第19話 妹の暗号
ベラ・ガーランドが、クラリス・フォン・アルゼインの私邸「氷の鳥籠」で暮らし始めてから一週間が経過していた。
魔獣の襲撃で負ったベラの左腕の傷は、騎士団最高峰の治癒魔法と、何よりクラリスによる過保護なまでの「安静強要」のおかげで、驚異的な回復を見せていた。
抜糸も済み、日常生活に支障はない。
あの事件で亡くなった被害者は、何らかの事件の証言者だったらしく、その事件の真相はわからぬまま、闇に葬られたそうだ。そして、透明魔獣の襲撃事件そのものも通り魔による無差別事件として事実とは異なった方向で片づけられようとしていた。
この一週間、あの殺風景だった屋敷は、劇的な変化を遂げていた。
キッチンからは常に食欲をそそる香りが漂い、冷蔵庫は新鮮な食材で満たされた。リビングにはベラが持ち込んだ端切れで作ったパッチワークのクッションが増え、窓辺には季節の花が飾られた。
そして何より、主であるクラリスの「居心地」が劇的に改善されていた。
「……ふわふわだ」
朝の光が差し込む寝室。
クラリスはベッドの上で、新しい枕カバーに顔を埋めていた。
それはベラが療養中にこっそりと縫い上げた、最高級のダブルガーゼを使った特製品だ。
生地の間には、乾燥させたハーブと、ベラが愛用している石鹸の香りを染み込ませたサシェが縫い込まれている。
「ベラ。……これ、いい匂いがする」
「気に入っていただけましたか? 吸湿性も良いので、もう寝汗で髪が張り付くこともありませんよ」
朝食を運んできたベラが微笑むと、クラリスは枕を抱きしめたまま、とろんとした瞳で見上げた。
「……貴様の匂いがする」
「石鹸の香りですよ」
「違う。日向の匂いだ。……これがあれば、貴様が買い物に出ている間も寂しくない」
そう言いながらも、クラリスはベラのスカートの裾を掴んで離さない。
この一週間、クラリスの「甘え」は加速していた。
外では相変わらず「氷の処刑人」として振る舞っているが、屋敷に帰った瞬間、彼女は「氷」を溶かし、ただの寂しがり屋の少女に戻る。
ベラが夜なべして作った、締め付けのないシルクのネグリジェ。
肌触りの良いルームシューズ。
それらを身に纏ったクラリスは、まるでふわふわの綿毛に包まれた雛鳥のようだった。
「さて、団長。今日はお休みですが、何をしましょうか?」
「……ベラは休んでいろ。私が家事をする」
クラリスは突然、キリッとした顔で宣言した。
「え?」
「いつまでも怪我人に甘えていては、騎士の名折れだ。今日は私が、貴様を『おもてなし』してやる」
+++
数分後のキッチン。
そこには、フリル付きの白いエプロン(ベラが以前、冗談半分で作ったもの)を身に着け、仁王立ちするクラリスの姿があった。
「……くっ」
しかし、その表情は険しい。
彼女は背中に手を回し、エプロンの紐と格闘していた。
見えない背中で紐を結ぶという行為は、剣術の達人である彼女にとっても未知の領域だったらしい。
「なぜだ……なぜ縦になる……」
「団長、手伝いましょうか?」
「だ、駄目だ! これは私の修行だ! 見ないでくれ!」
クラリスは顔を真っ赤にして、必死に指を動かす。だが、焦れば焦るほど紐は複雑に絡まり、団子結びになっていく。
その様子は、毛糸玉にじゃれついて自滅した子猫そのものだった。
「……ふふ」
ベラはたまらず吹き出し、そっとクラリスの背後に回った。
「あっ、こらベラ!」
「じっとしていてください。……ほら、力を抜いて」
ベラの温かい指先が、クラリスの背中に触れる。
固く結ばれてしまった紐を、魔法のようにスルスルと解いていく。
そして、ふわりと蝶が羽を広げるように、綺麗なリボン結びを作り上げた。
「はい、できました。……とっても可愛いですよ、団長」
「……うぅ」
クラリスは耳まで赤くして俯いた。
「……結局、また世話になった」
「いいえ。そのエプロンを着ようとしてくださった気持ちだけで、私は十分幸せです」
ベラは後ろからクラリスの肩に顎を乗せ、耳元で囁いた。
「でも、お料理はまた今度にしましょうか。大事なエプロンが焦げてしまったら、悲しいですから」
「……む。……分かった。今日は、ベラの助手で我慢する」
クラリスは悔しそうに、でもどこか嬉しそうに、背中のリボンの感触を確かめていた。
平和で、甘くて、優しい時間。
この幸せが永遠に続けばいい。ベラは本気でそう願っていた。
――あの一冊のノートを開くまでは。
+++
午後。
クラリスが急な公務で呼び出され、屋敷を留守にした時間。
ベラは一人、客間で荷物の整理をしていた。
焼けた店から奇跡的に回収できた、妹エミリーの遺品。『デザイン画集』だ。
妹は天才的なお針子だった。彼女の残したアイデアは、今見ても色褪せない輝きを放っている。
「……懐かしい」
ベラはページを捲り、妹の筆跡を目で追った。
だが、あるページで手が止まった。
違和感があった。
『No.48 貴婦人のための夜会服』
デザイン画の横に添えられた、縫製指示のメモ。
『1-《《ハ》》イネックの襟芯には、金属製のワイヤーを使用すること。』
『2-《《ン》》っとねぇ。プリーツ(逆ひだ)は、あえて不揃いに縫うこと。』
『3-《《ジ》》ャケットの袖は、あえて左右の長さを変えること。』
「……なんだ、これは?」
ありえない。
ハイネックに金属ワイヤーなど入れれば、首が擦れて血だらけになる。プリーツだけにして不揃いにすればシルエットが崩れる。袖の長さを変えるなんて論外だ。
エミリーは、着る人のことを誰よりも考える優しい子だった。こんな「着心地の悪い」指示を書くはずがない。
(……何かある)
ベラの脳裏に、妹が死ぬ直前の様子が蘇る。
「新しいデザインを思いついたの」と言っていた時の、どこか強張った笑顔。
ベラは『針子の眼』を全開にし、文章を睨みつけた。
不自然な工程。奇妙な単語の選び方。
ベラの眉間に皺が寄る。昔、エミリーとよくやった『頭文字』の遊び。言いにくい本音を、手紙の行頭に隠す、私たち姉妹だけの暗号だ。
行頭の文字を拾う。
心臓が早鐘を打つ。
続きを解読する。
『4-《《ノ》》ースリーブには、厚手のウールを使うこと(チクチクする)』
『5-《《ツ》》イード生地は、裏地なしで縫うこと(肌が荒れる)』
『6-《《ミ》》シンを使わず、すべて接着剤で止めること(すぐ剥がれる)』
――ハ、ン、ジ、ノ、ツ、ミ(判事の罪)。
全身の血が逆流するような感覚。
さらに続くページを捲る。そこにも不自然な指示が羅列されていた。
『《《カ》》フス(袖口)を……』
『《《ク》》ルミボタンを……』
『《《シ》》ルクハットを……』
『《《バ》》イアステープを……』
『《《シ》》ャツカラーを……』
『《《ヨ》》ーク(切り替え)を……』
――カクシバショ(隠し場所)。
――店の北側。
――木の下。
画集が手から滑り落ちた。
エミリーは知ってしまったのだ。
王都の守護者、慈愛の判事と呼ばれるヴァルデングの何かしらの過ちを。
そして、それを姉にすら言わず、たった一人で抱え込み、万が一のためにこのデザイン画に真実を縫い込んだ。
「……ッ、どうして私に言ってくれなかったの……!」
ベラは画集を抱きしめ、声を殺して泣いた。
最後のページには、妹の字でこう書かれていた。
『お姉ちゃんへ。いつか最高のドレスを一緒に作ろうね』
その横には、ベラが妹に贈った「指ぬき」の絵が描かれている。
「……確かめなきゃ。あの子の未来を奪った奴を、絶対に許さない」
ベラの瞳から涙が消え、冷たい復讐の炎が宿った。




