萩野古参機関士 縁談と機関車
主人公の台詞を自分で当てはめるのは前作からの伝。なぜなら主人公はあなただから。
久々に父に呼び出されたかと思ったら、縁談の事だった。ボクは全くそんなことは望んでいないのに。父は、結婚して平和な家庭を築くのが幸せだと言うけれど、ボクはそんな人と結婚したくない。それに、ボクには夢があるんだ。やり遂げるまでは、絶対に。
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「おう、今日の乗務はまたお前とか。よろしく頼んだぞ、若いの。」
「――!」
今日は久方ぶりに萩野機関士との乗務割だった。待避線にある機関車のところまで一緒に歩く。線路や枕木、バラストに足をとられないようになるまでが長かった事を思い、自分の成長を噛み締める。
「今日の乗務割は意地が悪い。慣れてきた野郎でもきつい所にあんたを回すなんざなぁ。」
「―――。」
「そうか、やり遂げるか。そういや、管理局長が途中から視察に来るとさ。ん?どうした。」
「―――。」
「はーん。つまりは管理局長の奴は、ここで挫折させてその後にめでたく縁談成立としたいんだろなぁ。」
「―――。」
「ははっ、確かに女々しいこった。お前さんのがよっぽど男らしいや。」
運転台に上がるステップに足をかけて、ソイヤッと登る。萩野機関士は、油差しを持って機関車の点検を。ボクはその間に火床整理や給水等を済ませねばならない。
一晩の間、火を絶やさないためだけに投げ込まれている燃え盛る石炭を、備え付けの火掻棒でかき回し、不可燃分子であるコリンカーを撃ち砕いて空気の通り道を整える。新しくくべたわけでもないに火力は増す。圧力計の針は心地よいほどぐんぐんと上がってゆく。水位に気を付けながら更に圧力をあげるために少し石炭を放り込む。赤黒い焔が石炭を嘗め、更に勢いを増す。汗が頭から、首から流れて胸元に溜まるのが不快だ。首もとに巻いた元は白かったタオルで汗を拭う。今は煤で汚れたタオルのざらつきはもう馴れた。圧は定格、よし。
萩野機関士が運転台に上がってきた。
「おう、行くぞ。気合いは充分か!!」
「―!!」
「上等だぁ、今日は親父さんの目にものを見せてやろうじゃあねぇか!」
そう言って、萩野機関士は機関車を走らせ始める。今はあくまでも客車を繋ぐ為の入れ換えだ。本線信号はこの線路の位置では萩野機関士からはみえないから、ボクが身を乗り出して確認する。
「――。」
「信号よし。」
行き先の線路に入り、萩野機関士は後進をかける。萩野機関士から反対の位置にホームがあり、連結を行う人が持つ旗は見えないため、ボクが身を乗り出しながら、後ろを見る。旗がまだ降られている。まだ、まだ。旗が止まった。
「―!!」
萩野機関士のブレーキ操作によって機関車はピタリと止まった。ブレーキホースの準備が行われているのが見える。そして再び旗が降られる。
「――。」
僅に動く機関車。小さめの衝撃で連結器が繋がったカシャーンという音が僅に聞こえた。
「――。」
後は、出発時刻までに圧を上げておかねばならない。だいぶ圧が下がっている。
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途中駅に着いた。ここから管理局長、つまりは父が視察をかねて同乗してくる。
「管理局長の某だ。今日はよろしく。」
非常に冷めた目だった。
「おーよ。俺は萩野機関士だ。まあ、知っとるわな。」
「――!」
「管理局長にいったいどういう口の聞き方をしてんだ、テメーら、クビにすんぞ!!」
「やってみろや、国労に吊し上げられても知らんぞ!!」
「んだとぉ!?」
そんな言葉を吐きながら、やるべきことはやる。これは鉄道員の習性だ。
圧は定格よりやや高め、水位もよし。萩野機関士が発電機の弁を開けたらしく、独特のピィィンと甲高い音が耳をさす。そして、駅長の笛が聞こえた。萩野機関士が汽笛を吹呼し、ブレーキをとく。火床を見ながら少しだけくべる。加減弁を引いたのに僅に遅れて機関車は走り出す。蒸気溜から煙管内の加熱管を通ってからシリンダに蒸気が入るため。その管の長さのぶん遅れることになる。ドレーンやバイパスから吐き出される蒸気が足回りを覆う。シリンダからの排気がその上にある煙室という空間を凄まじい速度で唯一の出口である煙突に抜ける。この時に回りの空気を巻き込むという、一種の過給機となっている。そしてそこに繋がる煙管が火室からの焔を吸い込んで行く。こうなると石炭が一気に燃えてしまうから、気を付けねば直ぐに火力が落ちてしまう。また、
機関車、機関士、機関助士の三位一体で走る。その音は、その力強さは、生き物のようなモノだ。ボクが小さい頃から憧れた黒鉄の馬だ。
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腕は既にパンパンに張ってしまい、痛いどころか感覚が鈍ってきた。そのせいか、何度か焚き口の角に小スコをぶち当ててしまって、手には軽く血が滲んでいる。余計に小スコをぶち当てて仕舞いやすくなっている。
「そろそろ勾配だぁ、両手スコップに持ちかえとけ。」
「――。」
「いいか、やれと言ったらやれっ!!」
情けなかった。両手スコップになってもくべる量は変わらない、つまりは楽な方でやれと言われたのだから。
「馴れた野郎でもこの辺は両手スコップにする奴も居る。だから、そんなに厭な顔をするな。」
そんな慰めはいらなかった。でも仕事はやらねばならぬ。この辺でしっかり圧をあげねば、坂道で力尽きて逆走からの脱線や激突事故に至った事例もある。小スコを運転台の後ろ壁のフックにかけて、立て掛けてある両手スコップを握る。その時に父が、
「機関士を諦めればそんな苦労はしなくてすむようになるぞ。」
と、まるで誘惑の悪魔のように言う。ボクはそれには答えず、火室の戸を開けた状態で固定する。そして、両手スコップでひたすら石炭をくべる。先輩方が教えてくれた唄を口ずさみながら。内容は正直お下劣だけど、くべるときにいい感じの調子がとれる。歌詞は、孫ができればおとーちゃん、おかーちゃんが喜ぶから、穴を掘らねばならぬという、今のボクには、だいぶ切実な内容だ。正直男になんか掘られてたまるか。キレイなおねいさんなら或はって、何考えているんだ、ボクは。
「誰だ、娘にこんな唄を教えたやつは!!訓戒処分じゃあ済まさんぞ!?」
「あぁ?管理局長殿、あんたは何を考えて居るんだ。この唄は鉄道省辺りの頃からの機関助士に伝わる由緒正しき歌やぞ。」
「それを娘に…っ」
「あんたにゃ、娘なんざ居らんさ。そこの若いのは息子じゃあ。」
「何を言っている!どうみたって娘だろうが!!」
「俺にはな、あんたより、そこの若いのの方がよっぽど男らしいと思っとる。戦の前から機関士やっとるけどなぁ、これほど男であろうと努力を惜しまんやつには始めて会ったわぃ。」
「だが、私の娘だ。娘の幸せの為には…!!」
「あんた、この若いのの為だ、と言うて、縁談を持ってきたんやと?」
「それの何が悪い!?」
「それの相手が、運輸省の事務次官とこのボンボンつーのはな、そりゃ若いのの為じゃあねぇ。それはあんたのためだ。見返りの為に娘を売ろうとしとる。」
父と萩野機関士の喧嘩を尻目にとにかくくべる。圧はしっかり保ってる。萩野機関士の加減弁操作のあと、くっと下がる圧を取り戻すべくどんどん石炭をぶち込む。そして、外を見る。間もなく千メータ随道だ。
ここの難所は、まさにここ千メータ随道と、その先通称空転地蔵の坂だ。千メータ随道のなかも登り勾配のため、例えトンネルという半密閉状態の所でもくべねば止まってしまうし、その先の空転地蔵の辺りでは、さらにきつい勾配のために、空転しやすくなるし圧もだいぶ必要だ。思わずスコップを強く握り込む。 人殺し随道に挑むのだから、気合いを入れてるんだ、これは武者震いだと、ボクはボクに言い聞かせる。濡らしたタオルで鼻から下を覆い、歯を食いしばる。
ドンッと鈍い衝撃と共に随道に入る。ドロドロというような反響音の中、厭に排気ドラフトのシャッシャッという音が大きい。まるで心臓のようなその音。心臓を鷲掴みされたかのような錯覚すら抱かせる。
火室から、煙や焔が僅に逆流して視界を奪う。既に血に染まって所々破けた軍手をポケットに押し込んで、素手で両手スコップを取り直し、火室の戸を開ける。焔の先がまるでボクを捕らえようとしているかのようにさっと出てきて消えた。煙も焔も悪意があるかのようにボクにまとわりついてくる。タオルもいつのまにかからからになっているし、汗は止まらない。機関士の方を見ると、その横顔は厳しい表情をしていた。そして、振り返ってみれば、父は防塵マスクをして、ボクを値踏みするように見ていた。というか、防塵マスクなんて初めて生で見たよ、ボク。
まだまだ随道の中だ。空転地蔵の坂に備えてひたすらくべる。汗で視界が滲む。煙も視界を奪う。でも、ここで負けたら『男』が廃る。それに男と結婚させられる。イヤだ。ボクは負けない。負けてたまるか。
息は上がって、このまま息と一緒に心臓も吐き出してしまいそうだ。
「若いの、あと少しだ。少しの辛抱だ。」
聞こえているのがボクの心臓の音なのか機関車の音なのかすら判らなくなって来ているなかで、不思議とこの萩野古参機関士の声ははっきりと聞こえた。ふっと息を吐き捨て、グッとへその辺りに力を込めたその時に、ゴウッというような風を感じた。途端に、視界を奪う煙は吹き去られ、焔は収まるところに帰っていった。そうしてやっと気がついた。そうか、ボクはやり遂げたんだ。
「若いの、やるじゃねぇか。俺が始めてここで助士を務めた時ゃあ、ひっくり返っちまってよぉ、そんときの機関士にゃあ、迷惑をかけたもんよ。それがどうしたことか、お前さんはやり遂げたんだ。こいつはめでてぇ。」
それを言われたとたんに、歓喜の余りに力が甦ってくる。この呪わしい女の躯のどこにそんな力の源があるのか、不思議で堪らない。
「―――!」
「おうよ、俺も本当に嬉しいぜ。喉、がらがらやぞ、水を飲んどけ。圧はまだまだ十分だ。」
機関士の言葉に甘えて、乗務鞄からアルミカップを取り出して炭水車の下の方についている蛇口から水を出す。ついでに機関車のボイラーの水位も見るが、まだ大丈夫。ぐいっと水を一気に飲む。ああ、正に水が体に染み入るようだ。
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そのまま無事にすべての難所を抜けて、途中駅につく。父は忌々しそうに、「今は認めてやる。後で後悔しても知らないからな!」と、小物じみた捨て台詞を吐いて、降りていった。 ほボクはもうどんなに苦しいこともきっと越えられる。だって今日の乗務をやり遂げようとしているから。残りは二駅。さあ、気を引き締めて行こう!
(*5)防塵マスクの名があるが、中身は割かししっかりとした防毒マスク。機関士や、機関助士はそんなの持っていても着けたり外したりするのはめんどう、もといそんな暇はない為にもって行かない人が殆ど。広報写真位にしか使わないらしい。