第16話 激昂
倒れ込んだベラの左腕から流れる血が、石畳を赤く染めていく。
「……ぁ……」
ベラの意識が遠のく。
子供は無事だ。でも、体が熱い。寒い。
「貴様ァッ……!!」
クラリスの青い瞳が、怒りで真っ赤に染まっていた。
彼女の世界から、理性というタガが外れた。
目の前で、自分の最も大切な人が傷つけられた。その事実だけで、彼女は修羅と化した。
「私の……ベラに……触るなァァッ!!」
クラリスが剣を薙ぎ払う。
魔力を制御することなど忘れていた。ただ、殺す。殺して、消し去る。
「氷華流突!!」
爆発的な冷気が広場を包み込んだ。
空気中の水分が一瞬にして凍結し、無数の微細な氷の刃となって舞い散る。
それは本来、敵を切り刻む技だが、今は「空間を染める」ために放たれた。
ザザザザザッ!
氷の粒子が、透明な魔獣の体に付着する。
浮かび上がったのは、巨大なカマキリのシルエット。
全身を氷で白く縁取られた怪物が、そこにいた。
「見つけたぞ、害虫」
クラリスの声は、地獄の底から響くように低く、冷たかった。
魔獣が怯んで後退る。だが、もう遅い。
クラリスは地面を蹴り、一瞬で距離を詰めた。
「死ね」
銀閃。
魔獣の鎌が、腕ごと切り飛ばされる。
絶叫する魔獣。
だがクラリスの手は止まらない。二太刀、三太刀。氷の刃が魔獣の体を容赦なく切り刻む。
「私のベラを傷つけた……その罪、万死に値する!!」
トドメは、地面から巨大な氷柱を突き上げる『氷棺』。
ズドンッ!!
魔獣は串刺しにされ、緑色の体液を撒き散らして絶命した。
「……はぁ、はぁ……」
残心を示すクラリスの背中は、鬼神のように殺気立っていた。
だが、魔獣が動かなくなったのを確認するや否や、彼女は剣を放り投げ、ベラのもとへ駆け寄った。
「ベラ! ベラ! しっかりしろ!」
クラリスは血の海に膝をつき、ベラを抱き起こした。
その反動で、クラリスのポケットから、さきほど買ったばかりの小箱が転がり落ちた。
チャリ……と乾いた音を立てて、箱から飛び出した真新しいメジャーが、血の海に浸かる。
左腕の傷は深い。あふれ出る血が止まらない。
「嫌だ、嫌だ……! 死ぬな、目を開けろ!」
クラリスは半狂乱になりながら、自分の袖を引きちぎろうとした。止血しなければ。縛らなければ。
だが、指が震えて力が入らない。
マントの切れ端を傷口に当て、縛ろうとするが、血で滑る指先はどうしても結び目を作れない。
「くそっ、どうやるんだ! 縦結びになる! 解けるな、頼むから!」
いつもベラにやってもらっていたことだ。
服を着るのも、リボンを結ぶのも、全てベラに任せきりだった。
自分は無力だ。剣を振ることしかできない。一番大切な人を助けるための、簡単な結び目ひとつ作れない。
「……落ち着いて、団長。まずは先に切られた一般人の方の救護を…」
薄れる意識の中で、ベラがそっと手を伸ばした。
血に濡れたベラの手が、パニックになっているクラリスの手の上に重なる。
「あっちはもう駄目だ……助からん。それよりもベラ!」
「そうですか……では、右の紐を、下からくぐらせて……。そうです、ゆっくり……引いて」
ベラの弱々しい誘導に従い、クラリスは泣きじゃくりながら包帯を結んだ。
だが、傷が深すぎる。布がすぐに赤く染まり、血が溢れてくる。
「止まらない……なんで止まらないんだ!」
クラリスの顔面が蒼白になる。このままでは失血死する。
医者を待っている時間はない。
やるしかない。
「……ベラ。すまない。痛い思いをさせる」
クラリスはベラの左腕に手をかざした。
魔力を集中させる。敵を殺すための氷ではない。傷口を塞ぐための、繊細で、残酷な氷だ。
「……凍れ」
パキパキ、と音がする。
クラリスは、ベラの傷口の細胞を、流れる血液ごと瞬間凍結させた。
それは焼灼止血と同じく、激痛を伴う荒療治だ。
「っぐ……!!」
気絶していたはずのベラが、あまりの痛みに身を仰け反らせた。
「ごめん、ごめんねベラ……! 痛いよな、許してくれ……!」
クラリスはボロボロと涙を流しながら、それでも魔力を送り続けた。
愛する人の体を、自分の手で傷つけ、凍らせる苦しみ。
ようやく出血が止まった時、ベラは再び意識を失いかけていた。
その時。
ベラの鼻孔に、強烈な臭いが飛び込んできた。
氷漬けにされた魔獣の死体から漂う、死臭と――。
(……この匂い)
腐った果実の臭いに混じって香る、高級な白檀の香り。
ヴァルデング判事がつけていた香水と同じものだ。
(……やっぱり、あいつが……)
確信した。この魔獣は野生ではない。飼い慣らされていたのだ。あの男によって。
ベラはそれを伝えようと口を開きかけたが、喉が引きつって声が出ない。
視界の端で、クラリスが何かを拾い上げるのが見えた。
それは、血と泥にまみれた、革製のメジャーだった。
さっき、クラリスがこっそり買っていた小箱の中身だ。
「……これを、渡したかったんだ」
クラリスは汚れたメジャーを自分の服で必死に拭いながら、子供のように泣きじゃくった。
「新しいメジャーだ。これで、また私を測ってほしかった……。もっと、たくさん……貴様に触れてほしかったんだ……!」
ベラは微笑もうとしたが、頬の筋肉が動かなかった。
ただ、心の中で思った。
(……測りましょう、団長。きつく何度でも。あなたを……だから、泣かないで)
「私の屋敷へ運ぶ! 騎士団の医務室など信用できん!」
クラリスはベラを横抱きにし、立ち上がった。
その顔には、もう涙はなかった。
あるのは、愛する者を傷つけた世界への憎悪と、何が何でも彼女を守り抜くという、悲痛なまでの決意だけだった。
「……行くぞ、ベラ。絶対に助ける」
夕闇の中、クラリスは疾走した。
血まみれのメジャーを握りしめ、冷え切ったベラの体を温めるように、強く、強く抱きしめて。
その背後で、氷漬けになった魔獣の死体が、嘲笑うかのように白檀の香りを漂わせていた。




