第8話 ボタン付けの儀式
クラリスは、自分の軍服の胸元を見た。
第二ボタン。心臓に一番近い場所。
(……これが、取れていれば)
クラリスはベラが紅茶の準備をしている隙に、震える指で第二ボタンを掴んだ。
そして、グイッ、と引っ張った。
「……くっ」
取れない。
ベラの縫製は完璧すぎた。
象が踏んでも取れないくらい、頑丈に縫い付けられている。
「取れろ……取れろぉ……!」
クラリスは必死の形相で、ボタンをグリグリとねじり、爪で糸を切ろうと格闘した。
痛い。指が痛い。でも、ここで諦めたらベラに構ってもらえない。
「ぬぅぅぅぅ……ッ!」
ブチッ。
鈍い音とともに、ようやく糸が一本切れた。
ボタンがだらりと垂れ下がる。
「……か、勝った」
クラリスが荒い息で勝利を確信した、その時だった。
「団長? 何をしているんですか?」
背後からベラの声。
振り返ると、ティーセットを持ったベラが、呆れたような、でもどこか温かい目でこちらを見ていた。
「あ……」
見られた。
自分で自分の服を破壊しているところを。
クラリスの顔が一瞬でトマトのように赤くなる。
「ち、違う! これは……その……!」
「ボタン、取れかかっていますね」
「そ、そうだ! 自然に取れたんだ! 貴様の縫い方が甘かったんじゃないか!?」
苦し紛れの嘘。
ベラは「ふふ」と笑って、トレイを机に置いた。
「すみません。私の不手際ですね。……すぐに付け直しますから、上着を脱いでください」
ベラが手を差し出す。
しかし、クラリスはその手を拒絶するように、自分の胸元を隠した。
「……嫌だ」
「え?」
「脱がない。……このまま直せ」
「このまま? でも、着たままだと針が危ないですし……」
「嫌だと言っている! 私は団長だぞ! 私の命令が聞けないのか!」
クラリスは駄々っ子のように叫んだ。
脱いで渡してしまえば、ベラは作業机に戻ってしまう。
そうじゃない。
近くにいてほしいのだ。他の騎士たちにしたように、いや、それ以上に近くで、自分だけに触れてほしいのだ。
「……はぁ」
ベラは困ったように眉を下げたが、すぐに観念したように息を吐いた。
そして、ゆっくりとクラリスに近づいてきた。
「分かりました。……では、少し失礼しますね」
ベラはクラリスの正面ではなく、背後に回り込んだ。
「え……?」
「正面からだと、手元が影になって見えにくいですから」
そう言うと、ベラは後ろからクラリスを包み込むように腕を回した。
「……っ!」
まるで、背後から抱きしめられている(バックハグ)体勢だ。
ベラの柔らかい胸が、クラリスの背中に押し当てられる。
左肩にベラのアゴが乗り、頬が重なる横顔。
鼻先をかすめる、日向の匂い。
耳元にかかる吐息。
「動かないでくださいね。針が刺さりますから」
ベラの両手が、クラリスの胸元のボタンに伸びる。
その距離、ゼロ。
「う、あ……」
クラリスの思考回路がショートした。
近い。近すぎる。
ベラの心臓の音が、背中越しに伝わってくる。いや、それは自分の心臓の音かもしれない。ドクンドクンと早鐘を打って、うるさいくらいだ。
「団長、心拍数が上がっていますよ。……まだ怒っていますか?」
「お、怒ってない……!」
「そうですか。……先ほどは、放置してすみませんでした」
ベラは手元で器用に針を動かしながら、耳元で優しく囁いた。
「私も、団長とお茶がしたかったです」
「……嘘だ。あんなに楽しそうに、他の奴の服を……」
「仕事ですから。でも、私が一番綺麗に直したいのは、団長だけですよ」
チクリ。
ボタンに針が通る感触が、服越しに微かに伝わる。
それはまるで、ベラの言葉が直接心臓に縫い付けられているようだった。
「……本当か?」
「ええ、本当です。貴女は私の、大切な団長ですから」
ベラが糸を引く。キュッとボタンが固定される。
同時に、ベラの腕に少し力がこもり、クラリスを抱きしめる形になった。
「……よし。直りました」
ベラが糸を切り、体を離そうとする。
だが、クラリスはその腕を掴んで離さなかった。
「……まだだ」
「団長?」
「まだ、消毒が済んでいない」
クラリスはくるりと振り返ると、ベラの胸――先ほど他の騎士たちが触れたり、近づいたりしたカーディガンの胸元――に、自分の顔を押し付けた。
「消毒だ。……上書き修正する」
グリグリと、猫がマーキングするように、自分の頭と頬を擦り付ける。
自分の愛用している微かなフローラルの香水を、ベラの服に染み込ませるために。
「もう、他の奴の匂いなんてさせない。……ベラは私のものだ」
上目遣いで睨みつけるその瞳は、嫉妬と独占欲で潤んでいる。
そのあまりの可愛らしさに、ベラは吹き出しそうになるのを堪え、愛おしげにクラリスの頭を撫でた。
「はいはい。分かりましたよ、団長」
「……分かればいい」
クラリスは満足げに鼻を鳴らすと、ようやくベラを解放し、冷めた紅茶を淹れなおした。
その頃。
廊下の曲がり角では、騎士たちが、またしても聞き耳を立てて震え上がっていた。
「おい聞いたか? 『脱がない』『このまま直せ』って……」
「『動かないで、刺さる』って……針責めか!?」
「『消毒だ』って叫んでたぞ……。きっと、焼けた鉄で烙印を押してるんだ……」
「ヒィィッ! 第零班は地獄だ……!」
ベラの手による「ボタン付け」という甘い儀式が、外では「焼きごてによる烙印の儀式」として伝承されていくことを、二人はまだ知らない。




