第7話 愛の繭に包まれて
その日の朝、第零班の執務室は、桃色の吐息に包まれていた。
もちろん、物理的なピンク色の霧が出ているわけではない。
だが、部屋の隅、ベラが即席で作ったカーテン仕切りの向こう側からは、明らかに「極上の幸福」と「羞恥」が入り混じった空気が漏れ出していたのだ。
「……あ、すごい……」
カーテンの中で、クラリス・フォン・アルゼイン団長は、自分の体を抱きしめるようにして震えていた。
彼女が身につけているのは、いつもの無骨な補正下着ではない。
ベラが徹夜で仕上げた、最高級シルクと伸縮性のあるレースで作られた、特製のランジェリーだった。
「どうですか、団長。締め付けはありませんか?」
「な、ない……。まるで、雲を纏っているようだ……」
クラリスは陶器のような肌を赤らめ、鏡に映る自分を見つめた。
今まで、貴族学校時代の古いコルセットで肋骨を軋ませ、ワイヤー入りのブラジャーで皮膚を赤く腫らしていたのが嘘のようだ。
ベラの作ったそれは、胸の形を優しく包み込み、支えているのに、重さをまったく感じさせない。
肌に触れるシルクの感触は、とろけるように滑らかだった。
「サイズもぴったりですね。……少し、背中のホックを調整しますから、じっとしていてください」
ベラが背後に回り、慣れた手つきでレースに指を潜らせる。
ひんやりとしたベラの指先が、火照った背中に触れる。
「ひゃぅっ!」
「あら、冷たかったですか?」
「ち、違う! ……その、くすぐったい……」
クラリスは恥ずかしさで爆発しそうだった。
だが、それ以上に嬉しかった。
幼い頃から、服とは「体を縛り付けるもの」であり「寒さを防ぐだけの布」だった。
それが今、ベラの手にかかると、自分を慈しみ、守ってくれる「愛の繭」に変わるのだ。
「はい、これで完璧です。……とてもお似合いですよ、私の可愛い団長様」
「~~~~っ!」
耳元で囁かれ、クラリスはその場にうずくまった。
嬉しすぎて、言葉が出ない。
ただ、この心地よい下着とベラの言葉を、一生の宝物にしようと心に誓った。
――しかし。
その幸福な時間は、始業の鐘とともに脆くも崩れ去ることになる。
+++
数日後。
第零班の前の廊下には、異様な光景が広がっていた。
「ここが、噂の『魔法の仕立て屋』か?」
「ああ。第零班のお針子に直してもらうと、剣の振りが速くなるって噂だぞ」
「俺なんか、長年の腰痛が治ったんだ!」
屈強な騎士たちが、長蛇の列を作っていたのだ。
事の発端は、ベラが隣の班の騎士のボタンを直してやったことだった。そのあまりの快適さに感動した騎士が、酒場で触れ回ったらしい。
お人好しのベラは、頼まれると断れない。
「はい、次の方。……ああ、この袖付けは少し窮屈ですね。可動域を広げましょう」
「うおおお! すげぇ! 腕がぐるぐる回る!」
「ベラさん、ありがとう! 今度食事でも!」
「いえいえ、お仕事頑張ってくださいね」
執務室の入り口付近に設けられた即席の受付で、ベラは次々と騎士たちの服を「治療」していた。
笑顔で対応するベラ。感謝し、頬を染める騎士たち。
そこには、爽やかで温かい交流があった。
だが。
その光景を、部屋の最奥から、ハイライトの消えた瞳で見つめる者がいた。
(……私の、ベラなのに)
クラリスだ。
彼女は執務机を離れ、部屋の隅にある巨大な観葉植物の陰に体育座りで隠れていた。
葉っぱの隙間から、恨めしそうにベラの背中を凝視している。
本来なら、今の時間は「ティータイム」のはずだった。
ベラが淹れた熱い紅茶と、手作りのスコーンが出てくる時間だ。
なのに、ベラは他の男たちの服を触っている。あまつさえ、笑顔まで振りまいている。
(『専属』って言ったじゃないか……)
クラリスの手の中で、羽根ペンがミシミシと音を立ててへし折れた。
インクが飛び散るが、気にも留めない。
(あの男……ベラの手を握った。……呪われよ。帰りの馬車で揺られて酔ってしまえ)
(あの女騎士……ベラに『今度お礼を』なんて……。……帰り道で馬のクソを踏んでしまえ)
ズズズズズ……。
パキラの陰から、どす黒い怨念のオーラが立ち昇る。
その殺気に気づいた騎士たちが、次々と顔色を変えた。
「おい、なんか寒くないか?」
「視線を感じる……。あそこの植物の陰から、誰かが……」
「ひっ! 目が合った! 『氷の処刑人』だ!」
「殺される! 撤収だ!」
騎士たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
あっという間に、廊下からは誰もいなくなった。
+++
静寂が戻った執務室。
ベラはふぅ、と息を吐いて振り返った。
「あら? 皆さん、帰られたのかしら」
「……ふん」
観葉植物の陰から、不機嫌な声が聞こえる。
ベラは苦笑して近づいた。
「団長。そんなところに隠れていないで、お茶にしましょうか?」
「……いらない」
クラリスは顔を背けた。
嘘だ。喉はカラカラだし、お腹も空いている。
でも、今さら素直になれない。ベラが他の誰かに優しくしている間、自分がどれほど寂しかったか、どれほど惨めだったか。
それを認めるのが悔しくて、クラリスは机の下に潜り込もうとした。
(……かまってほしい)
本音が、胸の中で暴れている。
ただお茶を飲むだけじゃ足りない。もっと、ベラに触れてほしい。自分だけを見てほしい。
そのためには、口実が必要だ。
ベラが絶対に無視できない、「仕事」としての口実が。




