第3話 私の図書館スタディ & 私の図書館メモリー
3.
一つ目の翻訳バイトが終わり、爺さんから称賛と共に多少の給金を得て、さて何をしようかと考えた時、何も思いつかなかった自分が心苦しい。その金を使って先輩の生家にでも行ってみようかと思ったが、大して遠くない上に、そんな事をした所で意味もないと気付きやめた。
そもそも別の世界に移り、同じ存在に移り変わるなどそれこそ限りなく0に近い確率のそれよりさらにまた小さな確率でしかない。かなり検討しても私のように他人に、しかも性別まで変わるのだから、先輩が『先輩』のままであるはずもない。それ以前に、先輩がこの世界に辿りついた保証すらないわけで。だから、正直闇雲に探すしかないのが現状なわけである。
だったら、思う通りに事を行うしかないわけで、思い立ったが吉日である。
「図書館に行こう」
もし先輩や他の人間がいるのならば、自分の知る歴史と違うだろう。バタフライエフェクトを語るまでもなく、色々とこの世界に違いを生じているに違いない。勘違いされやすいが、カオス理論はカオスと言う秩序があるゆえに、初期値が同じであれば同じ挙動しかしない。初期値の微妙な違いによって出て来る結果が大きく違うのがカオスである。故に、私と言う初期値からのずれを内包してすぐであれば、その影響はとても小さいはずである。だからこそ、図書館にいって物を調べれば、先輩やあるいは別の世界から来た者達の影響を知る事ができるだろう。
例えば、共学が女子高になっているとか。どうだろう。そんな事はあるだろうか。女子高を作って全員にメイド服を装着させてきゃっきゃうふふしている姿を見たいと思う鬼畜野郎がいるならば、あるかもしれない。どうだろう。
出掛ける用意―――といっても着替えるぐらいのものだ―――をして、家を出ようとした所だった。部屋を出て、階段を下りて、玄関を通れば、庭で掃除をしていたみどりさんと出くわした。陽光の下、箒を持ったメイド姿のなんと麗しい事か。このままメイド姿のみどりさんと一緒に時を過ごすのも良いなどと阿呆な考えが浮かぶぐらいである。だが、これは世界の罠に違いない。私と先輩を会わせないでおこうという世界の意志に違いない。だから、それから逃れるように、選択肢を絶つためにもみどりさんに行き先を告げた。
「図書館ですか?本日は休館日だったかと思いますが……どうでしょう私の勘違いかもしれませんので電話して確認されたらどうでしょう?」
気勢を削がれた気分だった。やはり世界は私と先輩を会わせる気はないのであろう。だが、寧ろそんな事をされれば反骨精神というか、なんというか。みどりさんに勧められたように屋敷に戻り電話を掛けて確認してみれば、今日は開いているという事だった。安易にメイド姿のみどりさんときゃっきゃうふふしようと思わなくて良かった。世界の意志に勝ったのである。小さくがっつぽーずをした後、電話を置き、庭に戻ってきてそれをみどりさんに伝えれば恥ずかしそうに俯いた。可憐である。せっかく勝ち取ったものを棒に振ってしまいそうなほど可憐だった。見目の良さがそのまま可憐さに繋がるかといえば否定せざるを得ない程であった。まぁ、もっとも、別段みどりさんは不細工というわけではないけれども。
さておき。
「やっぱり一人で掃除は大変じゃないですか?」
話を逸らすがてらにそんな事を聞けば、私の意図を把握したのか一瞬、これまた気恥かしそうにしたものの、顔をあげて笑みを浮かべた。
「一日でやろうと思うと大変ですね」
庭園を見渡しながらそう告げる。
「あぁ、そういうものでしたか」
適当に作り上げた話題だった所為で咄嗟に巧い返し方を思いつかず、そんな返答になってしまった。結果、しばし二人の間に沈黙が流れた。
けれど、嫌な沈黙ではなかった。そのままみどりさんをその場に置いて図書館に行こうと思わないぐらいには。今暫くは語らっていたいと思わせるぐらいには。
話の種を見出そうと私が紅葉に目を向ければみどりさんもまたそちらの方に目を向ける。みどりさんが別の方を向けば今度は私がそちらへと視線を向ける。それが僅か心地よいとそう思った。
「みどりさん、ここは長いんですか?」
自然と、そんな言葉が口をついて出た。
「いえ……そうでもありませんね」
少し考えるように、私から視線を逸らし、右手で左手を覆い隠した後、呟くようにそう応えた。覆い隠されたのは薬指。そこに輝く物。婚姻の証。
気付き、しまったなと少しばかり後悔を浮かべた。
「そうでしたか。……それでは、夕方には戻りますので」
「あ、はい。行ってらっしゃいませ」
今暫くとは思っていたが、出来そうになかった。少しばかり残念に思いながら、その場を後にする。
みどりさんは薬指に輝くそれを送った者が亡くなった後、ここに来るようになったのだろう。
住み込みでメイドをやっている人がそんな指輪をしているという事はきっと、そういう事なのだろう。赤の他人である私を拾ってくるような爺さんである。夫を亡くし意気消沈している彼女に少しでも気が紛れるように、という所だろう。お優しいことだ。
爺さんやるなぁなどと戯れた考えを浮かべながら庭を抜け、門を抜け公道へと。
行き先を思えば車でもあれば、と思う。けれど、生憎とこの身体の持ち主は免許を持っていない。いくら私が運転出来たとしても免許がなければ運転してはいけないのが法律というものだ。そも、車には少しの良い想い出と、大量の悪い想い出しかなく、あまり乗りたいとは思わないのだけれども……。
結果、私は徒歩で図書館へと向かった。
最初は寒いと思っていたものの、小一時間も歩いていれば暖かくもなってくる。この身体も別に身体能力がないわけではないらしく、足が痛くなることもなければ息が上がってくることもなかった。その割に華奢ではあるが……それでも、里見少年が努力はしていたという事なのだろう。他人の努力の上にのっかかるのは私としてはあまり気分の良いものではないけれど、今はありがたくそれを受け入れるとしよう。
折角だからと身体能力を試したくなり、河川敷沿いを小走りに走る。
しばらく行けば見覚えのある風景が見えてきた。里見少年が倒れていた場所であり、私が目を覚ました場所だった。
足を止め、周りを見渡す。
ちらほらと人影が見える。散歩であろう。犬を連れて自転車の乗る黒ロングの女性、楽しそうにボールのやり取りをしている親子、和気藹々とした若い男女達。まさに休日の風景だった。先輩が亡くなってからずっと休日という休日を過ごした事はなかったな、とそんな風景を見ながら思う。一瞬、一秒。ただ先輩へと辿りつくために時間を使っていた。それを後悔してはいない。けれど、自分の居た場所以外ではこんなにものんびりした風景が繰り広げられていたのかと思うと、少し、切なくなった。
その思考から逃れるように頭を振り、再び小走りに走り始めた所で声を掛けられた。
「おい、ちょっとまてよ」
もっとも、そんなどうでも良い声だったので軽く無視して先を行く。ちらっと見た感じでは若い男だった。
「おい、里見!待ちやがれ!」
再度無視して軽くジョギングのような感じで走っていれば、追いかけてきた男に肩を掴まれた、と思った瞬間体が勝手に反応して、背負って投げてしまった。あぁ、素人相手に何しているんだろう私、と思ったものの今の体は素人なので問題ない。えぇ。問題ない。法律的になんら問題ない。以前の私であれば警察沙汰になれば問題だったけれど、と冷静に考えている間にその男は背中から地面へと落ちた。
どすん、という鈍い音と共に男の口から空気が漏れる音がした。
「受け身とれなくて痛かったですね。ま、地面が土なんて少しは楽でしょう?」
他人事のように言いながら、男の腕から手を離してさっさと先を行く。
「っ……まてよっ!」
しぶとい、と思って漸く相手の姿をしっかり確認すれば、なるほどしぶといのが分かる体躯であった。体育会系のごつい体をした人であった。加えて、今更ながらに他の人間もいたのだと気付く。倒れている一番ごつい彼を合わせて男が3名と女が2名。ついさっきまで楽しそうに休日を楽しんでいた若者グループである。大人しく休日を楽しんでいれば良かったのに、と嘆息する。
「私って人気者でしたっけねぇ?」
前の世界ではその方面では有名人であったという自負はある。が、こっちの世界では無名なわけで……などと自分に嘘をついても仕方がない。
里見少年の知り合いだ。そして、彼らが『この身体』を殺したのだ。そう。里見少年は殺されたのだ。死んで魂が抜けていなければ私がこの身体に入る事もなかったのだ。私が導いた理論というのはそういうものだ。魂という存在は、時間や空間に縛られず、その一つ上の次元を行き来できる。故に、並列世界にも行けるし、時間も超えられる。普通ならば所謂あの世だとかいう一つ上の次元で時間の流れに沿って漂い、魂の浄化を受けて転生する。その浄化を無視して別の世界に至る、そんなSF染みた理論である。我ながら、ファンタジーが過ぎると思う。が、導いてしまえばそれはもはや技術でしかない。こうやって実証もしているのだから尚更技術でしかない。
ともあれ、そういう理由で私は里見少年が死んでいたのを知っている。もっとも肉体が崩壊していれば移動先としては不適切であり、入った瞬間に私は2度目の死を迎えるだけだ。だから、肉体ではなく精神的な死、それを里見少年は選択したのだ。この少年達に虐められていたのだろう。その結果、この世界がもう嫌だと、そう願ったのだろう。結果、死んだ。例え自らが耐えきれず精神的な死を迎えたのだとしても、きっかけは彼らである。雨の日にこんな場所で打ち捨てられていたのだ。傷が目立たない程度に暴行され、そして倒れ、それを苦に精神的な死を迎えたのだろう。だったら、それは彼らに殺された事に相違ない。
だったら、
「次は頭から落としますよ?」
そんな挑発の一つもしたくなる。
犯罪者に権利などいらない。いるはずもない。あぁ、そうさ。犯罪者になんて……あの時のストーカーだって……。アレもそうやってさっさと投げてしまえば良かったのだ。早くそうしていれば良かったのだ。家宅侵入の可能性があったため、警察には相談していたものの、どうせ何かされても私ならば大丈夫だと高をくくっていた。事後に警察の初動が悪かったという報道もあったが、非は寧ろ私にあっただろう。真剣に相談しておけば良かったのもそうだし、さっさとアレを自分でどうにかしていれば良かったのだ。その後悔は未だに拭えない。そうすれば先輩がアレに車をぶつけられて殺される事もなかったのだ。
それに―――。
がきり、と歯が鳴った。思い出したくもない事を思い出した所為で、自分を抑えられる自信が無くなった。
誰かも分からぬ男や女が何かを言っている。けれど、そんなものが聞こえないぐらいに怒りの感情が沸いていた。自分自身への。自分以外への。先輩以外への憎悪が私の中から産まれて来る。怒りの感情で物事を行う事ほど悲しい事はない。そんな事言われずとも分かっている。けれど、先輩のように理性で感情を抑えられる程、私は出来た人間ではない。
天才だと、完璧だと言われていた。
けれど、私はそんな大層な人間ではない。たった一人の大事な人が亡くなったことを認める事が出来ずに世界を跨ぐ法を導き出すほどに狂っている。亡くなったと認めて諦める方がどれだけ楽だったことだろう。けれど、忘れる事などしたくもない。できるはずもない。
「あぁ、ありがとう諸君。思い出したよ。私が何をしたかったのかを」
そう。それだ。手段と目的を吐き違え、忘れそうになっていた、いいや、事実忘れていたそれを今、完全に思い出した。もう迷う事などない。もう何も間違えない。ただそれだけを目的として私は……この身体で、この世界を生きて行く。
仮にこの世界で見つからなければもう一度、やれば良いのだ。世界を跨ぐ法は既に私の中にあるのだから。世界差など、時間など……もはや私には関係ない。
「あはははっ!」
狂っていると言われるだろう。事実狂っているのだろう。けれど、あの人を認めなかった世界なんて、そっちの方が狂っているのだ。先輩が認められている楽園は三千大千世界のどこかに必ずあるのだ。
「御礼に手加減してあげるよ、諸君」
だから、そこを目指そう。そのために今生を使おう。
―――
しんと静まりかえる図書館の自習室。
かりかりと鉛筆やシャープペンシルの動く音だけがBGMだった。今日は珍しく学校の図書館ではなく、市営の図書館に来ていた。試験前の土曜日だからという事で湖陽に誘われて二人で試験勉強である。もっとも、根を詰めてやっているわけではない。興味が沸けば別のことを調べたりもしている。そもそもお互い勉強が嫌いではなく、一人でも延々と勉強をしていられるタイプであるし、むしろ私に関していえば誰かと一緒に勉強する方が苦手である。更に加えて普段から真面目に……というと語弊はあるかもしれないが、真面目に勉強している。なので、正直今更根を詰めて勉強する必要もなく、言ってしまえば体の良い図書館デートだった。自分で言うのは恥ずかしいが、結果としてそうなのだから、そうとしか言いようもない。
「ほら、かまってちゃんをかまうのよ!」
「根に持ってるなぁ」
数学の教科書を開いて、1問問題を解いたら、そうやって小声で話掛けて来る湖陽。そうして暫く話せばまた別の問題を解いて、そんな繰り返し。だから、まぁそんな程度の緩い勉強会だった。試験勉強を一緒にやるという雰囲気が楽しみたかったのだろうと、そう思う。
「根といえば、やっぱり蓮華のだん……」
「黙れ男根主義者」
「私が言う前に貴女が言ってどうするのよ」
「……確かに」
戯言である。
ちなみに、後日何が言いたかったのかを聞いた所『蓮華の男根は蓮根並みなのかしら?』と言いたかったらしい。酷い台詞にもほどがある。
閑話休題。
こんな風に戯言を言い合っている暇があるなら、件の犯人探しでもしていれば良いが生憎と土曜日なので学校は休みなのである。
学校とは違う図書館の雰囲気。皆が皆真面目に勉強している姿を見れば、自分達の場違いさ加減が分かるのだけれど、それでもまぁ心地よいと考えてしまうのは恋愛脳的なものなのだろう。
つまり、私も正直浮かれているという話なのだ。何だかんだと魔法使い一歩手前ぐらいまで一人で、ある意味寂しく暮らしていたわけで、こうして『彼女』と一緒に行動していると浮かれてしまうのは仕方ないのである。
そんな言い訳をしながら、手元に本を引き寄せる。
読んでいるのは県内の歴史、より正確に言うならば、県内の偉人について、である。当然、茅原泉のことも記載されている。この本の発行が古かったのだろうか。載っていた写真も随分、古臭いものだった。こういった資料には珍しく写真の出典が書かれておらず、想像でしかないが、四十半ばの写真ではないかと思う。書籍の発行年月日を見れば予想通り、高度経済成長期だった。その時の彼の年齢は四十半ば。この本や、ネットを見る限り、世界大戦中は十代半ばで、現在の年齢を計算すれば85歳である。正直、意外であると感じる人が多いのではないだろうか。ネットで見られる彼の近年の写真を見れば良く分かる。正直、今見ている四十半ばの写真から精々二十年ほどぐらいしか違わないように思う。健康に気を使っているのか、何なのか。どちらにせよ、いつまで経ってのも若々しいというのは凄いことだと思う。
「そういえば、蓮華は、前はどんな子だったの?」
また一問、湖陽が問題を解き終わったのだろう。ペンを置いて話掛けて来る。答えを考えながら開いていた本を閉じる。
「子って……中身は今と大して変わらんよ」
「大して、というなら変わった所はどこなのかしらね?教えてくれると私嬉しくて小躍りするわよ」
「彼女との図書館デートに浮かれている所」
「……普通に嬉しくて反応に困るわね。でも、ちょっと普通過ぎて面白くないわね!ほら、もっと貴女らしくサディスティックな感じで言うのよ」
捲くし立てるように口にする湖陽の、その頬が、血管が浮き出るぐらいに白く透明な湖陽の頬が、少し赤らんで見えた。そんな彼女がとても微笑ましい。
「そうだねぇ。見た目の方は普通だったんじゃないかな?可もなく不可もなくってねぇ。時折どこかの芸能人に似ていると言われなくも無かったけど、でも別に芸能人に似ていても仕方ないしなぁ。私は私だし」
「なるほど、完全に無視とはね!これはまた結構クル反応の仕方よね。恐れ入ったわよ!流石よね、このサディスト」
「あと、プロフィール的に言えば、そこの大学の大学院生」
「……と言う事はやっぱり魔法使い一歩手前だったのね!良かったわね!私が貴女を魔法使いにはさせないから安心なさい!」
「ないけどね」
「生やしなさいよ、今すぐに」
湖陽さんが頬を赤らめて楽しそうに笑っているので何よりです、という戯れた感想を浮かべながら思い出す。
「そういえば、調べてないんだよね。この世界での自分のこと」
「それはまたなぜ?調べる事ができなかったわけではないのよね?」
昨今の情報化社会を思えば自分の名前を入力すれば検索に引っ掛かる可能性も高い。加えて研究をしていた人間として大学院に行っていれば、何度かは学会発表の機会もあるわけで、そういった場合、当然、論文には名前を記載しているため、検索してヒットする可能性は普通の人よりかなり高い。
「怖かったのかもね。自分がいる事が。あるいは居ないことが」
「じゃあ、傍にいてあげるから今、調べてみたら?」
言って、湖陽が私の手を握り締める。痛いと思えるぐらいに私の手を強く握りしめてくる。離さないと、守ってあげると、そう言わんばかりに。
その手を軽く握り返す。
それだけで伝わって来る湖陽の暖かさに心が落ち着いて行く。
目を向ければ、先程まで戯言を言っていた時の表情はなりを潜め、彼女の素が、酷くまじめで真摯な部分が現れていた。月浦湖陽という女性の中でも、その一番深い場所にいる心、遺伝子を残せない事で自らの在り様に憂いていた月浦湖陽の根幹。それが顔を出していた。
「ありがとう」
呟き、スマホを手に、自分の名前を検索する。
懐かしい名前。祖父母に与えられた憎しみさえ込められた名前。珍しい漢字を使っている所為で一気に変換できず、少し手間取ったが……
「……そうか。いない……か」
次いで、震える指先で、教授や先輩と一緒に投稿した論文のタイトルを検索しても、そこにあったのは私以外の名前だけだった。教授と研究室の先輩の名前だけ。そうか。私は……いなかったのか。私がいなくてもその研究は成り立ったのか。そのことが残念だと思った。
けれど、自分がこの世界にいなかった事には思いの外ショックを受けていなかった。
「貴女はここにいる。大丈夫。貴女の存在証明は私よ。だから、この手は離しちゃ駄目よ」
彼女が隣で私の手を握ってくれていたからだという事ぐらいは、私でも分かる。
「ありがとう。でも、思いの外……辛くは無かったよ」
次いで、知っている名前を検索していく。先生方から始まり、先輩方、同級生、そして後輩……その最後。私にとって大事な後輩の名前。それを入力して、絶句した。
「……直江がいない?そんな馬鹿な」
あの天才が、それこそネット検索で引っ掛からないわけがない。彼女の残した軌跡がないわけがない。私の居た時代から数年を経過したこの世界に彼女がいない?そんな事、あるわけがないだろう。慌てるように研究室のメンバー紹介のページを検索し、表示しても、そこに彼女の名前はなかった。
「直江?」
「直江京。後輩だよ。とてもとても大事な後輩だよ。私の後輩で、私にとってはメイド狂いの元祖ふたなり百合好きの男根主義者で、その点、主張は相容れないライバルではあったけれども、だけれど、間違いなく誰もが認める天才だよ。あまり天才と言う言葉を使いたくはないけれど……私はたとえ世界は違ったとしても彼女の人生の先が知りたかった」
「……あらあら、私が本気で嫉妬してしまうなんてね!このペンギン。いなほさんがいうように北極に行ってしまえばいいのよ!ふんっ!貴女なんてあざらしに食べられてしまえば良いのよ!あざらし男根に貫かれて散らしてしまえばいいのよ!……駄目。やっぱり私の心のおにゃんにゃんで貫くから駄目。行っては駄目よ。行かせない」
握りしめた手の平が一瞬離れそうになり、けれども、再び握られた。ぎゅっと両手で私の左手を握り締める。そんな仕草が、逆に嬉しかった。
「……何、情緒不安定?」
「不安定にさせた原因が何か言っているわね!」
「話、合うと思うけどなぁ」
「それとこれとは話が別よ、蓮華。ま、まぁ。確かにふたなり百合好きの女の子というのならば、男根主義者というのならば、ちょっと語ってみたいというかもう徹夜でランジェリーパーティをしながら朝まで語りたいと思う私がいるのも事実だけれども。しかしあれよね。ランジェリーパーティをランパって略すと乱パっぽくて卑猥過ぎるわよね」
真面目な彼女のペルソナは引きこもったようだった。
「口頭じゃ分からない、と言いたいけど、分かってしまった自分が嫌いだ」
「私はそんな貴女が大好きよ」
「……」
「照れたわね?照れたわね?今回は私の勝ちのようね。ふふん。お返しよ。お返しなのよ!最近私、虐められてばっかりで私の被虐体質が進化しそうになっていた所だけれど、これで盛り返したわ」
「湖陽、そんなに慌てなくてもさ。大丈夫だよ。……ところで、今夜はきっと月が綺麗だと思うんだ。それを一緒に、見てみたいと思うんだよ。中秋は過ぎたけど、きっと今夜はとても綺麗だと思うんだよ」
「何を言わせる気よ」
「私が言うのさ」
「……時々気障よね、貴女。でも、空を見てもそこに私はいないわよ?」
月を見上げた所で、月の裏を見る事はできない。けれど、見えないからこそ人は想像したのだ。太陽の向うに反地球があると、そう想像したのだ。けれど、私には月の裏だって見る事ができる。私の目の前に、そこに彼女はいるのだから。
「知っているよ。だって、湖陽はここにいるんだから」
「蓮華、一応言っておくけど私の『うら』は表裏の『うら』じゃないからね?」
「ダークサイドオブザムーンだから闇裏と名乗った人の台詞ではないかなぁ」
「ぐっ……」
変な鳴き声の生物がいた。どうみても我が彼女様だった。
ともあれ、というわけで、夜のお散歩が決定した。というか既に夕方であるので家まで送って行ったら夜になるだろうし丁度良いのである。
そして話題は再び直江の事。
「で、その直江さんがいないって話は?」
「何か理由があるのかなぁ……私と直江だけがいない世界だと考えても良いけれど……それも何と言うか……近過ぎるというか」
「また嫉妬させたいのかしら?あ・な・た」
「都合が良すぎる。いや、この場合悪いのかな。ま、直江のことは頭の片隅にでも覚えておくとするよ。私達二人がいないことに何か意味があるのなら、考えてみたいと思うしね」
「その彼女も世界を渡ったから、とか?」
「渡った先ではその存在が消えてなくなる、という事?どうだろうね……」
存在が無いからこそ別の人に入りこむ事ができる、という事なのだろうか。それもどうなのだろう?世界は辻褄を合わせるように修正するということなのだろうか。世界に意志があるとするならば考えようもあるけれど、私達二人に世界が関与する事もないだろう。私も彼女も何十億と存在する内の一人なのだから。世界の意志が私たち二人を選ぶ必然性なんてどこにもない。
この世界が、培養槽の中の世界というのならば、それこそ直江がいない理由もない。あるいは彼女自身が培養槽を作り出したというのならば、観測者として外にいる事もあろうけれども。彼女ならばいつかそんなものを作れるかもしれないと思ってしまうのは私が夢見がち過ぎるだけだろう。期待するにしてもソレは流石に期待し過ぎだった。
「そういえば、直江の家は結構なお金持ちだとか聞いたなぁ……」
「だったら、みずきさんに聞いてみたらどうかしら?お金持ち同士は繋がりが多そうだけれど。ちなみにラノベ知識」
「その最後の台詞はいらないなぁ……んー。私がいなくなった事によるバタフライエフェクトが彼女の人生の方向性を変えて、別の人生を、単にネットで名前が出てこない人生を送っているだけかもしれないね。それはあるかもしれない……けど、そんな事あるのかなぁ」
彼女と最初に出会ったのは研究室なわけで、それ以前に彼女との繋がりはないはずだけれど、ほんの些細な事。例えば、私が図書館に来たか来ていないか、なんてそんな小さな事でも個人に与える影響は大きいかもしれない。たまたま同じ図書館に直江がいて、私の何がしかの行動を見て、例えば……数学の本を手に持っていた私を見て、進路を決めたとかそんな事があったのかもしれない。結局、単なる想像で妄想の域を出ないけれども。
「でも、そうね。その直江さんに会ったら、ふたなり談義はしたいけれど……私の王子様は渡さないわよ」
ずっと包まれたままの手から伝わる熱が、とても熱いと、そう思った。
―――
市営の図書館に訪れたのは何年ぶりだろうか。
子供の頃は良く行っていたが、成長と共にあまり寄りつかなかったように思う。最後に行ったのは大学一年生ぐらいの時だっただろうか。
公園に併設された図書館。公園の中を通り、建物へと向かう。幾人かの親子連れが公園で遊んでいるのが見えた。平和な様子だった。先程の変な男や女の集団に比べれば何だって平和に見えるのかもしれないが。ともあれ、その親子連れは楽しそうであった。父親は芝生に横になり、母親と娘がボールを使って遊んでいた。河川敷でもそんな風景があったな、と思い返す。どこの親子も、普通はあんな風に仲が良いのだろう。そんな風景を眺めながら芝生を抜ける。他にも人はいる。老夫婦が公園のベンチに座りのんびりと時を過ごしていた。語り合う事もなく、ただただ静かに一緒に時を過ごしていた。あるいは子供達の集団が鬼ごっこをしていた。あるいは写真機を構えた男が散る華の儚さを切り取ろうとしていた。
穏やかで、何でもない日常だった。これもまたどこにでもある休日の風景だった。
つい今しがた同級生とおぼしき男を投げとばしてきた私にとっては眩しく感じるぐらいに普通だった。
ちなみに一番でかい男を何度か投げ飛ばしていると他の男達は恐れ、女達は悲鳴をあげて逃げて行った。群れのリーダーが華奢な体躯の人間に弄ばれれば、怖くもなるし逃げたくもなろう。まぁ、人によってはリーダーを助けようとするのかもしれないが、我が身を賭してリーダーを救う気概など彼らの中にはなかった、という話である。そして、そのリーダーといえば、宣言通り手加減をしたので死んではいない。怪我も大してしていない。そのように投げた。もっとも、それこそが彼にとっての屈辱でしかない。いや、どうだろう。最後の方には彼自身怯えているようであったので、屈辱を通り越して彼もまた恐怖の象徴として私を認識したかもしれない。それだったら、今後彼らが私に関る事はないだろうし、楽である。
「まぁ、感謝もしていますけどね」
恐怖を与えるだけ与えておいて何を言っているのか?という話ではあるが、思い出させてくれた事には感謝したい。そうやって彼らに少しの感謝を浮かべながら、図書館へと。
外から中が見えるような意匠は、閉塞感を無くし、公に開けた場所であるという意味合いを持たせているのだろうか。設計した建築家のコンセプトが何かは分からないが、私にはそう思えた。そんな図書館を観光客のようにじっくりと下から上へと眺め、そしてついでとばかりに図書館の周囲を一周してから図書館の入り口へと。
館内には暖房がついていた。時期としてはまだ少し早いように思うが、ちょうど肌寒かった所なのでありがたい。性別が変わった所為かは分からないが、この身体は少し寒さに弱いように思う。それが筋肉量の問題なのか、それとも男女の体温の差なのかは分からない。まぁでも、ほら、女の子って基本暖かいし、性差じゃないかなと思う所である。などと元研究者失格な適当な発想をしつつ、蠅のように手を摩り合わせながら、館内を行く。
そういえば、入口付近から二階にあがれば自習室があったなと思い出し、一旦来た道を戻って階段へと向かう。特に意味はない。しいていえば、子供の頃、この自習室というのが思いの外入り辛い怖い所だったのを思い出したから、ぐらいのものである。今はどうなのか?そんな好奇心だ。年上の人達が机に向かって延々とペンを走らせている姿というのは存外近寄り難いものだったと思う。けれど、自分がそれぐらいの年齢になれば大して怖くもないだろう。何てそんなどうでも良い事を考えながら入口横の階段を昇る。
扉を空け、自習室へと入れば結構な人達が机に向かっていた。ほら、別に怖くない。そんな事を思いながら、その人達の間を抜けて行く。
そんな人達の中に、手を繋ぎ見つめ合って小声で会話をしている女生徒二人がいた。
「なんか、いい」
一人は腰元までありそうな長い髪、もう一人は肩ぐらいだろうか。大変仲が良さそうであった。身体が、顔がひっつきそうなぐらいに近づき合っていた。良い。とても良い。百合は良い。心が洗われるようである。彼女らがふたなりだったら尚更良い。……こんなになっちゃったと片方の手を自分の股間へ持って行く様とか最高である。……いや、その二人がそんな事をしているわけではないのだけれども。ともあれ、この二人がメイド服であればもっと良かったのに。残念。残念。と、その子達のメイド姿を思い浮かべていれば、にやけてしまった。
図書館の自習室でにやける少年A。
それが今の私だった。先輩がここにいれば頭を叩かれた事だろう。叩かれついでに百合原理主義者的に許せないであろうふたなり百合について延々と語られたに違いない。そうやってむきになって語る先輩の姿も好きだったけれど。
さておき。
じっくり足を止めて二人の様子を見るのも変なので、勿体ないけれどもその子達の姿を心に留めて自習室を抜ける。
自習室を抜ければ、書庫と事務室がある。そして、その脇に一階へと繋がる螺旋階段がある。その階段を降り、再び一階へと。
降りた所はいわゆる普通の図書館フロアである。この図書館は大学の図書館程ではないが、割りと広い。加えて市営という事で児童書、小説、専門書、すなわち子供と大人の住み分けがきっちり付けられている。その中から私がどちらへと向かうか?といえば専門書のコーナーである。本当は郷土の歴史や日本の歴史が書かれたものに向かう必要があるのだけれども、研究者の性である。ついつい、どんな専門書が置いてあるのか?と気になるのは仕方ない。
とはいえ、市営の図書館にそこまでの物を求めていないのも事実。本当に専門的な書籍を探したいのならば市営の図書館では物足りない。
専門書のコーナーへと足を運べば、数人の男が本棚を物色しているのが見えた。
そういえば、先輩の好きだった本はないだろうか。先輩が、『これが私の根幹』と言っていた本。
「あるわけないか」
そんな自問を自分で否定してから、本棚を眺める。案の定、大して読みたいと思える本はなかった。オーソライズされた教科書のような本は大量にあるが、分野ごとの細かい内容が書かれているものはあまりない。あったとしても素人が読むようなものしかない。
分かっていた事なので特に落胆はない。
そういえば、図書館の本といえば、私にとっては結構、想い出深い。寧ろ、そこから始まったと言っても過言ではない。
「あ。これだ」
分厚く大きな本だった。装丁も豪華だった。手にとり、片手で持とうとして失敗する。内容としては、単なる数学の公式集である。今となっては『公式』と呼ばれる類のものが定義や仮定から導かれる『覚える必要のないもの』であるのは理解しているが、この本は私にとって非常に想い出深い。
昔、この本を読んでいる人がいた。
その当時の私は受験生だった。
何も知らなかった私は、凄く重そうに本を持っている人がいるな、という印象を受けた。それが気になってついついその人を追い掛けた。その人は、館内の机でそれを広げながらノートにメモを取っていた。時折、嬉しそうに、時折、難しそうに。そして暫くして納得するとまた嬉しそうにメモをとっていた。ころころ表情が変わる人だった。それが何だか面白くてその日は勉強もせずにずっとその人の事を見ていた。そして、その人が本を借りずに本棚に返したのを見て、私はその日、その本を借りた。
借りて帰ったその日、両親に変な顔をされたのを覚えている。確かに受験生が読む本ではなかったと思う。部屋へと戻り、鞄をベッドに投げ捨て、服を着替える間も惜しみ机に向かい、まるで宝物を前にして、それを興奮しながら開く冒険家のようにニヤニヤしながら、本を開いた。
意味不明だった。
全く、理解できなかった。
その本は、開けば誰もが目に見える形で喜べるような、大量の宝石や貴金属なんかじゃなかったのだ。そんな簡単なものではなかったのだ。でもきっと、あの人には宝物に見えていたのだろう。時折難しそうにしていたけれど、あの人はあんなに楽しそうにしていたのだから。けれど、何度見ても、どれだけページを捲っても私にはまったくそれが理解できなかった。
そのことが……悔しかった。
悔しくて、ついつい徹夜で勉強した。勿論、一日では分からなかった。数式一つどころではない。記号一つの意味すら分からなかったのだから。あの当時はインターネットもそれほど普及しておらず、調べ物というのは難しかったので尚更だ。だからひと通りその本を眺めた次の日、図書館の開館時間と同時に、今度は数学の用語集を借りて、すぐに帰ってまたその公式集を眺めた。その用語集でも分からない所はまた図書館に行って本を探した。その繰り返しだった。何日徹夜したかは分からない。その頃は、勉強というものの意味を理解しておらず、記号を暗記するだけという記憶力を試すだけのものだと思っていた。『理解する』という事の意味を理解していなかったのだ。ともあれ、そんな日々を過ごし、公式集を何度も何度も期間を延長しながら学んだ。
そして、理解する事の楽しさを知った。
私はようやく、宝箱を開けられた。宝石なんて金銀財宝なんて目じゃない、そんな素敵な宝物を私は見つけたのだ。そして、その宝物自体が、次の宝箱への鍵なのだ。その鍵を早く使ってみたかった。
わくわくした。
興奮した。
嬉しかった。
楽しかった。
分からなかったものが分かる、ということがどれほど楽しい事なのかを知った。そして、だから、あの人は楽しそうだったのだと理解した。
結果、志望校を変えた。志望する学科を変えた。両親には反対された。女がやる事ではないと旧態然とした理由だった。けれど、学ぶことの楽しさを、未知を既知とする事の楽しさを知った私は、それをやって行きたいと思ったのだ。両親の反対を無視して私はそれを目指した。その結果、私は『先輩』に出会った。出会って……あの時のあの人だと知った。
「……恋を知った瞬間でした」
言って、恥ずかしくなる。
先輩の前では割とテンションの高い変な女を装っていたけれども……いや、まぁ、8割素ではあったけれど……
二人の時間が楽しかった。
そうやって先輩のことを知っていった。ストイックな人だと思った。妄想というか言動はオタク然としたものだったけれど、反面、ストイックだった。いわゆる『遊ぶ』という事をしない人だった。故意に、徹底的に。その理由を知ったのは先輩が亡くなった後だけれど……。
私は、あの人を格好良い人だと思った。
同級生達の意見や、他の研究室の人達からすれば割りとぼーっとしている人だとか格好良くないし、普通だとか色々言われていた。けれど、私にとってはあの人が、あの人こそが格好良いと思ったのだ。他人の意見なんて、どうでも良い。私に生きていく楽しさを教えてくれた先輩。
……ぎり、と歯が鳴った。
ストーカーのことを先輩に話した事はない。
心配させたくなかったのだ。気を遣わせたくなかったのだ。『女性』という存在から遠ざかろうとしているあの人に、私の『女』である部分を見せたくなかった。私と一緒にいても大丈夫なのだと。そういう意味では私は打算的で、面倒な女だった。
その結果がアレだ。
即死だったというのが幸いだったのだろうか。
神様を恨んだ。
神様を憎んだ。
なぜあの人が。
誰もが親を選ぶことはできない。あんな父親から生まれてきた先輩の人生が幸せな人生だったとは思えない。それでも、あの人は誰を恨む事もなく、誰を憎む事もなく、ただ真摯にストイックに生きてきた。
けれど、死後も貶められた。
そんな真面目に生きた人が損をし、認められない世界なんていらないと、そう思った。全部壊してしまいたいとそう思った。でも、そんな事をすればそれこそ先輩が嫌がるだろう。あの人は誰も恨んでいなかった。誰も憎んでいなかった。
「私だけ。私だけが先輩の……ヒーローになれるんですよ」
誰にも渡さないように、本を胸の内で抱え、そのまま歴史書のコーナーを適当に周り、適当にいくつか本を手に取り、借りてその日は帰った。