第17話 氷の鳥籠
王都の高級住宅街、第一地区。
重厚な鉄柵の門が開き、王立騎士団の紋章が入った馬車が滑り込む。
車輪が砂利を踏む音だけが、静寂に包まれた夜の庭園に響いた。
「……団長。下ろしてください。歩けますから」
「黙れ。貴様は重病人だ。無理をするな」
馬車から降りたクラリス・フォン・アルゼインは、負傷したベラを迷わず横抱き(お姫様抱っこ)にしたまま、堂々と玄関へ向かった。
目の前に聳え立つ豪邸は、「家」というよりは「要塞」だった。
冷たい石造りの外壁、一切の装飾を削ぎ落とした鋭角的なデザイン。窓からは明かりが一つも漏れていない。
使用人は通いのみで、夜には誰もいなくなる。
主人の孤独を具現化したような、静まり返った館。
「……ようこそ、我が『氷の鳥籠』へ」
クラリスは不器用に鍵を開け、ベラを抱えたまま敷居を跨いだ。
「ここなら安全だ。誰の目も届かない。私のテリトリーだ」
その声は強がっていたが、ベラには分かっていた。
この広い屋敷で、少女はずっと一人、膝を抱えて震えていたのだと。
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通されたリビングは、予想通り広大で、そして寒々しかった。
床には埃一つないが、生活の匂いもしない。まるで家具屋の展示場が、閉店後にそのまま廃墟になったような冷たさだ。
クラリスはベラを革張りのソファにそっと下ろした。
ベラの左腕には、クラリスが応急処置で巻いた包帯が痛々しく残っている。
「……痛くないか? 寒くないか? クッションを持ってこようか?」
「団長、落ち着いてください。私は大丈夫です」
甲斐甲斐しく動き回るクラリスをなだめ、ベラは懐から「あるもの」を取り出した。
先ほどの戦闘中、クラリスが落とし、泥と血にまみれてしまった革製のメジャーだ。
ベラは自分のハンカチを取り出し、その汚れを丁寧に、慈しむように拭い始めた。
「……汚れてしまったな。買い直そう」
クラリスが沈んだ声で言う。
だが、ベラは首を横に振った。
「いいえ。これがいいんです」
汚れを拭き取ると、革の表面にはまだ微かに血の痕跡が残っていた。だが、銀色の目盛りと、薔薇の彫刻が施された金具は美しく輝いている。
ベラはそのメジャーを両手で包み込み、頬ずりするように大切に胸に抱いた。
「貴女が私を想って選んでくれた道具です。……それに、貴女が必死で私を守ろうとしてくれた証ですから」
「……ベラ」
「嬉しいです、団長。……一生、大切にしますね」
ベラが開花するように微笑むと、クラリスは顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「……フン。物好きな奴だ。……まあいい、しっかり私を測り続けるのだぞ」
早く測られたい気持ちを表にだしてしまい、ベラはくすりと笑った。
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一息つくと、二人の腹の虫が同時に鳴った。
緊張が解け、空腹が襲ってきたのだ。
「……腹が減ったな。よし、私が作ろう」
クラリスが腕まくりをしてキッチンへ向かう。
「待ってください団長。貴女に料理ができるんですか?」
「馬鹿にするな。焼くくらいできる。……多分」
怪しい。
ベラが慌てて追いかけると、広大なキッチンには最新式の魔導コンロと、巨大な冷蔵庫が鎮座していた。
クラリスが冷蔵庫を開ける。
中は――意外なほど充実していた。
新鮮な野菜、高級な肉、卵、チーズ。通いの使用人たちが完璧に補充しているようだ。
「……あるじゃないですか」
「うむ。使用人が勝手に入れていくんだ。私は触ったこともないが」
「宝の持ち腐れですね……」
クラリスはとりあえず卵を手に取り、コンロの火力を最大にした。
ボッ!!
火柱が上がる。
「わあぁっ!?」
「団長! 下がっていてください!」
ベラはクラリスを背後に押しやり、コンロの前に立った。
左腕は使えない。だが、右手一本あれば十分だ。
「ベラ、無理をするな! 貴様は怪我人だぞ!」
「片手でも、貴女の胃袋を掴むくらい簡単ですよ」
ベラは片手で卵を割り、フライパンの上で器用に踊らせる。
野菜を刻む音。バターが溶ける音。
ジュワァ……という音と共に、芳醇な香りが立ち上り、冷え切っていた「城」の空気を黄金色に染めていく。
「……いい匂いだ」
背後でオロオロしていたクラリスが、鼻をひくつかせて呟いた。
「この屋敷が……こんなにいい匂いになったのは、初めてだ」
十分後。テーブルには黄金色のオムレツと、温かい野菜スープが並んだ。
一口食べたクラリスの瞳が輝く。
無言でスプーンを動かし、あっという間に平らげていく。
「……おかわり」
「ふふ。まだありますよ」
殺風景なダイニングに、初めて「生活」の温度が灯った瞬間だった。
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食後。ベラにとって最大の難関が訪れた。
入浴である。
左腕の傷は濡らせないし、そもそも片手では髪も洗えない。
「……今日は体を拭くだけにしましょうか」
ベラが脱衣所で独り言ちていると、ガチャリと扉が開いた。
湯気と共に現れたのは、バスタオルを体に巻いたクラリスだった。
濡れた銀髪をかき上げ、頬を紅潮させている。
「……団長?」
「入るぞ。……背中くらい、流してやる」
「えっ、いえ、そんな! 主君に体を洗わせるわけには……」
「黙れ。部下の衛生管理も団長の務めだ。……それに、片手では無理だろう」
クラリスは強引にベラを浴室へ連れ込んだ。
広すぎる浴槽。湯気で曇る鏡。
ベラが下着姿になると、クラリスは「うっ」と視線を逸らしたが、すぐに意を決してシャワーを手に取った。
「……じっとしてろ。目に染みても文句を言うなよ」
クラリスの手つきは、お世辞にも器用とは言えなかった。
シャワーの水圧が強すぎたり、シャンプーの泡が耳に入ったり。
だが、その指先は驚くほど優しかった。
傷のある左腕を避け、丁寧に髪を梳き、頭皮をマッサージするように洗う。
「……団長。袖、濡れてますよ」
「気にするな。……どうせ洗濯する」
クラリスはベラの背中越しに、ポツリと言った。
「……貴様の髪、なめらかだな」
「私以上になめらかな人にいわれてもねぇ」
「違う。……私のとは全然違う。温度のあるなめらかさだ」
泡にまみれたベラの髪に、クラリスがそっと額を押し当てる。
背中に感じる、クラリスの体温と鼓動。
浴室の湿気とは違う、温かな湿り気がベラの目頭を熱くした。
「……ありがとうございます、団長」
「……このまま風を引いてしまっても本望だ」
ぶっきらぼうな声。でも、その後に洗い流すお湯の温度は、どこまでも適温だった。




