第2話 私の調べる茅原泉 & 私の見る茅原泉
2.
『先読みの魔術師』
そんなファンタジー小説の主人公のような二つ名というのを与えられている人物。それがいなほとみずきちゃんの祖父、茅原泉だった。
経済雑誌や関連書籍を見ればすぐにその名前を確認する事ができる。世界に影響を与えた日本人、そういう単語で検索すれば彼の名前は随所に出て来る。彼の名を冠した書籍も多く出版されており、そういう意味では前の世界では存在しなかったものが大量に発行されているわけで、それに伴ってこの世界には多くの影響が出ているといえる。その割にはあまり前の世界と技術水準は変わらない。さながら、その全てを理解しながら調整しているかのようにさえ、私には感じる。
バタフライ効果。
北京で蝶が羽ばたけばニューヨークで雨が降るだか雪が降るだかという話。ちょっとした初期値の違いで大きく結果が代わるという事の代表例として称される話。数学的な意味でいえば、カオス理論だろうか。カオスはカオスでカオスという名の秩序がある故に完全な無秩序ではないのだけれども。
「ふむ……」
「何ペンギンみたいに唇尖らせているのよ」
隣に座って別のことを調べていた湖陽が呆れたような表情と口調でそう言った。デフォ顔でもやっぱりペンギンっぽいらしい。
そんな湖陽の言葉に反応する事もなく、幾つかの本を適当に摘んでは要所でメモをとる。
「あら、放置プレイ?放置プレイかしら!さすが蓮華ね!私のことを良く分かっているわねっ!」
楽しそうだった。
そんな楽しそうな彼女を余所に、私は変わらずメモを取る。
こういう時ノートPCがあれば楽なのだけれど、残念ながら持っていなかった。余談ではあるけれど、授業の課題としてレポートが出る事がある。手書きで。今時代になぜ手書きでレポートを書く必要があるのかと、そう思う。どうせ大学なり就職してしまえば手書きというのは殆どないわけで、若いうちからの鍛練としてせめてPCからの提出を義務付ける方が良いのではないかと思うわけであるが……コピー&ペーストされるから、という下らない理由で却下するのはどうかと思う。コピー&ペーストされた文章など見れば分かるだろうに。見ても分からないぐらい整えられているというのならば、それはそれで一つの技術だろう。色んな所からの情報をまとめるという作業が出来ると言う事なのだからそれはそれで評価点として与えれば良いだけに思う所である。
閑話休題。
時折、特に重要そうな単語は後でネットを使って調べる用にスマホ―――ようやくまともに使えるようになってきた―――のメモ帳に登録する。そんな作業を終えてようやく湖陽に目を向ければ、視線を逸らされた。
「放置するだけ放置して今更、何なのかしら!」
「悪いね。この人物がどうにも気に掛ってね……湖陽には言っておくけど、私の前にいた世界にはこの人物は……いない」
「私でも名前を知っているような人よ?それって……」
ぐいっと顔をこちらに向けて、ずいっと近寄って来て……
「近い!何だかちょっと良い香りがするのが嬉しいけど、色々まずいから離れて」
「あら、そんな嬉しい事を言われたらマゾ体質な私としては、もっと近づきたくなるじゃない。酷いわね、このサド」
言って、湖陽が私の肩に凭れた。顎を私の肩において体重をかけてくる。
「いやまぁ嬉しくないわけじゃないけれどさ……」
「じゃあ、文句を言わないで頂戴」
放課後の教室で二人、寄り添って時を過ごす。その事に嬉しさを覚えると同時に、やっぱり他の子達がこうやっている所を見たいなぁと思う。自分がそこに混ざっているという事は、やはり私にとっては許し難い事なのだろう。嬉しくはある。けれど同時に、嬉しくあってはならない、と。
「それでも何か思う所があるなら、これは貴女への治療行為だと思いなさい。だから安心して私を侍らせておけば良いわ」
「治療行為……ねぇ」
「えぇ、治療行為。だから、百合百合しているわけじゃないのよ私達。……その辺りで妥協して納得しなさいな、原理主義者」
「……まったく、敵わないねぇ」
「それはそうよ、敵う必要なんてないもの。私たちは一緒に歩いて行く者同士よ。敵じゃないのよ」
その通りだった。主義主張相容れない部分はあるけれど、それでも私たちは一緒に先を行く者なのだ。遺伝子を紡ぐことのできない者同士、一緒に連れ添って生きて行くのだ。だから、寂しくはない。一緒に歩いて行ける者がいるという事はとてもとても嬉しい事で、とても幸せな事なのだから。
「それで、この茅原泉が貴女のいた世界にはいないというのはどういう事なの?もしかして、そういうこと?」
「比較対象が他にないからね。どちらが『真』なのかは分からないけれど、少なくとも私主観によれば、この人物の存在は『おかしい』。そして、その人物の意見によってこの学校が女子高になったというのも私にとっては『おかしい』事」
「なるほど、ね」
「だから、聞いてみたいと思うんだ。全然違うのかもしれない。私のいた世界が単にそういう分岐を辿った先だというだけなのかもしれないしね。この人物が活躍しなかったという世界だというだけかもしれない」
「なるほどね。で、何が分かったの?」
「書いてあることぐらいしか分からないかなぁ」
「まぁ、そうよね。でも折角だから調べた事を教えて頂戴。貴女の声で聞かせてほしい」
そんな風に言われ、少し恥ずかしくなったものの、その言葉に答えるように彼のプロフィールを伝えて行く。名前に関してはそれこそ有名な人物なので湖陽も知っていた。だが、プロフィールに関してはへぇと何度か相槌を打っていた。
第二次世界大戦中は軍の情報部の手伝いをしている小間使いのような扱いだったらしいが、戦後、頭角を現し始めた。曰く、『先読みの魔術師』である。実際彼が作った企業は一代で世界企業へと発展したのだから、魔法でも使ったように感じられてもおかしくはない。土地の売買から始まり、建設方面や医療方面、金融方面に手を出し、それを元手にいち早く情報産業に出資することで今の情報化社会の基礎に関り、莫大な益を得たとか。先見の明もあったのだろう。それが花開き、茅原グループ連結での売上は兆に届くとのこと。
そんなグループ企業の元会長である茅原泉は、数年前に引退し、今はあくまでオブザーバでしかないそうである。年齢的にもそろそろ寿命なのだろう。見目はまだまだ若々しいらしいが、それでも定期的に病院に通っており、その身を案じられている。
その茅原グループであるが、親族経営を是とはしておらず、現会長は茅原泉のブレーンであった者がその任についている。もっとも、その結果、業績が悪化しているらしいけれども。まぁ、中小レベルの悪化ではないのでグループとしてはびくともしていないみたいだが……。ちなみに彼の息子は一旦高校の教員を行った後に県議会議員となっている。当然、茅原グループからの応援はあるわけで、その内国政にも参加するだろう事は容易に分かる。寧ろ、周囲に求められているといっても良いだろう。
そして、親族であるが、これは世界企業と言われる割には殆どいないに等しい。彼本人とその義姉。そして彼の息子とその妻、あとはみずきちゃんだけだという。彼の兄夫婦には子はおらず、彼の息子も一人だけ。そしてその子供も公称ではみずきちゃんだけである。
もっとも、女遊びは好きらしく、若い頃には愛人が相当数いたらしい。屋敷に多くの女性を囲っていたとか。なんともハーレムである。
「あら、子供はいるのに奥さんはいないの?」
「死別したとは書いてあったけど……」
その辺の情報は殆どなかった。彼と彼の息子の年齢差がある事からかなり晩婚であったといえる。息子の誕生と同時に奥さんを失ったらしく、その後は一人で息子を育てたとか。まぁ、愛人に色々面倒見させたのだろうと思うけれども。そんな家庭環境でもなければ、みずきちゃんといなほという二人の女性から子を産ませるような発想にも至らないだろうし。
「人物像としては……好々爺というのと悪鬼羅刹という二分だねぇ。嫌われた人には後者なのかな」
いなほが言っていた『時を遡る事ができる魔法があったら何をしたい』という問いへの答えに間違えると嫌われるみたいだし。なぜあんな偉い人がそんな質問をするのだろうと悩んだが、まぁそれこそ聞いてみないと分からない。私としては、寧ろ、茅原泉という人物がこの世界の人ではないという理由が強まったように思えた。
「蓮華?」
「何、湖陽?」
「お喋りが御終いなら、暫くこうしていて良いかしらね。貴女の治療のために」
「あぁ、うん。私の治療のためにお願い」
「あと……手も握った方が治療には良いらしいわよ?」
「だったら、それもお願いするよ」
「えぇ」
絡み合う指先。伝わる体温。
日が暮れるまで、そうして二人で時を過ごした。
―――
いつしか爺さん―――そう呼ぶようになっていた―――と話すのが日課となっていた。
大体昼下がりから夕方にかけて爺さんが病院へ訪れ、その待ち時間の間に庭を散歩していた。そして私も、暇を潰す目的で同じような時間に庭へと行くようになっていた。雨の日は院内の待合室で、晴れの日は外で。話す内容は世間話の域を出ない他愛もないものだ。今日は天気が良いとか、病院食が美味しくないとか、病院に来る時に黒猫を見たとか、最近の若い者ははしたないだとか。そんな他愛もない話をしていた時に爺さんが私の家族について聞いてきた。『里見』少年の家族はおらず、天涯孤独だという話を笑ってした。その結果、なぜか……本当に何故か爺さんに引き取られる事になった。
剛毅というかなんというか。
病院で出会った赤の他人を養子として引き取るなど狂気の沙汰ではなかろうか。そんなことをもっとオブラートに包んで言っていたものの、カラカラと笑われただけだった。
結果、退院と共に爺さんの家に住む事になった。あれよあれよというかあっという間というか。まぁ、お金の心配をしなくて良いという凄く現実的な事を考えればありがたい事なのは確かである。そんな風に真実、現金な事を考えながら、爺さんの家の前で呆とする。
「えっと……かやはら?……じゃないか。茅原?……なんだっけそういう声優さんが昔いたような。先輩が好きだったゆりぃなアニメの……」
表札に書かれた名前に、そういえば先輩が薦めてきたゆりぃなアニメの声やOPを歌っている人がそんな名字だったような、そうじゃなかったような。
「せいゆう……ですか?」
「あぁいえ、御気になさらずで」
凄く今更だけれど、そういえば爺さんの名前を聞いていなかった。茅原というのか。そんな納得と共に目の前に立っている女性に目を向ける。
メイドだった。
メイド姿だった。
大正浪漫的な感じのちょっと古めかしいメイド服の女性だった。最高である。何あの爺さん、メイドさんを囲っていたのか羨ましい、と思ってしまう私はやっぱり下種である。でも、メイドに罪はないのである。
まぁ、これだけ大きな屋敷だったらそれも当然かな。元々私自身良い所の産まれであるから屋敷の大きさにはあまり驚いてはいない。加えてお手伝いさんも居たし。だが、メイドではなかった。この目の前のメイドさんのようだったら私は変な方向に走っていたに違いない。ふたなり百合厨から普通の百合厨になっていたに違いない。断言しても良い。えぇ。
閑話休題。
決して見目が良いとは言えないが、とても愛嬌のある顔をしていた。年の頃は以前の私ぐらいだろうか。それよりも少し若いように見えたことを思えば、二十代後半以上だろうとは確信を持って言える。落ち着いた感じの、メイド服が良く似合う女性だった。楚々としているというか、清廉というか。この人自身良い所の御嬢様なのではないだろうか。そんな風に思えた。そも、執事やメイドというのは地位の高い者の仕事だったというではないか。
などと考えている間に、メイドさんが先へ進む。
「どうぞ」
「では遠慮なく」
門を抜ければそこには紅葉した木々が立っていた。苔に彩られた庭園に、紅色、黄色の葉がはらはらと落ちて行く。冬の到来を待ちわびるようなその姿がまた風流に思えた。自然、すん、と鼻が鳴る。フィトンチッド臭、なんてそんな言葉で表現するのがもったいないくらいに見事な庭園だと思った。
「この時期になると庭の掃除が大変で」
そう言って、くすり、と笑うメイドさんの姿もまたそこに似合っていた。大正浪漫なメイド服がまた、庭の風景に良く似合っていた。
飛び石の上を訥々と歩きながら正門へと向かう。
日本屋敷と言った風体の屋敷だった。大正浪漫なメイドさんを雇っているならレンガ造りというのもありなのではないだろうか、そんな場違いな事を思いながら、屋敷に目を向ければ再び鼻がすん、となった。
屋敷を作る木の匂いだろうか。
「どうぞ、ご自宅だと思ってお過ごしください。いいえ、ご自宅になるのですから御遠慮なくお過ごしください」
そう言ってメイドさんが扉を開き、私を即す。
「そういえば、まだ聞いておりませんでしたが、貴女のお名前は?」
「失念しておりました。申し訳ございません。私のことは、みどり、そうお呼びください」
「みどりさん、ですか。字は緑色の緑ですかね?それとも紺碧のペキでしょうか?」
「いえ、仮名文字でみどりで御座います」
少し照れたように、みどりさんがそう言った。
「お似合いですね」
「いえ、とんでも御座いません」
そう言って再び照れくさそうにみどりさんが笑った。振り返り、庭園を見渡せば、その姿形にその名前は、やっぱり良くお似合いだなと思う。メイドなのが尚更に。
「それでは、ご案内いたしますね。里見様」
「はい。宜しくお願い致します」
二階に位置する自身の部屋となる場所をまず案内してもらい、次いで食堂、風呂、炊事場、洗濯場、書斎を案内してくれた。書斎が特に気に入った。爺さん御自慢の書斎だそうだ。実際に中を見れば自慢するのも分かるというものだ。これだけの書籍を良く集めたものだと思った。許可を貰っていない以上、手に取って見るのも憚れ、外観を見るだけだったがどれもこれもが豪奢な装丁の成された本だった。例えば海外映画に出て来る中世の船の船長室にある高級そうな書物といえば分かり易いのだろうか。私の頭の中のイメージはまさにそんな感じだった。実際、この書斎自体もそんな印象を受けた。レッドカーペットが尚更、その認識を助長させたに違いない。
そうやって書斎を堪能していれば、書斎の窓から、車が門の前に止まったのが見えた。それをみどりさんに伝えれば爺さんの送迎用の車であるとのことだった。それにしてはえらく排気音の大きな車だなと思っていれば、そこから爺さんが降りて来て、こちらに気付いたのか手をあげた。それに応えるように私も手を挙げ、次いでみどりさんと一緒に連れ立って爺さんの所へと。
「爺さん、金持ちだね」
「そこそこ、だな」
「これでそこそこというのは、他の人達に失礼でしょう」
「確かにな。ま、少年は自由に過ごしてくれ。ここで過ごすもよし、学校に行くのも良し、好きに過ごすと良い。私が帰って来た時に話し相手にでもなってくれればそれで良いのでね」
「美少年を囲っているとかいう噂が立たない程度にしますね」
「自分で言う事か?」
「客観的な事実でしょう?」
「否定はせんがね。みどりもどうやら君が気に入った様子であるしな。何かあったらみどりに聞くと良い。この屋敷のことは全て彼女に任せてある」
その言葉に、みどりさんが静かにお辞儀をした。腹に両手を宛て、腰から上だけを綺麗に折り曲げるそんな所作が、とても心に響く。職業メイドってやっぱり良いよね、と。とはいえ、こんな広い屋敷を一人でというのは大変ではなかろうか。そんな疑問が口に出た。
「他の方はいないんですか?」
「最後ぐらい、静かに過ごしたいのだよ、少年」
「その割にお忙しそうで」
「はっはっは。殆どが病院だよ。ただ、一人で生きて来たわけではないからな。それ以外にもやる事はあるのだよ。少年」
「少年、少年煩いよ。爺さん」
「そこは諦めてくれ少年。爺とは、年寄りとは煩いものさ。特に私の様な話したがりはね」
「諦めが肝心と言う言葉もあるしね。承知したよ、爺さん」
互いに苦笑する。そんな私達の姿を見て、爺さんの横でひっそりと立っていたみどりさんが手で口元を隠して笑っていた。
「そうだ、爺さん。書斎の本、読んで良いかい?」
「少年はあれが読めるのかね?」
「英語ならなんとかね。ドイツ語は微妙な所だよ」
「ふむ。若い身空で大したものだ。ならばあの本は自由にすると良い。それと折角だ。翻訳の仕事でもしないかね、少年。当然、給金は弾む」
「翻訳?別に構わないけれど、それって態々、私に頼む必要があるの?書斎の本って殆ど洋書でしょ。爺さん普通に読めるんじゃないの?」
「私が読んで誰かに解説するよりも日本語で書いてあるものを渡した方が早い事もあるのだよ。死ぬまでには全部訳して誰かに引き継ぎたいものだ」
「ふぅん。了解だよ、爺さん。承ったよ。……とはいえ、人探しのついで良ければ、とは言わせてもらうけれどね」
苦笑しながら伝える爺さんの姿を見て、きっと私に仕事を与えてくれようとしているのだと察した。何かをしている方が気を紛らわせることもある。だから、その好意に甘えるとしよう。
「それは助かる。どうにも専門用語というのは苦手でな。数式や物理現象について書かれているともう手に負えんよ」
にやり、と笑う爺さんを見て前言を撤回したくなった。けれどまぁ、そういう方面ならば、である。
「だったら、私の得意分野さ。大船……戦艦にでも乗ったつもりで任せると良いよ」
「それは頼もしいな」
爺さんがからりと笑った。
その後、爺さんとみどりさんと一緒に食事をした後、風呂へと入った。特別感慨を浮かべる事もなく、いや、まぁふたなり百合好きだった人間としてはトイレの時と言い風呂の時といい毎度毎度気にはなるのだけれども、そこは軽くスルーしておくのが身のためであるからして、しっかりと綺麗にはしたものの、大人しく風呂を上がり、庭園に面した縁側でしばし、体を冷ます事にした。
「今夜は月が綺麗ですね、先輩」
ここにはいないどこかにいる先輩に向けて。
きっと無粋な先輩には伝わらないだろうけれど、それでも言いたくなった。
屋敷の周囲に殆ど照明がない御蔭で、まるで吸い込まれそうになるほど空が綺麗だった。遠い昔に飛び出した光は、長い長い宇宙の旅をして、そんな旅路の果てに地球が生み出した天然のキャンパスに光を灯す。ただの物理現象が、こんなにも幻想的に、魅力的に見えるのは感情というものが人間には備わっているからだ。数式が好きで、物理が好きで、けれどそんな私でも感情は備わっているのだ。
一際大きく、キャンパスに空いた穴のような、いいや、閉ざされた闇夜の出口のように輝いている月に手を伸ばす。そこに手が届けばきっと光に塗れた世界になるのだと信じて。幸せな世界に辿りつけると信じて。
けれど、届くことはない。
私の手がそこに届く事はなかった。
「辿りつけたのなら、私、死んでも良いんですよ、先輩」
人類が月に行きたいと願ったのはきっとこんな気分の日だったのではないだろうか。少し、気持ちがわかった。
明日からの日々が、ここでの生活がどうなるかはまだ何も分からない。けれど、そこに不安などなかった。世界を渡ると決めた時から未知の事ばかりだったのだから。未知を既知へと変えて行く道程が目的すら見失わせようとするぐらいに好きだったから。だから、今更、未知や不安に怯えるわけもない。
「それに、ヒロインを探すのはヒーローの役目ですしね。例え月の裏にいようとも、見つけますよ、先輩」
掴むように手を閉じれば、その中に月が消えた。
―――
相変わらず犯人が見つからず、さりとて部員も見つからず。そんな日々を過ごしていれば、秋深くなり、そろそろ冬の到来が感じられるようになって来ていた。
湖陽相手にこんなことならば、同好会を作ったとしても同じだったのではないだろうか?いや、一応暫定的に部室が与えられたのだから無意味ではない等という議論や紅葉と雪のどちらが百合に相応しいかという議論を電話で延々と夜中まででやっていた翌日。時折、閉じそうになる瞼を擦りながら過ごした午前中が終わり、お昼の時間と相成った。エントロピーが増加するようにクラスの皆が動きだし、がやがやと乱雑度が増して行く。そんな折である。鞄の中からいなほ特製弁当―――割りと渋いラインナップである。―――を取り出し、歴史研究部暫定部室である教室へと向かおうとした所で声を掛けられた。
「蓮ちゃん、蓮ちゃん!」
暁湊ちゃんだった。
彼女はあれ以来クラスの人気者というか、クラスのマスコットである。サイドテールの可愛らしい彼女。乳房が相変わらず大きいなおい、という突っ込みを色んな人に入れられた挙句の果てにさらに少し増量したらしいとの噂のそれをふるふる揺らしながら、私に向かって手を振っていた。
気付き、顔を向ければ犬のようにぱたぱたと机の合間を抜けて私の下へと。
「湊ちゃん?何かあった」
「あったよ!すっごくあったんだよ!だから、しっかり私について来てね!目印はこれね!」
と、たわわな何かを指差した後、背を向けて教室の入り口までタタタタと同じ様に机の隙間を抜けて行った。扉の所までいって漸く、私がついて来ていない事に気付いたのか、振り向いて何でこないの?と不思議そうに首を傾げていた。可愛い。けれど、相変わらず阿呆な子だった。
「背向けられると目印見えないからね?」
「じゃ、後ろ向きに走るね!」
「危ないから止めなさい」
廊下を走るな、というのは本人のためではなく、他人に迷惑を掛けるなという意味だと思う。などと考えながら、湊ちゃんの後をついていく。
「お昼まだなんだけれど」
「私も!」
だよね。聞いた私が馬鹿だったと思う。思いながらスマホでいなほと湖陽に今日は行けないかも?という感じの連絡を入れる。即座に『ふぅん?』という何だか不機嫌そうなメールが返って来た。いなほだった。
『いや、何やら湊ちゃんが、用事があるとか何とかで、現在連行されている最中です』
『ペンギンからグレイに進化していたとは知らなかったよ。で、連行される基地はどこなのよ。エリア51なら見に行っても良い』
どちらかといえば、湊ちゃんの方が連行される宇宙人然とした身長な気がする。というか、エリア51とか発想が古いなぁ……。
「ところで、湊ちゃん。私は一体どこに連行されているのかなと」
「お姉ちゃんの所!」
『生徒会』
『がんば!』
そんな短文だったけれども、とりあえず、完全に身捨てられたらしい事だけは分かった。と思っていれば、追伸が届いた。
『お姉ちゃんが解体されてペンギンジャーキーになっても食べてあげないからね!』
いなほは優しいなぁ。こっちの身を案じてくれているんだ、と少しでも思うわけがない。というかいなほはいなほでみずきちゃんと湖陽と一緒に今から食事開始であろうに、解体だとか何だとか良く食事中に書けるなと思った所で、またメールが入った。
『蓮華。お昼は昨日の続きだと思っていたけれど、延期ということで良いのかしら?まったく、紅葉と雪なら紅葉でしょう?赤いのよ?紅色なのよ?白百合が百合の象徴だとはいうけれど、そこにまだ白い雪が積もるよりもちょっとしたアクセントとして紅色が混ざった方が素敵じゃないのよ。儚く散り逝く葉を二人眺めながら、自分達の儚さもまた感じるなんて最高じゃないの。男根が生えていたら尚更良いわ。
そうよ、おにゃんにゃんよおにゃんにゃん。初めての白い少女達が作る血染めの華、それは赤いのよ!だから白百合に赤は良く合うのよ。とっても合うのよ。だから、雪より紅葉だわっ!
しかしあれよね、あれ。彼女を置いて別の女の子にほいほい付いて行くなんて全く彼氏の風上にも置けないわね。全く、貴女私が勝手に他の女に付いて行っても何も思わないの?えぇ、思わないんでしょね!ふん!』
……何と言うか、湖陽のかまってちゃんの方向が少し変化したように思う。
『かまってちゃん、乙』
と返信して、スマホの画面を消す。直後、ぶるぶるーぶるぶるーとスカートのポケットの中で自己主張するスマホ。かまってちゃんから着信しているのが分かったけれどまぁ、無視である。無視。出ると長そうなので。
とりあえず、長文書いていたからいなほより連絡が遅かったのね、と理解した。真昼間からおにゃんにゃんおにゃんにゃんと打ち込んでいる我が彼女様の心情は全く理解しえないが。
「蓮ちゃん忙しかった?」
「いや、かまってちゃんがちょっとね」
「かまってちゃん?」
くてっと首を傾げる可愛い生物に、なんでもない、と首を振っていれば、漸く目的地であるところの生徒会室へと辿りついた。
「で、何?南さんが何か私に用があるの?」
「インタビュー?」
「何それ」
「お姉ちゃんが、蓮ちゃんと話をしたいんだって!」
暁南女史が私に何の用があるというのだろう。インタビューということなのでもしかして、以前の湖陽とのツーショット写真の話だろうか……。
考えている内に、湊ちゃんが生徒会室の扉をがらがらがらーっと楽しげに一気に引いていた。
「お姉ちゃん、捕獲してきたよっ!」
捕獲……。
「湊、ありがと」
音に反応してヘッドホンをつけたままの暁南さんが出て来て、湊いえーいと言いながら妹と片手ハイタッチ。次いでお姉ちゃんいえーいと湊ちゃんが言いながらもう片方の手で。さらに一緒に声を掛けながら両手で。再び片手で、そんな行為が暫く続いた。ぱちんぱちんと生徒会室に彼女らの作る音が響き渡る。双子と思えるぐらいに似ている年子の姉妹が、こうやって仲良くやっている姿というのもまた良いものである。ついつい頬が緩んでしまうのは致し方ない事だろう。えぇ。
数十秒後、漸く二人の挨拶が終わった所で、南さんが私に顔を向けた。じっと私を見た後、口角を上げた。少し大人びた感じの湊ちゃんというと南さんに怒られるだろうか。顔、背丈、乳房のサイズ、どれをとっても湊ちゃんと似ている。違うのは落ち着き具合と、サイドポニーの位置が逆なことぐらいだ。もしサイドポニーの位置が逆だったら、一瞬、どっちか分からない気がしてならない。御蔭で、姉妹入れ替えトリックなどという言葉が脳裏にちらついた。
「捕獲されて来てくれてありがとね!」
「いや、捕獲されたというわけでは……」
「とりあえず、ご新規二名様はいりまーす!あ、今は此花ちゃんもいないから安心して入ってね!」
背を向け、片手を上げてどこぞの御店宜しく、口にした言葉。前もそんな感じだったな、と思いながらも、けれど、安心、という言葉が少し気に掛った。言葉通りと受け止めれば良いのか、それとも別に意図があっての事だろうか。そんな疑問が沸いた。けれどそれも一瞬。湊ちゃんに背を押されて部屋の中へと入り、つい立を避けて、長テーブルに設置された椅子へと座れば、浮かんでいた疑問は消えていた。
椅子に座り、持ってきた弁当箱を机の上に置けば、南さんが手でそれを即す。どうぞ、と。いなほ特製のやたら渋い料理を広げ、箸を取り出しそれに手を付ける。少し冷えたおでん汁に浸されたちくわ、煮豆と和風な弁当を突いていれば、南さんが付けていたヘッドホンを外し、湊ちゃんへと手渡していた。
「あ、湊はヘッドホンね!録音禁止区域だよ!」
「了解したよ、お姉ちゃん!どんな話か聞きたかったけど我慢するねっ!」
やっぱり二人揃うとサラウンドだった。元気で宜しい、と大人ぶった表現を思い浮かべながら弁当の続きを、ゴマ塩がふりかけられた白米を咀嚼する。しかし、あれだろうか。いなほは料理を誰かに習ったのだろうか。現母親が作る食事のラインナップからするとどうも和食寄りである。今度聞いてみるとしよう。
ともあれ、南さんに言われるがままに受け取ったヘッドホンを耳につけて、湊ちゃんもまたお弁当箱を取り出し、食べ始める。啄ばむように食べる姿はこれまた可愛らしい。さておき。
「いや、それなら最初から私だけ呼べば……」
一旦手を止めて、口にする。
「気分だよ!気分!」
「あぁ、そうですか」
としか言えなかった。まぁ、二人の仲の良いシーンが見られたので私はどっちでも良いのだけれども。寧ろ良かったのだけれども。本日のブログ更新ネタをゲットである。
「でね、蓮華ちゃん。蓮華ちゃん。ちょっと聞きたいんだけれど」
一転、南さんが真剣な表情で口を開く。
「何です?」
「若宮ちゃんとの噂ってのは本当なのかなっ!?」
前言撤回。
「……若宮君?」
「うんうん!あんまり良い噂じゃないけれどねっ!蓮華ちゃんと若宮君が図書館で隠れてあ・い・び・きっ!二人だけの空間を作って他を寄せ付けないってね!」
そういう話に目を輝かせている辺り、年相応な子だなぁ、と思った。
「確かに仲が良いか?と言われると良いとは思いますが、期待されているような事は何にもありませんよ。どこまでいっても先生と生徒です。ちなみにどこからそんな情報が?」
「裏サイトだねっ。管理者、私っ」
「あんたかよっ」
つい、突っ込んでしまった。物凄い勢いで突っ込んでしまった。
「引き継いだだけだよっ。私何も悪くないよっ!場を提供しているだけだよっ。場を!」
「誰も悪いとか言ってないのに悪くないとか言いだすとか、故意犯っぽいんですが……」
「ぐっ……」
変な鳴き声を発した生物がいた。暁南女史だった。
「しかし、南さんが管理人でしたか……それは、まぁなんというか」
若宮君に伝えようかなぁ。そんな事を思い浮かべていれば、
「蓮華ちゃん。おいたらしたら駄目だよ?」
一瞬、真面目な表情をして、南さんがそう言った。湊ちゃんと同じく笑いっぱなしな感じではあるけれど、だからこそ、ぞくり、と背筋に怖気が走った。
怖いというわけではない。だが、南さんから目が離せなかった。
もっとも、それもまた一瞬のこと。南さんが一度目を閉じ、再び開けば、にこやかないつもの調子に戻っていた。湊ちゃんと同じく、傍から見れば何も考えていない、天然な少女のように。
「ま、でもあれだよねっ!最近はグループなんとかが流行っているみたいだから、その内衰退すると思うよっ。だから安心!次の世代には引き継がれないっぽい気がするよっ!」
「安心できそうにありませんが……で、それだけなんですかね?」
「ううん。違うねっ!……消す?」
「スレッドをですか?管理人がそんな事していたら、評判落ちません?」
「湊ちゃんを助けてくれた蓮華ちゃんの悪口は許さないんだよっ!そんな不義理はできないんだよっ」
ぷんぷんと頬を膨らませて怒っていた。それを見たヘッドホン姿の湊ちゃんがほっぺをぷにっと押していた。ぷすーっと南さんの口から空気が抜けた。仲良いなぁこの姉妹。にやにやしてしまう。ともあれ、
「えらく個人的な理由ですね」
「管理人特権!」
人、それを暴君と言う。
ともあれ、私が湊ちゃんを助けたというのともまた違う気もするけれど……どこからそんな情報が、と思ったが、それも裏サイトなのかな?あぁ、いや。普通に考えて湊ちゃんか。そう思って視線を向ければ、きょとんとした表情をされた。そしてそんな表情のまま食事を続ける辺り、やっぱりこの生物、可愛い。
「火のない所になんとやら、とは言いますが……実際、火ないですしねぇ。それに、どうせ暫くすれば消える噂ですし、別に良いですよ」
若宮君が結婚するという情報が流れれば、そんなの消えて無くなるだろう。だったら変に隠しだてするよりも、と思う。それに、私自身に迷惑が掛る分には正直、どうでも良いと思う。
百合じゃないのが悩ましい所ではあるけれども。ともあれ、それよりも、である。
「それにしてもまた図書館ですか……」
縁があると言うかなんというか……。
「またって何かなっ!?私が知らない情報なんてあったら駄目なんだよっ。さぁ、蓮華ちゃん。吐いて!吐いて頂戴!のど越し良い感じで飲み込んだお魚をおえっと吐き出す感じで!」
意外な性格だった。しかし、考えてみれば、そういうのが好きでもなければあんな雑多な情報が乱立している掲示板の管理人なんてやらないのかな。オープンネットであれば小遣い稼ぎに行う事もあるかもしれないけれど……学内のあまり気分の良いとはいえない掲示板を管理する事で彼女に何のメリットがあるのだろうか。少し、気になった。
「図書館でなりすましをされたといいますか。ブログ書きこみ時にHNを利用されたといいますか」
「残念!あんまり面白くなかったね!」
聞いておいてそれであった。
「でも、あれだねっ。不用心だねっ。あ、でもあれだよあれ。図書館のPCは電源入ってたら、閉館時に図書委員が消すんだよっ。図書委員が怪しいね!」
「まぁ、考えられる可能性としては高いですよね」
図書委員と聞いて最初にぱっと思いつくのは月影さんだけれども……。
「ちなみに―――」
ちなみに、そう言って南さんが口にしようとしたのと同時に、がらり、と生徒会室の扉が開いた。
「あら開いてる……南、いるの?」
「あ。此花ちゃん……じゃ、そういう事なんだよ蓮華ちゃん!ほら、湊もさっさと帰るんだよっ」
「まだお弁当食べているのに、お姉ちゃんったらいつにも増して超サディスティック!」
がぽっとヘッドホンを外されて、ほれさっさと行けとばかりに追い出された私達二人であった。追い出される途中、一瞬合った視線が、此花さんの視線が痛かった。
「……失礼しました」
「お姉ちゃんまたねっ!」
なぜここにいるのか、という視線だろうか。いいや……湊ちゃんに向ける視線を見れば、それは……嫉妬だった。なぜ、『鞍月蓮華』の隣にいるのが私ではないの、というそんな……嫉妬に満ちた視線だった。
それを証明するように、此花さんに見えないように南さんが片目をつむり、手を合わせて、ごめん、と告げていた。
「……その感情はたまらなく良いと思うけれど」
この世界を現実だと、楽園だと考え始めている私には、少し、痛すぎるものだった。私にだけ向かうならば良い。けれど、湊ちゃんや……湖陽にまで向かうというのならば、流石に止めたいと、そう思った。
けれど、きっと彼女の感情を抑えることは私にはできないのだろう。私という存在が鞍月蓮華である以上、私にはきっとどうしようもない。同じ容姿をして、その中身が違うものは違う存在でしかない。けれど、その人を想起させるようなその容姿をしている人が近くにいる以上、忘れようにも忘れられることは出来ないだろう。無関係な人間でなければ、きっと彼女に『鞍月蓮華』を諦めさせることなんて、できない。
「……直江がいたら、こういうのも大丈夫なんだろうかね」
直江京。
あの後輩がいたら、こういう悩む少女に解決策を見つけたりすることが出来たのだろうか。元祖男根主義者ではあったものの、不得意というものを一切見た事のないあの背の低い天才少女だったら、私に解決案を提示してくれただろうか。
いや、ない物ねだりの上に、他力本願というのは流石にどうか。
自分で解決できないからって、後輩に丸投げとは先輩の風上にも置けない。
「……元気していると良いけれど」
私が死んだ後の世界で、健やかに生きていてくれればそれで良いと、そう思う。あの天才の行く末を見てみたいとは思うけれど……。そういえば、この世界の彼女はどうしているのだろうか……?それ以前に『私』はいるのだろか……?
そういえば、それを調べる事はしていなかった。
自分のことだからこそ、目を逸らしていたのだろうか……少し、調べてみようと、そう思った。