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武田家の黄昏

作者: 三好八人衆

ふと思いついて書いてみました。

こんな会話があったらな、とか思ってみたり。

時は天正二年一月。信濃国の高遠城。甲斐源氏武田家十八代当主・武田左京大夫信虎(たけださきょうだゆうのぶとら)は、縁側でぼんやりと沈む夕日を眺めていた。

「父上」

振り向くと長男にそっくりな、自分と同じ法体の男。息子の逍遥軒信廉(しょうようけんのぶかど)が自分に気を使うような顔で、隣に腰を下ろした。

「お加減は如何ですか?」

「最近は殊の外調子が良い・・・明日にでも戦場に立てそうなぐらいよ」

この時信虎八十一歳。病に侵され、ここしばらくは床に臥せることが多くなっていた。

「四郎殿の様子はどうじゃ」

「来月には東美濃の明智城、六月には徳川領の高天神城を攻める予定のようです」

昨年四月に長男・信玄が亡くなり、孫の四郎勝頼(しろうかつより)が跡を継ぐ事になった。信玄は『死を三年隠す』よう言い遺したそうだが、おそらく隠し通せるものではないだろうと信虎は思っていた。

甲斐を追われた後、信虎は婿の今川義元の本拠地駿河国と京の足利将軍のもとを行ったり来たりしていたが、その折に、時代の覇者・織田信長を見る機会があった。

―――この男、只者に非ず。

息子信玄と同じ―――いや、それ以上の大器であると信虎は感じていた。しかし器だけではない。織田の同盟国である徳川軍を破った武田の主力と直接ぶつかる前に信玄病死・撤退という強運まで持ち合わせている。

すでに信長は徳川を使って探りを入れさせていた。信玄の死後、武田の陣容が固まりきらず、動けない合間に駿河への侵攻や長篠城攻撃に動けないのを見て、信玄が死んだことを確信しているだろう。

「信廉よ」

家臣と息子たちから追われ、老い、遠からず死にゆく自分が武田の家に、息子と孫に残してやれることは少ない。織田信長という強大な敵に立ち向かう彼らに何か言葉を残してやりたかった。

「わしの死後、四郎殿や皆に伝えてもらいたいことがある」

「はい」

「信玄死したとしても武田の力は強大じゃ。だが、すでに浅井と朝倉は滅び、本願寺も降った。信長は遠慮なく主力を我が武田に向ける事が出来るであろう」

信玄の死後、信長は将軍足利義昭を追放し、返す刀で朝倉義景・浅井長政を滅ぼした。本願寺とも和睦し、信長の当面の敵は武田のみとなった。

「わしは京で信長という男とその戦いを見てきた。奴は勝てる戦いしかしない男よ。信長が本腰を入れて武田に勝負を仕掛けるときは、必勝を期して挑んでくる。努々油断するな」

「ひとつの綻びは全体の綻びにつながる。全体を広く見まわし、綻びは常に繕い崩壊を防げ」

「勝ち続け、我らが笑うという事は下々の者は涙を流していることを忘れるな」

「一時の欲に溺れ、信義に違う事をするな。今や武田はかつての武田に非ず。切られた手は、簡単に繋がれぬものと心得よ―――」






―――父・信虎はその言葉の二ヶ月後の三月に息を引き取った。しかして武田は信虎の懸念通りとなった。

明智城などの東濃の諸城と、遠江国の要衝で信玄すら落とせなかった高天神城を落した武田勝頼はまさに有頂天。信長が万全を期して挑んだ長篠の戦いで重臣たちが止めるのも聞かずに決戦を挑み、信玄以来の重臣を数多失う大敗を喫する。

しかしその後、東の北条と同盟を結んで体勢を立て直し、武田家最大の版図を築くことに成功。だがそれは、領民と配下の国人に多くの負担と不満を抱かせるものとなった。

外交政策でも失敗した。越後国の上杉謙信の死後、謙信の甥(姉の子)上杉景勝と勝頼の盟友北条氏政の弟で謙信の養子になっていた上杉景虎が争った『御館の乱』で武田氏は北条氏の景虎救援要請に応じて出兵したが、景勝による大量の金子による買収に応じて景勝支援に転じた。結果として上杉景虎を見捨てる形となり、景虎は敗死。上杉氏と同盟を結ぶことにはなったが、弟を見捨てられたことに激怒した北条氏政は武田氏との同盟を破棄、織田・徳川と同盟を結ぶことになる。結果論にはなるが、武田・上杉同盟『甲越同盟』は上手く機能せず、武田は外交的に追い込まれることになる。

そして迎えた天正十年三月―――






長年の戦役と勝頼が築こうとしていた新居城・新府城の築城負担に不満を爆発させた武田一門衆で信濃国木曽谷の領主・木曽伊予守義昌(きそいよのかみよしまさ)が織田方に通じ、挙兵。ここから武田氏の崩壊が始まり、信廉の娘婿で信濃国松尾城主・小笠原掃部大夫信嶺(おがさわらかもんだいふのぶみね)・駿河国江尻城主・穴山梅雪斎不白(あなやまばいせつさいふはく)が織田・徳川陣営に寝返った。さらには甲斐国岩殿城主・小山田左兵衛尉信茂(おやまださひょうえのじょうのぶしげ)が寝返り、勝頼は夫人と一子・太郎信勝(たろうのぶかつ)とともに自害し、武田家は滅亡した。

信廉はこの時信濃国大島城を守っていたものの、守備を放棄して甲斐に敗走。武田滅亡後は潜伏していたが、織田軍による執拗な残党狩りの末に捕えられ、身柄は織田家臣・森勝蔵長可(もりしょうぞうながよし)に預けられた。

「逍遥軒殿。少々お暇ではござらんか」

幽閉されているところに森の家臣である各務兵庫助元正(かがみひょうごのすけもとまさ)豊前采女(ぶぜんうねめ)が現れた。

「我らの主は『百段』という名馬を所有しておりまして、もしよろしければご覧になってみませんか」

森長可が名馬を持っているというのは聞いていた。どうせすることもないのだ。敵将の馬くらい見て冥途の土産にするのもいいではないか。

信廉は立ち上がり、元正について歩き出した。






―――後ろから、鯉口を切る音が聞こえた。

武田信虎(1494~1574)

甲斐源氏武田家十八代当主。十七代当主・武田信縄たけだのぶつなの長男。初名は信直。官位は従五位下左京大夫。

内乱が続いていた甲斐国を統一し、信濃への侵攻を繰り返したが、家臣を手討ちにするなど粗暴な性格だったため、長男の晴信(後の信玄)や家臣らに追放される。その後は駿河国や京で足利将軍に仕えていた。その間も武田家とは音信を取っており、隠居後の生活費をもらっていたおり、信玄以外の子とは仲が良かったという。信玄没後に武田領に戻るが、甲斐国に戻る事は出来なかった。

彼が所有していた名刀『宗三左文字』は娘が今川義元に嫁ぐ際に嫁入り道具として義元に渡り、義元はこの刀を大切にしていたようで桶狭間で戦死する際もこれを携えていた。刀は織田信長に渡り、信長の没後は豊臣秀吉に、秀吉の死後はその子秀頼、そして徳川家康に渡り、明治維新後に信長を祭って建てられた京都市北区の建勲神社に徳川家より寄進され、重要文化財として登録されて現在に至っている。


武田信廉(1528または1532~1582)

甲斐源氏武田家十八代当主武田信虎の子。官位は刑部少輔。出家後は逍遥軒を名乗る。兄の信繁戦死後は親族衆筆頭となり、戦時には本陣守護を担当した。

容姿は長兄の信玄そっくりで影武者を務めることもあり、信玄の死の直後には影武者として北条家の使者をだましたという。

画家としても知られ、両親の肖像画などを残している。

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