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消えた正妻の行方は誰も知らない。

作者: アーク
掲載日:2026/09/13

本庄寿子(まさこ)は近所でも有名な地主に嫁いだ娘である。


朝は家内の誰よりも早くに目を覚まして朝食の支度をし、義父と夫の清志が仕事に向かった後は義母と掃除や洗濯をし、清志との間に設けた一男二女の子供たちの面倒を見て、夜は皆が寝静まった後に帳簿を付けてから眠る、良妻賢母とは寿子の為にある言葉である、と近隣の住民に讃えられる女である。


邸宅には、清志の妾である佐和子も共に暮らしている。


佐和子は清志の幼馴染であるが、地主である本庄家に嫁ぐ事が出来る程の家柄では無かった為に妾として収まっている。


婚礼前の顔合わせにおいて清志から、「既に心に決めた女性がいる」と寿子の前に呼び出された佐和子は大きな腹を愛おしそうに撫でて勝ち誇った顔をしていた。


寿子は「わかりました」と感情の籠らない返答をした。


妾の子とはいえ、義両親には初孫、乳飲み子を抱える事になる佐和子を路頭に迷わせてはならないと、寿子は佐和子が邸宅の一室に住まう事を了承した。


佐和子はねだり上手で、いつも流行りの柄の着物を着て、白粉をはたいて化粧をし、艶やかな黒髪を美しく結い上げては、休日の清志とデェトに勤しんでいる。


佐和子の産んだ5人の男児は寿子が、自分の子供たちと等しく愛情を注いで育てた。


「ひとりしか男児を産まなかった女より、私が愛されるのは当然でしょう?」


甲高い声で勝ち誇る佐和子は、自身の子供たちから憎悪を向けられている事には気付いてはいなかった。


「あの女は自分達を産んだだけです。私達の母様は、寿子母様です」


子供たちはそう言って、2人並んで活動写真を観劇しに家を出る両親の後ろ姿を眺めていた。


清志は帰宅して迎える寿子に感謝する事も無く、


「水仕事で手は荒れ果て、化粧のひとつもしない女を妻の座に座らせている僕の寛大さに感謝したまえ」


と言い、二言目には「佐和子を見習え」と言う。


「ごめんなさい、一人息子だからと私達が甘やかしたばっかりに、貴女に辛い思いをさせてしまって」


離婚したとして、女の身ひとつでは生きていく事は出来ない。


どれほど悔しかろうと歯を食いしばって嫁いだ家に残るしかない。


幸い、自分は優しい子供たちに恵まれたのだから、と寿子は絵本の読み聞かせをねだって飛び跳ねる子供たちを見て納得するより他は無かった。



「―――本庄寿子はいるか」


ある秋の夕暮れ、本庄家を訪ねてきたのはすらりと背の高い、蒼い目の美しい男だった。


その日も清志は佐和子とデェトに出かけていた。


義両親は自治会の集まりで帰りは遅くなると聞いていた夕暮れ刻に現れたその男は人ならざる雰囲気を醸し出していた。


「わたくしが、本庄寿子でございます」


どの様な用向きでこの方は自分に会いに来たのかと、寿子は首を傾げた。


「お前は、幸せか?」


「わたくしは果報者ですよ。愛らしい子供たちに恵まれ、旦那様の妻の座に座らせて頂けているのですから」


「だが、子供たちはそう思ってはおらんようだ。毎日の様に社に来ては、お前の幸せを願っている」


なので、暫くお前を現世(うつしよ)から隠す事としよう、と男がぱちり、と指を鳴らすと寿子は男と共に見知らぬ空間にいた。


星の煌めく夜空が上にも下にも拡がる不思議な場所で、落ち着かないでいる寿子に男は


「覗くと良い」


と寿子の足元を指差した。


足元には嫁入り道具の鏡ほどの大きさの穴があり、穴の向こうには今しがたまで自分のいた家の様子が映し出されていた。


遅く帰った義両親は夕食の支度は整って、子供たちも揃っているのに寿子のいない様子に驚き、自分達よりも遅く帰宅した清志達に寿子の行方を問い質していた。


「拗ねて、部屋に籠っているんじゃないかしら?」


佐和子は然程気にするでもなくそう言った。


「いいえ、寿子母様は部屋におりませんでした」


「母様はどちらに行かれたのですか?」


活動写真を観に行ったのよ、と見当はずれの返答をしながら、「冷めないうちに食べましょうよ」と佐和子は言った。


此方と、元の世界は時の進みが異なる様で、朝に朝食が無いと騒ぎ、足腰を傷めている義母がやっとのことで支度した朝餉にケチを付け、塵芥の散らかる部屋を見ては罵り、末の子の夜尿を放置する。


「君は母親なのだから、子供の世話をしたらどうだ?」


清志が口を出すと


「あら、貴方が私にいつまでも女でいて欲しいと言ったのよ。今迄子供の世話はあの女がしていたのだから、私に出来る訳が無いじゃない」


と佐和子は返した。


愛した筈の女が、底の知れぬ化け物の様に見えた清志は初めて、寿子がどれほど素晴らしい女性だったのかと思い至り、後悔した。


そして、綻びは直ぐに大きな裂け目となって清志の前に現れた。



きっかけは、18になったばかりの佐和子の長男、清治がとある書面を持って清志の書斎を訪れた事だった。


書面には、佐和子の子は末の定治以外、自分と血縁関係にはない、と記されていた。


「あの女は、貴方様が不在の日中、良く男を連れ込んでいました」


きょうだい達の父親が誰かは、佐和子自身も知らないだろう、と清治は言った。


「寿子母様は、貴方が愛した女の虚像を崩してはならないと黙っておられましたが、私は最早我慢なりません」


子供たちに算盤を教え、読み書きを教え、分け隔てなく自分達に等しく愛情を注いでくれた。


男狂いの女に、最低限の家事を覚えた方が良いと根気よく説く寿子に


「正妻の貴女がしゃんとしていれば問題ないでしょう?」


と返す女の姿に、清治はほとほと愛想が尽きていた。


あんな女が産みの親だとは、信じたくもなかった。


「定治以外のきょうだいは貴方の血を引いてはおりません。貴方の血を引くのは寿子母様の子と、定治だけです。私に清太様が家督を継ぐまでの中継ぎを期待されても困ります」


尋常小学校に上がったばかりの清太が家督を継ぐまでの中継ぎが必要となる、と話して数日で清志は真実を知った。


ならば、定治を、と考えたが定治には発達の遅れがあり、「あー」「うー」と言った発語しかない。


正妻の座に据える事は出来ないから妾に囲った佐和子の本性が、清志は恐ろしかった。


「腹の大きな私を見て、自分の子だと勝手に勘違いしたのは貴方でしょう」


問い詰められた佐和子は開き直ってそう言った。相手の男は貧しく、腹の子を育てるには足りないと思った佐和子は清志の勘違いを利用し、約20年本庄家の人間を騙し続けたのだ。



穴の向こうを眺めながら、わたくしは今迄、何をしていたのだろうか、と寿子は嘆いた。


実家で両親が、「腹の子が清志君の子であると言うのならば、時期が合わないのではないか?」と気にかけて婚礼の取り止めを勧めてくれていた事を思い出す。


寿子の婚礼から直ぐに佐和子は清治を出産した。


逆算すると、佐和子の腹に子が宿ったのは清志が勉学の為に外つ国へ留学していた頃だから、計算が合わない、と両親は何度も寿子に言った。


それでも、乳飲み子を抱えた女が生活に難儀してはならない、と受け入れたのは寿子である。


「望むなら、好きな時代に返してやろう」


寿子をこの場に連れて来た蒼い目の男はそう言った。


その問いに、寿子はふるふると首を横に振った。


「確かに、たくさん辛い思いもありました。ですが、あの子達に出会えた事はほんとうに幸せだったのです」


「人間とは、わからんな。裏切られても尚、元の時代に帰ろうと言うのか」


ならば、こうしよう、と男が指を鳴らしたと思うと寿子は慣れ親しんだ本庄の家に立っていた。


しかし、少し違う。


嫁入り道具の鏡に映る自分の姿は、嫁いだばかりの頃の自分の姿をしていた。


日めくりカレンダーを見れば、自分が清志の前から消えて3ヶ月程の日付けが記されていた。


「かあさま?」


着物の裾を引くのは、清太だった。


「違うわ清太。この方はわたくし達とそう変わらない年頃でしょう。お母様の筈がないわ」


長女のサチが、清太に諭す様に言った。


「世の中には、良く似た人が3人はいると言う話を清治さんに聞いた事があってよ。きっとこの方は、お母様に良く似た別人よ」


次女のミチもそう言って、此方にぺこりと頭を下げた。


自分が母である、と口にしようとすれば喉が焼ける様に痛み、寿子は我が子達に真実を告げる事は出来ないと悟った。


しかし、腹を痛めて産んだ我が子と、産みの親に興味のひとつも持たれなかった佐和子の子供たちとどうにか傍にいてやれないかと考え、寿子は義両親の元へと足を運んだ。


穴で様子を見た通り、佐和子は本庄家を追い出され、清志の血を引いてはいないと明白となったものの、産みの父親は分からず行く宛ての無い佐和子の子供たちは邸宅の離れで暮らしていた。


佐和子の本性を見抜けず、良妻賢母と謳われた寿子が行方知れずとなりすっかり塞ぎ込んだ清志は床に伏せっている様だ。



寿子はチエと名乗り、本庄家の家政婦として雇われる事となった。


先ず、荒れ果てた邸宅を隅々まで掃き清め、伏せっている清志に滋養に良い食事を用意した。


母が消えて嘆く子供たちを宥め、かつてそうしていた様に共に遊び、時には絵本を読み聞かせた。


離れに追いやられた佐和子の子供たちにも分け隔てなく、「子に罪は無いのだから」と接した。


数年が経つ頃には清志は快復し、部屋から出られる迄になった。


「寿子母様がいなくなったのは、僕達のせいかもしれません」


ある日佐和子の次男の賢治はそう呟いた。


「夫に妾がいるのは当たり前の世の中とはいえ、清志様の信じるあの女の姿を守る為に常に笑顔を張り付けていた寿子母様に、心から笑って欲しいと願い、幾度となくきょうだい達と神社に詣でました。


もしかしたら、祭神様が僕達きょうだいの願いを叶えて、寿子母様を隠してしまわれたのやもしれません」


ほんとうに、優しい子に成長してくれた、と寿子は思う。


どんなに苦しくても、貴方達が笑って、幸せになってくれたのならばそれで構わないと思っていたのよ、と伝えようとしても、喉が焼ける様な痛みに襲われて口にする事は出来なかった。



子供たちはその後、無事に、大病を患う事もなく成長し、それぞれの道を進んで行った。


16で家督を継いだ清太の補佐に清治が付いた。


賢治、稲治、安治はそれぞれ陸、海、空の軍人としての道を選んで本庄の家を出た。


サチとミチはそれぞれ良縁に恵まれて嫁いで行った。


定治は療養の為に山の奥深くにある、空気の良い病院で生活している。


子供たちが独り立ちした頃、再びあの男が現れた。


すらりと高い背と、蒼い目をしたその男は寿子の手を取った。


「私が幽世(かくりよ)にお前を隠したあの日から、お前は既に現世(うつしよ)の理を外れている」


それは、何となく理解していた。


子供たちの成長を見届けた今、再び現世(うつしよ)に現れたその日から己れの肉体が変化していない事には気が付いてはいたのだが、気付かないふりをしていた。


「わたくしに、最早心残りはありません」


寿子の返答を聞くと、男は深く頷いた。


「私の名は、虹輝(こうき)と言う」


それは、この辺りで深く信仰されている龍神の名である事を寿子は思い出した。


そして、幼い頃、境内で出会った少年に求婚されていた事も、同時に思い出したのだった。



幼少期の寿子と同じ年頃の男子達は、境内で蛇を棒切れで強く叩き、火で炙ろうとしていた。


事態に気付いた神主はその子供たちを追い払った。


弱った蛇を哀れに思った寿子は、毎日の様に神社に通い、蛇の手当をした。


蛇がすっかり快復した頃に出会ったのが、すらりと背の高い、蒼い目をした子供だった。


『いつの日か必ず、お前を嫁に召し上げる』


それだけ言うと、その子供は姿を消した。


そうか、この方はあの日出会ったあの子供なのか、と寿子は納得した。


寿子は今、幽世(かくりよ)で虹輝と共に暮らしている。


幽世(かくりよ)から、子供たちの幸福を願って過ごしている。

明治から大正時代の日本に似た世界です。

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