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月影のさやけさ

 思い出すのは、指に触れたほんの一瞬の感触だけだ。思ったよりも冷やりとした指先が、まるで絡めるように繋ぎとめるかのように触れた。その指はすぐに離れてしまったけれど、でも。

 指先が触れたとき、慌てて顔を上げたけれど、顔を見ることはできなかった。なぜか、見ることはできなかった。本当は、顔を見詰めて口付けをしたかったのに。


 月影に浮かぶ横顔を、何度もこちらへ向けさせたいと思うのに、それができずにいる。触れた指先があまりにも冷たかった所為で。ただ、なにもできずにいた。

 いつか、あの横顔がこちらを向いて微笑むことがあるのだろうか。きり、と見据えたその視線に、捕らえられることはあるのだろうか。ただ、指先を思い出す。




 秋迫あきさこが「彼」を見たのは、秋も深まるくらいの頃だった。

 夜半、うっすらと湿った空気を伴った冷たい風に煽られて目を覚まし、気晴らしにと思って散歩に出たときのことである。人影のない建物の周りを、ポツリポツリと歩きながら、空を見上げて驚いた。月が異常に大きくそして綺麗に輝いていたのだ。秋迫は月を見上げながら、冷たい湿気を含んだ風から避けるように羽織ってきた着物の前を掻き合わせると、小さな吐息をこぼした。

 秋の夜長、とはよく言ったものだ。

 秋迫はそう思うと、再び月を見上げてため息をついたのだった。


「……今宵の月は、見事だ。そうは思いませんか。」


 ふと、声を掛けられて驚いて振り返る。そこに立っていたのは、軍服に身を包んだ、涼やかな目鼻立ちをした男だった。秋迫は男の姿を見とめて、柔和な笑みを浮かべると、「……佐波か……。」と小さく呟く。佐波は秋迫と同じ部隊の軍人で、秋迫の後輩でもあった。他の兵士よりは幾分深い付き合いを持っているため、気軽に声を掛け合う仲だった。

 佐波は名前を呼ばれて、目元を細めて見せる。ふわり、笑みをこぼすと佐波はそのまままた、月へと視線を馳せた。秋迫もそれに習うかのように、月へと視線を向ける。


「……確かに、今宵の月は見事だな。」


 月から視線をはずして、秋迫は佐波へと視線を向けた。佐波は小さく「ええ」と返してきたが、そのまま月を眺めている。月の柔らかな金の光を浴びて、秋迫には佐波がとても綺麗に見えた。わずかに高まった鼓動を感じて、秋迫はふと自分の胸へと手を当てる。


「佐波、どうだ。月を見ながら杯を交わさないか?」


 高鳴った鼓動を隠すかのように、秋迫は佐波を酒へと誘ってみる。佐波は秋迫の言葉に、一瞬驚いたように瞳を見開いたがすぐに笑顔になると、それに同意した。


 秋迫は佐波を自宅へと招き、庭に出る。日本酒を交わしながら、やはり佐波は月を眺めてばかりいた。縁側に腰をかけて秋迫は、そんな佐波を見詰めてしまう。月よりも視線が佐波を追っていた。先ほど見た、あの横顔がなぜか脳裏に焼き付いて離れようとしない。杯に口付け、こくりと酒を飲み下す咽喉や、杯を支える指先や。酒が回っているのか、ほんのりと紅く染まった頬や。


「……秋迫さん。」


 見詰められているのに気がついたのか、佐波は困ったような笑顔を浮かべて秋迫を見た。苦笑が浮かんだその表情は、そのまま笑顔に変わっていく。秋迫は気が付かれてしまったことに羞恥を感じながら、佐波の持つ杯へと酒を注いだ。

 コトリ、佐波が杯を縁側に置く。小さな音ではあったが、秋迫はなぜかどきりとしてその指先を見詰めてしまった。白く細い指先が、伸ばした秋迫の無骨で骨ばった指へと伸びて行く。かすかに触れて、指が絡んで。冷やりとした感触が、秋迫の指へと伝う。


「……佐波……。」


 掠れた声で秋迫は名前を呼んだ。その瞬間に指は遠のき、佐波は慌てたように杯を掴むと、一気にそれを煽った。背中を向けて月を仰ぐように空を見詰めると、「……すみません。……どうかしていました……。」小さな謝罪が聞こえてきた。

 秋迫はその背中を見詰めたまま、先ほど触れた指先を握り締める。夜風に冷えたのだろう冷たい感触が、いまだに残っていた。握り締めても、感触だけがはっきりと。秋迫はなにも言えなかった。言葉に詰まって。触れた指先があまりにも冷たくて。

 握り締めた手のひらを開いてみる。思わぬ出来事に震える指先が目に入った。秋迫は背を向けたままの佐波を見詰めると、小さく息を吐き出して呟く。


「……佐波。」


 呼びかけは、頑なな背中によって拒否される。秋迫は腰掛けていた縁側から立ちあがると、佐波の隣へと歩み寄った。そして、佐波の顔を覗き込む。酒の効果でうっすら紅く染まった頬が、なぜか艶めいて見えた。


「……佐波。」


 もう一度呼びかける。ぴくりと小さく動いた佐波の手が、空っぽになった杯を握り締めた。秋迫はその手を見るとゆったりと手を伸ばしてそれに触れる。ひんやりとした感触が指先に伝った。先ほど触れた指先と同じくらいに冷たい。秋迫は冷たいとそう感じた瞬間に、佐波の手を握り締めていた。冷たい指先を温めてやりたくて。震えるほどに握り締めた指を、解いてやりたくて。


「……佐波。」


 呼びかけて、もう片方の手で佐波の顔を引き寄せる。秋迫の行動に、訳がわからないというような表情を浮かべた佐波の視線が、秋迫の瞳へと向かう。酒の所為かそれとも違うのか、かすかに潤んだ瞳が秋迫へ向けられて、秋迫はそのまま口唇を重ねていた。冷やりとした冷たい口唇だった。カツリと小さな音がして、佐波の手から杯がするりと落ちていく。その音にはっとしたかのように秋迫は口唇を離して、もう一度佐波を見詰めた。佐波は驚いた表情のままに、秋迫を見詰め返す。そんな佐波の目じりからつう、と一筋の涙がこぼれて頬に伝った。


「……あきさこ……さん?」


 冷たい口唇がかすかに動いて、秋迫の名前を紡ぐ。秋迫は返事をする代わりに、その口唇に惹き付けられるように、もう一度口付けた。今度は深く、そして長く。佐波の背中に手を回してきつく抱きしめる。秋迫よりも一回り以上は小柄な佐波の身体が、すっぽりと腕の中に包まれてしまった。


「……秋迫さん……。」


 小さな呟きとともに、おずおずと秋迫の背中に佐波の腕が回る。きつく抱きしめて抱きしめられて。秋迫は三度みたび、佐波の口唇に口付けた。


 湿った空気をはらんだ風が、吹きぬけて行く。さらりと靡いた佐波の髪がふわりと秋迫の頬へと当たった。


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