第3話 深夜のスープ
王立騎士団本部の終業は、夕方の鐘と共に訪れる。
特に、ここ第零班においては、その鐘の音は「脱出」の合図だった。
「お、おい新人。本当に残るのか?」
「悪いことは言わない。一緒に帰ろうぜ。あの『氷の処刑人』と二人きりで残業なんて、命がいくつあっても足りないぞ」
荷物をまとめた同僚の騎士たちが、悲痛な面持ちでベラに囁いた。
彼らの視線の先、執務室の最奥には、今日も書類の山に埋もれたクラリス団長の姿がある。その眉間には深い皺が刻まれ、周囲の空気は絶対零度まで冷え込んでいる(ように見える)。
「大丈夫ですわ。私、まだやり残した仕事がありますので」
「仕事って……団長に言いつけられたのか? 『私の服を直すまで帰るな』って?」
「ええ、まあ。そんなところです」
ベラが穏やかに微笑むと、騎士たちは「うわぁ……」と顔を引きつらせた。
彼らの目には、ベラが理不尽なパワハラを受け、サービス残業を強いられている哀れな子羊に映っているのだ。
「かわいそうに……。明日、生きて会おうな」
「遺書は書いておけよ」
騎士たちは逃げるように退勤していった。
バタン、と重い扉が閉まる。
静寂が戻った執務室に、ベラとクラリス、二人だけが残された。
しかし、真実は騎士たちの想像とは少し違っていた。
ベラは「やらされている」のではない。
獲物を狙う狩人のような目で、クラリスの背中を見つめていたのだ。
(やっと……やっと二人きりになれたわ)
ベラは裁縫箱を撫でる。
昼間、クラリスが首元を気にして何度も襟を引っ張る仕草を、ベラは見逃していなかった。応急処置はしたが、根本的な解決にはなっていない。あの硬い軍服の襟芯を抜き、裏地を総取り替えしなければ、彼女の繊細な肌は守れない。
(待っていてくださいね、団長。今夜中に、貴女を極上の着心地で包んでみせますから)
ベラは静かに席を立った。
まずは、戦の前の腹ごしらえだ。
+++
時刻は二十一時を回っていた。
石造りの執務室は、夜になると底冷えする。床から這い上がる冷気が、足元を容赦なく冷やしていた。
「……うぅ」
クラリスは、寒さと疲労で意識が朦朧としていた。
ペンを持つ指先は感覚がなくなり、白くなっている。肩は岩のように強張り、首の擦れ傷がヒリヒリと熱を持って痛む。
(寒い……痛い……眠い……)
ここ数週間、まともにベッドで眠れた記憶がない。
布団に入っても、ヴァルデング判事の「期待しているよ」という冷たい声や、部下たちの怯えた視線が脳裏をよぎり、動悸がして目が冴えてしまうのだ。
眠れないまま朝を迎え、重い体を軍服に押し込んで出勤する。その繰り返し。
(でも、やらなきゃ。私がしっかりしないと、第零班は……)
限界寸前の精神力で書類に向かっていた、その時だった。
カチッ、ボッ。
静寂を破って、何かが点火する音がした。
同時に、部屋の空気がふわりと動いた。
「……?」
クラリスが顔を上げると、部屋の隅にあるソファスペース――通称『団長専用休憩所』(誰も使わない物置場)――に、不思議な光景が広がっていた。
ベラだ。
あろうことか、執務室の中に持ち運び式の魔導コンロを設置し、その上で小鍋を火にかけている。
「な……何をしている!?」
クラリスは驚いて声を上げた。
「職場で火を使うな!」
「大丈夫です。弱火ですから」
「そういう問題ではない!」
抗議しようと立ち上がったクラリスだったが、ふと鼻をくすぐった匂いに、言葉を失った。
ジュッ、ジュワァ……。
バターで野菜を炒める、甘くて香ばしい音と香り。
冷え切った無機質な部屋に、暴力的なまでの「家庭の匂い」が充満していく。
「……っ」
クラリスの腹の虫が、主人の意思を無視して、きゅぅぅ、と情けない音を立てた。
顔を真っ赤にして腹を押さえるクラリスに、ベラは悪びれもせず微笑んだ。
「食堂のおば様に頼み込んで、余り物の野菜とコンロをお借りしてきたんです。『あら、残業? 頑張ってねぇ』って、パンまで持たせてくれましたよ」
「しょ、食堂から……? 窃盗ではないか……」
「お借りしただけです。……さあ、座ってください。そんなに冷えていては、良い仕事もできませんよ」
ベラの手招きは、逆らえない引力を持っていた。
いや、正確には、鍋から漂う湯気が、凍えたクラリスの本能を強烈に引き寄せていたのだ。
クラリスはふらふらと、魔物に魅入られたようにソファへと歩み寄った。
+++
「はい、どうぞ。カボチャとミルクのスープです。少し生姜も入れました」
手渡されたマグカップは、両手で包み込むと熱いほどだった。
昼から何も口にしていないクラリスは恐る恐る、その黄金色の液体を口に運んだ。
ズズッ……。
「……っ!」
熱い塊が喉を通り、空っぽの胃袋に落ちる。
その瞬間、体の内側で小さな太陽が生まれたように、カッと熱が広がった。
指先の毛細血管一本一本にまで、血が巡っていくのが分かる。
(あったかい……)
ただの余り野菜のスープだ。高級な宮廷料理のような洗練された味ではない。
けれど、カボチャの素朴な甘みと、ミルクのコク、そして体を芯から温める生姜の刺激が、疲弊しきったクラリスの五臓六腑に染み渡った。
「……おいしい」
ポツリと漏らした言葉は、湯気と一緒に震えていた。
「それは良かったです」
ベラは満足そうに頷くと、自分も向かいの椅子に腰掛け、針仕事の手を再開した。
「……貴様は、食べないのか?」
「私はお夕飯を済ませてきましたから。今は、これが私の『ご馳走』です」
そう言ってベラが掲げたのは、クラリスが先ほどまで着ていた上着――騎士団長の軍服だった。
クラリスは今、ベラに貸してもらった厚手のカーディガンを羽織っている。自分の服が他人の手に渡っているのは落ち着かないが、スープの温かさで思考が鈍っていた。
「……裏地を、張り替えると言っていたな」
「ええ。この既製品の裏地は、繊維が硬すぎてやすりみたいです。これを全部剥がして……」
シュッ、とベラがリッパーを走らせる。
鮮やかな手際で、軍服が解体されていく。
「代わりに、食堂のおば様からお古のテーブルクロスを貰ってきました。使い古された綿麻は、最高に肌触りがいいんですよ。吸水性も抜群です」
「……テーブルクロスを、裏地に?」
「騎士団長がテーブルクロスを着ているなんて知られたら、皆驚くでしょうね」
ベラはくすくすと楽しそうに笑いながら、ちく、ちくと針を動かし始めた。
静かな部屋に、規則正しい音が響く。
プスッ、スーッ。プスッ、スーッ。
布を通る針の音。糸を引き抜く衣擦れの音。
それは不思議と、雨音を聞いているような心地よさがあった。
クラリスはスープを飲み干し、ふぅ、と息を吐いた。
満たされた胃袋から、強烈な睡魔が信号を送ってくる。
(だめだ……まだ、決裁書類が……)
頭では分かっているのに、瞼が鉛のように重い。
ベラのカーディガンからは、あの「お日様の匂い」がして、それがさらに眠気を誘う。
「……少しだけ……」
十分だけ目を閉じよう。そう思った。
クラリスはソファの背もたれに体を預け、こくり、こくりと船を漕ぎ始めた。




