第9話 瓦礫に手向けた白い花
王立騎士団には、一般騎士たちが暮らす広大な官舎がある。
だが、その一角にある女子寮から、休日の朝にこれほど柔らかな空気を纏って出てくる人物は、ベラ・ガーランドをおいて他にいないだろう。
今日は非番の日だ。
ベラはいつものエプロンドレスではなく、落ち着いた空色のワンピースに身を包み、編み上げた髪に小さなリボンを飾っていた。手にはいつもの裁縫箱ではなく、一束の白い花を抱えている。
「行ってきます」
誰もいない部屋に小さく呟き、ベラは扉を閉めた。
官舎の廊下ですれ違う騎士たちは、非番のベラの私服姿に目を丸くし、「お、おはようございますベラさん!」「で、デートですか!?」と色めき立つが、ベラは「ふふ、少し野暮用です」と微笑んでかわしていく。
その足取りは軽い。しかし、その瞳の奥には、決して揺らぐことのない静かな炎が灯っていた。
今日は、彼女にとって特別な日なのだ。
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一方その頃。騎士団本部・第零班執務室。
休日は誰もいないはずの地下室に、銀髪の少女が一人、書類の塔と格闘していた。
クラリス・フォン・アルゼイン団長である。
第一地区に広大な私邸を持つ彼女だが、広すぎる屋敷に一人でいる孤独に耐えきれず、結局こうして「緊急の公務がある」と自分に言い訳をして、執務室に泊まり込むのが常態化していた。
だが、今日のクラリスはペンが進まなかった。
「……やはり来ないか」
壁掛け時計を睨みつける。
いつもなら、とっくにベラが「おはようございます、団長」と現れ、熱い紅茶と焼き立てのスコーンを運んでくる時間だ。
しかし、今日は来ない。
昨日、ベラは確かに言っていた。「明日はお休みをいただきます。少し、行きたいところがありまして」と。
「行きたいところ……」
クラリスの脳内で、悪い想像が膨れ上がる。
まさか、男か。
あれほど完璧な裁縫技術と、胃袋を掴む料理の腕を持つベラだ。引く手あまたに違いない。
私の知らない男と、どこかでお茶をしているのか? あのふんわりした笑顔を、他の誰かに向けているのか?
「……許さん」
バキッ、と手の中の羽根ペンがへし折れた。
クラリスは立ち上がり、コート掛けにかけてあったマントを引っ掴んだ。
「これは視察だ。そう、部下の素行調査も団長の務め……。決して、寂しいからとか、気になって仕方がないとか、そういう理由ではない!」
誰も聞いていない虚空に向かって言い訳を叫ぶと、クラリスは深くフードを被り、さらに顔を隠すために防塵用のゴーグルを装着した。
「完璧だ。これなら誰にも『氷の処刑人』だとはバレまい」
鏡に映ったその姿は、どう見ても不審者そのものだったが、今のクラリスにそれを指摘する部下はいなかった。
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王都第三地区、下町。
レンガ造りの建物が並ぶ通りは、休日を楽しむ人々で賑わっていた。
市場の活気、屋台から漂うスパイスの香り、子供たちの笑い声。
ベラはその雑踏の中を、花束を抱えて静かに歩いていた。
時折、顔馴染みの店主たちに「おや、ベラちゃんかい?」「久しぶりだねぇ」と声をかけられる。ベラは笑顔で会釈を返すが、決して足を止めない。
その目的地は、賑やかな大通りから一本入った、人気のない路地裏だった。
――そして。
そのベラの背後、二十メートルほど離れた建物の陰に、怪しい人影があった。
(……ちょうど官舎を出るところを、見つけられてよかった)
壁にへばりつくようにして様子を伺うクラリスだ。
高級なシルクのマントを泥で汚し、怪しいゴーグルを光らせながら、抜き足差し足で尾行している。
周囲の通行人たちは「なんだあれ……」「新手の路上パフォーマンスか?」と遠巻きに避けていたが、クラリス本人は完璧な隠密行動だと思い込んでいた。
ベラが角を曲がる。クラリスも慌てて曲がる。
だが、ベラはとっくに気づいていた。
(……団長。隠れる気、あります?)
ベラの針子の眼と鋭敏な感覚をごまかせるはずがない。
何より、風に乗って漂ってくる匂いが決定打だった。
高貴なフローラルの香水と、昨日ベラが洗濯して仕上げた、最高級リネンの洗剤の匂い。
そして、お腹を空かせた時に鳴る、あの独特の「きゅぅぅ」という音。
(ふふ。心配してついて来てくださったのかしら)
ベラは口元の笑みを隠し、気づかないふりをして歩を進めた。
今日の目的地は、誰かに見られたい場所ではない。けれど、あの不器用で寂しがり屋な団長なら、まあいいか。
そんな温かい気持ちが、少しだけ胸の痛みを和らげてくれた。
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やがて、ベラは足を止めた。
そこは、黒く煤けた廃墟だった。
かつて、可愛らしい看板とショーウィンドウがあった場所。今は焼け落ちた柱と、瓦礫の山が残るのみ。
ベラと妹のエミリーが営んでいた洋品店、『ぬくもりの針と糸』の成れの果てだ。
ベラは瓦礫の前に跪き、抱えていた白い花束を供えた。
「……エミリー。来ましたよ」
静寂の中で、妹の声が蘇る。
『お姉ちゃん! 見て見て、新しいデザイン画!』
『お姉ちゃんの縫い付けは世界一だね。魔法みたいに丈夫で、優しいもん』
『私、お姉ちゃんが作った服を着ている人たちの笑顔を見るのが、一番好き』
明るくて、おしゃべりで、太陽のような子だった。
あの日。
透明な何かに喉を切り裂かれ、店ごと焼かれた妹。
治安維持局は「不審火による事故」と断定した。怪しい傷跡も、すべて炎が消し去ったことにされた。
「……ごめんね。まだ、見つけられていないの」
ベラの手が、煤けた柱に触れる。
指先が黒く汚れるのも構わず、彼女はその冷たい感触を確かめた。
「必ず、見つけ出すから。貴女を奪った『透明な悪意』を、私がこの手で解きほぐして見せるから」
決意を口にするが、こみ上げる感情は止められない。
ベラの大きな瞳から、ぽろり、と涙がこぼれ落ちた。
一度溢れた雫は、糸が切れた真珠のように次々と頬を伝い、乾いた地面に染みを作っていく。
ベラは声を上げて泣いたりはしない。
ただ静かに、肩を震わせて、失われた日々を悼んでいた。
その時。
背後の物陰から、ガタッ、と大きな音がした。
「あ……っ!」
短い悲鳴のような声。
ベラは涙を拭うことなく、ゆっくりと振り返った。
「……団長。そこにいらっしゃるのは分かっていますよ」
静かな声で呼びかけると、崩れかけた塀の向こうから、「ひぅっ」という息を飲む音が聞こえた。
しばらくの沈黙の後、おずおずと姿を現したのは、泥だらけのマントを羽織ったクラリスだった。
ゴーグルは額にずり上がり、その碧眼は動揺で大きく揺れている。
「な、なぜ……なぜ分かった」
「隠れるのが下手すぎます。……それに、貴女からは私の好きな匂いがしますから」
ベラが泣き笑いのような表情で言うと、クラリスは顔を真っ赤にして口ごもった。
「そ、その……私は、ただの視察だ! 決して、貴様が男と密会しているのではないかと疑って尾行したわけではない!」
「はい、分かっています」
「それに……泣いているのが見えたから……」
クラリスは、ベラの涙を見て狼狽していた。
いつも強くて、優しくて、すべてを包み込んでくれるベラが泣いている。
その事実が、クラリスの心を締め付けた。何か言わなければ。慰めなければ。でも、気の利いた言葉なんて知らない。
「……くっ!」
自分への苛立ちからか、クラリスは突然懐に手を突っ込み、何かを掴み出すと、ベラに向かって力任せに放り投げた。
バサッ。
ベラの視界が白く覆われる。
顔にかかったのは、繊細なレースで縁取られた、上質なシルクのハンカチだった。
「……め、目にゴミが入ったんだろう! 使いなさい!!」
乱暴な言葉とは裏腹に、その声は震えていた。
ベラは顔にかかったハンカチをそっと手に取った。
鼻を近づける。
そこには、クラリスが愛用している微かなフローラルの香水と、ベラ自身の服から香るものと同じ、安価だが清潔な石鹸の匂いが混じり合っていた。
(……ああ。この人は、本当に)
ベラの胸の奥が、じんわりと温かくなる。
このハンカチの持ち主は、不器用で、尊大で、けれど誰よりも繊細な優しさを持っている。
「……ありがとうございます」
ベラはハンカチに顔を埋め、残っていた涙を吸わせた。
少しの間、廃墟には風の音だけが響いていた。
やがて、落ち着きを取り戻したベラは、ハンカチを丁寧に畳んでポケットにしまうと、クラリスに向き直った。
「団長。……聞いていただけますか。私が、ここへ来た理由を」
クラリスは黙って頷き、瓦礫の上に腰を下ろした。隣をポンと叩き、ベラを促す。
二人は並んで座った。
ベラは、自分と妹のこと。店のこと。そして、あの日の事件のことを、静かに語り始めた。




