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第1話 私の過ごす百合生活 & 私の過ごす病院生活

1.




 ぽつぽつと降る雨が窓に当たり、ぱたぱたと音を鳴らす。次第、雨脚は強くなっていき、ざあざあという擬音がとても良く似合うようになってくる。


 夕立だった。


 運動場で部活に励んでいた生徒達が、突然のことに慌てて校舎まで走っているのが見えた。窓際に立ち、そんな子らが、それでも楽しそうに笑い合っている姿を見て、何とも嬉しくなっていれば、突然、手を握られた。驚きと共に下手人を見てみれば、良く知っている黒髪ロングの女の子だった。何が楽しいのか、私の手に彼女は指を絡ませながら笑っていた。次いで、私の隣に立ち、私と同じ様に窓の外に目を向ける。


「何よ」


「何も?決して、蓮華が私以外の女の子を見ていたから嫉妬したわけじゃないんだから」


「あぁ、まぁ湖陽の場合は言葉通りだよね」


「えぇ、そうよ。寧ろ良い感じの子達がいたら私にも教えなさい」


 繋いでいないもう片方の手で指を指してはくすくすと御嬢様然とした笑みを浮かべていた。相変わらず、そういう笑い方が似合う子だと思う。が、とりあえず、近過ぎである。


「湖陽、近過ぎ」


「あらあら、何よこのペンギン。私に迫られて嬉しくないとか言いたいのかしら!ほら、見てみなさい!貴女の右の御胸と私の左の御胸が合体しているわよ。どう?この淫靡な形!し・か・も。この潰れ合って出来た隙間、これこそ楽園の入り口に違いないわ。さぁ、今すぐ貴女の心のおにゃんにゃんをここに差し込みなさいな!蓮華の男根を!もとい、蓮根を!」


「まぁ、とりあえずだね。黙っとけ、男根主義者ファロクラシー


「何よ、百合原理主義者ファンダメンタリスト。自分の彼女?いえ、彼氏?……どっちかしら。ねぇ、どっちが良い?私の希望を言わせてもらえば、やっぱり私は猫よね」


 急に大人しくなったと思えば、何を悩んでいるのかこの女は。自然とため息が産まれてくる。血管すら透き通る程白い肌、艶やかな黒ロング、それでいて端正な顔立ち。誰が見ても美少女然とした女子高生なのに、中身はこうである。少しぐらい矯正した方が良いのではなかろうか。主に男根主義な所を。


「どっちでも良いというか、わりとどうでも良い」


「相変わらず釣れない人ね。ペンギンだけにやっぱり鰯とか秋刀魚とかで釣らないと駄目なのかしら。あぁ、そうね。秋刀魚、良いわね。そろそろ良い時期だと思うのよ」


「あぁ……それは良いなぁ。皆で一緒に秋刀魚パーティでもしようかね」


「あら?二人でなくて良いのかしら?パーティの後には勿論……うふ」


「何がうふ、だよ。何が」


「それはもう秋刀魚の次はペンギンを食べるに決まっているじゃ---いたっ!?」


 スパーン!という軽快な音と共に湖陽の手が離れ、湖陽がしゃがんで頭を押さえた。まぁ、そういう姿も可愛らしいといえば可愛らしい。そして、その下手人もまた可愛らしい存在である。もっとも、怖い存在でもあるのだけれど。


 最近、髪をツインテールに結ぶようになった御蔭で元より美少女然とした彫の深い顔立ちで可愛かった彼女の可愛さは留まる所を知らずアップしていると私達の中で評判な我が妹である所の鞍月いなほ、その人である。


 そのいなほが、胸の前で腕を組んで、じとーっと私達を見つめていた。睨んでいるとも言うが。


「そこのペンギンとふたなり国のお姫様。ちょっとそこに並びなさい」


 並んでいたのを叩いてしゃがませたのはお前だ、などと言ってはいけない。怒り心頭な妹の前ではお姉ちゃんとお姉ちゃんの彼女さんも形無しなのである。私怒っていますと胸の前で腕を組む姿は、割と素で怖い。ちなみに、いなほは良く見ると三白眼なので、睨まれると怖いのはそれもあるんじゃないかなと思う所である。もっとも、それがまた普段はとっても可愛く見えるのだけれども。


 そして、そんな怒り心頭のいなほの腹違いの妹である所の茅原みずきちゃんが、いなほの隣に立ってはらはらしていた。ぶにっと腕で自分の胸を潰してまるでお祈りをしているかのように手を握って、視線をあちらとこちらの間を行き来させている姿は、これまた相変わらず可愛い。ハーフが羨ましいと言う世の女性陣の気持ちが分かるというものである。いや、私も今は女なのだけれども。


 とはいえ、この子も別段可愛いだけの少女ではなく、我も気も強い子であるからして、『いなほさん素敵』みたいな状態なのだと思う所である。いやまぁ、妄想だけれども、とりあえず今日の分の観察日記のネタが出来たのは丁度良いと思う。うん。


「湖陽さん」


「はい。なんでしょうか、いなほさん。夕立、凄いですわね。私、びっくりしてしまってついついお姉さんに縋ってしまいましたわ」


 頭を撫でながら立ち上がる湖陽が外面100%でそんな事を言ってのけた。が、それは逆効果であった。ぎろり、といなほの睨みが更に増した。


「取り繕ったような口調で話しても今更だからね。そこはまぁ良いとして、よ。自分で部活を作ろうなんて言っていたくせに、どういう事なの?そんなにペンギンといちゃいちゃしたいなら北極に行ってからやって」


「いえ、それはその……つい」


「みずき……はおいといて、折角4人集まってあと一人って所なのに。私、部長やります!とか言っていた人がどういうつもりよっ」


 おいといて、と言われてそれでも喜んでいる茅原みずきちゃんは相変わらずのマゾ体質であろうと、そう思う。さておき。ぷすんすかぷんすかいなほが怒っているのには訳がある。というのも、忙しいのに無理やり連れて来られたから、ではなく、今し方いなほが言ったようにやる事をしっかりやらない輩=湖陽に苛立ちを感じているだけである。まぁつまり、いなほが単にお姉さん気質なだけである。ツンデレサドではあるけれど、一度頼まれると責任感は強いので、真面目に動かない人に怒り心頭なのであった。


「はい。すみません」


 月浦湖陽、形無しである。とはいえ、である。美少女同士がこうやって言い合いしていて、しかもそれを一見、ハラハラと見守る美少女がいるというのは中々良いものである。いや、中々なんて贅沢な事を言っていては罰が当たる。かなり良いと考え改めよう。


「そこのペンギン。そのきもい顔、即刻止めて。あと、後で奢ること」


「なぜ……」


「臨時収入が入ったって聞いたから」


 確かに出来が良かったという事で少し色はつけてもらったものの、単なる短期バイトなので、臨時収入というよりも正当な報酬である。ちなみに現父親の仕事の下請けである。別段、いなほに内緒というわけでもなかったが、折角なので誰かさんのためにプレゼントでもと思ったのだけれど……


「誰に」


「湖陽さん」


「だよねぇ。……湖陽?」


 湖陽にしか言ってなかったし。それも当然だった。


「何かしら、蓮華」


「…………アングラーな貴女に新しい道具でもと思ったけれど、いなほ。オムライスを食べに行こう。卵3つ使うとかいう優れ物。加えてB級です」


「何それ、気になる」


 がーん、という表情の月浦湖陽さんはさておいて、その店に行った昔を思い返す。男時代でも食べられなかったものを今の体で食べられるだろうか、なんてそんな事を考えていれば、


「オムライス……」


 みずきちゃんが何やら考え事をしながら、頬を緩ませていた。


「みずき?」


「昔おじい様に作って貰って食べたのが美味しかったなって……あ、ごめんなさい、いなほさん」


「別に。…………あぁ、思い出した。そういえば、エプロン姿が似合わないと思ったっけ」


「いなほさん、覚えているんですかっ!」


 きゃぴっとみずきちゃんが更に頬を緩ませたていなほに抱きつこうとしていた。結果、いなほが若干引いた。うん。まぁ、でもそういう二人を見ているのもまた面白い。


「そういえば、その爺の……ハーレム爺の誕生日だっけ……」


 抱きつけなくて切なそうなみずきちゃんを無視していなほが話題を変える。顎に指を宛てるという分かり易い考えていますポーズをしている姿を見れば、先程までの不機嫌はどこかに消えたようだった。御蔭でこっそり湖陽がほっとしていた。


「はい。今年も盛大にパーティを行うそうですよ。いなほさん、来られます?」


 一転。どきどき。そんな擬音が聞こえて来そうな程な不安と期待が混ざった笑みを浮かべ、みずきちゃんが上目遣いでいなほに言った。言われた方のいなほは、一つため息を吐き、みずきちゃんの視線から逃れるように私に目を向ける。これまた、にやり、という擬音が聞こえてきそうな程だった。


「なんで私が今更。まぁ、懲りもせず未だに招待状は来ているけれど……あぁでも」


「何よ、いなほ」


「今回はお姉ちゃんに行って貰おうかなぁと」


「いやいや、私は関係……」


 ない。と言おうとして留まった。そういえば、女子高になったのはいなほとみずきちゃんの祖父である茅原泉いずみという爺さんの進言であったという。と言う事は、である。聞きたいことはある。だから……


「いいよ。代わりに行っても良いなら行くよ」


「……お姉ちゃん?」


「……いなほが行けって言ったんじゃない」


「いや、そうだけど……やっぱいいわ。私も一緒に行くわ。そろそろ一言ぐらい文句言わないと気が済まない」


 苦笑と共にこのツンデレサドめ、なんて思っていれば、みずきちゃんは満面の笑みを浮かべてガッツポーズをしていた。ほんと、可愛らしい子である。見た目だけではなく、こういった動きが可愛らしさを尚更助長しているのだろう。一年の美少女ランキング最上位であるのも分かると言うものである。綺麗さだけならば湖陽の方が綺麗なのだけれども……と彼女に目を向ければ、ぶつぶつと何やら呟いていた。


「美少女達の祭典パーティ。あぁ、なんて淫靡な響き」


 ……聞くんじゃなかったと、そう思った。なんでこんな人が私の彼女さんなのだろう。いやまぁ、そう言う所も嫌いではないのだけれど……。


 なんて、そんな風に素直に思える自分に、少し苦笑する。私も少しは成長したという事だろうか。お互いの気持ちを告げあったあの日からそれほど時が経っているわけではないけれど、確かにそんな風に感じていた。子供と大人の体感時間はかなり違う。だから、尚更にそんな風に思えたのだろうか。楽しい時間は早く過ぎるけれど、それでも大人になれない私には長く感じられた。今はそんな時間の長さがありがたかった。長く一緒にいられるという事なのだから。


「あぁ、そうそうお姉ちゃん。爺さんにあったら気をつけなよ?」


 そんな事を考えていた時だった。或いは、オムライスで頭が一杯であろういなほが早々に帰り支度を済ませていた時だった。思い出したかのようにいなほがそう言った。


「何をよ。貞操?」


「そこは別に気にしなくて良いと思うけど。流石にもう枯れてるでしょ」


「女子高生が、枯れてるとか言わない」


「言わせたのはお姉ちゃんでしょ?この変態」


 いなほの言葉に、湖陽が喜んでいた。顔には出していないけれど、間違いなく喜んでいた。破顔しそうなのを無理やり抑えているのが丸分かりであった。ついでに、その麗しい唇からぼそっと、私にしか聞こえないように小さく呟かれた『録音しておけば良かった』という言葉は聞いていない。聞いていないったら聞いていない。


 さておき。


「だったら何を?」


「爺の趣味か知らないけどさぁ。『―――――――――』って聞かれると思う」


 いなほの言葉に、湖陽が一転、真剣な表情をして物言いたげに、私の方を見る。心配そうに、不安気に。けれど、それに応えられる余裕はなかった。


「答え用意しといた方が良いよ?それで嫌われたら、二度と話を聞いてくれないって噂だしね。ま、私達は別だけど……でしょ?みずき」


「そうですね、いなほさんっ!御爺様がどういった意図でそんな事を聞いているのかは私にもさっぱりですけれど……いなほさん知っています?」


「知るわけないじゃない。滅多に会う事ないんだから……」


「……いつ、御爺様と会う機会があったんです?」


「中学の入学前とか?」


「御爺様も蹴倒そうかしら……いなほさんが御爺様の所に来ていたなんて私、全然知りませんでした」


「茅原の家には行ってないよ。爺が無理やり会いに来たんだって。そうでもなきゃ会わないわよ……みずきがいるんだし」


「私のことを気遣ってくれていたという意味なのか、私と会うのが嫌なのかで悩む所ですね……」


「……ま、まぁ。ともかく、『―――――――――』だからね。御姉ちゃん。その少ない脳みそで考えておいてね?」


「……考えておくよ」


 視線を逸らすように、俯き加減に、そう言う事しかできなかった。


 その問いの答えを私はまだ持ち合わせていない。そのことを理解してしまったから……。






―――






 降る雨の中、4人の女の子達が傘をさして校門を通り、歩いて行く。その姿に、少し違和を感じたのは何故だろうか。仲良さそうに話合いながら、帰路についているその姿は至って普通の光景だと、そう思う。にもかかわらず違和感を覚えるのは何故だろう。まだこの身体に慣れていないからとかだろうか。


「それにしても若い」


 呟く言葉が違和を解消するわけもなく、その声は風に消えた。


 消えた声を追う様に視線をその子らから動かし、周囲を見渡す。やはり彼女らと同じ様な学生が傘をさしながら帰路についていた。そして、同じ様に違和を感じた。けれど、その違和感の正体を突き止めるよりも今、最も重要なのはこの身体が誰の物か、だった。


 もっとも、この『彼』がどこの誰だろうと構わない。単純に家があるならば、そこに向かいたいだけだった。自己の存在証明など私には不要だった。例え誰の体で生きて行く事になろうとも、興味はなかった。どこまで行っても私は私であり、この肉体に名付けられた何がしか、ではないのだから。それもあってか、今の私は自分が男であるという認識が薄い。妖精さんになるぐらいに女をやっていたのだから、体が変わったからといってすぐに自分が男であると思えるわけもない。精々、ファントムペイン染みた男根の存在に違和を感じる程度でしかない。


 そんな哲学的かつどうでも良い事を考えながら、学校の壁に沿って歩く。


 壁に手を付けながら、その感触を感じながら歩む。伝わる感触が、ここが現実である事を私に知らせてくれる。……それはまるで自分がこの世界にいる事を確認しているかのようで、そんな感傷が私に残っていた事に驚きすら覚えた。


「この下種」


 無意味に、そんな言葉を紡ぐ。そうやって自分を罵倒していれば少しは自分が真っ当な人間のように思えてくる。もっとも、それも結局、自傷行為にもならぬ自慰行為でしかない。


 生きていることは幸せなのだと億面もなく言える程若くもなければ、年をとっているわけでもない。少なくとも私にとって生きていることは幸せ足り得ない。私が唯一生きている事を幸せだと感じられていたのは先輩が生きていた時で、先輩と一緒に過ごしていた時だけだった。もっともそれも、今はもう時既にというものでしかない。


 無限小より低い可能性に賭けて世界を跨いだ。けれど、その先に先輩がいるかどうかなんてそれこそ無限小以下の限りなく0に近い確率でしかない。


「0に何を掛けても0。でも、割ったら不定。未定義」


 値がある事もある。私の割りきれないこの想いにはもしかすると値がある事なのかもしれない。そんな希望を抱く。


反地球アンティクトンは存在しない。けれど、見えないからこそ何かがあると想像した昔の人達の想いは否定できない。ないと思われていた別世界、多次元世界もこうしてここにあった。故に……限りなく0に近くとも無いわけじゃない。0でなければいつしか1に到達する日も来る」


 でも、それもやっぱりただの自慰行為。


「そういえば、そうか。ふたなりみたいなものか、今の私は」


 自慰行為、自慰行為などと自分に言い聞かせて居た所為だろう。ふいに、昔先輩と話をしていたことを思い出す。あの人はふたなりが嫌いだったな、と。その理由も私は知っている。良く、知っていると言っても良いかもしれない。


 見下ろせば線の細い体だった。華奢と言える程だろう。その割に低い声が少し面白い。先程、商店街のガラスに映ったその顔は中性的で、女の子の格好をしていれば、どちらか分からないぐらいのものだろう。一言で言ってしまえば美少年。そんな存在に、私はなったようだった。


 もっとも。


「先輩の嫌いな存在。それが今の私か」


 くすり、と笑う。


 苦笑と言っても良いだろう。


 そうやって苦笑いを浮かべながら、私は先を行く。宛ては一応、ある。倒れていた私の隣に落ちていた刃物で切り裂かれたような汚れた鞄。そこに入っていた汚れ、所々破れたそれこそ誰の物とも分からないような生徒手帳を頼りに、その学校へと向かっていた。


 行って、事情を話せば保護ぐらいはしてくれるだろう。そんな期待を胸に。


「記憶喪失を演じるのも大変そうだけれど」


 自分を偽るぐらい、簡単だ。


 自分を隠す事ぐらい、簡単だ。


「先輩とは違って、私はそういうの得意なんですよ」






―――






 久しぶりに歩く夕方の繁華街。


 人によっては『町』と単にそう呼ぶその場所。人々の姿、通る車の音。ざわめく喧騒の中を四人で歩く。少しばかり帰り道とは違うけれど、そういう時間があっても良い、そう思えるぐらいに私にとってはこの場所は現実だった。行き交う人々の姿。誰も彼もが見知らぬ他人。あの頃も、そして今も。


「それで、湖陽さんを騙った人を見つけるって話どうしたの?」


「ん?あぁあれねぇ……」


 呆と行き交う人々を見ていた私に声を掛けたのはいなほだった。怪訝そうなその表情を思えば、私の表情があまり良くなかったという事なのだろう。遠くを見るような、まるで懐かしいものを見るようなそんな表情を浮かべていた自覚はあった。取り繕うように笑ってみたけれど、所詮取り繕った表情だった。きもい、の一言でお姉ちゃんの心はずたぼろである。


 そんな風に凹む私を見て湖陽が笑う。良かった、とそう言わんばかりに。そして、そんな彼女のその表情に申し訳なかったなと思う。湖陽と付き合う事を決めた時に、この世界が私にとっての唯一の現実であると、私にとっての楽園ティル・ナ・ノーグであると自覚したはずだったのに。


 そんな風に思うのも、校門を出た所で見た少年の姿の所為だろう。誰かを探しているような、何処か遠い目をした少年。女子高の前を一人歩く少年の姿。恋焦がれる相手があの学校にいたのだろうか。いいや、違うか。いなほに聞いた『―――――――』という言葉に昔を思い出したのだろう。いや、それも責任転嫁か。その少年にしろ、いなほにしろ誰かに責任転嫁している私はやっぱり未だに過去を忘れられないのだろうと、そう思った。


『過去を忘れる必要はないと思うのよ』


『未来があれば良いという人の台詞かね』


『過去があるから現在があって、そして未来があるのでしょう?』


『確かに』


 忘れたい過去もあれば思い出したくない過去もある。幾度となく投げ出したくなった過去でもある。けれど、それでもそれがあったからこそ、今の私があるのは確かだ。そして、この隣を歩く少女に出会えたのもそれがあったが故に、だ。


 経験とはすなわち過去であり、そこから人は逃げられない。望んだ事も望まなかった事もそのどちらも。そこから逃げおおせる人など、それこそ死んだ人だけだ。いつだったか、自らを殺した友人は何を思っていたのだろうか。頭の良い人だった。未来が見え過ぎたのかもしれない。未来に希望を見出す事ができず、いつか必ず訪れる死に絶望したのだろうか。この宇宙船地球号も遠い未来の先に逃れられぬ事の出来ぬ死がある。いつか滅びを約束された人間は無為で、無意味に死に絶える。成した事は必ず潰えてしまう。けれど、それでもなお、それを理解してそれでもなお、前に進もうとするのが人間なのではないだろうか。逃れられない過去に嘆きながら、必ず訪れる未来を見据えながら、それでもなお。それこそが遺伝子の乗り物ではない、考える葦であり、『人』なのではないだろうか。


 そう、思う。


 だから、湖陽が気軽に、本当に軽くそう言ってのけたことは私にとってとても大事な『過去』となった。それを忘れて生きていこうとは、思わない。


 そして、だからこそ……月浦湖陽という一見ただの変態でしかないこの女の子を、尚更、大事にしたいと、そう思えた。過去ばかり見てしまう私に、足元注意しなさいとそう言ってくれる存在がいる事はどれ程の幸せだろう。


「何よ、蓮華。そんなに私の顔に見惚れて。惚れなおしたのかしらね!」


「そうだね」


「……何よ、普通に返さないでよ。恥ずかしいじゃない」


 逸らした顔が紅色に染まっているのが見えた。


「あーもう!気を抜くとすぐにいちゃつくんだからこの人達は!南極大陸の雪も溶けそうだよ!環境問題だよ!……で、どうなったの?」


「どうもなってないのが現状だねぇ。囮作戦でもやるかね」


「囮?」


 単純な話である。湖陽が痛々しいHNで書きこんだ状態のブラウザをそのまま放置して、それに対して反応する生徒が来るのをこっそり隠れて待つというだけだ。


「ふぅん」


 話を聞いたいなほが、勝手にすればとばかりに興味なさそうにしていた。いや、貴女から聞いたはずだよね、と言うと怒られるので言わない事にしよう。うん。


「蓮華。貴女、†蒼月闇裏†ちゃんをもう一度騙らせるというの!なんて酷い事するの。あれは私自身なのよ?貴女、ある日突然彼女が違う人に入れ換わっていたらってあぁ、貴女に言っても……ねぇ」


 途中から冷静になったのか、湖陽があぁ、言う相手間違えたーとばかりに頭をぽりぽりと掻き始めた。まぁ、確かにその通りである。


 鞍月蓮華という少女の存在を入れ変わらせたのは私なのだから。


 一人のいたいけな少女の存在をこの世界から消してしまったのは私なのだから。


 そういえば、その鞍月蓮華は一体どこに行ったのだろうか。再三ながら、そんな事を思う。死んでから入れ替わったのか、それとも死ぬ間際になって入れ替わったのか、それも分からない。後者であれば私は人を一人殺したようなものだ。意図も意志もなく行われた行為に罪の意識を覚える必要はないのだろうけれど、思う所があるのは確かだった。贖罪でもないが、どうしてそうなったのか?という事ぐらいはいなくなった彼女のためにも知りたいと、そう思った。


「じゃ、方針決定ということでオムライス屋へGo!」


「いなほは元気だねぇ」


 鞍月いなほから鞍月蓮華あねを奪った者として、尚更に。






―――






 いつだったか先輩が白いので病院が嫌いだと言っていたのを思い出す。体自体が若くなった所為だろうか、ここ数日先輩のことを良く思いだせるように成って来ていた。その事に嬉しさを覚える。


「里見さん、お加減は如何ですか?」


「えぇ、特に問題はありません」


 体調が悪いわけでもないのにベッドに横になったまま、というのは苦痛以外の何物でもない。先日の雨の所為で多少体調が芳しくないとはいえ、性差を違えた事の影響の方がまだ大きいというものだった。故に、その看護師の台詞には無難に答えたのだった。流石に『一部はとっても元気です』などと言う必要はないと言う話である。


 あれから学校へと行き、連絡を取って貰いそして病院へと連れて行かれた。気付かなかったが所々怪我をしていたらしく、その治療をしてもらって、精密検査を受けて入院と相成った。


「それは何よりです。頭の方の怪我も思いの外早く治っているみたいですし、若い証拠ですね」


「確か、私は十五歳でしたか」


「あ、すみません。不躾な物言いでした」


「いえいえ。何もかも忘れていますので、包み隠さず教えて頂いた方がありがたいです」


「でしたら、良かったです」


 コロコロと表情を替えながら看護師が話をするのを延々と聞く。本当にそれぐらいしかやる事がないので、それも致し方なしだった。それに、この場、あるいは現状について確認するにはちょうど良いといえば、丁度良い。


 なんとも前時代的な印象を受ける氷嚢を頭の下に置き、横に成りながら白衣のナースを眺める。尻の形が今一つである、という酷い感想を浮かべながら、白ってやっぱり透けるなぁというこれまた酷い感想を浮かべつつ話を聞く。


 そうしていれば、ふいに気付く。彼女の左薬指につけられた銀色の装飾っ気のない指輪に。


「その指輪、確か昨日はしていなかったような」


「あ、はい。婚約者が……その」


「お幸せに」


「ありがとう、里見さん」


 そう言って嬉しそうに笑う看護師の尻やら乳の辺りをじっくり見る。これが人のモノになるのか、と。いや、そもそも私のものではないし、私の趣味はどちらかといえばメイドである。……あぁ、やはり精神が若さに引き摺られているらしい。いや、それよりも、単に中高生男子の性欲的なものだろうか。彼女の尻や乳の部分を見ていれば、またぞろ私自身が立ち上がるのを感じ、少し身を捩って視線を逸らす。


 思春期の少年達がこぞってエロ話ばかりしていた理由がわかるというものである。たかがナースの尻の一つでこれなのだから、性欲まみれになっても仕方ない。


「長話してしまいましたね。おやすみなさい。お大事に」


「はい。ありがとうございました」


 横になって、しかし目を閉じず、窓の外を見る。ベッドの位置からでは空の青さぐらいしか見えないのは残念だった。けれど、やっぱりそれぐらいしかやる事はなくて……いや、確認する事ぐらいはあった。


 この里見という男子高校生の状況である。


 先生方の様子を見た限りでは里見少年の印象は特に良いも悪いもないという所だった。中性的な顔立ちで、加えて見目が良いとは言っても印象が薄いという事はままある。『あの面の良い奴』と、そんな形容詞で呼ばれる名前も記憶に残らない人間。それが里見少年であった。私自身が変に教師たちに名前を覚えられる人間だった所為で若干その事に違和感を覚えたものだった。ともあれ、濡れネズミとなった私が最初に教師たちに会った時に開口一番、あろうことか『やられたのならやり返すぐらいの気概を見せろ!』と言ってのけたのは少しばかり絶句した。何とも前時代的な精神論だな、と他人事のように精神論を語る教師の話を聞き終えた所でようやっと自分の事情が説明できた。結果、こうして病院の手配をしてくれたのだから言うほど悪い先生でもないのかもしれないが……まぁ、前時代的である。


 ちなみにその時知ったが、この身は天涯孤独という事だった。


 やられたのはそれが原因なのだろうか。村社会が基礎として根付いている日本では他と足並みがそろっていないものはその理由如何によらず迫害の対象である。出る杭は打たれるし、打ち込み過ぎた杭は引き抜かれるかそのまま壊される。そんな国なのだ。


 とはいえ、この身が天涯孤独であるということは、この彼には申し訳ないが、私にとっては大変都合の良い状況だった。御蔭で自らを偽ろうなんて意気込んでいたけれど、特にそんな事をする必要はないようだった。まぁ、そもそもにして記憶喪失認定された人間なのだから偽る必要もないのだけれど。


「退院したら……どうしようか」


 先輩もこの世界に来ている事を祈りながら、先輩を探しに宛てのない旅に出るのも良いだろう。思うがままに、気の向くままに。


 とはいえ、どちらにせよ、今暫く時間は必要そうだった。






―――






「あ、若宮君」


「おい、鞍月。先生に対して君はないだろう君は」


「すみません。つい」


「お疲れ様じゃない所は成長だと思うが、『君』は退化だな」


「三歩進んで二歩下がる、ですねぇ」


「古いな」


「ぐっ……」


 数日後の図書館である。


 例の計画を実行しているのだが、生憎と犯人の尻尾は掴めないままだった。まぁ、そもそも湖陽以外は別に大して気にしていないのでやる気が殆どないのもあるのかもしれないが……。ともあれ、そんなこんなで私達は部への昇格……もとい部の存続を目的に部員確保ついでに犯人捜しをしているという所である。


 ちなみに部というのは『歴史研究部』である。元々この学校にあったらしいが、現在では部員は誰もおらず廃部になり掛けていた所を表向き優等生である湖陽が先生に無理を言って引き取ったそうである。『この学校が作られた当時からある、歴史のあるこの部活をなくすのは偲ばれます。私が部長として部を存続させたいと思いますので、どうか先生方には許可を頂きたく思います』とかなんとか。とはいえ、部として認めるには最低五名は必要という事らしいので、現在残り一人を探しているというわけである。同好会でも作ろうかという話もあったのだが、今時期に同好会を作ったとしても同好会の部屋が与えられるわけでもなく、次年度まで待つ必要があるとかでそれならば、という判断だった。


 部の活動自体は学校の歴史を研究したり、この地方の歴史を調べたりする地味な内容である。表向きは。内向きの活動としては、学校の百合百合した歴史やら地方の百合百合した歴史を調査するという何とも素敵な内容である。それはもう是が非でも参加する必要があろう。目の前に人参を置かれた馬の如く、いつのまにか入部届けにサインをしていた。恐ろしい罠であった。引っ掛かるのも無理は無い。


「ま、『さん』なら問題ない。俺も人間だしな。先生という概念よりは『さん』の方が人間扱いされている気がして良い」


「それはまた哲学的な……あぁ、大丈夫ですよ。ドクターオブフィロソフィー、その意味ぐらいは把握しています」


 にやり、と若宮君が笑った。


「で、何故図書館に?もしかして、まだネットワークの?」


「まぁ、それもあるんだが……鞍月を探しにきたというのもある」


「私を?」


 言い辛そうというか、微妙に恥ずかしそうな表情をしているのが何とも面白い。これがファンの生徒だったらきゃーきゃー騒いだことだろう。


「前に言った例の件がな」


「前……なんでしたっけ」


「いや、やっぱり良い。態々言う必要もないしな」


「勿体ぶらないでくださいよ、若宮先生?」


「態とらしい『先生』だなぁ、おい。……まぁ、あれだ。親元へ挨拶に行って許可を得たという話だ。これ以上は聞くな」


 だったら言うな、という程、若宮君が嫌いなわけではない。ともあれ、その言葉から察せた。


「それはそれは、おめでとうございます。お幸せに。まぁ、ファンの子らに刺されないようにしてくださいね」


「……ファン?」


「鈍いとか言われません?」


「弥生には良く言われるな」


「弥生さん、ですか。知っている人と同じ名前ですねぇ。まぁ、あれですよ女子高にいる若い格好良さげな男の先生はモテるって奴ですよ。この淫行教師」


「誤解を招く様な事を言うんじゃない。感情の問題だからな学生と教師がと言う事も実際にはあるみたいだが、相手の立場をお互いに考えられていない以上、愛とは言えんと思うぞ、俺は」


「真面目ですね。でも、良い考えだと思います」


 微妙に照れた表情で言っている辺りがちょっと面白かった。とはいえ、言っている事は同意である。お互いに好き合っているならば卒業してからでも良いのだから。そうでないのならば、相手の立場が好きというだけの性欲に近い感情でしかないと、そう思う。


「ふん。ま、しかし、だ。刺されたら刺されたで弥生に会えるから良いかもしれんな」


「惚気ちゃって……あれ?もしかして看護婦さんですか?あ、いや。看護師でしたね。という事は……もしかして、若宮さんのお相手って神野弥生さんです?」


「……なぜ知っている」


 世の中、とっても狭いと、そう思った。


「いや、ほら、私ってあれじゃないですか」


「あぁ、アレだな」


「……何か良からぬことを想像されている気がしますが、四月頃に入院していた時に神野さんが担当してくれていたんですよ。今でも検査に行くと神野さんが担当してくれます」


「あぁなるほど……まぁ、お互い会っている時は極力仕事の話はしないからな。それ以前に患者のプライバシーは守るのが当然だが……」


 そっか。神野弥生さんが先生のお相手か……良く笑って恋人の話をしていたけれど、そうか若宮君のことだったのか……知らなければ良かったと、ちょっと思った。いやはや、若宮先生はナース姿が好きとは……ねぇ?


「……鞍月?」


「いえいえ、神野さんから恋人との惚気話を延々聞かされていたからって別に先生のことを笑ったわけでは」


「……よーし、鞍月。ちょっと生徒指導室に行こうか?」


「淫行ならぬ暴行教師にっ!?」


「冗談だ。全く……弥生の奴」


 と、言うものの、恋人が自分のことを余所で話題にしているというのは気恥かしいものだと思う。そして、同時に嬉しさもあるだろう。男冥利に尽きるのではないだろうか。いや、別に男冥利だけでもないか。私だとて、湖陽が余所で私のことを何とか言っていたらまぁ、恥ずかしい感じはするけれど、嬉しくもあるし。いや、私が女かというとどうなのだろうかとも思うけれども…………考えがまとまらない。残念ながらこの仮定を証明することは不可能みたいだった。


「ところで鞍月はここで何をしているんだ?」


「可愛い女生徒を……いえ、冗談ですよ。部員確保にも疲れたので、本でも探そうかな、と」


 ここで態々湖陽を騙った人がいるといった所で意味は無い。というか湖陽が私のブログに書いた文章を先生という立場の若宮君に延々と説明するのは流石に憚れる。


「ふむ。ついでになるが……加えてまだ早いが年末前には公費での書籍購入希望を出さないといかんのだが、どうだ?何か欲しい本でもあるか?……もちろん」


 学校に沿わないものは却下である、と言う前に口をはさんだ。


「『ゲーデル、エッシャー、バッハ』は一度読んでみたいので是非」


 自分で買うと高い本であるが、読みたかったのである。


「それが最初に出て来る辺りが、鞍月だよなぁ。面白いよ、お前」


「あ、あと洋書でも良いんでしたらJ.×.S××の『Computational×××××』でも良いんですけれど」


「それは流石に聞いた事がないな。どういった内容なんだ?」


「ある特殊な条件下ではありますが、非線形微分方程式を数値解析で解く際に解析ステップに依存する事なく求める事のできる手法の、その基礎とか応用例が書いてありますね。昔一度読んだ事はあるんですが、もう一度読みたいな、と」


「……本当なのかそれは?」


 純粋数学出身の若宮君は知らないかもしれないが、特に力学をやっていた人間としてはとても有名で、今時代ではそれが当たり前の手法になっているものである。もっとも、その手法を開発した天才は、若くして死んだのだけれども。実際、私の当時の恩師は彼が今でも生きていれば私達がやることは全部なくなっていた、とまで評価していた人物だった。恩師もまた天才肌の人だったけれども……。


「本当ですよ?素晴らしい手法です。いやー天才っているものですねぇ」


「いや、昔読んだと言う事に対してだよ。やっぱりお前、時をかける少女じゃないのか?」


「はっはっは……何を仰る、若宮君」


「だから君はやめろ。……まぁ良い。興味も沸いた。詳しく教えてくれ」


「了解です……あれ?」


 書架の前で延々と話していた所為だろうか。図書委員の人がいかにも声を掛けたそうに若宮君の後ろに立ってタイミングを見計らっていた。確か、月影御影だったかな。


「図書館……では……おしずか……に」


「おっと、すまんな、月影。教師としてあるまじきだった」


 そう言って、若宮君が頭を下げる。そういう辺りがこの男のモテる所なのだろう。プライドがないわけではない。けれど、自分の否はしっかりと認め誰を相手にもそれを謝罪できるのだ。まったく、見習わないと、と思う。


 そんな若宮君の姿にわたわたと慌てて手を振る月影ちゃんは可愛かった。顔を真っ赤にしてそんなつもりでは!頭をあげてください!と慌てていた。何この生物、可愛い。


「そろそろお暇するよ。もう用事は済んだからな。ではな、鞍月、月影。あぁ、鞍月。さっきの本の著者、書名、出版社、あとは簡単な内容紹介……さっき言ってくれたことで良いからまた、教えてくれ」


「紙に書いて、職員室に持って行きますよ」


「助かる。ではな」


 言って、若宮君が颯爽と立ち去って行った。


 その姿が見えなくなった所で、月影ちゃんに睨まれていた。なぜに……あぁ、いやこの子、若宮君のファンだったか……


「……えっと、月影さん?そんなに睨まないでくれると嬉しいかなぁと。前にも言ったけど、私は別に若宮先生に興味は」


「……睨んで……なんて……いま……せん」


 ぼそぼそと小さな声で呟いた後、月影ちゃんは入り口に併設されているカウンターの内側へと帰っていった。


「……うーん。嫌われたかなぁ」


 別に良いのだけれども。百合じゃないので。百合じゃないので!と脳内で言い訳をしていれば、ふと思った。


 月影ちゃんなら、図書館に来てパソコンを操作している人がどんな人達なのかは分かるのではないだろうか、と。もし犯人が良く来ている人なら、知っている可能もある。……と、そこまで考えて、


「少なくとも今日は無理そうだ」


 嫌われたみたいだし。






――――






「どうぞご自由に!」


 やたら元気のある看護婦さんに見送られながら病室を出る。


 別段退院が決まったわけではない。院内の散歩が許可されだけだった。身体能力に問題があるわけでもなければ、怪我の調子とやらも良いわけで、逆にベッドに居座っていれば筋力が落ちると判断されてのことだった。


 とつとつと病院内を歩けば看護婦や医者、或いは同じく入院している人達とすれ違う。真新しい院内の壁に手を付きながら歩く。その姿がまるで重病人のような、気分の悪い人のような、そんな風にも見えたのだろうか。時折声を掛けられた。それが面倒になり、結果、壁から離れて通路の真ん中を歩く。


 廊下を抜け、階段を下りて行き、院内にある庭へと向かう。


 静かだった。


 先日まで降っていた雨が嘘のようだった。青一面の空を見上げれば少し気分が高揚してくる。手でひさしを作りながら、ベンチへと座る。病院と同じく新しい建物に目を向ければ、なるほど講堂だった。どこの病院に連れて行かれたかと思えば大学病院だったのか。別段、この病院に来た事があるわけでもないが、何だか懐かしさを覚える。


「大学……ね」


 口をついたのはそんな言葉。いい加減自分の声だと慣れたといえば慣れたが、どうにも録音した自分の声を聞いているような違和感は拭えない。


 そういえば、それ以外には今の所、性転換による不便は感じていない。数日も男として暮らしていれば少しは不自由が出て来るかとも思ったけれど、全くない。下着の付け方に悩む事もなければ、男らしい仕草に悩む事もない。排尿に伴う違和はあれど、器官が違うだけでやはりそれに悩む事もない。寧ろ、男達が雑な理由が少しわかったというものだ。無理やり何か不便をあげるとするならば、それこそ毎朝屹立しているのが鬱陶しいぐらいである。


 ベンチに座って空を見上げながら、そんな事を考えていた時だった。一人の男性に声を掛けられた。


「良い天気だな、少年」


「えぇ、とても」


 肌に刻まれた皺からすると老人と言っても良いが、しかし、張りのある声を思えば初老と言った所なのだろうか。渋い声だった。彼からすれば私の今の声など低いとは到底言えないと思えるぐらいだった。


「長いのかね?」


「いえ、少し前に入ったばかりです。出るのもそう遠い未来ではいかなと」


 男性が私の隣に座り、そうやってまた声を掛けてくる。相槌のような形でそれに返答する。考える事はあるにせよ、どうせ暇をしていたのだから丁度良い。きっとその男性も同じ様な気分だったのだろう。無理やり巻き込んで申し訳ないとばかりに、どこかバツが悪そうな表情をしていた。


「それは良いことだな。私はもう長くないだろう。いや、初対面の少年にいう事でもなかったか」


「初対面だからこそ、知らない相手だからこそ言える言葉もあるのではないかと思いすよ」


「そう言ってくれると嬉しいな。しかし、君は見た目通り柔らかく落ち着いた喋り方をするな。そう、どちらかといえば……女性のような。いや、これは流石に失礼だったかな」


「いえ、構いません。そういう風に育てられたわけでもありませんが、こう、ですね」


 苦笑する。欺く必要がないと知り、普通にしていればそうなるのも当然だろう。


「少年。どうか先の短い老人の戯言に付き合ってくれんかね」


「えぇ。私も暇を持て余しておりましたので是非」


「感謝する。正直、暇なのだよ。死ぬまでの日々を暇しながら過ごすというのも中々苦でな。病院に来たときはこうして誰かを見つけては声を掛ける癖が付いたのだよ。ま、あまり相手をしてくれる人はおらんがね。誰もが皆、自分の病気で手いっぱいという事だろう」


「私の手は空っぽなのでご安心を。ではそうですね。話題振りのためという事で……何かやり残したことなどはないのですか?」


「ない。と言い切りたい所だが、いくつかある。やらなかった事を後悔しているわけではないがね」


「というのは?」


「少年。一つ質問がある。『時を遡る事ができる魔法があったら何をしたい』?」


 その質問に、はっとして顔をあげた。どこかで聞いたような問いだった。


 もしかして、そう思ってその問いを発した老人に視線を向ける。


「ようやくこちらを見てくれたな。うむ。やはり、息子の若い頃に良く似ている」


「息子さん、ですか?」


「うむ。まぁ、今は息子のことは置いておくとしよう。して、答えは?」


「そう、ですね。メイドさんを集めてハーレムを作りたいですね」


「はっはっは!それはまた強欲だのぅ。若くて良い答えだ」


 違った。


 一瞬にして心が冷えて行く。そんな簡単なわけがない。無限の可能性の中からただ一つの可能性を見つける事がどれほど難しいかなんて、分かりきっていることだ。たまたま入った病院でたまたまこの世界の誰かに入った先輩に出会う事なんてあるわけもない。


「だが、その若さであれば今からでも持てる夢であろう?本当の所はどうなのだ?少年」


「見透かされているとはこのことですね。そうですね。守りたい、いいえ、違いますね。……そうですね」


 同一世界の同一時間に戻れるのならば、先輩が死ぬ瞬間―――いや、殺された瞬間―――を止めたいと思わない事はない。けれど、私が助けたいと願うのは、『その先輩』ではない。あの時死んでしまった『先輩』を私は助けたいのだ。傍からすれば時間を巻き戻せば同じ存在だと言われるだろう。けれど、死という経験をした先輩とそうでない先輩が同じなわけがないだろう。そして、死後には別の世界に移動する可能性を私は実際に証明している。故に、先輩があの時別の世界へと移動し、そしてそこで生活をしているようだったら、当然、その人にこそ私は会いたいと願う。


 だから……結局、探したいというのが今の私の願いであり、きっとタイムマシーンがあったとしてもそれを使う事はないだろう。いや……時間軸を越えて先輩が移動しているのならば、それを利用して時の果てにいる先輩に会えるのならば、それすらも使おうと思う。


 だから、


「人を探すために使いたい、ですかね」


 そう口にした。


「なんじゃそれは。少年の探し人は時の迷子なのか?」


「似たようなものです。どんな事をしてでも、もう一度会いたいと思う人がいるのです」


 もう一度世界を越えてでも。無限の試行回数を重ねてでも、もう一度会いたいのだ。


「なるほど、な。少年のこと、気に入ったぞ」


 ばしばしと肩を叩いてくる老人に目を向ければキラキラとそれこそ少年のように目が輝いていた。


「はぁ?」


 良く分からないが、私はその老人に気に入られたようだった。






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