第4話 私の願う楽園(ティル・ナ・ノーグ) & 私の願うメイド楽園(ハーレム)
4.
「お姉ちゃん、本当に行くの?」
部屋で試験勉強を軽くすませ、コーヒー牛乳を片手に百合百合しい小説を読んでいた所、お風呂上がりなのだろうパジャマ姿で髪を下ろしたいなほが部屋へと入って来た。ちなみにパジャマの柄はなぜかデフォルメされたお魚柄だった。どういう趣味なのだろう……さておき。
しかし、姉の部屋とはいえ、ノックもなしとはこれ如何に。
「あら、ノックがなくってよ」
本を閉じ、机の上に置いて、振り向きざまにそう言った。ついつい読んでいた小説の口調が乗り移っていた。自分で言うのも何であるが、激しく似合っていなかった。湖陽なら似合うだろうから今度お願いしてみよう。タイを直されそうではあるが……。などと考えていれば、いなほの痛い痛い視線を感じて咳払い。
「こほん。……で、突然、何の話?」
椅子から立ち上がり、部屋の中心に置いてあるテーブルの周りに腰を下ろす。ちょいちょいと手でいなほにも座るように催促すれば、
「ペンギン小屋に入るのにノックとかいらなくない?」
くてっと首を傾げながら、対面に座った。
「……いや、良いんだけどさ。ほら、あれだよあれ。もしかすると」
「お姉ちゃんの変態。その時はその時で皇帝ペンギンの痴態動画とかいって湖陽さんに売り付けるし、大丈夫」
視線を逸らすように言ういなほの姿に、いや、そういう意味ではなかったのだが、とは今更言えなかった。妹に恥をかかせては姉の沽券にかかわる……かなぁ?
ともあれ、である。
「その場合、私が大丈夫じゃない」
続きは!続きを見せなさい!とか言われそうなので割と本気で勘弁してほしい。
「で、本題は爺の誕生日パーティ。関係ないし別に行かなくて良いよ?私が言った事だけどさ……」
一転、申し訳なさそうな表情で告げるいなほだった。
強い子であろうとした彼女は弱身を見せるのがとても下手なのだ。だから、そこはお姉ちゃんが汲んであげないといけないのだと、改めて真面目に姉心を浮かべて、立ち上がり、いなほの隣に座って髪を撫でる。一瞬、くすぐったそうな表情を浮かべたものの、次の瞬間には目を閉じ、身を任せていた。他の誰かが居ればこうも簡単に弱い自分を見せる事もなかっただろう。
何だかんだと、私達は姉妹らしくなってきたように思う。
「そういう世界的な著名人に会う機会って普通はないからね。私自身、話をしてみたいと思うから大丈夫。寧ろいなほは機会を作ってくれたんだから、そんな顔しなくて良いよ」
「そう言ってくれると嬉しいんだけど……」
無理を言ったのではないか?そんな事を言いたげな表情に笑みが零れる。
「まぁ、他人である私が行くというのがそもそもおかしいのは事実だけれど、義姉になったわけだし、付き添いと言う事で何とかならないかねぇ」
もっとも、それは祝われる側の気持ちを考えていない行動なのは確かである。赤の他人が突然現れて誕生日を祝った所で、祝われた相手は嬉しくはないだろう。だから、言ってしまえばこれは私の我儘に過ぎない。私がそうしたいから、そうする。ただそれだけだ。だから、いなほがこんな風に悩む必要も悪く思う必要もない。
そう伝えれば、今度はいなほが笑みを浮かべる。苦笑とも言うが。
「ううん。そこは大丈夫だと思う。男だったら爺さんも嫌がりそうだけれど、まがりなりにもお姉ちゃんは女だし。そこは大丈夫だよ。ちゃんと紹介する。けどね……」
義理とはいえ実の姉に向かって曲がりなりにも女とは酷い妹である。確かにいなほみたいな可愛くて綺麗な子ではないけれども。と、戯れた感情を浮かべてみたものの、未だに女としての自覚が薄い私にとってはどうでも良い事であるのもまた事実だった。寧ろ、私は湖陽曰く王子様であるので、女扱いされる方がくすぐったく感じるのである。……そこまで考えて、ふいに気付く。彼女の前では男でありたいんだな、と。それが何だか気恥かく、ついついいなほから視線を逸らした。
「何よ突然顔逸らして。お姉ちゃんは私の顔が見ていられないってこと?」
「いやいや。そういう事ではなくてね……で、何ぞあるの?」
じとーっと三白眼に見つめられてお姉ちゃんはたじたじです。
「誤魔化したわね、この南極生物。……まぁ、良いけれど。えっとね。あそこに行くと、妖怪婆がいるのよ。爺さんの義姉で、百歳近いんだけど何と言うか……元気過ぎると言うか」
「苦手、と?」
「有体に言うと、そうなのよね。茅原の家に居た期間は短いけれど、ほんと虐められたのよ。躾と言ってしまえばそれまでかもしれないけれど……料理とかは為に成ったと思うし、殴られたりはしなかったけどね。みずきはきっと今でも叱られているんじゃないかな……ちょっとしんぱ……なんでもない」
言い様、ぷいっといなほが顔を逸らした。今さっきの発言の仕返しをしてあげようかと思ったけれど、止めた。逸らした視線、結果、私の視界に入ったのが微妙に紅の入った頬だったから。
湊ちゃんや南さんみたいな直接的に仲の良い姉妹も良いが、いなほとみずきちゃんというちょっと捻くれた感じの仲の良さも大変良い。大好物です。
「ま、お姉ちゃんが守ってあげるから。さっきも言ったけど、今回は私の我儘に付き合ってよ」
「何よ、それ……私が言い出したのにさ」
「お姉ちゃんの役割です」
お兄ちゃんの役割でもある。
ともあれ、そんな話をしていれば、ネットや図書館で茅原泉の親族を確認した時の事を思い出す。そして、なるほど、と納得した。茅原泉の義姉の名前は確か……。
「何よ、何か言いたい事があるなら言ったらどうなのよ。喉に鰯が詰まったような顔して。今なら定価の三割引きで買うわよ」
「喧嘩を売る気はないなぁ……あれだよ、茅原家の名前の付け方の話」
「あぁ。妖怪婆の……お姉ちゃんの予想通りだと思うよ。確認したことはないけどね」
再びなるほどな、と納得した後、しばらくして、テーブルから離れ、いなほと二人でのんびりベッドに横になって座りながら話をしていた。途中、湖陽から電話があり、今から行くからそのまま並んでいるのよ!とかいう阿呆な発言を聞いたりしながら、その日はなぜかそのままいなほと一緒に私のベッドで寝たのであった。私の腕が抱き枕扱いされた事に物申したり、髪を撫でていたりすれば、いなほが可愛い寝息を立て始めた。
可愛らしい妹の姿に眠気を誘われたものの、美少女を横にして寝るというのは、女の体になっても存外緊張するものだな、と思いましたとさ。御蔭で寝不足だった。
そして、当然の如く、翌日、湖陽に怒られた。何故私を呼ばない!とか。写真はどこ!とか。流石であった。
―――
「里見様、いけませんわっ!いけませわんっ!」
「女給さん。一人きりで随分溜まっていたのでしょう?私がお手伝いしますよ……」
「そ、そんな……堪忍してください。お館様に怒られてしまいます!」
「そうはいっても、一人では大変でしょう?……私に任せれば良いのです。ほら、もうこんなに……」
「あぁ、そ、そんな」
などと阿呆な台詞を吐いている私とみどりさん。
ちなみに一緒に庭掃除をしているだけである。箒を持ってさっささっさと落ち葉を掻き集めている。私が手伝いを始めた結果、言われたのがそんな言葉だったので、つい乗ってしまった。みどりさんも乗ってくれるものだから更についついである。
図書館に行った日から数日が経過した。
秋晴れだった。
冬を前に最後の秋晴れといった所だろうか。ちなみに冬になるとこの県では雷が凄い。世界的に見ても冬の雷というのはあまり見られない。夏のものとは違い、音は大きく、振動も大きなものである。その結果、全国有数の落雷数を誇っているわけだが、別段嬉しい話ではなく、煩いし、停電の危険が高まるし、ただ只管迷惑な自然現象である。そんな雷もそろそろ発生する頃だろう。そうなってしまえば、雪が降るのもすぐである。
「そういえば、そろそろお誕生日ですね」
「誰のです?って、あぁ、爺さんの?」
「えぇ」
箒を軽く振りながら、落ち葉を集めているみどりさんがそう言った。ちなみにこの落ち葉、後ほど焼き芋を焼くために使うそうである。そんな経験がなかったので、それがちょっと愉しみだった。御蔭で手伝いにも精が出るものである。
「パーティでもするの?」
「パーティ?あぁ、誕生日会ですか。えぇ。やると思いますよ。里見さんも是非ご参加ください」
その言葉に、暫し考えた末に頷いた。
この大きさの家である。パーティをする場合には結構な賓客が訪れる事だろう。爺さんに拾われたとはいえ、無関係な私が参加する事が好まれるかといえば、そうではないだろう。けれど、今後も爺さんの家にいるという事になれば、今後その人達と出会う機会もあるわけで、参加しておいて損はない。そんな打算的な理由で参加を決めた。まぁ、拾ってくれた爺さんが産まれた事を祝いたいというのもまた事実であるが。
「準備があれば、何か手伝いましょうか?これでもそこそこ料理はできるんですよ」
「でしたら、少しお願いしましょうかね。一緒に、びっくりさせてあげましょう」
「えぇ。赤飯に砂糖とか」
「そういう意味ではなく……」
いつだか先輩に聞いた。四国のとある地方では赤飯にかけるのは塩ではなく砂糖だと。嫌そうに言っていたわりには出されれば大人しく食べそうなのがあの人である。甘い物が割りと好きだったし。例えば、漫画に影響されて時折プリン分足りないと言っては購買でいくつも購入して来て研究室で食べていた。良くあんなに甘ったるい物を何個もいけるなぁとある意味尊敬した。
『何個食べるんですか』
『プリン分を補充できるまで』
なぜ私はあの人好きになったのだろうと少し疑問に思った瞬間でもあった。
そんな風に先輩のことを思い出していれば、自然、頬が緩む。
「何だか楽しそうですね、里見さん」
「そう、ですかね。いえ……そうですね」
これも思い出し笑いというのだろうか。
そんな風に話をしながら、掃除を続けていれば、門の向うに車が止まる音がした。相変わらず排気音の煩い車だった。
「何がそんなに楽しいのだい、少年」
かかっと笑いながら爺さんが門を抜けて私達の下へと。それと同時に車が発進した。やはりエンジンの音が気になった。何とも排気ガスを大量に吐き出していそうな音だった。まあ、環境問題云々に興味はないのでどうでも良いのだけれども。
「爺さん、人生は楽しい事の連続じゃないのかい?」
「至言だな。だが、楽しいばかりが人生ではないぞ少年。辛い事もあれば苦しい事もたくさんあるのさ」
「それでもだよ、爺さん」
辛かろうと、苦しかろうと、それでも尚、前を見ていた人が好きだった。だからこそ。
そんな風に言う私に爺さんが皮肉気に口角を上げた。
「仕事の量を増やしても良さそうだな」
「……それとこれとは話が違う、と言いたい所だけどね。承るよ」
「なんだ、張り合いのない奴だの」
「爺さんの誕生日プレゼントでも買おうと思ってね。自分で稼いだ金で買いたいのさ。ま、原資が爺さんの懐というのはあれだけどね」
「かかっ。ありがたいの。だが、少年。私のために使う必要はないぞ?老い先短い爺に投資した所で意味は無いからの」
「それでもだよ、爺さん」
投資の意味がないから何もあげない、というのはちょっと違うだろう。寧ろ意味がないからこそ意味があると、そう思う。そもそも爺さんと私は利害関係で結ばれたわけではない。拾ってくれた事への感謝。ただ、それだけだ。
そして、爺さんもそれを理解して言っているのだろう。私がそう言った瞬間、少し、嬉しそうに目を細めた。
「メイドハーレムを作るための資本にでもしておくのが良いと思うが」
「爺さん、女の人の前で何を言ってんだい」
そういえば、先輩の事ばかりを考えていたから、メイドハーレムを作るための行動はしていなかった。折角男になったのだから、そっちも愉しまないと……と思う自分が嫌だった。嫌だけれど、その誘惑に逆らえそうにない。それがまた嫌で……まったく嫌なデフレーションである。
でも……そうだ。メイドのハーレムがあれば先輩は喜んでくれるだろうか?
瞬間、自分を殺したくなった。
先輩を出汁にして私は何を考えたのだ。それは酷い裏切り行為だ。私がそれを求めるならば私自身の意志で行わねばならない。そこに『先輩』という免罪符を求めるなど言語道断だ。
どこまで行っても所詮、私は――――――でしかないのか。
いや、それもまた言い訳だった……
「少年?」
「里見さん?」
「あ、いえ……何でもありません。それより、爺さん。誕生日には爺さんの家族を紹介してくれるのかい?息子さんがいるんだろう?」
話を逸らすように爺さんに話し掛ければ、一瞬、きょとんとした表情を爺さんが浮かべ、みどりさんへと視線を向けた。それに対し、みどりさんが小さく首を横に振った。
「爺さん?」
「あぁ、そうだな。少年にもちゃんと紹介しよう」
悪そうな表情を浮かべていた。悪戯を思いついた少年のような、そんな表情だった。
―――
やる事が多くなると頭が飽和状態になってどれから手を付ければ良いかが分からなくなってくる。今の私がまさにそんな状態だった。
湖陽を騙った犯人探し。
部員探し。
試験勉強。
ブログ更新。
日記書き。
茅原泉なる人物に何を聞くかを考える。
直江の事をみずきちゃんに聞く。
そして、私という存在について。
どれから済ませていこうかと考えて、脳内の整理も兼ねてとりあえず日記に手を付ける。机に座り、日記を開き、ボールペンを手に取る。
『20xx/xx/xx 直江京がいない。それが世界にどれほどの損失を与えるのだろうか。そんな風に思うのは後輩贔屓だろうか。いや、そうではないと信じている。勿論私の勝手な期待でもあるが。
以前の私が残したものはこの世界には残っていない。私がいなくても以前の研究が成り立つものであったという事に関しては僅か悲しくもあったが、湖陽の御蔭で何とか持ち直している。彼女には感謝ばかりである。相変わらずふたなり好きなのは許し難いが。ともあれ、私はこの世界に波風を立たせる存在ではなかったという事。けれど、直江は違う。』
そこまで書いて、ページにバツ印を書いて、ペンを置く。
「何が言いたいのやら」
ため息と共に自省し、頭を掻いた後、再びペンを手に取る。
『20xx/xx/xx この世界に『私』はいない。それの意味する所は何か。それを考える。』
改めて動かした手はそんな事を書いていた。
『世界に波を立たせる事もない『私』という存在がいないという事。私の歴史にはいない茅原泉なる人物の影響によるものだろうか。バタフライエフェクト。それによって私という存在は、いや、母と、そして血縁上の父がその影響を受けたという事だろうか。血縁上の父がどのような存在かを私は把握していない。結局、母に対する事件は未解明で終わっている。故に、辿れるとするならば母の家系である。』
そこまで書いて、顔をあげて再び頭を掻く。
辿ろうと思えば簡単に辿れる事をどうして私はしていなかったのだろう。論理的に考えれば『私』がいないという事は『母』がいない、或いは『母』にあの事件が起こっていないという事などすぐにわかるというものだ。
どれだけ母のことを大事に思っていたとしても、それでも、自分自身触れたくなかったのだろう。そうやって自分を納得させた。
『母にとってこの世界は楽園となっているのだろうか。私がいないという事はその可能性は高い』
死んだその先では幸せであってほしい、そう思っていた。けれど、『私』の居ない世界があるというのならば、そこで幸せにやっていてくれているのならば……それで良い。『私』の母親ではないけれど、それでも幸せであってくれるのならば、それで良いと……そう思う。
次の週末には母の生家に行ってみるのも良いだろう。
「この年になってもまだ母親、母親って、やっぱり私はまだ大人になれないんだなぁ」
ペンを置き、階下へと向かう。
リビングには今の両親が仲良さそうに歓談していた。穏やかに緩やかに、とても幸せそうに。そんな二人の邪魔をする気はなく、冷蔵庫の中から牛乳を取り出し、カップに入れて次いでにコーヒーと砂糖を入れてレンジへと。ぐるぐると周るターンテーブルを見ながら温まるのを待って、取り出す。
「お姉ちゃん、何その即席コーヒー牛乳」
「あぁ、いなほ。いたの」
「さっきから居たよ……背の高いお姉ちゃんには見えなかったかもしれないけどね!」
髪を拭きながらという事で、今しがたお風呂から出て来たのだろう。しっとりとした濡れ髪が年齢不相応な色気を醸し出していた。やはり美少女というのは得なものだと思う。日々の生活のちょっとした事でも映えるというものである。
などとどうでも良い事を考えながら、カップの中身をスプーンでころころかき混ぜる。次いで、そのスプーンを洗う。そのまま部屋に持って帰ろうと思ったけれど、いなほがいるならこの場で飲むとしよう。
「アライグマみたいだよね」
「蠅と言わないいなほの優しさに私感激」
「あぁ、そうだね。……最近の私、ちょっと毒が減ってるのかな?」
可愛い顔して何を言っているんだろう我が妹様は……。
「そのまま無くしてしまえば良いと思う」
「お姉ちゃん!私を糠漬けにする気でしょう!」
可愛い顔してほんと何を言っているんだろう妹様は。
そういえば、この地方の郷土料理にフグの卵巣の糠漬けとかそういうのがあったなぁと思い出す。誰が何を思ってテトロドトキシン満載な卵巣を食べようと思ったのかは定かではないし、それを2年もの間糠漬けにしておくと毒素が失われるなど誰が思いついたのだろう。本当、日本人の食に対するこだわりというか興味は凄いと思う。
などと更にどうでも良い事を浮かべながら即席あったかコーヒー牛乳を呑む。これだと洗い物が少なくて便利なのである。女子力は大層低いとは思うけれど、実利に富んでいる。
「それ、私にも頂戴」
唯々諾々、食器棚からいなほ用カップを取り出して牛乳を注ごうとしたら止められ、置いてあった私のカップをいなほに強奪され、飲まれた。
「ちょっといなほさん。それは間接キッスですよ」
むむっと思いながら湖陽っぽく指摘してみれば、
「ぶふっ!」
噴き出した。
あぁ、風呂上がりなのに。周囲に飛び散った白い液体が私の服やら顔やらに掛った。何とも生ぬるいコーヒー牛乳が気持ち悪かった。急いでフキンで顔やら服を拭く。乾いた牛乳というのは思いの外匂いがきついので、このままだとペンギン以下の扱いにされそうだし。
「ご、ごめんね。お姉ちゃん」
言いながら、手の甲で口元を拭うという割と大雑把な処理をしているいなほにティッシュと新しいフキンを渡しながら、いやいやと首を横に振る。
「湖陽がいなくて良かった」
「あぁ、お姉ちゃんが白く……ごめん、何でもない。うん、私何も言ってない」
「お気遣いどうも」
くしゅん、とくしゃみをしている湖陽の姿が思い浮かんだ。
さておき。
「飲むならまた用意するよ」
「ありがと。お願いするね」
少し俯いたいなほの頬がちょっと赤く染まっていた。
自然、くすりと笑みが零れる。
それを見咎め不満そうに頬を膨らませているいなほの頬を指でぷにっと押して凹ませてから再度二人分の牛乳をカップに入れてコーヒーと砂糖を入れる。
「あ、砂糖はいいや」
ブラックいなほ誕生の瞬間であった。
更にさておき。言われるがままにそれを電子レンジに入れてスタートボタンを押す。ごろごろと再度廻るターンテーブルを眺めていればいなほが声を掛けてくる。
「あの。その……今日も良い?」
「あぁ。うん、了解。ただし、湖陽には秘密で」
何が、とは問わなかった。
甘える相手のいなかったいなほがこうやって甘えるようになってきたのは良い傾向だろう。
「それはそれで浮気相手みたいな気分になるんだけど」
「姉妹だよ」
「うん……まぁ、そうだけどさ」
ターンテーブルが止まり、それを持って二人で私の部屋へと。
部屋へと入れば、即座に寝るという事は当然なかった。二人分のクッションを床に敷き、テーブルを挟んで二人対面に座ってコーヒー牛乳を呑む。お互い特に何を話すわけでもなく、ちびちび飲んでいた。そうしていれば、机の上に開いたままだった日記に気付いたのか、いなほが興味深そうに私へと視線を向ける。
「今度は何書いているの?」
「何って、いつもの日記だけど」
「見て良い?まぁ、見せてくれなくてもその内勝手に見るけど」
「いやいや、いなほ。親しき仲にも礼儀ありというかね。プライバシーの侵害だよ、いなほ。前にも湖陽に見せたとか聞いたし」
「だって、お姉ちゃんの日記って変なんだもん。私、興味津々だよ」
「変って……」
「ファンタジーというかね。あぁでもね。そのファンタジーが本当だとしてもね。先に言っておくよ。私、お姉ちゃんが別人だろうと気にしないから安心して頂戴。私にとってお姉ちゃんはお姉ちゃんだけだよ」
湖陽が至った結論にいなほが至らないわけもない。内容を思えば信じるには常識が邪魔するだろう。けれど、今の様子を見るにいなほは常識を越えて信じたようだった。だから、ありがたいと思う気持ちと共に、
「ノーコメント」
そう告げた。
「だと思った」
くすりといなほが笑った。
別段、いなほに男であった事を伝えるのが嫌というわけでもないのだけれど、無理に広めるような話でもない。『知っている』という事が無駄になる事はない。けれど、知らなくて良かったと思える事は世の中に数多く存在する。だから、いなほにそんな余計な負担を掛けたくは無かった。
だからこそ、特に『母』のことを見られたくは無かった。今の両親が嫌いなわけではないから尚更だった。ついさっき階下で見た仲の良い二人の様子を思い出し、尚更そう思う。
「でもね、お姉ちゃん。お姉ちゃんが他人のように私を救ったように。私もお姉ちゃんが隠しているという罪悪感から解放してあげたいと思うんだよね……だからさ、勝手に見るよ」
言って、いなほが立ち上がり、日記を手に取った。あっという間の出来事だった。止める間もなく、いなほが日記を手に取り、さらっと中身を読んでいた。反射的に、ついいなほの肩を思いっきり掴んでしまった。
「痛いよ、お姉ちゃん」
「あ……ごめん」
「私の方が悪いんだから謝る必要はないけどね」
瞬間、申し訳なさにぎりっと歯が鳴った。咄嗟に出る行動は、本性であろう。私の本性は所詮--――――いや、他者に責任を求めるのはただの甘えでしかない。
これが『私』なのだ。
「ほらほら、この鞍月ペンギンはまた。気にしないで良いんだよ。妹が悪い事をしたら叱るのが姉の役目でしょ?」
「優しいお姉ちゃんが何を言っているんだか……」
ハァとため息と共に再びクッションに座る。
「お姉ちゃん。私はこれをお姉ちゃんの妄想日記だって思っておくから。例えそうだと思ったとしてもそうじゃないってそう思うから。だから、今後も好きに書いて」
「それ以前の問題で、人の日記を見るという行為を止めてほしい所だけど」
「それは無理かなぁ。だって、お姉ちゃんもその方が楽でしょう?お姉ちゃん……割と危うい感じがするし」
「どの辺りが……」
「誰にも言えない秘密なんて抱えるものじゃないってことかな?」
「誰にも言えないからこその秘密だと思うけど」
「黙れペンギン面」
「……はい」
「せめてプライベートスペースでは気楽でいて欲しいかなって。強いお姉ちゃんも好きだけど、いつまでも気を張っていたら私みたいになると思うし……お姉ちゃんの事が心配なのは湖陽さんだけじゃないってことだよ」
いなほが一緒に寝たいというそんな風に甘えて来るのは、寧ろ私のためだったのだろうか。そんなに気を張っていたつもりもなければ、辛くもなかったつもりだったけれど……それでもストレスは溜まっていたのだろうか。
「外では湖陽さんが守ってくれるかもしれないけど、それ以外の所では私がお姉ちゃんを守りたいかな、って」
「恥ずかしい台詞禁止」
「……煩い。ま、だからさ。お姉ちゃん。さっきも言ったけどさ。私にとってはお姉ちゃんが誰だって関係ない。お姉ちゃんはお姉ちゃんしかいないから……だから。安心して。お姉ちゃんがいた事で、私は確かに救われたから。だから……もう二度と言わないけどさ……『貴方』が私のお姉ちゃんで良かった。『貴方』が居てくれて、良かった。『貴方』が何も残してない事なんて、ない。私は確かにそれを……受け取った」
「……ありがとう」
楽園のようだと、そう思った。
私の存在を認めてくれる人がいる。
私がいる事を嬉しいと言ってくれる人がいる。
こんなに嬉しい事は無いと、そう思った。
何も成せなかったわけじゃない。私は、私が生きていた中で何かを成せなかったわけじゃないのだ。そして、これから何も成せないわけじゃないのだと、それを知った。
妹にその事を教えられて、大人に一歩近づいたように、そんな風に思った。
「で、お姉ちゃん。それはそれとして興味があるので、週末一緒に行こう?最近のお姉ちゃんは湖陽さんといちゃついてばっかりだし……私とも一緒に出かけよう。家族サービス大事」
「まったく、好奇心旺盛な妹さんだこと。了解だよ……ありがとう、いなほ」
「なんの事かわかんないなぁ?」
まったく、良く出来た妹だ。
―――
昔は良くハンチング帽を被っていた。その事を思い出し、爺さんのプレゼン探しついでに帽子屋さんへ行ってハンチング帽を購入し、それを被って今度こそ、とばかりに意気揚々と爺さんのプレゼントを探そうとしていた時だった。
「里見くん!」
一人の少女に声を掛けられた。
一瞬反応が遅れたのはその名前に慣れていないからというのと、道端で女の子に声を掛けられるという事象に慣れていないからだろう。以前は男から声を掛けられる事が何度かあったが、当時は相当に背が低い女の子であったわけで、声を掛けて来る男といえば警察か何とも変な人ばかりであった。いや、だからこそストーカーなどが発生したわけでもあるのだけれども。
ハンチング帽の傾きを少し直しながら振り向けば、そこに居たのは高嶺に咲く花だった。
美少女が制服を着て立っていた。
「……はい?」
この世界で知っている人間なんて爺さんとみどりさん、あとは病院の看護師さんぐらいのものだ。当然、その中にその少女は含まれていなかった。同じ学校の生徒さんだろうという事ぐらいは想像もつくが、誰か分かるはずもない。結果、不審そうな表情をしてしまったのは確かだった。そして、そんな私の表情に少しびくりと少女は引き攣った様子を見せた。
「あの……私です。常盤藤江です」
「常盤……藤江」
当然、聞いた事がない名前だった。
だが、その名字の方は聞き覚えがあった。いいや、寧ろ忘れられない名字だった。
「先輩の……?」
常盤。
それが先輩の名字だった。この地域であまり見かけない名字である事を思えば、この人はもしかすると先輩の親族だったりするのだろうか。
相手が何か言いたそうな表情をしているのを無視して、じっとその顔を見つめる。先輩は別に美男子だったというわけではない。平凡や普通と言った方が良い。だから、この目の前の美少女然とした少女と血縁関係があるのか?と問われればノーと言いたくなる。実際、全く似ていなかった。だからといって無関係か?と単純に考えられるかといえば、難しい。
「その常盤藤江さんが何か私に用でしょうか?」
「里見くん……本当に」
「あぁ、記憶喪失ですか?確かですよ」
爺さんにはその辺りは説明していない。この身体の持ち主の知り合いであればそうも答えるが、そうではない爺さんに態々記憶喪失なんです、などと言う必要もないと考えて特に言ってはいなかった。いやまぁ、今更言った所でうさんくさがられるだけだ。翻訳の仕事をしている以上、記憶喪失と言われても爺さんも頷けないだろうし。
「そんな……ほんとうに私のことを、忘れてしまったんですか?」
「貴女みたいな美少女のことは人間、一度見たら忘れないかもしれませんが、記憶を失ってしまっては忘れたくなくても忘れるというものです」
「っ……」
私の不躾な発言に、少女の眦に涙が浮かぶ。
ぞくぞくした。
した瞬間、またしても自分を殺したくなった。
度し難い。
ため息と共に帽子に手を当て、頭を振る。
「失礼。……あれですか?もしかして、里見君と恋人同士だったとかそういう話でしょうか?」
「そうではないですけど、そうではないですけれど……」
「仲は良かったという事ですかね。この里見何某くんは意外にやり手であった、と」
「本当に……別人のようですね」
「記憶を失えばそんなものでしょう。お時間があるようでしたら、少し話をしませんかね?どうせ今日は買い出しに来ただけで後の予定はありませんし」
「……はい」
これではナンパ男だな、と思いながらも常盤藤江さんと並んで喫茶店へと向かう。
中心街から少し離れた場所にそれはあった。雰囲気のあるレンガ造りの喫茶店。そこに二人連れ添って入る姿はどこからどうみても学生カップル然としており、しかも私が連れているのが美少女と言う事も相まってか、店の中にいた客からの視線が痛い。なんであんな軟弱そうな奴がなんて声が聞こえて来ても不思議ではないように思えた。あぁ、もしかして、前に襲ってきた彼らも同じ理由だったのだろうか。それにしては女の子達も居たのは解せないが。
考えている間に店員に窓際の席へと案内され、二人対面で座った。
窓から差し込む斜陽が眩しかった。夕暮れ時。日に日に陽が短くなっているのを感じる。もうすぐ冬。寒い季節が到来する。店の中から外を覗けば、寒そうに身を寄せ合って歩く姉妹の姿が見えた。いや、姉妹だろうか?仲が良さそうなのは確かだが、一瞬見えた顔はあまり似ているようには思えなかった。でもまぁ、それなら尚更百合百合しい感じであり、大好物なのは確かである。目の前の少女よりも、自然とそちらに目が向くのは仕方ない事だとそう自分に言い聞かせる。
「知り合いでも……いえ、そんなわけありませんよね」
苦笑が浮かぶ。
「そうですね。私は天涯孤独の身らしいですし、それでいて記憶まで失ってはもはやどこにも知り合いはいません。あぁ、いえ拾ってくれた家の方は知り合いと言えば知り合いですがね」
「拾って……もしかして、その方々に迷惑を掛けるのが嫌だから学校に来られないんですか?」
両の手を膝に置き、背筋を伸ばして、こちらをじっと見つめながら藤江さんは言った。どうか来て下さい、そういう期待と共に。
「はっきり言いますね。この記憶喪失は絶対に治りません。私が貴女の事を思い出す事はありません。ですから、私が学校に行けば、貴女は里見君の事を忘れられなくなるだけだと思いますよ」
「っ……そ、そのようなこと!」
「事実です。淡い期待など捨ててしまいなさい。貴女に産まれた恋心、あるいは里見何某が貴女に対して浮かべていた恋心はもはやどこにもないと」
それでも尚、それを追い求めるのならば、私のようになりなさい。死を認める事なく、世界を越える業を、禁忌に手を出しなさい。
「その方が楽ですよ?」
「そんな簡単に割り切れるわけがないじゃありませんか……」
「そうですね。……でしたら、代わりで宜しければお相手しますよ。貴女が私のことを『違う』と感じれば自然と想いも冷めるでしょう」
打算的な事を言えば、もしかすると先輩に通ずる可能性のあるこの人を手放すのは勿体ないという考えもあった。それ故の発言だった。
「本当に……別人のようですね」
「わりとずけずけと言いますね。でも、嫌いじゃないですよ。そういうの」
「す、すみません」
赤くなった顔を逸らし、俯いた。俯いている間に、紅茶を味わう。紅茶の味わい方など知らない私だけれど、こうやって間を持たせるにはちょうど良いだろう。そんな私に釣られるように彼女もまた、紅茶カップに手を掛ける。
互いに一息。
そしてまた、間が産まれる。
からん、からんと扉の鳴る音。店内の喧騒が私達の合間を行き来する。
「里見くん……お願いします」
何を、と聞く必要はなかった。彼女の想いを受け止める事は私には出来ないが、それでも彼女の想いが消えるまで相手をするのは苦にもならない。まして、こんな美少女である。ある意味役得でもあった。正直、メイド姿が見てみたい。
さておき。
「賜りました。それでどうでしょう。少し、貴女の事を教えてくれませんか?私、貴女のことを何もしりませんし」
「あ……そう、ですね。そうなんですよね……だったら、今の貴方の事も教えてください。こうして偶然会えたのは嬉しいですけれど、また偶然に頼る程私も……その」
少し恥ずかしそうに告げる彼女を冷静に見る。
肉体は所詮、肉体だ。愛すべきは体ではなく心である。それが私の考え。だからこそこうして今この場所にいるのだ。肉体が好きだったのならば、先輩のことだって諦めが付いただろう。仕草や考えが好きだった。それを作り出す心が好きだった。対して彼女はどうだろうか。この肉体が好きなのだろうか。この顔が好きなのだろうか。
まぁ、それも今から知っていけば良い話だ。もっとも、知った所で何があるわけでもない。私がこの少女を真に愛する事はできない。男になったところで、三十数歳までを女として生きてきたのだ。今更、男として女の子を愛する事なんて、それこそ肉体的な意味でしか無理だろう。そして、それは簡単でもあった。自分の体に相手を受け入れるのではなく、自分の体を相手に挿れる方が気持ち的には相当楽だ。男になってその事を強く思う。性欲に流されているようではあるが、事実である。そして、こんな美少女を相手にそれが出来るならば、と考えればそれだけで屹立しかけている。全く、度し難い。
ふたなり系の百合同人誌がエロでしか成り立たない理由が分かるというものだ。相手を貫く物があるならば、貫きたいと考えてしまうのだ。そんな自分が嫌いではあったけれど、それでも尚、私は流されそうになるのだから……本当、度し難い。
こうして自分が男になったが故に、昔のように単にふたなり百合、なんて事を軽く言えなくなると言うのは何とも悲しい話である。興味深かったものから興味が薄れて行く事が何とも切ない。とはいえ、嫌いになったか?と言うとこれもまた違う。今でもああいうのが好きなのは事実だ。
私がふたなり百合を好きになったのはいつごろだろう。先輩に会う前からという事は無かったように思う。どちらかといえば普通に男女愛の方が理解できる性質だった。それがそうではなくなった理由はやはり先輩かな?多分そうだったと思う。先輩の嗜好を理解しようとして、ドツボに嵌まったに違いない。ミイラ取りはミイラとなり、深淵を覗く者は深淵に覗かれているものだ。
もっとも、それでも最初は単に綺麗なものが好きだったのだと思う。女性らしさが作り出す造詣が好きだった。そして、それらが絡み合うのがまたとても綺麗だと思えた。そして、それらが混じり合うための肉の棒の存在。それをもって完成するのだと思った。そんな完全性を私は望んだのだ。
それはつまり、肉体の方を重要視していたという事に相違ない。今の私はそうではないが、当時はそう思っていたように思う。まぁ、でも、そんな事を思っていても結局、女として先輩に抱かれたいと思うのは事実だった。女の喜びを植え付けられたいと願う思いがあるのは事実だった。
「どうかしたんですか?」
「いいえ、何でもありませんよ」
とはいえ、寧ろ、先輩の死後の方がそっち方面への懸想は強かった、いや、酷かったように思う。先輩の死後に先輩の事情を知って尚更先輩がふたなり少女だったら、なんて現実逃避をしたのを思い出した。そういうファンタジー世界であれば先輩が気兼ねなく私を抱けるだろうから。女性に男根を付けた所で精巣が無いのだから子が産まれる事はない。もっとも、極端に性愛から遠ざかろうとする先輩がふたなり少女になったからといって私を抱いてくれるかというと疑問符が沸くけれども。
あるいは先輩が女で、私が女だったら素直に愛し合えるのだろうか。それが一番収まりは良いように思う。先輩もそれだったら気兼ねなく抱いてくれるだろう。抱かせてくれるだろう。子が産まれる事がない性愛に何の意味があるだろうか。きっと、ない。けれど、それで伝わる想いもあると、私は思う。触れていなければぬくもりは感じられないのだから。
しかし、先輩が女の子になったらどんな子だろうか。メイド服の似合う美少女だったら良いな、と思った。
「今、どちらに住んでおられるのですか?」
突然、そんな事を言われて一瞬頭が飽和した。先輩の事ばかり考えていた所為で、この先輩と同じ名字を持つ少女の存在を完全に忘れていた。
「あぁ、ええと……茅原という爺さんに拾われてね。その家に住んでいるよ。でかい家だね」
「茅原……あの茅原様ですか?」
「様……女学生に様付けで呼ばれるなんて爺さんやるなぁ」
実際、爺さんが何をしている人なのかを私は今一理解していない。正直、毎日のように病院に通って適当に誰かを見繕って話し掛けるインテリ老人という印象しかない。
「ご存知ないのですか?」
「ないですね」
「……それはまた、何と言いますか」
「屋敷が広すぎて掃除が大変そうだ、くらいは分かりますよ。みどりさんが一人で大変そうです」
「みどり……さん?」
一瞬、彼女の表情に浮かんだのは嫉妬だった。
「家政婦というかメイドさんですね。未亡人だと思われる御嬢様然とした年上の方ですね」
「その方と……その里見くんは」
「戯言を言い合うぐらいの仲でしかないですよ。私も爺さんから仕事を頂いている事を思えば同じ主に仕える御同輩とはいえるかと思いますけれども」
「そう……ですか」
「そんなに心配でしたら、一度会ってみれば良いんじゃないですかね?別段誰かを呼ぶなとは言われていませんし。爺さんのことですから可愛い女の子を連れ込む事ぐらい許してくれるでしょう」
くすり、と笑みが浮かぶ。
「常盤さんのようなメイドさんと一緒に暮らせたら、私、嬉しいですね」
「……本当、違うんですね」
「えぇ。違いますよ。『私』は貴女の里見くんではありません。これからの里見くんではあるかもしれませんが……さて、どうします?」
しばしの沈黙の後、先輩と同じ名字のこの少女が爺さんの家に来ることに決まった。もっとも、メイド云々というのは私が勝手に言っていただけなので戯言でしかない。
しかなかったのだけれど……『年若き少年が夢を叶えようとしているのだ。それに手を貸すのは大人の役目だろう?』という爺さんの一言で常盤さんがバイトのメイドさんとして雇われる事になった。
爺さんグッジョブ。
―――
寒空の下の中、繁華街を抜けて、裏通りへと向かう。
小学校の隣を流れる用水沿いを落ち葉が埋めていた。小学校の内側と外側、それを分離する桜の木。春になればまた綺麗な花を咲かせるだろうそれを横目に、いなほと連れ立って用水沿いを歩く。
しゃり、しゃりと落ち葉を踏む音が耳に残る。
「懐かしいなぁ」
小学校を見上げながらいなほがそんな事を口にする。
「あれ、いなほの小学校ってここ?」
「うん。『前』のお姉ちゃんは違うけど……『今』のお姉ちゃんはもしかしてここ?」
ファンタジーだと思って忘れると言っていたわりにこれである。まぁ、別に今更隠し立てしても仕方ないわけで。単純に頷いた。
「ふぅん」
「そこの施設にいたからね。必然、この小学校だよ。あっちの方にあるんだけど、知ってる?」
「うん。何人か友達がいたかな」
なるほどね、といなほが頷いた。
ひらひらとしたフレアスカートを翻しながら振り向いて、にやっと笑う。薄手のコートと相まって、今のいなほは正統派の美少女然としていた。対して私はといえば、ジーンズにフード付きのパーカというあんまりにも適当な格好だった。いや、楽なんです。勿論、出掛けにいなほに怒られた。『もうちょっと服に気を遣わないと湖陽さんに愛想尽かされるよ?』とか何とか……。まぁ、もっともその後、
『湖陽は下着さえしっかりしていれば満足しそうだよ』
『……変態?』
『割と』
という身も蓋もない会話をしていたけれども。
さておき。
さらに歩いていれば校庭が見えた。学童野球というのだろうか。何人もの小学生が野球の練習をしていた。コーチの指示に従い、延々と守備練習。小学生時分からストイックな話である。
「あ。あの子、可愛い」
「いなほは年下好き……って女の子」
目を向ければ男の子達に混じって一人の少女がいた。そういえば、小学生の学童野球は男女の別がなかったか。差別される事もなく、その少女は他の男子と同じように練習に参加していた。とても楽しそうだった。練習ばかりで不貞腐れている少年達もいる中で、その少女が、一番、楽しそうに見えた。
なるほど、確かに可愛らしい。なるほどね、といなほに視線を送れば、
「は?当たり前だけど?なんで男の子なんて見なきゃならないのよ」
睨まれた。
何を持って当たり前なのかは皆目見当がつかない。が、しかし、そうか。年の差百合というのも良いものである。産まれてこの方お姉ちゃんであるいなほにとって、年下は庇護の対象であり、慈しむべくものだと考えているに違いない。あぁ、違いない。よし、今後はもっといなほの挙動に注目するとしよう。うん。
「お姉ちゃん、きもいからその顔止めて」
そうやってぷんすか、と怒るいなほも可愛いのであった。
閑話休題。
ぷんすかしながら先を行こうとするいなほを押し留めて、私が先へと向かう。
道を歩いていれば、懐かしいレンガ造りの喫茶店が目に入った。その窓際にどこかで見たような男の子の姿があった。男の知り合いはいないはずだけれど、と脳内を検索していれば、いつだったか校門前で濡れていた少年と合致する。その少年の対面に座る少女が目に入り、なるほど巧くいったのか、と偉そうに笑みを浮かべる。百合ではないけれど、そういう幸せそうなシーンを見るのは嫌いではない。リア充爆発しろなんて思うこともない。相手の女の子が幸せであれば何よりである。表情を察するにまんざらでもないようだし。
「知り合いでもいた?」
「いや、知り合いというわけでもないよ。見た事ある程度かな」
ふぅん?と訝しそうな表情を浮かべるいなほに向かって首を振る。少し後ろ髪を引かれる想いを抱きながら、そうしてその通りを過ぎる。是非今後も巧くいって欲しいなんて偉そうに思いながら。
「ところで、どこに向かっているの?」
「……どこと言われると、『常盤』さんの家」
母の生家。
常盤鈴見、それが母の名前だった。
鈴のように玲瓏で、鈴のように麗しい音を奏でる子であれ。そんな思いを込めて付けられた名前なのだろうか?それを聞くことは私には出来なかった。許されなかったと言った方が良いのだろうか。だが、人づてに名前の通り、可愛らしく、愛らしい人であったというのは聞いている。気高いバラの様な人でもあった、とかも聞いた。
「常盤……常盤?」
母を思い浮かべる私を余所に、しきりにいなほが唸っていた。
「もしかして、知ってる?」
「なんか聞いた事はあるんだけど……どこだっけ?」
「思い出したら教えてよ。……じゃあ、ちなみに『直江京』という名前に聞き覚えは?」
「うーん。それはないなぁ」
やはりそちらはみずきちゃんに聞いた方が良さそうだった。いなほが茅原の家にいた期間は短い上に、そこで見知った事は覚えていたくもない事だろうし、予想通りといば予想通りだった。
更に進み、母の生家へと向かう。
小学校を過ぎ、近所の公園を過ぎればすぐの所にその家はあった。比較的大きな家だと思う。中流階級といえば通るぐらいには大きな家だった。そして、それは記憶にあるそのものだった。昔、何度か母の姿を追い求めてこの場に訪れた時に見たままだった。
「そうか……常盤の家はあるのか」
小さな庭がついた二階建ての家。日本家屋が並ぶこの場所にはちょっと珍しい鉄骨コンクリートの二階建ての家。私にとっての祖父が建てた家だった。長い年月を経て何度か修繕工事がなされたらしい、その家。それが、今、目の前にあった。
表札を見れば祖父母の名前。当然、私の名はなかった。そして、母の名前もなかった。もしかすると誰かと結婚して家を出ているのだろうか。それとも……
自然、表情が暗くなった私を察したのか、いなほが私の手を握る。
「妹に守られるのはちょっと気恥かしいね」
「家族だからね」
くすりと笑ういなほは綺麗だった。
その時だった。
からん、という鈴の音と共に……その名に相応しい女性が一人、扉の奥から現れた。
写真でしか知らない母。
けれど、見間違えるはずがない。
一度たりとも忘れた事はない。
「あれ?あの人……佐奇森さん?でもあんなに若くないし……」
そんないなほの呟きを気にする余裕などなかった。
自然、涙が零れた。
生きていた。
頬を通り零れて行く。
笑っていた。
とめどなく流れて行く。
幸せそうだった。
家の中に向かって手を振りながら、にこやかに庭を通り、家を出て行くその姿。
嬉しくて、とても嬉しくて、いつまでも涙が止まらなかった。大の大人が情けない。三十路近くの男が情けない。そんな風に自分を叱責した所で一度堰を切った涙が止まる事はなかった。
「お、お姉ちゃん!?」
感情が押さえきれなかった。手で顔を覆う。膝が崩れ落ちそうになる。耐えようとしても耐えられなかった。
「大丈夫?お姉ちゃん。ねぇ、お姉ちゃん」
その場にぺたん、と腰を下ろしてしまった。
そして、子供のように。ただ、声を押し殺して、母に聞かれないように。あの幸せそうな母に聞かれないように……立ち去って行く母に目を向ける。顔を覆いながら、その隙間から。涙に滲む視界で母の背を見つめる。
私の手は、母に届きはしない。
けれど、それで良い。
そこに私なんていなくて良い。
母が幸せであれば、それで良い。
あぁ。
どうか。
どうかそのまま幸せでいて下さい。
それだけが、私の……
「貴方の息子であった私の……願いです」