第5話 完璧な団長
翌朝の王立騎士団本部に、激震が走った。
騎士団の朝礼台に立ったクラリス・フォン・アルゼイン団長の姿が、あまりにも「完璧」だったからだ。
「……総員、昨今の魔獣出現率の増加に対し、警戒を厳にせよ」
その声は、空気を凍てつかせるほど澄んでいながら、決して揺らぐことのない威厳に満ちていた。
背筋はピンと伸び、銀髪は朝日に輝き、純白の軍服には一切のシワがない。
以前のような、首を気にして俯く仕草も、痛みによる眉間のシワも消え失せている。
その姿は、まさに『氷の処刑人』の異名にふさわしい、冷たくも美しい彫像のようだった。
「(おい、今日の団長……凄くないか?)」
「(ああ。殺気が消えて、逆に『無』の境地に達しているように見える……)」
「(昨夜、新人を部屋に連れ込んだと聞いたが……まさか、生き血を啜って生気を奪った?)」
整列した騎士たちが戦々恐々と囁き合う。
だが、彼らの想像とは裏腹に、演台の上のクラリスの内心は、感動で震えていた。
(……軽い。空気が、美味しい)
ベラが仕立て直してくれた軍服は、驚くほど体に馴染んでいた。
締め付けがないから呼吸が深く入る。裏地のコットンリネンが汗を吸い、不快な蒸れもない。
たった一晩。たった一度、ベラの手が入っただけで、拷問器具だった軍服が「第二の皮膚」に変わっていた。
(これなら、いくらでも立っていられる。私、完璧な団長に見えているはず……!)
クラリスは心の中でガッツポーズをした。
しかし、彼女は一つだけ誤算をしていた。
健康になり、ストレスが減り、内臓機能が正常化したことによって――「アレ」が復活してしまったのだ。
グゥゥゥゥゥ~~~~~~。
静まり返った朝礼広場に、地底の魔獣が唸るような重低音が響き渡った。
騎士たちが一斉にざわめく。
「な、なんだ今の音は!?」
「魔獣か!? 地下から聞こえたぞ!」
音源は、演台の上のクラリスの腹部だった。
昨夜のカボチャスープで目覚めた胃袋が、「朝飯はまだか」とほら貝を吹き始めたのだ。
クラリスの顔面から血の気が引く。
完璧な団長の威厳が、食欲という生理現象によって崩壊の危機に瀕している。
(ど、どうする!? 『お腹が空きました』なんて言えるわけがない!)
クラリスは引きつった顔で、とっさに叫んだ。
「……警戒せよ! 今のは、遠方の大型魔獣の遠吠えだ!」
「えっ」
「私には聞こえた。……かなり、飢えているようだぞ」
「さ、さすが団長! 俺たちには何も感じ取れなかったのに……!」
騎士たちは感嘆の声を上げたが、クラリスの耳は真っ赤だった。
飢えているのは魔獣ではない。自分だ。
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逃げるように朝礼を終え、執務室に戻ったクラリスは、机に突っ伏して自己嫌悪に陥っていた。
「……もうだめだ。何たる醜態……」
「お疲れ様でした、団長」
そんなクラリスの前に、ことりと皿が置かれた。
途端に、鼻孔をくすぐる甘く香ばしい匂い。
バターと、焦げた砂糖と、卵の優しさ。
「……ッ!」
クラリスがガバッと顔を上げると、そこには黄金色に輝く物体があった。
食堂で余った固いバゲットを、卵液にじっくり浸し、たっぷりのバターで焼き上げたフレンチトーストだ。仕上げに、どこから調達したのか、琥珀色のメープルシロップがかかっている。
「ベラ、これは……」
「朝食です。あの音は、健康な証拠ですよ」
ベラは悪戯っぽく笑いながら、ナイフとフォークを渡した。
クラリスはもう、我慢できなかった。
ナイフを入れると、外はカリッ、中はジュワッと柔らかい手応えが返ってくる。
一口食べれば、口の中に天国が広がった。
「……んぅっ!」
甘い。温かい。美味しい。
脳髄がとろけるような幸福感に、クラリスは無意識に足をパタパタさせた。
普段の冷徹な仮面はどこへやら、口の端にシロップをつけたまま、ハムスターのように頬張る姿は、ただの年相応の少女だった。
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一方、執務室の扉の外。
廊下には、またしても不穏な空気が漂っていた。
第零班の騎士たちが、鼻をヒクつかせながら集まっていたのだ。
「……おい。まただ。また、あの部屋から『匂い』がする」
「甘い……なんて甘い香りだ。脳が痺れるようだ」
「バターのような濃厚さと、バニラのような誘惑的な香り……。こんなもの、騎士団の配給にはないぞ」
騎士たちの顔色が青ざめていく。
彼らの貧困な想像力は、最悪の結論へと直結した。
「間違いない。あれは、東方の禁制薬物『黄金の煙』だ!」
「な、なんだって!?」
「幻覚作用があり、吸った者を多幸感で廃人にするという……あの甘い匂いは、薬を炙っている匂いだ!」
ざわめきが恐怖へと変わる。
「じゃあ、あの針子は……」
「昨日の『充実した夜』発言。今朝の異常なハイテンション。そして団長への従順……。すべて辻褄が合う」
「なんてことだ。団長はそこまで冷酷だったのか!」
「あの針子はすでに、薬漬けにされて言いなりなんだ……!」
騎士たちは恐怖に震え上がった。
扉の向こうで行われているのが、ただの優雅なブランチだとは夢にも思わず、「新入りお針子=ジャンキー説」が爆誕してしまったのだ。
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そんな外の騒ぎなど知る由もなく、執務室の中では平和な、しかしある意味では外の噂以上に危険な「契約」が結ばれようとしていた。




