第5話 私の向かった病院 & 私の向かった病院
5.
大正浪漫なメイド服を着た常盤藤江さんが庭を掃除している。性格が表れているというのだろうか。丁寧な掃除の仕方だと思う。親の躾が良いのだろう。みどりさんとの仲も良好で、特に諍いなく彼女がこの家でメイドを始めてから数日が経っていた。
部屋の窓から常盤さんの動く姿を眺め、メイドって良いよね、と何度も頷く。頷いた後、机に座り、爺さんから受けた仕事をこなす。今回は硝子関連の学術論文だった。硝子が如何に壊れるのか?そんな事を述べているものだった。こういうのはどちらかといえば先輩が好きな領域だと思いながら、日本語に訳していく。カリカリとペンを動かす音だけが部屋に響き渡るBGM。
そうやって暫く作業をしていれば、少し眠気が沸いてきた。気分転換にと再び窓に寄れば、階下では常盤さんがまだ掃除をしていた。手が遅いわけではなく、単に庭が広いだけ。一人でするのも大変だろうとは思うものの、手伝おうとは思わなかった。寧ろそういう手伝いは彼女の側からお断りされている。自分が引き受けた仕事だ、と。堅い性格の子だな、と思った。けれど、そんな事で彼女を嫌いになるわけもない。寧ろ、好ましいと思える性格だった。……この間、みどりさんと戯れながら一緒に掃除していたのは秘密にしておこうと思った。うん。
そんな風にして常盤さんを眺めていれば、視線にでも気付いたのだろう。常盤さんが私の方を向いて、笑みを浮かべ、手を振る。合わせるように私も手を振って、ついでとばかりに階下へと降りる。
「お仕事御苦労様」
「里見くんこそ、難しい仕事をしているとみどりさんに聞きました……」
「違和感がある、と」
「はい」
記憶喪失者であると知っている彼女にとってそれはとてもとても不思議な事だろう。当然の疑問だと思う。
「常盤さん。一つ質問だけれど。『時を遡る事ができる魔法があったら何をしたい』?」
「突然何ですか?……でも、そうですね。里見くんを助けたいと思います。ですが、そうしますと今の里見くんには会えなくなるわけですよね。それは、ちょっと残念に思います」
その答えからすると、前の私と今の私を明確に区別しているようだった。短い時間に良く切り替えられたなと思う。だからといって割り切れているわけではないのだろう。彼女の表情を見れば、そんな事ぐらい私でも分かるというものだ。
「だから、そうですね……使いません。私不器用なんですよ。そんな夢のような魔法を使って過去に戻って里見くんを助けたとしても、今の貴方がいなくなる事を覚えたまま過ごすのは心苦しいです。そして使って里見くんを助けたら、きっと今度は逆に里見くんと貴方を比較してしまいます。ですから、使いません」
「私のことは無視して頂いて結構ですが」
「もう知り合ってしまいましたから……遅いです」
そう言ってくすりと笑う少女は普段よりも綺麗に思えた。
「そんなに里見何某くんの事が好きだったんですか?そういうわけでもないんですよね?」
「そう……ですね。これからだったのだと思います」
未来を求めていた少女に、過去を求めさせるというのは酷だっただろうか。まだ割り切る事もできず、『私』という存在との違いを理解している最中であった彼女に、そんな事を言う私は酷な人間だろう。
「どういった人だったんですかね、貴女にとっての里見くんは」
「そうですね。物静かな人でした。本を読むのが好きで、いつも図書館にいるような、そんな人でした。里見くんと出会ったのも図書館でした。探していた本がたまたま同じだった、そんな素敵な偶然があったんです」
そう言って少し悲しげに笑みを浮かべた。
「ちなみに?」
「『人間の大地』ですね。私、あれは最初小説だと思っていたのですが、違いましたね。……読むのに結構時間が掛りました」
「あれはエッセイですよね……あぁ、だから王子様のように私と一緒にいる事を是としたんですかね」
同じ作者の有名な本の一場面。ただの狐は、一緒に過ごして、話しあって、そしていつしか掛け替えのない狐となる。どこにでもいる狐ではなく、ただ一匹の、大事な狐へと。
「どういう意味です?……えっと、何か、覚えているのですか?」
「余計な事を言ってしまいましたね。……記憶喪失といっても全て忘れるわけではないみたいです」
そんな戯言を吐く。
「そう……ですか」
悲しそうに俯く。対応として間違っているのは理解している。彼女にとっては失われた『彼』の内側に昔の『彼』を感じてしまうものだから。でも、私にとって彼女はそれこそ出会ったばかりの狐でしかない。どこにでもいる少女でしかない。
「常盤さん。再三ですが、私と彼は全く違う人間だとそう思って下さい。産まれも、育ちも何もかも。顔だけが同じ双子の様なものだと思って下さい」
残酷な台詞を再び告げる。
「似た経験をしている可能性はあります。けれど、それは貴女の中にあるそれとは違うのです。そう思って下さい」
「……今すぐは無理だと思います。けれど、努力します」
そう言ってのける彼女を綺麗だと思った。とても辛い事を、それでも尚忘れずに、前に進もうとしている彼女が綺麗だと思えないわけがない。
「でも、ここ数日で私、結構楽になりました。薄情だと思って頂いても構いませんけど……あまりに違うので、そう思えるようになるのは早そうです」
強いな、とも思った。
「強い人ですね貴女は。現実をしっかりと受け止められる人です。私とは……違いますね」
自虐趣味があるわけではない。けれど、理解した。彼女は現実を受け止められる人なのだ。私と違って。
「それはそうと常盤さん。貴女のことを教えてくださいな。学校での事とか」
「あ、はい。そうですね。何から話せば良いでしょうか……そうですね。最近までは図書館に入り浸っていました。放課後になると図書館にいって本を読むのが好きだったんです。……家に帰っても同じですけどね」
そう言って、苦笑した。
「似合っていると言っても良いですかね」
清楚系黒ロング美少女メイドに読書は良く似合うと思う。時折、椅子に座ったまま眠ってしまったりとかしてくれると更に良い。
「何か変な事を考えていませんか?」
「いえ、別に」
変な事ではないので問題ない。
「学業の方はどうです?勉強が難しいとかいう事はないですかね?」
「そうですね……文学などは問題ないのですが」
「数学とかですかね?」
「はい。恥ずかしながら少し苦手で。里見くんも苦手だったと思いますけれど……」
「……けれど、この里見くんはそうでもないのです」
「ほんと、不思議ですね……」
「えぇ。世の中不思議な事が一杯なんですよ。ですから、試験勉強など分からない事があれば聞いて下さいな」
「その時はお願いしますね。そろそろそういう時期に差し掛かっていますし……いきなりで申し訳ないのですが、後でお願いしてもよろしいですか?」
「えぇ」
歓談の終わり。そして再び私は部屋へと戻り、和訳の続きをする。それから小一時間が過ぎた頃だろうか。陽が沈んだのと同時ぐらいに常盤さんが部屋に来た。こんこん、と控えめなノックと共に『常盤です』という小さな声。どうぞ、と伝えれば部屋の中へと。
女の子を部屋に誘い込む男であった。私だった。
まぁ、別に何をするわけでもないけれども。
「茶ぐらい用意しますので、座って待っていて下さい。あと、目の毒なので着替えておいてくださいな」
何か言いたそうな常盤さんを置いて、さっさと部屋を出る。
メイド服で勉強された日には自分が抑え切れるとは思えない。あぁ、思えない。私は先輩のようにストイックではないので。そんなどうでも良い戯言を頭に浮かべながら流しへと向かう。ヤカンに水を入れ、火で炙る。火の揺らめきを眺めながら呆と湯が沸くのを待つ。暫く待てば湯が沸き、それを急須に入れる。そしてお盆に二人分の湯のみと急須を置いて部屋へと戻る。
こんこんと自分の部屋の扉をノックすれば、常盤さんから大丈夫ですとの言葉を頂き、扉を開ける。ノックせずに扉を開けてラッキースケベを体験するなどもってのほかである。そういうのが楽しいのは傍から見ている輩だけだろう。当事者はそれをじっくりと観察する事もできないわけで。あぁでも肉体接触がある場合には別なのかな。まぁ、どうでも良い。
部屋へと入れば、机とは別に置かれた丸テーブルの前に制服姿の常盤さんが正座をしていた。きりっと背筋の伸びた正座というのは見目が良いものである。
「どうぞ」
対面に座り、茶を入れて湯のみを常盤さんの前へと。
「ありがとうございます」
湯呑みを受け取り、軽く口を付けてすぐにテーブルの上へと。全く、品の良い仕草である。少し口を付けたのは入れてくれた人への最低限の礼儀という事なのだろう。
「それで、今の高校生さんは数学では何をやっているんですかね」
「そういう事は忘れているのですね」
「違う人ですからね」
「そう……でしたね」
学校鞄から取り出された教科書を受け取り、内容を確認する。学校選定が良いのか、思いの外しっかりした内容だった。これは教え甲斐があるというものである。
そうやって二人きりの御勉強会が始まった。最初は多少ぎこちなかったものの、暫くすればお互い普通の友人みたいになっていたように、そう思う。
知らない人をお互いに知り合って行く。
その過程。
きっと里見くんはこうやって彼女の事を好きになっていったのだろう。その場を奪った事に感慨は浮かばない。この身体は死んだのだから。彼は例の男女に殺されて死んだのだから。だから、浮かべるとすればお悔やみぐらいのものだった。流石に彼女のことは私に任せて成仏しろなんて思ったりはしていないので安心して欲しいと思う。
私が愛しているのは先輩ただ一人だけなのだから。
―――
泣いたのは何年ぶりだっただろう。
それぐらいに久しぶりに泣いた。そんな姿を見せてしまったせいだろう。いつになくいなほが優しげだった。私の感情が収まるまでは何も言わない、けれど傍にいてくれる。それがとてもありがたかった。
帰り道。再び小学校の隣に流れる用水沿いを歩き、古風な街並み―――武家屋敷という―――の中を抜けて、そして河川敷へと。
家に帰るには今暫く、時間が欲しかった。そうしていくつか思い浮かんだ選択肢の中で選んだのが河川敷だった。
この寒い時期にもランニングをしている人もいれば、サイクリングをしている人もいる。そんな人達が私達に興味を頂くはずもなく、それを風景として、私は、私達は河川敷に座る。
別段、景色が良いわけでもない。しいていえばいつだかアニメの舞台として使われた橋があるぐらいだ。もう少し下流に行けば趣深い神社があるけれど、そこまで行こうとは思わなかった。神に母の幸せを祈るのはまた今度で良い。今は、ただ、呆としたかった。誰にも邪魔される事なく、呆としたかった。その選択の結果が河川敷だった。誰に邪魔される事なく呆とするにはちょうど良いから。
空を見上げれば生憎の曇天模様。この時期になると曇天模様が多く、傘を持って出ない日の方が少ない。そんなどうでも良い事に気を向け、次いで川の流れに目を向ける。
行く川の流れは何とやら。
時間の流れもまた絶える事はない。元の時間のままでもない。そんな一直線の流れから、分岐した流れ。そこに今、私はいる。
母が生きている世界。
それだけでこの世界は楽園だとそう思えた。神がいるかどうかは分からない。もしかしたら悪魔の仕業かもしれない。あるいは件の茅原老の御蔭かもしれない。誰でも良い。ただ感謝したかった。
ありがとうと、そう伝えたかった。
ただ無言で私に付き添ってくれたいなほにも感謝を。
この世界に来て、今までに出会った人に感謝を。
ただ、そう伝えたかった。
「ありがとう」
「何それ、お姉ちゃんらしくない……なんてことは、今日は言わないでおくね」
隣に座ったいなほが苦笑気味にそんな事を言った。
そうしてしばらく二人で呆としていれば、見知った顔が下流側から自転車で近づいて来た。その自転車はいわゆるクロスバイクという奴だった。乗っているのは女の子。偏光グラスを付けていてさえも美人さんだと分かる。ヘルメットに収まらない長い髪が風に流されている姿が、これまたなんとも絵になる人物である。
どうみても月浦湖陽その人だった。
ちなみに、クロスバイクのアーム部分にはリードが付けられており、その先にはいつぞや釣りに行った時に連れて来ていたクリ―チャーが繋がっていた。自転車の速度に追いつけるぐらいの早さでうにょろうにょろと動くさまは何とも気味が悪い。どこから拾って来たんだろうあの生物。
「何よ、蓮華。二人揃ってデートかしら?私も誘いなさいよ。……あぁ、家族サービスね!か・ぞ・くサービス!」
私達に気付いたのか、近づいて来て、自転車を止め、湖陽がそんな鬱陶しい事をのたまった。今の気分を正直に言葉で表すと、面倒くせぇ、の一言である。
「ちょっと湖陽さん。私相手に嫉妬しないで頂戴。鬱陶しい」
「う……鬱陶しい……あぁでも美少女に罵られる感覚ってちょっとす・て・き」
「黙っとけ」
そんなに美少女に罵られたいなら鏡相手に励んでいれば良いと思う。
「加えて私の大事な王子様に罵られるなんてもうこれはあれね!」
「湖陽さん、もう一回言う?大事なことなのでもう一回言っておく?」
「あ、はい。すみません」
いなほの三白眼に睨まれた湖陽がしゅん、として謝った。例の部活―――いや、まだ部員足りないけれども―――のヒエラルキートップはいなほのようであった。
さておき。
そんな飼い主とは対象的にケサランパサランの親玉と思しきクリ―チャー、ユリシーズが私の廻りをうにょうにょと動き廻っていた。走っていた姿もアレだったが、これもまた正直ちょっと気持ち悪い。『ちょっと』という表現がオブラートなのは誰にも言えない乙女の秘密である。
「それで、どうしたの?蓮華ったらちょっとブルー?あの日?」
「違うよ。でも、良く見てるねぇ」
「王子様の姿をじっと見ていたいのが御姫様ってものじゃない?」
言って、偏光グラスとヘルメットを外し、いなほとは反対側に座った。
ちなみに、自転車やヘルメット、偏光グラスだけを見れば本格的ではあるが、服装は全くもって本格的ではない。上は短めのジャケット、下はホットパンツあんどニーソという過激な格好である。誰に見せる気だったのだ、なんてちょっとした嫉妬を浮かべてしまうぐらいには私は湖陽の彼氏あるいは彼女だった。
「寒くないの?」
「動いている間は気にならないけれど、こうして座っているとお尻が冷たいわ。やっぱり止めておけば良かった……もし蓮華に会ったら、と思って恥ずかしくない格好をしようと思ったけど、寧ろ逆にこの恰好自体が恥ずかしいということに気付いたわっ」
「良く似合っているのは確かだけどね」
「あら、ありがと。それだけで救われる気がするわ」
「ちょっとお二人とも、私のこと忘れてない?」
そんな事はない、という間もなく、ついつい笑ってしまった。
そんな気分ではなかったけれど、やっぱりこの世界はとっても優しくてとても良いものだと思った。こんなにも私は恵まれているのだから。
「ところで蓮華。例の件どうなったのかしら?」
「どうにもなりません。えぇ。どうにも」
「湖陽さん、もう諦めたら?それかあんなこっぱずかしいHNやめたら?」
「ちょっといなほさん。どこが恥ずかしいというの!」
「その格好よりは恥ずかしいかなぁ。あ、その服はとっても似合っているからね?今後ともそんな感じでよろしく」
「いえ、流石に足を出すのは季節的にそろそろ」
そんな戯言のやりとりもまた、微笑ましい。
けれど、そんな楽しくて優しい時間は長く続かなかった。
いなほのスマホにみずきちゃんから連絡が入ったのが契機だった。
「何よ」
つん、と不機嫌そうにスマホに向かって告げるいなほの声が良く聞こえた。もっとも、少しばかり嬉しそうでもあった。着信を確かめるや否や即座に出た辺りが尚更に。
『いなほさ……ん。御爺様が……御爺様……』
「爺の事で態々私に電話かけてきたの?何考えているのよ貴女」
スマホを通してみずきちゃんの声が聞こえて来る。慌てているような、そんな声だった。あまり聞いても、と思い湖陽と二人少し離れようかと思った時だった。
『御爺様が……倒れました』
「っ!」
瞬間、いなほが、息を飲んだ。
それからの行動は早かった。
もはや茅原の家とは関係ないとはいえ、いなほ曰く、会うと優しくしてくれた祖父をいなほ自身、無下に出来るはずもなく、いなほと連れ立って病院へと向かった。私も、そして湖陽もまた一緒に。
今いた場所が病院に近い場所で幸いした。すぐに病院へと辿りついた。
病院の入り口には新聞記者の人や報道機関の人達が押し寄せていた。パシャパシャと鳴るカメラの音が苛立たしい。カメラを前に語る女性アナウンサーの姿が苛立たしい。世界的に有名な魔術師茅原泉の入院とあれば即座に駆け付けるのが彼らの仕事であるのはわかる。だが、私にとっては妹の家族である。それを相手にそんな事をやられるのは気分が悪かった。
そんな彼らから離れた場所にみずきちゃんがいた。いなほを見つけたと同時にマスコミから逃げるようにいなほの下へと駆け寄って来た。
「いなほさん……御爺様が、御爺様が……」
「落ち着きなさい、みずき。お姉ちゃんがついているからね」
泣きじゃくるみずきちゃんをいなほが抱きしめ、その髪を撫でる。暫くそうやっていなほがみずきちゃんを慰めていれば、いつしか湖陽が私の手を握っていた。
「……ありがとう。私は大丈夫だよ」
「さっきのブルーの原因が分からないから心配だったけれど、落ち着いているわね」
「あれとこれとは関係ないしね」
「……そ。後で教えてね」
「恥ずかしい事ではあるけれど、湖陽に隠す事でもないしね。ま、でも今は……」
「えぇ」
二人が心配だった。そして、同時に私は茅原泉の事も心配していた。それは酷く個人的な利己的な理由であり、誕生日会に参加しようと思った理由と同じ物でしかなかったが……。
「……ハァ」
こんな場所でそんな事を考える自分に辟易する。
「幸せが逃げるわよ」
「逃げても良い事なんてないから戻って来るよ」
「それは新しいわね……ほら、うじうじしてないで行くわよ、蓮華」
湖陽の言う通りだ。こうやってうじうじ考えているだけで物事が解決するわけもない。私の考えすぎ、取り越し苦労ということもある。だから、少なくとも今は、そんな考えを捨て置こう。
茅原泉が異世界の者だなんて、何か関係があるかもだなんて、そんな事は忘れて、素直に妹の家族として、彼女らの祖父が苦しい状況にある事を普通に心配しよう。
「考え過ぎなのよね、蓮華って」
「良く言われていたよ」
「直江さんとやらに?」
「……否定はせんけど」
戯言を吐きながら、みずきちゃんを支えるいなほを先頭に病院の中へと。無関係な私達が行く。
私達の存在が少しでもいなほやみずきちゃんの支えになれば良いと、そう思う。
白い廊下。
相変わらず苦手なその白い空間の中を慌ただしく行き来する人達の姿が見える。
その人達の間を抜けて歩いていれば、
「お姉ちゃん。あんまりそんな根詰めたような顔しないでよ。大丈夫。あの爺がそう簡単にくたばるわけないじゃない。ちょっと早い誕生日会だとでも思って気楽に行こうよ……ね?」
そんな事を、いなほに言われてしまった。
「その方が、私も……気張れるから。頼りに……してるんだよ」
心優しいいなほが気に病まないわけがない。けれどみずきちゃんを前にして弱身を見せる事はできない。彼女はいつだってお姉ちゃんだから、だからがんばっているのだ。だったら……
「あぁ。頼りにしてくれ」
私はやっぱりいなほのお姉ちゃんであり、お兄ちゃんだから。がんばらないと。
そして、病室へと辿りついた。
がらりと開いたその部屋の中に―――
―――
「病院?爺さんが?」
「はい……出先で倒れたとかで……」
殆どの行き先が病院で、それ以外の時に倒れるというのは爺さんも不運なものだ、と他人事のように思いながら、みどりさんと、そして常盤さんと三人で病院へと向かう。幸いにして病院まで距離があるわけでもない。爺さんはいつも楽をするために車で通っていたけれども、私たちは徒歩で病院へと向かった。
不安そうなみどりさんが私の後に続く。とぼとぼした様子は意気消沈であろう。とはいえ、病院からの連絡ではそこまで酷い状態ではなく、爺さんの意識もしっかりしているという。もっとも、私よりも長い事爺さんと一緒に過ごしてきたので当然、そこには色々と思いがある。だから、そんな表情にもなるのも当然というものだ。
一方で常盤さんは普通だった。知り合いの爺さんが大変だ、と言われた時の相応の対応というか。色々と思う所はあるだろうが、それでも普通だったといえる。それは私も同じだった。常盤さんよりは長い付き合いではあるが、それでもみどりさんよりは短い。確かに爺さんが私を拾ってくれたのは出会ってすぐといって良い程だったけれど、それでも、人間同士の関係は時間とは無関係ではない。
「大丈夫……ですよね」
不安が勝手に零れたのだろう。誰に言うでもなくみどりさんがそう口にした。その言葉に『大丈夫だ』なんて気軽に応える事はできなかった。爺さん自身が言う様に、爺さんの老い先はそう長いものではない。そして、今回の事で少し早まった可能性もある。
「折角、誕生日の準備をしていたのにねぇ。これじゃ爺さんの誕生日会は延期かな」
未来に不安を覚えるみどりさんに私に何が出来るのか?と言えば、何も出来ない。私と爺さんの関係はそれこそ短く浅いものだから。だから、他人事のように爺さんが元気になるようにと、次の機会があるのだと言葉を発する事ぐらいしかできはしない。
「里見くん!不謹慎ですっ」
瞬間、袖を掴まれ、常盤さんが私を睨む。そういう風に聞こえても仕方ないだろう。倒れた爺さんが悪いとばかりの物言いだったのだから。
「いえ……大丈夫です。藤江さん。里見さんの言いたい事、分かりますから。そうですね。次の機会はありますよね」
けれど、みどりさんは薄く笑みを浮かべて小さく首を振った。
「えぇ。猶予ができましたから、もっと凄い事をしましょう」
「はい……御心遣いありがとうございます」
爺さんの誕生日までは一週間程猶予はあったものの、今から準備をしようと言う事で、電話があるまで、みどりさんと常盤さんと一緒に誕生日会をどうするか?と考えていた所だった。何をすればあの爺さんは喜んでくれるだろう。そんな事を三人で考えていた。猶予が出来たというのならば、もっと楽しい時間になるように何か考えるとしよう。考える事は得意だ。
「……里見くん」
くすり、と笑みを浮かべる私に常盤さんが再度私の袖を掴んでいた。
「言い方が悪かったのは確かですね。すみません」
「ううん。私の方こそ」
誰に聞いても100%私が悪いと言うと思う。
「そうやっていると夫婦のようですね」
そんな風に譲り合っていれば、みどりさんがくすっと笑みを零していた。何よりだった。もっとも言っている内容に関しては何ともいえないけれども……。
「みどりさん!……もう」
「主人とメイドの方が私としては嬉しいんですが」
そんな他愛のない戯言を言い合いながら、途中花屋に寄って見舞い用の花束を買った後、爺さんが心配しないように三人とも笑顔で、病院へと向かう。久しぶりに訪れた病院。爺さんと出会った場所を通って院内へと向かう。
静かなものだった。
爺さんが担ぎ込まれた事など夢現のように静かだった。
もっとも、人がいないわけではない。会話の音が聞こえないわけではない。玄関を入ったすぐ左手に見える待合室には結構な人がいた。それでも私には静かに思えた。
あの日。
先輩の亡くなった日……いや、その翌日か。その時の病院内を思えば、これぐらい人々の話し声なんて、静かなものだ。パトカーの音、報道陣が我先にと病院の周囲を囲っていた。地方都市で起こった殺人事件。最初はただの交通事故だと思われていた。だが、犯人側の車のブレーキ跡はなく、寧ろ急加速を行った跡からは故意である事が判明し、単なる交通事故が殺人事件へと発展した。そして出てきた私のストーカーの問題。思い出したくもないが、犯人の部屋からは私の写真が大量に出てきたらしい。そんな諸々の理由からパトかーやら報道陣が集まって来た。
静かにしてほしいと願った。
けれど、その願いは叶わなかった。事情を聞きたいという警察に連れて行かれ、先輩とはそこで別れた。幸いだったのは遺体を見られた事だろう。本来なら見せて貰えるはずもない事故死体を無理やり見せて貰った。これが先輩か、と思った。魂無き肉の塊、それを先輩だと認める事なんて出来なかった。そして、更に発覚していく事情。
あぁ、今思い出しても腸が煮えくりかえる。
先輩が、強姦被害者の非嫡出児である事を知った。
誰が漏らしたのかは今でも分からない。先輩の祖父母だろうと私は確信しているが、それが発端だった。私が他者にストーカー被害に関して話をしていなかったのも後手に周っていた。先輩自身が私のストーカーだと言われ始めた。最初は研究室内だった。私に気のある男子がいたらしい、その人が発端だった。勿論、その人には制裁を喰らわせたが、それで収まるはずもなかった。全学に広がると同時にソーシャルやネットに広まった。分子が熱を帯びて飛び回るように加熱し、加速した。
死後を貶められた。
こんな世界などいらないと思った。
もう誰も信じられないと思った。
誰も信じたくないと思った。
そして……最悪だったのが、父だった。順風満帆な家庭だと思っていた。世間様から見れば上等な家柄であるとも思っていた。いや、だからこそ……
『まさかあの時の……うちの娘に付き纏っていたのは……くそっ』
テレビで報道される先輩の名前と、ネットに散らばった先輩の母親の写真を見て、そう呟いた父を殴りとばした。そして、問い詰めた。
そして、私は、穢れた血を持って産まれた事を知った。
我が身を引き裂きたいと願った。
こんな世界などいらないと再度、願った。
―――そう。
先輩は、私の血を分けた兄だった。
好きだった人が兄だった。
愛したいと願った人が兄だった。
愛して欲しいと願った人が兄だった。
感情を持て余した私は、父を殴り続けた。そんなことで気が晴れるわけがない。母が止めるのも聞かず、殴り続けた。そして、そんな暴力行為を行う事自体が、この男の血を受け継いでいる事の証左だと気付いた時、その手が止まった。
私を責め、父親を庇う母親に嫌悪を抱いた。
そして、私は家を出た。
それからは一人だった。
いいや、違う。兄がずっと心の中にいた。兄の死を認める事ができず、それを追いかけるためにあらゆる手を尽した。そして……理論構築が終わった時、そしてそれを実験する場を得た時、私は誰も訪れる事のない山奥でその首を自ら掻き切った。
そして、今、この場にいる。
私の存在が兄を産んでしまったのだ。
私がいなければ兄が産まれる事はなかった。
兄がいなければ私は人を好きになるという事を知る事はなかった。けれど、私がいるからこそ兄はあんなにも苦痛ばかりの人生を送って来たのだ。でも、それでも私は兄を愛している。兄がいない人生など認められるわけもなかった。
パラドックス。
矛盾だった。
そんな矛盾を抱えて私は生きている。
例え天才と言われようとも、その盾だけは壊せない。
「どうかしましたか?」
「いえ……なんでもありません。行きましょう」
頭の中を駆ける思いを振り払いながら、みどりさんに付いて、常盤さんと並び、爺さんの病室へと向かう。
そして、辿りついたその部屋の中に―――
―――
快活に笑う一人の老人と、その息子であるいなほとみずきちゃんの父がいた。
―――
爺さんが一人、ベッドで眠っていた。
―――