小さな嘘
それは小さな嘘だった。
本当に小さな、それこそ笑ってしまいそうなほどくだらない嘘だった。
だけど、僕はそれをつきとおさなくちゃいけない。
大切な人だから。
すごく大切な人。
僕が愛した人が一番大切にした人だから。
だから、僕も大切にする。
そうすることしか、僕にはできないから。
僕が愛した人の変わりにできることは。
「あんたなんか死んでしまえ」
目の前にいる女子生徒は、僕の顔を見ると同時にそういった。
短めに切りそろえた黒髪と切れ長の瞳をした少女。
その瞳には強烈な意思の力が宿り、その少女の存在感を引き立てている。
見る者全てを殺してしまいそうなほどだ。
「あんたなんか死んでしまえ」
少女は、さらに目を吊り上げると、再度そう言った。
その瞳からは憎悪以外何も感じ取れない。
「悪いけど、それはできない話だ」
その瞳のわけをもちろん、僕は知っている。
だけど、彼女の言う通りにはするわけにはいかない。
僕は、まだ死ぬわけにはいかないから。
「用はそれだけ?なら、さっさと帰ってくれないか。こちとら、受験勉強で忙しいんだ」
僕は、彼女から視線をはずすと、そう言って、取り合わないそぶりを見せる。
本当は、そんな事などしたくはないのに。
できることなら、彼女の抱える闇を背負ってやりたい。
だけど、僕にはそんな事、できはしないから。
未だ彼女は僕の背後にいる。
きっと、強烈な目で睨んでいるだろう。
憎悪が、殺意がひしひしと伝わってくる。
もし、ここに人がいなければ、きっと彼女は僕を殺そうとしていただろう。
二人きりになると彼女は、すぐに僕に襲い掛かり、そうするのだから。
ここ数年ずっと繰り返してきた事だ。
「あんたなんか、死んでしまえばいいのに。死んでしまえばいいのに…」
そして、彼女はまたつぶやく。
その言葉の真意ももちろん分かる。
彼女の想いは全て分かる。
僕を殺してさっさと楽になりたいのだろう。
僕が死ねばきっと彼女は楽になるだろう。
人を憎む事は簡単だ。
けれど、憎み続ける事は難しい。
心の中に闇を抱え続けるのだ、精神的にいいはずがない。
彼女は幾度となく、倒れた。
自分の抱える闇に耐え切れず。
その胸に抱く憎悪と復讐心に耐え切れず。
できることなら、僕は彼女の手にかかってやりたい。
僕自身できることなら、早く楽になりたいのだ。
自分の半身と言っても過言でない存在を失い、なおかつ憎まれ続ける。
そんな生活とさっさとさよならしたい。
けれど…
そうすれば、どうなるだろう?
僕が死んだ後の彼女はどうなるだろう?
答えは分かっている。
きっと、振り出しに戻るだけだ。
また、彼女は全てを失う。
生きる目的をも。
全てを失ってしまっている彼女にとって、僕と言う存在は最後の砦。
この世につなぎとめる最後の鎖。
だから、僕は殺されるわけにはいかない。
彼女を守る。
そう約束したから。
彼女の姉であり、僕の恋人、最愛の人と約束したから。
全ての事の始まりは、僕の恋人、彼女にとっては姉の死が原因だった。
僕の恋人、名前は沙耶と言うんだけど、彼女は交通事故で死んだ。
僕とのデートの途中だった。
彼女は、運悪く、ミュールの踵が折れてしまい、バランスを崩し、よろけてしまった。
慌てて、僕が、彼女の腕を掴み、支えようとしたその瞬間。
強烈な衝撃が体中に走った。
痛いと感じる暇もなかった。
何かに叩きつけられ、体は中に舞い、再度また何かに叩きつけられた。
周りは騒然としていて、怒号と悲鳴で満たされていた。
けれど、僕はそんなものよりも、彼女の事が気にかかった。
体中に痛みが走り始め、まともに動かすことは叶わない。
頭の中では、既に自分がどんな状況にいるのか分かっていた。
だからこそ、彼女の事が心配だった。
彼女はいったいどうなったのかと言うことが。
痛みのため、意識が白濁する中、僕は、自分の傍にある彼女の方に目を向ける。
視界は霞み、まともに見えないが、それでもそれが彼女だと分かった。
だけど、それと同時に認めたくなかった。
腕と足は通常ならありえない方向を向いていた。
確実に折れている。
けれど、僕の心に焼きついたのは、そんなものではなかった。
視線を上に上げた時の事だった。
本来ならあるはずの物がなかったのだ。
いつもいつも僕が見ていたもの。
決して見飽きる事のなかったもの。
そう彼女の頭が。
首から上が綺麗になくなっていた。
僕はその瞬間心の奥底で悲鳴を上げた。
声なんて出なかった。
出せる状態じゃなかった。
思わず視線をそむけ、ずっと下にもっていく。
けれど、それがもっといけなかった。
僕の視線の先。
僕の膝の上。
そこには、白目をむいた彼女の頭があったのだ。
運が悪かった。
僕が彼女の誕生日の時に渡したプレゼント、ネックレスが車体に引っかかってしまったのだ。
しかも、中途半端に安物ではなく、高価でしっかりとしたものだったため、やすやすとは壊れなかった。
結果、二方向の力により、彼女の首は飛び、僕の膝の上に落ちた。
後で聞いたら、そういう事だったらしい。
そして、僕はそんな白濁とした世界の中、膝の上にある物を、救急車が来るまで見続けていた。
たぶん、その瞬間に僕の心は崩れ去っていたと思う。
ぼろぼろと。
その後すぐに、病院に送られた僕は手術を受けた。
かなり難しい物だったらしい。
どこもかしこも傷だらけ。
両手両足の骨は折れて、内臓もかなりのダメージを受けていた。
結局、僕が目を覚ましたのは、手術を終えてから3日経った時の事だった。
その時の僕は、全てが色褪せていた。
全てに色はなく、ただモノクロの世界のようにしか見えなかった。
動こうという意思を持つだけで、体中は痛む。
何もすることもできず、ただ考えることしかできない。
けれど、その瞬間、脳裏にはあの時の光景が浮かぶ。
頭のない体。
白目を剥いた顔。
それら全てが今目の前で現実に存在するかのように、浮かんでくる。
できることなら、狂ってしまいたかった。
狂って狂って、もう何もかもを忘れて、何もかもをなかった事にしてしまいたかった。
だけど、それでも僕は狂えなかった。
この生き地獄を享受する事しかできなかった。
そんな日々の中、傷は少しずつ癒え、体の自由も取り戻していった。
折れた骨はまた、元通りになり、体中にあった痣や傷も消えていく。
そして、そんな時に、沙耶の妹。
彼女が来た。
その瞳は、色を失い、魂はもぬけの殻。
人形のようだった。
そして、それは同時に、自分自身を映し出すかが見ようでもあった。
理由は、もちろん知っている。
沙耶が死んだから。
唯一の家族であった沙耶が死んだから。
だから、彼女は、そんな状況にいるのだと、容易に予想できた。
彼女にとって、沙耶と言う存在はかけがえのないものだから。
だから、それを失って、モノクロの世界にいるのだと。
「君の姉、沙耶が死んだのは、俺が沙耶の手をはらったからなんだよ。」
その姿を見て、僕は、彼女にそう言っていた。
驚いたように、彼女は僕を見た。
先ほどとは違い、色の付いた瞳で。
「ちょうど別れ話をしていたんだけど、彼女がそれを嫌がって、しつこく食い下がるものだから、ついはらったんだよ。そしたら、このざま。やれやれだよ。」
そんな彼女の視線を全く気にせず、僕は続けた。
酷薄にして、全てを嘲笑うかのように。
「んで、君は、なんの用?あ、もしかして、その復讐とか?てことは、周りの人に聞いたんだ?あれだけ、派手に言いあいしてたわけだし、それを見てた人ぐらいいてもおかしくないし。」
そして、最後にそう付け加えた。
くだらない男。
道化を演じるために。
いすに座っていた彼女は、傍に置いてあった剥き出しの果物ナイフを手に取り、それを僕に向かって、振るう。
僕は、それをなんとか、石膏で固められた、ギプスで受け止め、取り上げると
「いきなりとはずいぶん手荒だね。」
くすりと笑う。
あたかも見下したかのように。
「でも、まぁ、君の気持ちも分からないでもない。いつでも、来な。俺の事が憎いなら、いつでも殺しに来な。」
そして、最後にそういった。
彼女の背後には、顔を真っ青にしている看護士がいて、彼女を羽交い絞めにしてたから。
そうその時から、僕と彼女のこんな関係が出来上がったのだ。
道化とそれを憎む復讐者の関係が。
僕は、窓の外を見た。
既に、彼女はいない。
彼女には彼女の生活がある。
沙耶がまだ生きていた頃の生活が。
そして、それを僕は守らなくてはいけない。
それが沙耶との約束だから。
沙耶は、以前よく言っていた。
妹の事が大好きだと。
そして、何があっても守ってやりたいと。
彼女は、沙耶と半分しか血がつながっていない。
彼女と沙耶は腹違いの姉妹。
妻との間にできた沙耶。
そして、愛人との間にできた彼女。
種は同じでも、生きた環境は違った。
普通に育てられた沙耶と、誰にも認められることなく育った彼女。
愛人の子という事で、蔑まされ、常に孤独の中で育った。
特に、母親が死んでからは、その孤独感は強くなった。
そんな中で、唯一手を差し伸べたのが、沙耶だった。人の心の機微に敏感だった沙耶は、彼女のそれに気がつき、手を差し伸べた。
彼女がそれを拒絶しても、何度も何度も。
そして、長い時間をかけて信頼関係を築き、沙耶は彼女の中で特別になった。
唯一の他人ではない他人。
自分の全てをさらけ出せる唯一の人となった。
そして、そんな彼女を沙耶はとても愛して、大切にしていた。
だからこそ、僕も彼女の事を大切にしたいと思った。
沙耶が大切なものなら、僕にとっても大切なもの。
沙耶は僕にとって半身のようなもの。
僕と言う存在は沙耶があって初めて成り立つ。
だから、そうせずにはいられなかった。
ただ、彼女の方は、僕に嫉妬し、常に攻撃を仕掛けてきていたが。
そして、だからこそ、嘘をついた。
あの時の色のない瞳。
破滅へと向かう瞳。
それを見た瞬間、僕の中ではそうするしかないと思った。
あのままにしていては、彼女は死んでしまう。
彼女もまた僕と同じで、沙耶がいなくなれば、全てが終わる人間だと分かっていたから。
沙耶は彼女にとって半身だから。
だから、もう沙耶なしではいきていられない。
沙耶といる事こそが彼女の生きる目的だから。
だから、目的がなくなってしまった彼女はきっと死んでしまうと思った。
そのための嘘だった。
彼女の生きる目的のための嘘だった。
彼女にとっての半身、沙耶の仇を取るため。
復讐をするため。
そして、それは上手く行き、彼女は今なお生きている。
正しいあり方とは言えないが、生きている。
生きていれば、きっと彼女は、幸せになる。
沙耶がそれを望んでいたのだから、幸せ以外になりえない。
そのためなら、僕も手段を選ばない。
たとえ、憎まれ、蔑まされたとしても、僕は沙耶のため、自分のためにも、彼女を幸せにする。
それが、沙耶を守れなかった。
沙耶を死なせてしまった僕の償いだ。
そして、それが無事終えるまで、僕は死ねない。
たとえどんなに彼女が僕を憎み、殺そうとしても。
かばんを手に取り、図書室を後にする。
すでに日は落ち、夜の帳を向かえている。
廊下には、人の気配はない。
静寂が世界を満たしていた。
そんなときは、いつも思い出す。
沙耶との思い出を。
そして、あの事故を。
未だに脳裏にこびりつき、忘れられない。
あのおぞましい光景を。
どんなに沙耶を愛していたとしても、僕はあの光景を心にとめて起きたいとは思えない。
できることなら、忘却の彼方へ捨ててしまいたい。
たとえ、それを不義だと言われようとも。
立ち止まり、窓に手を寄せ、窓の外を眺める。
そこからは、家々の灯りが見える。
ぼんやりと浮かぶように光る灯りが。
ふと、そんな事を考えているとき、周りの空気が変わった。
人の気配を感じた。
けれど、動くことは叶わなかった。
「あ、あんたが悪いんだから。あんたが、お姉ちゃんを殺すから…」
動くだけの力が体に入らなかった。
鋭い痛みが体中を駆け巡り、その意識は一点に集中する。
「あんたが、お姉ちゃんを殺しさえしなければ……」
彼女は、声を振るわせながら、そう続ける。
けれど、それは途中から音にはならず、消えていく。
彼女は、きっと自分のした事におびえているのだろう。
憎悪と復讐に彩られた心でここまできたが、いざ実行して怯んでしまったのだろう。
「どうやら、俺の負けのようだな」
僕は、そうつぶやくと、その場に崩れる。
もはや、立っていられない。
残念ながら、僕の試みは失敗に終わってしまった。
彼女を幸せにすることなく、僕は死ぬ。
沙耶との約束は守れなかった。
やはり、僕はいつまでも、中途半端なまま。
結局何も成し遂げる事はできない人間なんだ。
そして、僕はそのまま意識を失った。
それはまだ、少年が小さな頃の話だった。
幼稚園にあがったばかりの少年は、目の前で母親を殺された。
通り魔だった。
頚動脈をばっさり切られ即死だった。
少年も母親と同様に切りつけられたが、一命を取りとめた。
たまたま斬りつけられたところがよかったから。
けれど、それは少年にとっては、むしろ生きる事の方が地獄だった。
自分の目の前で人が死ぬ。
しかも、自分の大切な母親が。
そんなもの子供であった少年に耐えられるはずがなかった。
けれど、それでも、少年は耐えた。
日々、死への恐怖におびえ、壊れそうだった。
それでも、少年は父親からの愛を受け、生き、成長していった。
けれど、少年はまた絶望のふちへといざなわれた。
父親の病死だった。
死因は過労死。
家庭と仕事の両立が原因だった。
そして、少年はその瞬間完全に孤独になった。
親戚は、遺産だけを食い潰し、少年はたらい回しにした。
誰も、少年を受け入れなかった。
少年は絶望し、自殺を図った。
けれど、決して死ねなかった。
それが、両親への裏切りであると分かっていたから。
少年は、孤独の中、一人生きた。
両親のために、一生懸命に勉強をした。
自分たちの死のせいで、息子が満足な勉強ができなかったと思わせないために。
そのために、必死になって勉強をし、特待生として、高校に入学し、アルバイト等で細々と一人生きた。
そんな中で、彼は、一人の少女とであった。
笑顔の可愛らしい少女だった。
そんな少女に、少年は心惹かれ、そして恋をした。
そして、その思いは実り、少年と少女は交際を開始した。
とはいえ、アルバイトで忙しい彼は、さほど時間はなく、ほとんどデートなどはできなかった。
学校内でしか会えなかった。
そんな中、初めて、少年に時間ができ、少女と連れ添って、デートに出かけた。
初めてだらけの事。
少年は緊張しつつも、少女と二人仲良く歩いていた。
けれど、ここでも悲劇。
少年は、少女をそこで失う事になった。
少女は事故にあい、死んでしまった。
少年には、幸せなど来なかった。
それはあたかも虚ろな夢の世界のようだった。
掴もうとしても決して掴む事のできない幻影のようだった。
少年は再度絶望した。
そして、少年はやがて、自分の恋人であった少女の妹に殺された。
少年自身が彼女をたきつけた結果だった。
少女の妹は少年を憎悪し、復讐として彼を殺した。
少年は決して、幸せにはなれなかった。
少年は、何一つとして掴む事はできなかった。
愛も希望も夢も、全て奪いつくされ、絶望だけを手にしていた。
だからこそ、誰かが味方した。
それが誰なのかは、分からない。
その存在が何なのかは、分からない。
けれど、その全く分からない存在は、少年に手を差し伸べた。
目を覚ますと、見知らぬ部屋だった。
なんとなく居心地が悪く、起き上がろうと思ったが
「つっ!」
背中に激痛が走り、それは叶わなかった。
けれど、その代わりに、別の疑問が浮かび上がった。
なぜ自分が生きているのかと言うことだ。
確実に、あの時、自分は死んだと思った。
この背中に走る激痛が何よりの証拠だ。
だというのに、なぜ僕は生きているのだろうか。
分からない。
誰かが助けたとでも言うのだろうか?
だけど、あの場にいたのは彼女だけ。
そして、それ以外にあの辺りに人はいなかった。
つまり、誰も助けてくれるような人はいないはずだ。
ならば、もしかすると、彼女だと言うのか?
それが思い浮かぶと同時に、僕は内心で苦笑した。
それはまずありえないからだ。
僕を殺すことを怯む事があったとしても、助ける事はありえない。
僕を憎む彼女が僕を助けるわけがないのだ。
ならば、いったい誰が…
それについて考え込もうとしたら、不意に物音が聞こえた。
おそらく、扉の開く音だと思う。
誰かが入ってきたのだろう。
そして、その誰かなら、今、この僕が置かれている状況を教えてくれるだろう。
「これはいったいどうなっているんですか?」
僕は、近づいてくる足音の主にそう尋ねた。
「死にかけている人間がいた。それを見過ごせておけないから、助けた。それだけの事だよ」
その足音の主は、僕の問いに対して大して逡巡することなく、答える。
その声はとても、穏やかで、暖かなものだった。
「それにしても、君はどうして、あんなところで、あんな怪我をしていたんだい?」
その声が一瞬低くなる。
どこか探りを入れるような、そんな声だ。
「もちろん、答えてくれるね。なにせ、私は命の恩人だ。それを知る権利ぐらいもっているはずだよ」
そして、それと同時に決して有無を言わせない、圧倒的な迫力を持っていた。
僕が今まで見たことないようなタイプの人間。
決して威圧的ではないのに、圧倒的な存在感を持つ人間。
ある種神がかり的な存在。
きっとそんな存在にそういわれては、断る事はできないだろう。
ましてや、もとから断る気のない人間にして見れば。
僕は、全部その人に話した。
沙耶の死と彼女の生きる目的、そして、その結末を。
僕は誰かにこの話を聞いて欲しかった。
一人で抱えるには、きつすぎた。
だけど、事が事なだけにそう簡単には言えなかった。
だからこそ、その人が言った命令は、僕にとっては願ってもない事だった。
僕が言わなくてはならない状況を作った。
そして、僕は何が何でも言わなくてはならない。
自分の意思に反して。
まさしく免罪符だった。
僕の逃げ道を作ってくれた。
もしかすると、その人はそこまで考えていたのかもしれない。
ならば、完全に脱帽だ。
全てを話し終えると、その人は穏やかな笑みを浮かべていた。
何がそんなに幸せなのかが分からない。
「君は、そこまでして私の娘を愛してくれたんだね」
けれど、そんな僕に答えるかのように、その人は答えた。
それは少なからず僕に衝撃を与えた。
「娘?」
うわごとのように、僕はそのまま口にした。
「あぁ、そうだ。私の大切な沙耶。そして・・・美弥。この二人の事をそんなにも愛してくれてたんだね」
それに対して、さらに答えるように、その人はそう呟く。
まるで僕にそっと言い聞かせるように。
「美弥?お前にも分かるだろう?この人が、お前の事をどんなに思っているのか。どんなに大切に思っているのか。お前になら分かるだろう?」
「え!?」
未だ、その言葉の衝撃に呆然としていたら、さらに衝撃的な事を言い出した。
僕は、慌てて、視線を扉に変える。
部屋の中にいるのはその人だけだから。
そして、そこには、しっかりと彼女はいた。
どこか呆然としている佇まい彼女が。
「さて、私はこれで失礼させてもらうよ。」
そんな僕らを残すように、その人―沙耶の父親―は、彼女の脇をぬけて、さっと出て行く。
完全に二人きりになった。
道化と復讐者の。
「やっぱりそうだったんだ」
しばらくの沈黙の後、彼女はそう呟いた。
おそらく独り言だったのだろう。
「やっぱり一哉のせいじゃなかったんだ」
呼び名が変わっている時点でそれが分かる。
それよりも、やはり彼女は気づいていた。
けれど、考えて見れば当然だ。
あんな三文芝居すぐにばれてしまう。
ばれないほうがおかしいのだ。
そして、それでもなお僕を憎み、殺そうとしたのは…
生にしがみつくためだろう。
「ねぇ、私はこれからどうすればいいの?」
そして、今事実を知ってしまった以上、彼女にはもう何もない。
何も残っていない。
彼女はそろそろと僕の傍まで寄ってくる。
「もう何もない。今までの私は、貴方を憎み、怨み、殺すことだけを考えて生きてきた。心の中では、理性の上では、本当の事を知っていても、生きるためにはそうするしかできなかった。だけど、こうして聞いてしまった以上、もう戻れない。今の私にはなにもない。ねぇ、どうすればいいの?」
彼女は、捨てられた子犬のように、僕にしがみつくとそう尋ねてくる。
今にも崩れだしそうで、今にも壊れそうな声で。
「ねぇ、教えて?私はどうすればいいの?何をすればいいの?」
彼女は、それを繰り返す。
支えを失った彼女には、もう考える余力はない。
何もかもを失い、ただ赤子のように尋ねることしかできない。
「なら、俺の傍にいて。そうすれば、後は全て俺が全てを背負うから。美弥が考え込まなくてすむように。俺が、沙耶のかわりになるよ。俺が沙耶の代わりに、美弥の事を愛して、支えて、守るよ」
そんな彼女を痛みに耐えつつ抱きしめる。
沙耶が以前していたように。
「一人でいるのが寂しいんだよね?辛いんだよね?なら、俺が一緒にいるよ。沙耶が与えてきた物を全て、俺が与える。だから、安心して」
そして、そっと言い聞かせる。
いつくしむように。
「ありがとう」
そして、それに答えるかのように、彼女は小さくそう言った。
今まで一度として使ったことのない言葉で。
昔書いた奴なんですけど……
うーん、やっぱり出来は良くないなぁ……