していた男、アキレア。そして、もう一人がそのアキレアの隣にいる少女、チーゼル。
「酷く不愉快だ」
フリージア、シオン、ラグラスの三人はこの二人に遭遇するのはこれが二度目だった。以前、対峙した際には即座にフリージアが気絶させられ、シオンとラグラスの二人で応戦したがまるで歯が立たなかった。
「だが、これも良い巡り合わせか」
フリージアが赤髪のフリードに変わったことで、何とかその場は事なきを得ていたが、こうしてまた対峙していた。
「…あの橋は落としたと思ったんだが、こうして目の前にいるのであれば仕方ない」
アキレアが口にした「あの橋」とは、その戦いの後でフロックスの町からの帰り道にあった大橋だろうと予測できた。フロックスからこの王都側に来るために渡らなければならない橋、往路では渡れたその橋が復路では不自然な形で壊され渡れなくなっていたのだった。
「…やっぱりお前だったのか」
フリージアの目に少しずつ炎が灯っていく。
たまたま通りがかった魔法使いダンデのおかげで、河を渡ることは出来た。だが、もしもそうならなかったら今頃、事態は非常に深刻なものとなっていただろう。一行は橋を渡れず、河を越えることが出来ないまま無為に時間を過ごす。そして、魔獣の襲撃を受けるリーゼロッテの屋敷を救うことが出来ない。
その上、囚われの身のリーゼロッテは無実の罪で処刑されてしまう。
「だが、こちらに来てしまっているのならそれはそれで好都合だ」
アキレアは少しずつ一行に歩み寄りながら、強い殺気を向けてくる。一歩一歩近付いてくるごとにその殺気は強く冷たくなるのを感じる。相棒のチーゼルもアキレアから付かず離れず一定の距離を保ちながら一行に向かってくる。彼女もまた強い殺気のようなものを放っていた。
「貴様等は俺がこの手で潰す。俺のこの仮面の下を見た者は生きて帰す気はない」
「…こんな時にっ!」
向けられる殺気に抗う為フリージアが剣の柄に手を掛け、一気に引き抜こうとする…が、それは阻まれた。
「シオン…?」
鞘から剣を抜こうとするフリージアの手首をシオンの手が掴んでいた。
「ここは任せろ」
シオンはそう告げると、掴んでいた手を離した。
「お前は俺の知るフリージア・ハーティスでいいんだよな?」
そして、不可解な質問をフリージアにぶつけた。
「…先ほどお前の顔を見た瞬間、別人かと思うほどにお前の表情が冷たくなったように感じたが、俺は匂いでお前だと判断した」
フリージアは自分の顔が今どうなっているのか自分では分からない。けれど、マリーがさらわれたということを知って以来彼の顔は冷たく暗いものになっていたのだった。会ったばかりのカトレアにそれが分かるはずもなく、シオンはフリージアに再会した時から少しばかり困惑していた。
「マリーのことでそうなっているのなら、一刻も早く向かうべきだ。その感情をこんな所で無駄にするな」
「シオン…」
「師匠、ここは私たちに任せて」
戸惑うフリージアにラグラスがそう声をかけた。
「後で、絶対そっちに行きますから!」
そう告げてラグラスはフリージアの前に立ち、アキレア達を迎え撃つ体勢を整えた。
「……ありがとう」
自分の前に壁のように真っ直ぐ立つ二人の背中に向けて、フリージアは小さくそう述べた。
「カトレア、行こう」
そう促してフリージアとカトレアはアキレアから離れつつ、王都から出る為にその一歩を踏み出した。
「行かせるかよぉ!」
アキレアのその叫び声と共にチーゼルの体から茨が凄まじい速度で射出され、前回のようにフリージアを捕縛しようと一気に伸びた。
「甘い」
茨はシオンが振るった太刀によって弾かれ、その場に力なく落ちる。
「お前のやり方は知っている」
小さく息を吐きながら、太刀を握る手に込めた力を少しずつ強めていく。
「さて、やろうか傷顔」
シオン、ラグラスとアキレア、チーゼルが対峙したその瞬間から少しだけ時間は遡る。
「くっ…!」
ゼスティエル率いる騎士団が王都から少し離れた地で未だ魔獣の群れに抗い続けていた。
「これが最善のはずだ…!」
理由は分からないが一様に王都を目指して駆ける魔獣達。波のように襲い来るその集団に飲まれることなくゼスティエル達は戦い続けていた。彼らが屈することなく立ち続けられているのは、ゼスティエルやローズなど、個の戦闘力が抜きんでた存在がいることが大きい。
しかし、あくまでも彼らは個である。ゼスティエルやローズがいる地点では魔獣達を圧倒しているが、その他の地点ではそう上手く行く訳でもない。具体的に示すなら二人が戦い続けている戦場の中央部分は優勢だが、二人のような強力な個がいない両翼では甚大な被害が発生していた。
「団長、私はそろそろ右翼側に向かいます!」
「頼む…!」
その言葉を受けてローズが果敢に、陣の右辺側に向かい始めるが、駆けていくその背中から疲労を感じ取ることは容易に出来た。
「死ぬなよ…」
群れの迎撃に出発する際に団員全てに伝えた言葉。改めて言葉にしなくとも分かってはいるだろうが、どうしても口に出してしまう。祈るように漏らしてしまう。
「…私も、か」
単純な攻撃や回避による身体的な疲労に加えて、術式の発動やその鎖の精密なコントロールに精神的に磨耗していく。自分の体にのしかかるような嫌な重みを覚えながら、ゼスティエルは槍を強く握り直し眼前の敵に狙いを定める。
「流星!」
全身の筋肉を躍動させて、槍を前方に向かって思い切りよく投擲する。その際、槍の柄に刻まれた術式の紋様に指で触れてチェーンアーツを発動、光の鎖を出現させた。鎖は槍が飛んでいく先まで真っ直ぐに伸び続け、槍が魔獣に命中したところでようやくその伸長を止めた。
「戻れ!」
ゼスティエルがそう叫ぶと、魔獣の頭蓋に刺さっていた槍が鎖に引っ張られながら、彼の手の中に戻った。これがゼスティエルが得意とする技の一つである。さながら流星のように放たれた槍は術式の力によって何度でも続けて空を翔るのである。ちなみにゼスティエルはこの技を応用して移動手段としても用いる場合もある。
「中央は問題ない…が、先程のように何度も外側を突破され続ければ王都も無事では済まなくなる…」
全霊を賭けて魔獣の撃退に当たっているが、ここまでゼスティエル達騎士団の面々は完璧な立ち回りとはとても言えなかった。空を飛ぶ鳥型の魔獣も、陣の外側を駆ける四足獣型の魔獣も抑えることは叶わず、王都への侵入を許してしまったに違いない。
「せめてあと一人、広く対応できるような人間がいれば…」
そんな言葉を思わず漏らしてはみたものの、魔獣の群れに対抗できるような人間…それも広範囲の攻撃が可能な存在などほんの一握りである。それでもゼスティエルは思い当たる人物の姿を思い浮かべていた。
一人はゼスティエルと同じく術式を駆使して戦う男、行方不明の赤き髪の師匠。
一人はその師の下で一緒に学んだ男、師と同じく生きているのかも不明な魔法使い。
「…今日一日で何度あいつのことが頭をよぎるんだか」
ゼスティエルはそうぼやき、息を吐いた。心が弱っているのだ、そう自身で評しながら少しだけ涙を流したくなった。
「ああ、すがる物のなんと少ないことか…」
幼い頃から共にいた姫リーゼロッテが窮地に立たされていても、幼い頃から慕ってきた国王エルフェージュの死に際しても、彼は孤独に戦った。
何なら二十年前からそうだ。国民の誰もが愛した王妃リモニウムの暗殺の時も、その暗殺を行ったとして師匠のフリードに疑いがかけられた時も、思い返せば一人だった。唯一の友と信じていたダンデはその頃から姿を見せなくなっていた。
「…腹立ってきたな」
どうしたって、頭の中からダンデという男が消えない。奴が居なくなってから二十年以上経っているというのにまともな思い出が、奴が居た頃の物しかない。覚え始めた苛立ちをそのまま槍に乗せてひたすら振るい続けながら、何度も過去に浸ろうとした。
けれど、大人になってからの映像は何度繰り返しても一瞬で過ぎ去って、すぐさま少年時代に切り替わる。騎士として一人前になるために生きてきた時間は灰色とでも呼ぶべき彩りのない時間、師匠と友と楽しく過ごしたあの時間は千紫万紅の大切な瞬間、どうも無意識の内に自分の中でそう認識しているようだった。
「走馬灯…じゃないよな」
ただただがむしゃらに槍を振るい続けた。一撃で沈めることが出来ていたはずの魔獣がいつの間にやら、易々と倒れることがなくなっていた。
「そもそも、近いな…」
最初は遠目から槍を投げる戦術を用いていた。それが有効だと信じていたし、それを実行し続けていた…つもりだった。
だというのにいつから俺は槍を投げなくなった?いつの間にここまで敵に接近を許し、回避と攻撃を交互に行うような緊迫した状況に身を置いている?
「鈍ったな」
そう言えばさっきからこうしてぼやくことも増えた。騎士団員の仲間が近くに居るときはこんなことないのにな、そんなことを考えながらゼスティエルは息をゆっくり吐きながら呼吸を整えた。
「雨、か…いや、汗か?」
頬を伝う水滴に気づきながら、嵐が来そうな雲行きだったことを思い出した。
そういうことをしっかり思い出せるから自分はまだ冷静だ。雨ではなく汗だったとしても、戦闘に影響はないから問題はない。目に入りそうだったら拭おう。
ゼスティエルはそう考えた。頬を伝う物の正体を、その不思議な温もりに気付くことなく前を向き続けた。
「さて、気を引き締め…」
槍を強く握り直しながら、そう口にした瞬間、彼の言葉を遮るように一陣の風が吹いた。
「ぐっ!」
突然吹き荒れた風に思わず目を閉じてしまった。魔獣が、敵がまだ残っているのに目を背けてしまった。慌てて目を開けようとするも、砂埃が舞う中で完全に目を開くことは困難だった。
「まさか、泣いてんのかよ」
自分の周囲には誰もいないはずだった。なのに声が聞こえた。
「敵さん所に攻め込もうと思ったら、流れ星が見えたもんでな」
男の声だった。けれど騎士団員のメンバーの誰とも一致しない低い声だった。
「ちょっと様子見てたら、なんかピンチっぽいじゃん?」
聞き覚えのある声、どこか飄々とした物言い、ゼスティエルの頭に浮かんだのは一人の人物だった。
「さすがにお前のことは放っておけねえわな」
「お前…!」
ようやく目を開けることが出来るようになってきた。ようやく声の主をこの目で捉えることが出来る。
「レオ…、貴様か!」
自分と同じく大柄で頑強な体、風で乱れに乱れまくるオレンジ色の髪、その後ろ姿は昔と変わりないように見えた。
「そう呼んでくれるのはお前だけだな、ゼスト」
振り返ると、年相応にしわを重ねた顔の男が居た。けれど、かつての面影は確かにある。
「挨拶は後でちゃんと、な。とりあえず手貸すぜ」
「…ああ!」
ナスタチュウム王国騎士団長ゼスティエル・ヴァンガード、その隣に彼の友である魔法使いダンデ・L・ストライヴスが並んだ二十年ぶりの瞬間だった。
「さてと」
かつての友から視線を外し、ダンデは相対する敵を見据える。
「守勢展開」
人差し指を顔の前で立てながら、ダンデが小さな声で呪文のようなものを唱えた。すると、二人の周囲に風が巻き起こり始めた。
「…なるほど」
吹き荒れる風に驚く様子を見せることなく、ゼスティエルは握りしめていた槍を持ち替えて、穂先を天に向けて地面に立てた。
「チェーンアーツ、…錨」
槍に刻まれた術式に触れて、ゼスティエルがそう唱えた瞬間、槍から光り輝く鎖が出現し、これまでにない速度で一気に伸び始めた。伸びた鎖は次第に地面を這いながら、魔獣の方向へと向かっていく。
その時、直立不動のまま動こうとしない二人の背後から、群れから飛び出した数頭の魔獣が攻撃を加えようと飛びかかった。
「おっと、残念」
ダンデは得意げにそう言ってのけると、突如魔獣が見えない壁にぶつかったように弾き飛ばされた。ダンデもゼスティエルもその様子を特に確認することなく、平然とした様子だった。
「上達したな」
「そりゃあな、そっちこそ鍛えたっぽいな。もうちょっとだろ?」
「ああ」
特に何を説明するでもなく、それだけの少ない言葉で二人は会話を成立させているようだった。お互いに深くは語らない、それでも何かを感じ取りながらお互いに笑顔を見せていた。
「…待たせたな」
ゼスティエルがそう告げると、彼が伸ばしていた、鎖の動きが止まった。そこでようやく鎖を長く伸ばしていた理由が判明した。
「後は任せた」
地面を這いながら長く伸びた鎖、それは魔獣の足を地面に縫いつけるように絡みついていた。それも相対する全ての魔獣、その全ての足を鎖で縛りつけていた。それはさながら錨のようであった。
「攻勢転化」
それは一瞬の出来事だった。もしも誰かがその現場を端から見ていたら、あまりの変化に何が起きたか分からなかっただろう。夢か幻と見間違えたと判断するか、もしくはいつの間にか気を失っていて、その間にその事象が起きたと勘違いするか。それほどに一瞬、そして圧倒的な光景だった。
「ま、こんなもんだろ」
二人の周囲に吹いていた風が止んだ。そして残ったのは、何事もなかったかのように直立する二人の戦士と、それを取り囲むように並んでいた魔獣の群れの躯だった。
「…いつ以来かは忘れたが、問題なかったな」
躯は全て鋭い刃で切断されたような状態になっていた。そこが戦場であるとはいえ、余りにも凄惨な光景に二人は眉一つ動かすことなく移動を始めた。
「さて、話をしようか」
こうしてダンデ、ゼスティエルの二人は魔獣の群れとの戦いを終わらせて戦場にて幾許かの休息に入った。
シオンとラグラスの二人はアキレア、チーゼルと王都にて戦い、フリージアとカトレアの二人はマリーを救うため草原を駆ける。
それぞれが決死に生きている瞬間だった。




