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第6話 私の行う主観証明 & 私の行う主観証明

6.






 爺さんが目覚めたのはそれから暫く経ってからのことだった。みどりさんが花瓶の中の水を入れ替えている間、私と常盤さんは若干手持無沙汰で、パイプ椅子に座って爺さんの様子を見ていた。特に何をするでもなく、爺さんが良く眠られるように二人静かに外を眺めていた。


 ごろごろと小さく雷が鳴っていた。季節外れの雷。この地方では当たり前のように冬になると雷が起こり―――そして雪が降る。


 冬の到来だった。


 曇天模様から欠片が零れて落ちてきたような、そんな風に感じる白い白い雪が地上へと舞い降りて来る。はらはらと、はらはらと。魅かれるように常盤さんと一緒に窓へと近寄り、空を見上げる。爺さんが目を覚ましたのはその時だった。


「やぁ、爺さん。爺さんの目覚めを祝福して雪が降り始めたよ」


「それは、通院が面倒だな」


「どうせ車でしょ」


「違いない」


 起き抜けの言葉がそれだった。みどりさんが電話で聞いたように意識はしっかりしていた。ベッドの上で体を起そうとする爺さんを、見かねた常盤さんが手伝おうとしたが、結局、爺さんに止められ、爺さんは自らの力で起き上がった。


「ところで、爺さんの息子さんはこんな時にも来ないのかい?私が言うのも何だけれど、ちょっと薄情なんじゃない?もしかして他県にいるとか?」


「誕生日の時にでも伝えようと思ったのだがなぁ。こうなっては誕生日を迎えられるかもわからんしな……」


「気弱だねぇ」


 そんな不躾な言葉に爺さんがからりと笑った。次いで、どこか遠くを、雪降る空を見つめながら、口を開いた。


「息子は……息子はな。露西亜で亡くなったんだよ。黙っていて悪いな、少年」


「ロシア……あぁ、露西亜ね。戦争で、か。なるほど」


 戦争という言葉を聞いて、小学校時代の教科書に載っていた小説を思い出した。戦争の悲惨さを伝えるためのプロパガンダのような内容ではあったけれど、そこに記された看護師さんが……いや、今の時代を思えば看護婦か。看護婦が氷嚢に入れるために春先に雹を庭先で拾うという話だった。


 懐かしい、と思いながら、外の景色に目を向ける。見渡す限りが新しく、そして古い。もう慣れたとはいえ、やはり古いと、そう感じてしまう。


 そう。


 今は、大正時代が終わり、昭和が始まって十数年経った頃だった。


 学生に違和を感じたのもそう。みどりさんが大正浪漫なメイド服を着ているのもそう。電話を掛けるのに家の電話を使ったのもそう。常盤さんに―――先輩の祖父母かその姉妹に当たる人なのだろう。―――同じ作者の代表作『星の王子様』の話をしても通じなかったのもそう。そして、先輩の家に行った所でこの世界の『先輩』がいるはずもない。だから先輩の生家に行く事も無意味であった。


 加えて。


 図書館で借りた書籍に刻まれた歴史は私の知る限りにおいて変動は無かった。このまま生きて行けば遥か未来で先輩が産まれる事だろう。けれど、そこで産まれる先輩は私の知る先輩ではない。そんな先輩―――私はいらない。私が会いたいのは、私が愛した先輩なのだから。姿形が同じだからといって好きになるわけがない。常盤さんが姿形の私を別人だと理解していったように、私は先輩を違う人間だと判断する事だろう。だから、いらない。そして、あの父を生かしておく気もまた、ない。殺す事は犯罪だ。けれど、産ませない事は犯罪じゃない。


 考えれば考えるほどに先輩の欠片も感じられないこの世界。次第、次第と後ろ暗い想いが私を埋め尽くす。


「なぁに。本人は御国の為にと言っていたのだ。本望だったろう。あいつに後悔があるとすれば、気懸りがあるとすれば、みどり君のことだろうな」


「あぁ、もしかして……みどりさんの指輪の送り主は息子さんですか」


「そうだ。息子が死んだからといって一度家族になった者を放り出す気はないのでね」


「挙句こんな正体不明の人間まで拾ってくるなんて、爺さんはちょっとさびしがり屋が過ぎるんじゃないかい?」


「違いない。それでも、死に際にこうして看取ってくれる者がいるというのは嬉しいものだよ、少年」


「いい加減名前で呼んだらどうなんだい、爺さん」


「少年こそな」


「違いない」


里見泉さとみいずみだったかな」


 それが、この肉体の名前だった。


「そうだよ。茅原泉ちはらせん。もしかしてあれかい?名前が同じ漢字だから拾ったのかい?」


 そしてそれが、爺さんの名前だった。珍しい読み方の名前だと思う。


「流石にそんな理由で養子を取ろうとは思わんよ、泉。息子に少し似ていると言っただろう?」


 私の基準ではその理由もどうなのだろうかと思うが……。まぁ、良い。そういう事ならば、そういう理由で爺さんが私を養子にしようとしているのならば、我が身の分身を、遺伝子を後の世に残したいと願うのならば……がんばってあげるとしよう。


「しかし、爺さん。私が悪魔だと知らずに良くもまぁ、拾ったもんだね」


「マクスウェルかね?それともファウストかね?」


「良く知っているねぇ。博学、博学。ま、どっちでも良いよ。古今東西、悪魔は願いを叶える存在であると描かれているんだよ、爺さん。悪魔に魂を売ると願いが叶うんだけれど、どうだい?」


「病床の老人に謎かけをするとは本気で悪魔だなぁ、少年」


 からからとベッドの上で爺さんが笑った。


 過去に戻れる魔法があるならば何がしたいか?そう問いかけた爺さんは、息子さんを助けたかったのだろうと、そう思う。自分が死んでみどりさんを一人にしてしまう事を避けようとしたのだと、そう思う。だったら、違う形ではあるけれど……


「爺さんの血が後に受け継がれるようにしてあげるよ」


「……老いぼれの種に何を期待しておる」


「爺さん、女子高生がいる前で種とかそんな風に言わない」


 加えて、妖精である私の前で何を言っているのだ、この爺。


「世界を跨いだ悪魔を助けた報いを受けるが良いよ。爺さんの血は後に繋がれるようにしてやるよ。爺さんの親族をさ。助けてくれたお礼に……ね。そしたら、未来もちょっとは明るいだろう?」


 遺伝子操作と人工授精。この時代ではまさに悪魔の所業だろう。けれど、それを成すための知識は私の中に存在する。機材がないこの時代では流石に行えないし、十年、二十年の月日は掛るかもしれない。けれど、それを成そう。


 獣の血を受けついできた私なんかを助けたこの心優しい爺さんの遺伝子が未来に続くように。


 どうせ先輩の欠片も感じられないこの世界だ。すぐに先輩が見つかる事なんてないのだから、それまでは私を救ってくれた爺さんに恩を返すために生きるのも良いだろう。


「泉……お主、何を言っている」


「里見……くん?」


 目を見張る常盤さん。


「私は神を見捨てた悪魔だよ。世界の因果を強引に捻じ曲げた魔術師だよ。魅入られたのが運の尽だよ、爺さん。ま、折角なんで色々遊びはするけれど、私の血は後には繋がない。絶対に、あの男の血は後生こうせいには残さない。それがあの男の娘だった私の復讐。物理的な意味なんてないけどさ、先輩だって、そう言うはずさ。あのとってもストイックで、でも、百合が大好きなあの変な先輩だったらさ。私の愛した兄貴だったらさ」


 そして、それから三十数年の月日が流れ、1960年代半ば、茅原家に一人の男の子が産まれた。


 両親を持たぬ、しかし、茅原家の直系の血を継いだ少年が。みどりさんは我が子のようにその子を可愛がった。常盤さんもまた彼を慈しんだ。そんな常盤さん―――藤江はいつしか私の良き理解者となった。世間的には常盤藤江が私の嫁だと思われていた事だろう。現実としては愛人のようなものだった。そして、未来を知る私は、先読みの魔術師などという風に呼ばれるようになった。何とも厨二臭くて好きじゃないが、他人が呼ぶなら別に態々否定するまでもない。


 爺さんはその後、一つ歳を重ねてから暫くで亡くなった。そして、その直後に始まった太平洋戦争は歴史通り1945年に終わった。財閥解体から逃れるために終戦後に起業し、いつしか茅原家は世界有数の企業へと発展した。それでも歴史には極力関らず、覚えている限りにおいて殆ど同じ歴史を歩んだ。歩ませた。私が手を加えたのは茅原家と、そして精々が高校を女子高にするという悪戯ぐらいだった。私もなんだかんだとメイド好きで百合好きなのである。たまに見に行ってはニヤニヤしているのは私だけの秘密だった。


 世間的には息子である茅原西都せいと―――この名前はみどりさんにも藤江にも変じゃない?などと言われた―――が嫁を連れてきたのは1990年代後半。世紀末に差しかかった頃だった。そしてその後、海外からもう一人嫁を連れてきたのは辟易したものだった。もっとも、藤江に始まり愛人を大量に囲っていた爺に四の五の言われたくはないなどと言われたが……メイドハーレムは浪漫だろう?先輩にタイムマシーンがあったら何がしたいと問われてそう返したのだから、その時の約束を果たすのは当然だろう。……まぁ、言い訳だけれども。


 先の嫁さんの子……今の名字は、鞍月。鞍月いなほちゃんには悪い事をしたと思っている。その所為で今でもついつい誕生日の御誘いなどをしているわけだが、一向に来てくれる様子はない。節目の時に無理に会いに行った事もあるがあまり良い風には思われていないだろう。が、今年はなぜか参加するとの事を聞いた。新しい姉と一緒に行かせて貰うと言う連絡が来ていた。彼女が茅原の家に踏み入れるのは、それこそ出て行かされた時以来のように思う。あの時泣き叫んでいた少女が、もう一度私に会ってくれると思ったのはその新しい姉の御蔭だろうか。それならばその子への感謝は尽きない。私には止める事が出来なかったのだから……。


 もう一人の子である茅原みずきちゃんは健やかに育っていたと思う。先日父親を足蹴にしたと聞いて、みどりさんの血も混ざっている事を確信した。みどりさんは以外とサディスティックなのである。特にいなほちゃんやみずきちゃんには厳しくしていたと聞いている。もっとも、それは照れ隠しというか、ネコ可愛がりなのは私と藤江だけの秘密である。彼女らの血にはみどりさんの血と、みどりさんの愛していた旦那の血が少なからず流れているのだから当然とも言えた。


 そして、その誕生日が近付いて来た今日、倒れた。


 医者が言うには体を酷使し過ぎた所為だとのことである。同じ年齢の者達に比べて見目は若いが、内臓はボロボロだとの事だった。


 なるほど、今生はこれで終わりか。


 医者の言葉を聞いて最初に思ったのはそれだった。


 ベッド上で呆然と昔を思い出す。以前の世界にいた時の事は今も色褪せていない。よぼよぼの爺になったとはいえ、未だ先輩のことは……兄の事は愛している。


 こんな爺に好かれても兄は嬉しくないだろうけれど……。


 この年になって思った事がある。ちなみに、世間では魔術師と言われているが別に魔法使いにはなっていない。藤江の所為である。襲われた。酷い初体験もあったものである。御蔭でタガが外れたと言って良い。さておき。


 そんな経験をしていても、である。


 私は女だった。


 肉体に思考や嗜好が引き摺られる事はなかった。


 だからこそ、今も兄を愛している。


「……次こそは」


 先輩に会いたい。兄に会いたい。


 そんな風に人生を振り返りながら、先輩おとこへの想いを募らせるおんながいた。


 私だった。


 傍から見ても、自分で見ても、何とも……奇妙なものだ。あの頃と同じ若い感情が残っているのが不思議で仕方がない。この世界は、常若の楽園ティル・ナ・ノーグだとでもいうのだろうか。そんなわけがない。私にとっての本当の幸せなんて、一つしかないのだから。それが叶わない世界なんて、決して楽園なんかじゃない。この世界で歩んだ道が悪かったとは思わないけれど……


 そんな事を考えながらベッドで横に成っていれば、スーツ姿の西都が病室を訪れた。久しぶりに会った息子も老けてきたな、という変な寂しさを覚えながら暫し歓談をする。そして、それから三十分もしない頃だろうか。


 がらり、と病室の白い扉が開いた。


 そこから現れたのはいなほちゃんと、みずきちゃん。


 そして黒髪ロングのとても白くて綺麗なお姫様のような美少女。


 そして……ペンギンっぽく唇を尖らせた少女だった。


 一体、誰だろうか?






―――






「おお、みずきちゃん。それにいなほちゃんまで来てくれるとはなぁ。長生きはするものだ。おい、西都。お前がいてはいなほちゃんが帰ってしまうだろ。さっさと出ていけ」


「……言うと思ったよ、爺さん。では、次の機会を楽しみに」


 これが親子の会話なのだろうか。そんな事を思いながらいなほを見れば案の定、実の父である茅原西都を睨んでいた。


 そうやって怨む相手が、憎む相手がいる事は幸せだろうか。


 そんなわけがない。


 それでもいなほの中から実の父への恨みは消えないだろう。けれど、そんな思いを抱きながらもその手はしっかりとみずきちゃんの手を握ってあげていた。妹の手前、その思いの丈を外に出す事はなかった。そんないなほを、改めて私は強いと思った。


 そんな二人の様子を見た茅原西都がくすり、と笑みを零したのが見えた。睨まれたとしても、捨てたとしても娘には変わりないと言う事だろうか……。彼が何故いなほを、私達の現母親を捨てたのかは定かではないけれど、今の一瞬見えた視線からは何か理由があるように思えた。もっともそれは妄想で、勘違い甚だしい事なのかもしれないわけで……彼の考えなど、私に分かるはずもなかった。その当人は私の視線に気付く事もなく、白い扉を開け、颯爽と部屋の外へと。かつ、かつと皮靴を鳴らしながらこの場から離れて行く。


 そして、そんな父の姿を振り返る事なく、いなほはずっと前を向いていた。


「二人が一緒に来てくれるとはな。倒れたのも悪くない……それに、御友達も美人さん達だしの」


 茅原泉のしゃがれた低い声が病室に響く。


 豪奢な病室だった。VIPルームというものだろうか。初めて入ったが、調度品からベッドまでどれをとっても高級な品である事が良く分かる。そんな中、不釣り合いなほど安っぽいハンチング帽が枕元に置いてあった。想い出の品か何かなのだろうか。考えた所で分かりそうになかった。ともあれ、その茅原泉がこの場に似合っているか?というとそうは思えなかった。


 同年代に比べて若々しい様相、温和な表情はそれこそいなほが言っていたような好々爺だと想像させる。そんな彼に、この場は似合わないように思えた。そんな風に自分が思った事自体が、良く理解できないが、まぁ、病室が似合うと言われて喜ぶ人がいるわけでもなし。


「今のお姉ちゃんと、その御友達だよ。茅原の爺さん」


「孫にそう言われると堪えるの。ま、我が身から出た錆びだな」


 いなほの言葉に怒る事もなく、かかっと笑う茅原泉。そんな姿からはいなほの言葉に全くといって良い程、堪えていないように見えた。そして、そんな態度が気にくわなかったのだろう。いなほがぷいっと彼から視線を逸らした。


 そんないなほの代わりとばかりにみずきちゃんが茅原泉の横にしゃがみ、声を掛ける。


「御爺様、体調の方は大丈夫なのですか?」


「駄目じゃな!次の誕生日は迎えられんじゃろ」


 言って、再び笑った。


 絶句した。


 虚勢など一切感じられない。全く、死の恐怖など感じていないように見えた。例え明日我が身が失われる事が分かっていたとしてもそれでも笑っていそうな、そんな風にさえ。強がりだとは思えない。逃れる事の出来ない現実を受け止め、それでも笑っていられる。


 あぁ、これが茅原泉か。


「そんな顔をする必要はないぞ?なぁに。この年まで好き勝手やってきたのだ。大往生だ。ま、心残りはないでもないがね。……それはそうと、早くお嬢さん方を私に紹介してくれないかね?そっちの方が気懸りじゃ。稀に見るすこぶるつきの美人さんと目つきの鋭いお姉さんをな」


 頬を緩ませ、目を細める。それと一緒に動く皺だけが、その人の年齢を感じさせた。


 こんな人物が、こんな好々爺とした人物が魔術師などと呼ばれるとは決して思えなかった。こんな柔らかな顔を見せる人が、世界的に有名な人だとは思えなかった。相手が孫娘であるからこそ見せる顔なのかもしれないけれど……


「無理に目つきが鋭いとか持ち上げなくて良いよ。こっちの南極ペンギンっぽいのがお姉ちゃん。名前は鞍月蓮華とかいう可哀そうな名前。で、そっちの黒ロングホットパンツニーソの超美人さんが月浦湖陽さん」


 などと考えていれば、妹がブラックに姉を虐げていた。こんな場所であっても酷い妹だった。


「それと……この子が私の妹。たった一人の大事な妹」


 次いで、いなほがそう宣言した。


 そう。それは宣言だった。


 少し照れたように頬を染め、それでもしっかりとみずきちゃんの事を自分の妹であると認めていた。それが嬉しかったのかみずきちゃんが顔を伏せた。頬が緩み、なんとも柔らかい笑みをこっそりと浮かべているのが見えた。


 死に掛けの老人がいる場でこんなのんびりしていて良いのかとは思うけれど、死にゆく人から憂いを取り除くというのは良い事なのだろう。この御仁はいなほの事を気に掛けてはいたようだから……


「そうか。それは……良かった」


 本当に嬉しそうに茅原泉が小さく笑みを浮かべた。


 そして、次の瞬間、表情が変わった。


 この空間を埋める空気が入れ換わったようにさえ感じた。息苦しい、そう感じるほどに。


 睨まれた、と思った。


 それほど強い視線だった。あぁ、なるほど。これならば確かに魔術師と呼ばれてもおかしくはない。そして、これこそが世間の知る茅原泉なのだ。一代で茅原家を世界企業にまで持って行った者の本当の姿なのだ。


 そんな人物が、塵芥のような、世界に波風を立たせる事もなく、遺伝子を未来に紡ぐこともなく終わり逝く私と湖陽を見つめている。


「さて。いなほちゃんやみずきちゃんに聞いておろう?恒例じゃて。これが最後の問いかけになるやもしれんが。いや、だからこそ。最後の問い掛けがいなほちゃんとみずきちゃんの大事な者というのが特に良い」


 何を、と問いかける必要もなかった。


「『時を遡る事ができる魔法があったら何をしたい』」


「私は未来があれば,それで良い。私はそんな物いりません。この人と出会った今を、そして未来を否定なんてしたくありませんから」


 即座にそう返したのは今まで一言も口を開いていなかった湖陽だった。


 私の手を取り、茅原泉に見せつけるように指を絡め、力強く、私を離さないと言わんばかりに握り締める。手の平を通して伝わる湖陽の暖かさ。伝わって来るのはそれだけではない。優しさもまた伝わって来る。普段はふたなり厨だけれど、こういう時はほんと強いと思う。


 彼女は私の前に立ってくれたのだ。私がその問いに心痛めるかもしれないだなんて、そんな風に思って。


 けれど、


「なるほどなるほど。心温まる良いものを見せてもらったの。うむ。華を愛でるのは好きでな。では、鞍月蓮華君はどうかの?」


 私は男なのだ。


 矢面に自分の彼女を立たせるなんて、出来るはずもない。


 大丈夫だ、と手を握り返し、そして離して一歩前に出る。


「『産まれる前に戻って父を殺したい』」


 静寂が産まれた。


 みずきちゃんが私の言葉にびくり、と顔を持ち上げ、不安そうな表情を浮かべる。いなほもまた一瞬、ぎょっとした怪訝な表情を浮かべたものの、察したのか何も言わず次の言葉を待ってくれていた。そして、それは茅原泉その人もまた。


「以前なら、そう言っていたと思います。けれど、今は……いりません。皆と出会った今を否定する気はもうありません。ここは……私にとっての楽園ティル・ナ・ノーグだと、そう思えるから。それを否定するような事はもう、言いません」


 いなほと出会った。みずきちゃんと出会った。湖陽と出会った。他にも多くの人達と出会った。そんな世界を否定することはもう私にはできない。


 それに、母が生きて幸せそうにしていた。


 そんな世界で、今更過去に戻りたいなんて思わない。思えるわけがない。これを現実だと受け止め、これが私の生きる世界だとそう思って。そうやって生きていたい。だから、タイムマシーンなんて、そんな魔法なんていらない。あったとしても、絶対に使わない。


「ふむ?自己の否定を否定したか。それは面白い回答だのぅ。結構、結構。中々、良い」


 そう言って、また笑った。面白い物を聞かせて貰ったと、そう言わんばかりに。そんなに面白い事を言ったつもりはないのだけれど、何が彼の琴線に触れたかは分からないが、茅原泉はしばらくの間、くくっと笑い続けていた。


 そうやってしばらく笑い続けた後、ふいに、またしても強い視線を私に向けて、


「それで、何か聞きたい事があるのだろう?この老体が生きている内に聞きたい事は全て聞くが良い」


 そう言った。


 そんな態度を表に出したつもりはなかった。けれど、悟られた。その事が少しばかり怖いと感じた。


「どうしてそう思いました?」


「目は口ほどにという奴だな。ま、経験というものだよ、蓮華嬢。なに、他の皆がいると聞き辛いというのならば、下がらせるが?」


「そうですね、その方が良いですね」


 そんな私の言葉に湖陽が再び手を握り、目を合わせる。じっと見つめてくる彼女はやっぱりとても綺麗で、透き通るような白い肌が眩しいと思った。そんな彼女に大丈夫だと頷けば、『また後で』そう言って部屋を去って行った。振り返る事もなく、再三確かめる事もなく。それがまた、格好良いと思う。そして、そんな湖陽を追う様にいなほが動き、いなほの動きにみずきちゃんが従って外へと。


 見舞いに来ている親族が全員外へと。そして他人である私だけが残っているこの状況がなんともおかしかった。


 自然、苦笑した。


「さて、何が聞きたい?金の稼ぎ方か?男の落とし方かね?……そんなつまらない話ではないのだろう?」


「では、単刀直入に」


「ふむ?」


「貴方、この世界の人間ではないでしょう?」


 自分の口から出た言葉の現実味のなさ。馬鹿馬鹿しいとも言えた。けれど、それしか思い付かなかった。茅原泉の誕生日までに何を聞くかを考えておこうと思い、考えてはいたものの結局そんな問いしか思い浮かばなかった。短慮というか、浅薄というか。とても馬鹿馬鹿しく、しかし的を射た質問ではあると思っていた。


 呆然とされるか、笑われるか、怒られるか、あるいは認めるか。そんな四択であろうと思っていた。そして、予想通り茅原泉は反応した。


 すなわち、笑った。


 だが、その後は予想外だった。


「はっはっは……何を言い出すかと思えば。魔術師と呼ばれた事はあるが異世界人であると言われた事はなかったな。ちなみに?その結論に至った理由を聞いても良いかね?」


 幾分楽しそうに唇を歪めながら、しかしその視線だけは相変わらず力強かった。


「戯言と切り捨てずにいてくれて感謝します」


「なぁに、死ぬ前の余興にはちょうどよかろう。では、蓮華嬢、証明を」


 その言い方が、まるで恩師のようで、ついつい笑みが零れた。


「全て主観なので証明足り得ませんがね。単に私が狂人であると、そう取って貰っても結構ですが……私の世界に貴方はいなかった」


「君の世界、か。世界の定義にもよるがね。君と言う人間の把握する範囲を世界というのならば、確かに私はいなかっただろう。だが、そういう事ではないと考えて良いわけだね?」


 顎に手を宛て、興味深そうな視線を向けて来る。先程の睨む様な強い視線ではない。純粋に興味、たとえば私が数学の本を読んでいる時のような……そんな『何か』に対する興味が見て取れた。


「YESです」


「結構。では、続きを」


「少なくとも私の世界に貴方はいなかった。茅原家という名前自体、誰もが知っているようなものではなかった」


 例えば、湖陽のようなふたなり百合厨のネットジャンキーであっても知っているような名前だ。いや、ネットジャンキーだからこそ知っていたのかもしれないが……いや、今は湖陽の事はさておこう。


「バタフライエフェクトと片付けるには茅原家の生業は広すぎます。世界に影響を与えていないわけがない。特許などを見てみればその膨大な数に驚かされます。けれど、その割に世界の技術水準が私の知る世界と全く変わっていない。あまりにも変わらなさすぎだ。管理されているようにさえ思える程に。あるネットの記事にありました。先を読む事に長けた魔術師が隠している技術はもっとあるのではないか。出典も曖昧なゴシップ記事です。ですが、私はそれが是であると思っています」


 一旦口を閉じ、茅原泉に視線を向ければ、無言で続きを即してきた。


「加えて、茅原家の自然災害への対応、いえ、それに限った事ではありません。戦争や世界規模の経済的被害、例えば国内でのバブル崩壊や世界的金融危機の影響、それらに対する対応あるいは対策が早すぎます。事前に知っていたかのように」


「社員が優秀でな」


「ナンセンス。社員の反対を押し切って会長の独断で行ったという報道もあります」


「ふむ?そういった事もあったかな」


「知らない人が聞けば魔法を使っているように思えるでしょう。けれど、確率論の話をするまでもなく、それら全てへの対応ができる確率は0に等しい。それこそ未来を知ってでもいなければ」


「この地球が存在している事自体が既に奇跡といえるような確率の低さだと思うがね。それと同程度の可能性ぐらい発生してしかるべきであろう?」


「戯言を」


「うむ。戯言だ。状況証拠を鑑みれば私が異世界あるいは未来から現れた者であると言う風に考えられる、と。ふむ……否定のしようはないの。ただし、肯定できる理由もない。私の判断がそうであったというだけと言ってしまえばそれまでだ」


 その通りだった。彼が是と言わなければ成り立たない客観的な証拠が一切ない証明に、意味など無い。


「主観ですからね。そもそも異世界や時間遡行が不可能であるという現実世界で、そうではない所を是としてからのスタートですからね。相手の善意に頼った愚にも付かない証明ですよ。我思う故に正しい、というのは証明ではなく、もはや哲学でしかない」


「しかり。永久機関を前提として物理現象を論じた所で意味はない。もはや、それは宗教でしかない」


「仰る通りです。そも、私が狂人ではないという事も前提ですしね。だからこれは自慰行為を相手に見せつけているだけです」


 度し難い程、自分本位で、利己的な、そんな不躾な自慰行為。それでも尚、知りたいと願ったのは好奇心だけが理由だったのだろうか。


 いいや、違う。


「そこまで分かっていてあえて、私にこの世界の人間ではないのではないか?と問うたか。それの是非を知ってどうするというのだね?ただの興味かね?あるいは別の世界に生きていた者同士支え合って生きていこうとでも?」


「いいえ。そんな事は望んでいません。貴方が意図したかどうかはわかりません。ですが……ありがとうございます。ただ、そう伝えたかった」


 それだけだ。


 ただ、それだけ。


「ふむ?それは面白い反応だの。何に感謝をしたいというのだね?蓮華嬢」


「母が幸せに生きていられる世界を作ってくれた事を」


「母……ふむ。君の言う事が全て正しいとするならば、別の世界での君の母ということか」


「えぇ。貴方がいた事で、きっと歴史が変わったのです。貴方が全く意図していないただのバタフライエフェクトの結果かもしれません。ですが、それでもなお、私は貴方に感謝したいと思っています。他の誰かがその分不幸せになっているかもしれません。ですが、その一点だけをもって私は貴方に感謝を。ありがとうございました……私の母が、常盤鈴見が今も幸せに、本当に幸せそうに生きていられるのは……茅原泉さん。貴方の御蔭です」


 瞬間、茅原泉がぎょっと驚くように、目を見開いた。


 次いで、手で腹を押さえて笑った。


 仕舞いには天井を見上げ、身体中の酸素を全て吐き出してしまいそうな勢いで、笑い続けた。心から見せる、そんな笑いだった。


 そんな彼の姿に、逆に私が呆気に取られた。驚きに一歩引いてしまったぐらいだった。


「はっはっはっは……すまんすまん。驚かせてしまったな。だが、なるほど、なるほど。自分の事は悪魔だと断じていたが……今ほど神の存在を認めても良いと思った事はない。いや、神がいるからこそ悪魔がいると言う事かね……」


「……泉さん?」


 おそるおそる問いかければ、悪戯を思い付いた少年の様な表情で私を見つめてくる。


「拙い証明だった。私が是と言わなければ何の意味もない証明だった。しかし、証明は成った」


「どういう……?」


「認めよう。いいや、認めるよ。君は確かに証明してみせた。私がこの世界の住人ではなかった事を見事に証明した」


 皺の一杯あるその顔が、なぜだか、とても綺麗に見えた。


「やぁ、久しぶり―――常盤先輩」


「……まさか……直江?」


「Exactly」


 それは、いつか聞いたようなとても滑らかで、流暢な発音だった。






―――






 つい先程とは打って変わって若者のようにけらけらと笑う老人。直前まで持っていた印象ががらりと音を立てて崩れ落ち、その内側から別人が出てきたような、そんな印象さえ受ける。そして、事実、違う人間となった。


「まさか本当にヒロインになっていたとはね」


 そう言って再びけらけらと笑う茅原泉の奥に直江の姿が見えた。それは幻想でしかない。白い病室で見た白昼夢でしかない。だが、確かに私にはそれが見えた。背が低く、いつもハンチング帽をかぶった長髪の少女。茅原泉を通して確かに私には彼女が見えていた。


「本当に直江なのか……私の知る直江京なのか?」


「そう本人、本人。はっはっはっは。ほら、懐かしいでしょう?いや、先輩にとってはそうでもないのかな?」


 笑って、枕元に置いてあった古びたハンチング帽を被って見せる。それを被る仕草、傾きを調整するように両手でハンチング帽を動かす仕草が、尚更に私に彼女を想起させた。


「いやーまさかね。いやはや、先読みの魔術師などと言われていたが、これは見通せなかった。あぁ、さっき先輩が言っていたように魔術師と呼ばれていたのは知っていたから、であっているよ。あまりにずれると対処しようがないからね。調整した」


 聞こえて来るのは老人の声、けれど、その喋り方は、私の記憶にある直江そのものだった。


 いつしか、本当に彼女がそこにいるかのように、本当の彼女の声に聞こえているかのようにさえ思えてきた。


 降る雪に、いつだか二人で大学から帰った事を思い出す。あの時もこんな時間だった。太陽が沈みかけ、それと同時に雪が降り始めた。ひらひらと舞い散る雪に年甲斐もなく二人して喜んでいたように思う。


 『お前はきっと歴史に名を残すね』なんて、そんな風に彼女に勝手な期待を抱いた言葉を告げた。そして『そんな事に興味はないけどねぇ』なんて素っ気ない返事を貰ったのを今でも覚えている。


 彼女の未来が見ていたかった。そんな彼女が何故今こうしてこの場に、茅原泉という名を持ってこの場にいるのだろうか……。直江京という存在がいないこの世界で、なぜこうして別人として生きているのだろうか。疑問は尽きなかった。


「神様も粋なことをしてくれるよ。死に際に一番会いたい人に会わせてくれるのだからね。神の存在証明もまた、成されたと言った所かな。ま、これも先輩のいう所の主観による哲学だけれど」


「……いつから……いや、かなり昔から、か」


「そうそう。先輩が亡くなってから十数年ぐらい経ってから移動して、ぴちぴちの男子高校生に乗り移ったのが何年前だったかな。……大正浪漫がまだ残っていた時代なのは確かさ……あぁ、太平洋戦争の前年だったっけ?」


「何十年経っても、お前はかわらんなぁ」


「ペルソナではあるけれどね。茅原泉という男と、直江京という女の子。それらを内包しているのが今の私。ま、いわゆるふたなり少女みたいなもんだよ。あぁ、より正確にいうならば、精神的ふたなり少女だね。男の体に成って尚更男根の良さというものを理解したよ。まぁ、永遠の魔法使い見習いには分からないかもね」


「……黙っとけ、元祖男根主義者ファロクラシー


「懐かしい台詞を……でも、元祖?私以外にそのような高尚な趣味をお持ちの女性がいたというのかい?それは是非紹介して頂きたいものだよ、先輩」


「二人を合わせると大変な事になりそうなので断る、とは言いたいが……」


 湖陽の立ち去った扉に視線を送れば、流石、直江だった。即座に理解した様子だった。こういう所も相変わらずだと思う。


「あぁ、そういう事か。さっき居た月浦湖陽嬢か。なるほどなるほど。黒ロングでニーソでホットパンツで肌の白い美人でなおかつ百合厨な上にふたなり厨と……加えて……ふぅん?」


「その視線はなんだよ」


「いやなに、先輩に彼女が出来ていたとはね。なるほど。女の体になって、ようやく百合厨の本懐を成し遂げたわけだ。まったく……こんな爺に死ぬ間際に嫉妬をさせないで欲しいねぇ。まったく……酷い先輩だ」


「どこからどう見ても元気そうなんだが……あと、一応言っておくけど私の主張は変わらずだよ。TS百合は認めていない。なので、百合と言われるのは釈然としない」


 釈然としないものの、傍から見ればそうであるのは間違いなかった。結果、当然の如くくくっと直江が笑う。


「久しぶりに先輩とそっちの話をしていたいのも事実だけれど、老人が語る内容ではないからねぇ。ちょっと絵面が悪い。……で、だよ。自分の事は自分が一番分かるという言葉の胡散臭さは認めるけれど、寿命に関しては良く分かるものだよ。今暫くさ。誕生日は迎えられそうにない。けれど、最高の誕生日プレゼントを頂いたからもう十分だ。心残りは……もはやない」


 先程、みずきちゃんへと心残りがあると言ったのは……つまり、私を探していたと、そういう事なのか。その事が純粋に嬉しいと、そう思った。死後の世界で、死ぬ前の世界で一番大事だった後輩と会えた事がとても嬉しいと、そう思った。


 けれど、すれ違いだった。


 今度は直江が死んで私が生き残る。


「そんな顔してくれるなよ、先輩。あぁ、そんなに私の事が心配だったら結婚でもするかい?今なら財産総取りだよ?今からでも遺書は書きかえるよ。鞍月蓮華に全てを、と」


「断る」


「言うと思ったよ。まったく……もう少し早く先輩を見つけていればねぇ。ところで、先輩はいつこの世界に?」


「数カ月前だ。正確には春頃かな」


「なるほど。神はいたけれど、どうやら時の神様クロノスではなかったようだ。まったく……神様も酷い方だねぇ」


 違いない。


 今暫くこの後輩と話をしていたい。そう願ってしまう。例え外見が違えど、『彼』は確かに『彼女』なのだから。


 私が最も大事にしていた後輩おんなのこなのだから。


「この世界は、先輩にとって良い世界なんだね。あれほど女性から離れようとしていた先輩に彼女が出来ているし、先輩の母も幸せでいるわけだし」


 言われ、気が付いた。


「直江……茅原泉が直江だと言う事はもしかして、私の母を」


 他人ならばバタフライエフェクトという事もあろう。けれど、私を知っているのならば、恣意的な事なのではないだろうか?


「それを私に聞くかい?まぁ良いけれど。……私の父が産まれないようにしたら、自然とそうなった。その意味、わかるかい?」


「直江京がいなくなる。直江京がいなくなる事が私の母と何の関係が……っ」


 まさか、と思った。


 過去に直江を車で送って行って時に一度だけ見掛けた彼女の父の姿。記憶がぼやけ、もはや顔も覚えていない。ただ見掛けたという記憶だけが残っている人物。その人物が……。


「『産まれる前に戻って父親を殺したい』だっけ?代わりに……私がやったという事だよ。完全に私怨さ。その人がその人足り得るのはその心や魂にあるとは分かっていても、それでも無理だったよ。……あぁ、勿論、合法的にだよ?法がそれを是とするなら、この世界では罪ではないのさ。欺瞞だけれどね」


「……直江」


「そこは妹相手っぽく、京と呼んで欲しいねぇ」


「…………本当に、そうなのか」


 驚きを隠せなかった。


「知ったのは先輩が―――兄貴が亡くなった後。あの後、その事実を私は知ったんだよ。全く、全く……度し難い。あんな獣の血を継いでいる事を私は知りたくなかった。……唯一感謝しているといえば、あれがいなければ兄貴がいなかったこと。けれどそれは親の罪を肯定しているに等しい事なんだ。矛盾だよ。矛盾。どうしようもなくパラドックスさ。いくら天才と呼ばれてもこの盾だけはどうやっても壊せない。絶対に壊れない盾をどうやったら壊せるか、それをずっと悩んでいたけれど……今生では無理そうだ」


 ぎり、と直江の歯が鳴る。


 そんな感情を直江は、何年も何十年も一人で抱えて生きてきたのか……。私の死後十数年を、そして茅原泉としての何十年という年月。それでも尚、忘れる事なくその想いを持ち続けていたのか。


 怨む相手がいる事は幸せだろうか?憎む相手がいる事は幸せだろうか?その想いを持ち続ける事は幸せだろうか?


 そんなわけが……なかった。


 そんな彼女に私は何ができる。


 湖陽に『例えそうであっても遺伝子を残せない私とならば、一緒にやっていける』と言われ、そんな言葉で、自分だけ楽になっていた私に。直江の事を知らず、ただ一人で楽になっていたこの私に。


 そんな私が、彼女に何ができるというのだ。


 彼女の先輩として、彼女の---兄として。


「直江……私はお前に会えた事を後悔などしていない。大事で、大切な後輩だったことに変わりは無い。例えその産まれがどうであろうと……直江は直江だよ」


 例え、殺したいと願った血縁上の父親が育て、愛した娘であったとしても、それでも私には彼女を否定する事はできなかった。


 直江と私は同じ矛盾を抱えている。直江の父がいなければ私達は出会う事もなかった。母が不幸になることもなかった。けれど、いたからこそ私達は今、こうしてこの場で会う事ができたのだ。それをなかった事にできるはずがない。なかった方が良いと言えるはずがない。


 直江ではなく全く知らない相手だったのならば、恨む事もできただろう。けれど、もう直江とは会って、二人で多くの時間を過ごした。それをなかった事になどしたくはない。


 そして、だからこそ、その盾は壊せない。


 ずっとずっとこの先も……私達が死に逝くまでは決して壊れる事なく私達の前に立ちはだかるのだ。


「わかいなぁ。いや、若いのは……私の方か。そんな言葉で少し気が楽になったのだから……全く、酷い兄貴だ。あぁ、とりあえず、だね。名前で呼んでよ。その名字は捨てたいからね。名前で呼んでよ。京ってね。まぁ、これもあれに付けられた名前だと思うと癪なんだけれども……だからといって先輩に茅原泉と呼ばれるのもちょっとねぇ」


「……京」


「うん。京だよ。貴女の後輩で、貴女の妹だよ。ま、今の姿でそんな事を言っても可愛くも何ともないのが問題だね」


 そう言った彼女の眦に輝くのは涙だった。


 そして、それを隠すようにハンチング帽で表情を隠す。彼女自身が言う様にその姿は似合っていない。けれど、私はそんな彼女の仕草を知っているから。照れている時や、喜んでいる時に見せる仕草だと、私は知っているから。


「長い間、一人だったんだろう?辛くなかったか?大丈夫だったか?」


「ここで辛かったといって兄貴のその柔らかそうな御胸に抱かれるのも良いのだけれど、絵面が気に喰わない。昔は美少年で通っていたからまだふたなり少女!とか言えていたけれど、今抱きついたらただの変態爺になってしまうからねぇ。今生では諦めるよ」


 変わらずハンチング帽で表情を隠したまま、恥ずかしさを誤魔化すように、慌てるようにそう口にした。


 そんな彼女に、天岩戸に隠れたままの彼女に言葉を掛ける。


「京……私の事を、今でも覚えていてくれてありがとう」


 あの世界で生きていた私を覚えていてくれてありがとう。それがどれほど嬉しい事か、どうすれば彼女に伝わるのだろうか。自分の語彙の足りなさが、酷く苛立たしかった。


「なぁに。今風に言えばクレイジーサイコなだけさ……ま、でも、可愛らしい女の子の声でそんな風に言われたら受け取るしかないね」


 けれど、そんな拙い言葉でも、彼女は岩戸から出て来てくれた。


 眦に残った涙を手の甲で拭い、少し真面目な表情をして、今度は彼女が口を開いた。


「あぁ、そういえば先輩。次に会った時って約束だったしねぇ。……伝えられなかった言葉、今、伝えるよ」


「……あぁ」


「もちろん、先輩が私のヒロインだから、だよ」


 心が温まる言葉だった。あの時の自分が聞きたかった言葉でもあった。だから、ただただ嬉しかった。


 けれど……今の私には……


「ま、既に御姫様を見つけている相手に言う事じゃなかったね。折角今なら私がヒーローで先輩がヒロインなのに。肝心の男根がもう役に立たないのが問題だけれどねぇ」


「……」


 掛ける言葉が見つからなかった。


「何黙っているのさ。気にしない気にしない。そこは、『そろそろ黙っとけ男根主義者ファロクラシー』と言うべきところだよ、兄貴。ま、いいや。さてと。これで残念ながら今生は未婚のままか。愛人は腐るほどいたけれど、本妻といえる子はいなかったんだよ。全く自分で言うのも何だけれど一途だよねぇ、私。……御蔭で子一人残せていない。残す気もなかったけれど」


「……一人も?」


「あぁ、西都?彼は私を養子にした爺さんと、その爺さんの息子の嫁さんの遺伝子を掛け合わせて出来た子だよ。だから、まぁ私の血は流れていない。安心して良いよ。あの男の血は根絶やしにしたし、未来に繋がれる事はもうない。あの男の魂を継いだ私ももはや風前。……だから先輩は安心して彼女と一緒に生きて頂戴」


「直江……」


「またそうやって言う。私のことは京と呼んでよ。ね、常盤××先輩」


 巧く聞き取れなかったかつての自分の名前。彼女がそうやって私を呼ぶのならば、この病室だけというのならば……


「今、この場にいるのはかつての私と直江京という私の後輩。だから、この場だけは前の世界だ」


「突然なんだい?」


「だからこそ、言えることもある」


 振り向き、顔を伏せる。彼であり彼女であるその顔を見ないように。背中越しに、かつての姿を思い返しながら、告げる。あの時言えなかった言葉を。今この場だからこそ言える言葉を。


「……子孫を後に残したくないとそう願っていた私が唯一、それでも尚、何度も、何度も求めてしまいたいと思ったのはお前だけだよ、京」


「まったく……まったく……嬉しいけど、残酷だねぇ、先輩あにきは。そして残酷だねぇ、『この』世界は……互いに思いを交わし合ったとしても、私達が結ばれる事は決してないのだから。それを思えば、『こっち』は楽園だよね」


 この世界では私達が兄妹ではなかったから。そう言いたかったのだろうか。


「ここは楽園ティル・ナ・ノーグ……あぁ。確かにそうだよ」


「先輩にそう言ってもらえて良かった。がんばった甲斐があったよ……」


 その後、暫く二人で話をした。今の生活の話、学校の話、やっぱり直江が趣味で女子高にしたという事を聞いて色々と納得した。メイド科を作るつもりだったが、流石にそれは拒否されたとか。そして部活の話など……そんな他愛のない話をした。


 そして、焦れた三人が戻って来て、ノックをしたのを最後に、私は立ち上がり、部屋を後にしようとして……そして、最後の言葉を交わした。






「じゃあ、先輩。来世で」


「そんな非科学的なことを言って良いのか?」


「戯言を騙るのはいつだって理系なのさ」


「違いない」


 さようなら―――私の大事な大事な後輩いもうと





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